ときどき微妙に面白い――『みずいろメガネ』(2)

中野翠という人はいかにも「小もの」、というとトゲがあるが、どこにでもいるオバサンの風情で、そこが週刊誌のコラムニストを名乗る理由でもあるのだが、しかしまたどこにでもいるオバサンふうというだけでは、週刊誌のコラムを書いて××年というわけにはいかない。

「なぜ歳相応の重厚味や熟成感が身につかないのだろうと考えると、どうやら根の深い臆病さとものぐささから来ているように思われてならない。
 臆病とものぐさゆえに本能的に危険なことや厄介なことから身を避けてしまう。『人生』というものの持つ深淵に身を投じるのは恐ろしく、また、面倒くさく、波打ち際か浅瀬でポチャポチャ遊んでいたいと思ってしまう。やっぱり人は苦しみの中から成熟してゆくものなんですよね。
 ・・・・・・
『マイ・ウェイ』を朗々と歌いあげる資格はないけれど、苦笑まじりに軽い鼻歌を歌うことはできる。私が仕事で書いているものは、そんな鼻歌のようなものばかりだ。臆病でものぐさな人間でなければ歌えない歌もある――と無理にでも思いたい。」
 
この「無理にでも思いたい」というところが、ちょっとひねりがあり、しいていえば彼女の意地である。
 
またこれは単行本にするときに、付録として入れた補遺で、住宅のCMで剛力彩芽を知ったときのこと。

「エッ?!と驚いた。なんだかスチール製のギザギザバリバリした造花を思わせるような、ちょっとコワイ名前じゃないの。」
 
これはうまい。まるでジャック・プレヴェールの詩の一節ではないか。
 
そのほか小沢一郎の人物について、疑問を呈しているところもある。要するに、何をしたいかがよくわからない。それを正面を切らずに、いわば斜め下から切ってみせる。

「私は小沢一郎のネクタイの結び目(ノット)が気になってたまらないのだ。おうおうにしてデカイ。」
 
いやあ、そうくるか。これはもう、「結び目」に目を付けたところで、勝負あったというべきだろう。

「フロイト流に言ったら、たぶんネクタイは『男性性』の象徴なんじゃないか。大物の男っぽく見せたいという虚勢が自然とネクタイのノットに表れているかのようだ。」
 
大物風を装っているかのようで、しかし何をしたいのかはよくわからない。私にもよくわかるように、だれか端的な言葉で教えてくれえ、というのがオチである。
 
中野翠はそんなふうに、微妙に面白い。

(『みずいろメガネ』中野翠、毎日新聞社、2012年12月25日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 18:44Comment(0)日記

ときどき微妙に面白い――『みずいろメガネ』(1)

『あのころ、早稲田で』の項で、中野翠を読むのは初めてだと言ったら、編集者のО君が、「信じられない。ちょうど会社の引越しで片づけものをしていたら、中野翠が出てきたので上げるよ」。
 
それで『みずいろメガネ』を貰って読んでみる。これは、菊地信義さんの装幀を覚えている。涼しい、いい装幀だった。買おうかどうしようか迷った記憶がある。が、けっきょく買わずにすませた。そういう本とご対面である。ちょっとドキドキする。
 
しかし読み進めていくと、そんなに面白くはない。といって、それほどつまらなくもない。微妙である。

週刊誌のコラムの連載は、後から時間が経ってみれば、こういうものなのだろうか。言っておくのを忘れたが、これは『サンデー毎日』のコラムをまとめたものだ。
 
そんな中に、ときどき面白い話が混じっている。旧友・呉智英との会話。

電話でよくあるのは、著者の場合は結婚相談所だとか、お見合いサークルとかの押し売り電話だが、それがある時期から、墓所・霊園のセールス電話に変わった(年齢ですなあ)。
 
著者はもちろん「結構です! 間に合ってます!」と言って切る。でも呉智英は、そんなそっけないことはしない。

「少しは会話のやりとりをして、相手が『お宅の御宗旨は?』と聞くと、待ってましたとばかり『ゾロアスター教です』と答えるのだそうだ。」
いやはや、抱腹絶倒ですな。
 
あるいは、2011年に観た映画の中から、ベストテンを選ぶとき。10本目に、アニメーションの『イリュージョニスト』が入っている。

「いやー、期待を裏切らない美しさ。主人公の老手品師の体の動きの『芸術的!』なことと言ったら。風景にも人物にももの悲しい詩情があふれている。うっとり。」

どうして『イリュージョニスト』に反応したかというと、じつはこの年に僕が観た映画はこれ一本のみ。そして確かに、「うっとり」する映画なのだ。
 
でも中野翠は、ときどき文章を書いていて、ずさんな点がある。例えば、次のようなところ。

「増位山は歌のうまい元・力士だけれど、『そんな女のひとりごと』という名曲があって、私はなぜかその歌が好きなのだ。」
 
これは「元・力士だけれど」というところがまずい。「だけれど」というところの前と後が、逆接の関係になっていない。「増位山は歌のうまい元・力士で、」、あるいは「増位山は歌のうまい元・力士である。」としておけば、よかったのに。

でもまあこんなところを取り上げても、小言幸兵衛になるばかりだ。要は、校了にしている編集者もずさんなのだ。
posted by 中嶋 廣 at 17:51Comment(0)日記