この番組だけが違ってた――『久米宏です。―ニュースステーションはザ・ベストテンだった―』(2)

その後、久米はテレビに進出し、『ぴったし カン・カン』で、コント55号と共演する。そしてコント55号を観て、ラジオとテレビの決定的な違いに気づく。
 
ラジオでは、すべてを言葉で説明しないと、何も伝わらない。ところがテレビでは、それだと言いすぎ、しゃべり過ぎになるのだ。久米はそれに気がついて以降、しゃべる量を極端に減らした。
 
しかもコント55号は、立ち居ふるまいが、本番の前も、最中も、後も、全く変わらない。これは、驚くべき発見だった。

「たとえば、ニュースを伝えているNHKのアナウンサーは、横から訂正原稿を差し入れたディレクターと言葉を交わすときに表情が少し変わる。そこで素の表情がのぞく。
 つまり、アナウンサーは素ではない表情でニュースを伝えているということだ。これはのちに『ニュースステーション』を始めるときに、『ニュースを伝えるときの表情はどうあるべきか』という問いにつながっていく。」
 
これは『ニュースステーション』で、ある答えを出しているが、それはもう少し後の話だ。

『ぴったし カン・カン』と同時にはじまった、TBSの『料理天国』は料理バラエティーショーの先駆けともいえる番組で、これも平均視聴率20パーセントという人気番組だった。
 
そして1978年から、のちに「伝説の音楽番組」と呼ばれる『ザ・ベストテン』の司会を、黒柳徹子と務めることになる。
 
これはまず、公正極まりないランキング表が、絶対のものとしてあった。売り込みたい芸能プロダクションの思惑など、まったく意に介さなかったのだ。
 
この番組は生放送だったので、生きのいいニュースも一緒に取り上げた。

「僕にとって『ザ・ベストテン』は時事的、政治的な情報番組であり、のちの『ニュースステーション』のほうがニュースを面白く見せることに腐心したぶん、ベストテン的という意識が強かった。二つの番組は、僕の中で表裏の関係をなしていた。」
 
この本のサブタイトルの意味が、ここにある(とはいえ、このサブタイトルはあまりよくない、というか、そんなに効果をあげていない)。
 
久米宏は、『ぴったし カン・カン』『料理天国』『ザ・ベストテン』と、人気番組の司会が目白押しで、視聴率が合わせて100パーセントを超えたため、「視聴率100パーセント・アナ」と呼ばれるようになる。
 
そこで久米は、目が回るように忙しかったTBSの社員を辞め、フリーになる。「オフィス・トゥー・ワン」の世話になることにしたのだ。
 
このときオフィス・トゥー・ワンの社長に、久米は、「いまだ発展途上の段階にあるテレビの機能を最大限に生かせる番組をつくりたい」、「具体的に言えば、テレビの本質はニュースとスポーツ」しかない、と明言している。

この番組だけが違ってた――『久米宏です。―ニュースステーションはザ・ベストテンだった―』(1)

これは語りを起こしたものだが、抜群に面白い。久米宏の、メデイアと関わった半生記を辿るが、読ませどころは「ニュースステーション」の悪戦苦闘である。勃興期から、最盛期、爛熟期を経て、マンネリ化し、何とか終わりが見えるまでの、18年と半年、これが実に読ませる。

久米宏は、早稲田大学を出て、ひょんなことから難関を突破して、TBSにアナウンサーとして入る。

ところがあろうことか、狭いブースで、マイクロフォンの前で話ができなくなる。ストレスと過緊張で神経性の胃腸炎になり、食事が喉を通らなくなり、栄養失調から肺結核に罹る。

久米は会社には出るものの、闘病中でやることがないから、ひたすら他人の放送を聞いて過ごす。

「あれだけ他人の放送を真剣に研究したことは後にも先にもない。先輩や同僚のアナウンスを聴いて、その感想をリポートにして会社に出すことが毎日の日課だったからだ。自分が抱いた印象や評価を言葉にするためには、集中して耳を傾けざるを得なかった。」
 
こうして二年半の闘病期間中、人のしゃべりを聴きまくって、久米は一つの結論に至る。誰にも真似のできないことをやろう、それには、「生活感のないアナウンサー」を目指そう、と。
 
でもそもそも結核の間じゅう、久米はなぜ、アナウンス室から異動を命じられたり、場合によってはクビになったりしなかったのだろうか。これは久米にも謎である。のちに革命的なことをやる人には、どこかで、信じられない幸運が訪れるものだ。
 
結核が治りかけたころ、TBSラジオの『永六輔の土曜ワイドラジオTOKYO』で一つの仕事を与えられ、それがうまくいって、後にパーソナリティーを務めるようになる。
 
この『土曜ワイド』には、番組が始まる1970年にリポーターとして関わり、番組が終了した1985年まで出演し続けた。だから久米宏のもともとの本籍は、テレビではなくて、ラジオにあるのだ。

いまこそ「脳卒中文学」を――『万治クン』(2)

永倉万治は、倒れて一カ月めまでは、こんな調子だった。

「・・・・・・若い女の手を握り、ガツガツ食べ、ウンコ垂れ流し状態で、言葉もウーとかアーぐらいしかいえず、食事時以外はぼんやりしている、そんな状態だった。」
 
私も、「ウンコ垂れ流し状態で、言葉もウーとかアーぐらいしかいえず」、本当に往生した。脳出血で内面が壊れているから、いったん何か心配事が起こると、負の方向にスパイラルしていくしか、感情が働かなくなる。
 
深夜起きて、暗闇で目を凝らしていると、どこまでも絶望的になって、本当にうんざりした。しかしその絶望は、脳出血のため、いわば「内面の自由」が効かなくなって、そこに至ったわけだから、ともかくどんなことも先送りで、今は考えまいとした。

そういうふうに踏ん切りをつけるのが、また大変だった。とにかく、ちょっとでも考えだすと、負のスパイラルに巻き込まれそうになる。

しかし、自殺するということは、これっぽっちも考えなかった。考えてみれば、不思議なことだが、これはたぶん子どもの存在が大きい。親が自殺をしたのでは、子供は何かにつけて不安になる。

永倉万治は、有子さんと二人三脚で、原稿を作成していく。というか、これは妻の方の決心が大きい。

「私は、思い切って断りなしに原稿に手を加えてみた。・・・・・・さいわい、彼は何もいわなかった。文章を直されたことに気づいているのかどうかも怪しかったが、他に方法はない以上、やるしかない。文節を移動したり、表現を変えたり、描写の足りない部分を補ったりと、しだいに大胆になっていったのである。」
 
ここは涙なしには読めないところだが、しかしたとえば担当した編集者は、どうだったのか。聞いてみたいところだ。
 
それから、永倉万治その人の問題がある。彼は果たして、女房との合作で満足していたのか。

「彼は立ち上がり、何かに耐えるようにじっとしていた。やがて顔を上げると私を睨みつけ、絞り出すような声でいったのだ。
『俺だってな・・・・・・いつか、いつか必ず、自分の力だけで小説を書いてやる。一言一句お前にさわらせないで、小説を書いてやる』」
 
脳卒中になろうとなるまいと、作家の家はどこも荒れ狂っている。創作の現場を共有すれば、そこに妻も、必然的に巻き込まれていくのは、仕方のないことだ。
 
致命傷となった二度目の脳卒中の際には、地方新聞に『ぼろぼろ三銃士』を連載していた。
永倉有子は、これを書き継いで、完成させる決心をする。

「忘れもしない、八月十九日の午前五時二十五分。『ぼろぼろ三銃士』は完成した。
 ・・・・・・
 十一年間、私は永倉の文章を直してあげているつもりだった。でも、そうではなかった。十一年かけて、彼が私に文章の書き方を教えてくれていたのだ。いまになって、それがわかった。」

(『万治クン』永倉有子、発行・ホーム社、発売・集英社、2003年10月5日初刷)

いまこそ「脳卒中文学」を――『万治クン』(1)

昔、斎藤美奈子の『妊娠小説』という評論があった。内容はあらかた忘れたけれど、面白い本だという記憶は残っている。

しかしそれよりも、タイトルの方が強烈だった。いつか真似してやれと思っていたが、三年前に脳出血で倒れて以来、『脳卒中文学』というのができないかと、妄想を逞しくしてきた。

『脳卒中文学』は新書くらいの分量で、『夫・車谷長吉』や『父・福田恆存』などなどを取り上げる。全体を二部に分け、「Ⅰ 脳梗塞文学」「Ⅱ 脳出血文学」とする。
『万治クン』は「Ⅱ 脳出血文学」に出てくる(予定だ)。
 
永倉万治は1948年に生まれた。軽妙なエッセイや小説を書いたが、89年に脳出血で、半身不随と失語症になった。熱心なリハビリで執筆再開を果たすが、2000年、脳出血を再発、入院先の国立埼玉病院で亡くなった。
 
本書は、妻の有子が立教大学で、永倉万治に出会うところから始まる。万治は在学中から東京キッドブラザーズにのめりこみ、有子もまたそれに巻き込まれる。

しかし前半の病気をするところまでは、あまり面白くない。東由多加との出会いも、横で見ていて通り一遍のものに過ぎず、永倉万治と東由多加がどういうところで意気投合し、そして分かれていったのかは、よくわからない。
 
しかし後半は、様子ががらりと変わる。
「一九八九年三月十日、永倉と私は未知の領域に足を踏み出した。というか、転がり落ちたというべきか。
・・・・・・永倉はJR四ツ谷駅ホームで昏倒、救急車で大久保の病院に運ばれた。意識不明のため住所氏名がわからず、カバンの中にあった原稿用紙から、講談社に連絡が行き、そこで初めて永倉ということが判明したのだった。
・・・・・・皆、深刻な表情を浮かべている。私が永倉の妻とわかると、慌てて目をそらす人もいた。それでもまだ、私には事の重大さがわかっていない。」

身内はみんな、だいたいこういうものだろう。本人はもちろん意識不明だから、どうということはない、どうしようもない。

こういうとき医者は、命は助かっても、最悪の事態を告げるものだ。
「明日、出血した部分を取り除くための手術を行う予定だが、依然、血圧が高いので、成功するかどうかはわからない。たとえ手術が成功しても『右半身マヒ』と『言語障害』という重い障害が残るから、作家としての活動は二度とできないと覚悟してほしい。」
 
私も、女房が似たようなことを、医者に言われた。最悪のことを覚悟しておけという、紋切り型の口上だが、もう少し何とかならないか。一身にして二生を経る、というような(ムリかな)。
 
永倉万治には、このとき十二歳と六歳の息子がいた。

なぜ好況感がないのか?――『アベノミクスによろしく』

これはアベノミクスのカラクリを徹底的に暴いたということで、東京新聞は「大波小波」で取り上げ、「こちら特捜部」でも大々的に取り上げられていた。

それだけではなく、WEBRONZAの「神保町の匠」でも、非常に魅力的なものとして取り上げていた。評者は堀由紀子さんで、僕はこの人の書くものは注目している。

その堀さんが、圧倒的にわかりやすい本で、しかもアベノミクスのインチキを、くらくらするほど完膚なきまでに暴いている、と書いたのだ。これは是非とも読まねばなるまい。

というわけで読んでみたが、結論を先に言うと、七割くらいしか分からなかった。堀さんは、経済オンチの私でもどんどんわかると書いたけれど、僕の場合は、脳出血の後遺症で、高次脳機能障害が治っていない。それで経済用語が三つ出てくると、最初の説明を忘れてしまう。

でもこれはひょっとすると、脳出血になる前から、経済の本は分からなかったのかも知れない。だから詳細な書評はできない。それでも、読んでいるときは七割方は分かって、そして結論の部分では、なるほどと思った。対話体の本で、こう書かれている。

「太郎 物価目標を達成できないままなら、延々と現実逃避を続けることが可能ということね。なんか今の日本て、いつ割れるかわからない薄い氷の上を歩いているような状態なんだね。
モノシリン うん。正直言って、この金融緩和を何の経済的混乱もなく終わらせる手段は思いつかない。かといって、ずっと続ければ円の信用が突然失われる可能性もある。」
 
つまり進むも地獄、退くも地獄なわけだ。金融緩和というのは、そもそも一国を巻き込む壮大な現実逃避であり、これは原発の再稼働で、40年をさらに延長し続ける心性と、まったく同じものなのだ。

(『アベノミクスによろしく』明石順平、インターナショナル新書、2017年10月11日初刷)

日本の負の縮図――『東芝の悲劇』(5)

それにしても著者の大鹿靖明はなぜ、四人が社長になるまでの、場合によっては波乱万丈の半生を取材しておきながら、しかもその筆は緻密に、のびやかに走っているにも関わらず、結局は四人を、出来の悪い、社長には足りない人物として、小さくまとめたのだろうか。
 
著者は、たとえば西田厚聰へのインタビューを、こんなふうに記す。

「ケインズ、シュンペーター、サミュエルソンにカント。さらにはトヨタ生産方式まで。七冊の本を同時並行で読み、珍しいダビドフという葉巻をくゆらす。
 聞いていて、岩波書店的な教養をもったインテリ経営者と思わせたいのだろうと受け止めた。」
 
末尾の一文で、西田厚聰の人物像を見るのに、眉に唾をつけていることがわかる。が、なぜ眉に唾をつけるのかは、よくわからない。東大の政治学博士課程を中退なら、ケインズ、シュンペーター、サミュエルソン、カントなどは、親しみをもつて話題にするだろう。それは当然ではないか。
 
ここから先は、私の当て推量になる。奥付の著者紹介の最後に、「築地の新聞社に勤務。二〇一七年、労組委員長選に立候補し、落選」とある。
 
朝日の記者として、前著の『メルトダウン―ドキュメント福島第一原発事故―』が講談社ノンフィクション賞を受賞して、まだその印象が鮮烈に残っているとき、なぜ「朝日新聞社に勤務」と書けないんだろうか。
 
さらに「二〇一七年、労組委員長選に立候補し、落選」は、あえて著者紹介に書くべきこととは思えない。
 
これは新聞社の上層部に対する憤懣が、書くべき対象とごっちゃになり、東芝と朝日が混然一体となって、噴出したとは思えないだろうか。
 
結論の部分はともかく、この本は取材がどこまでも緻密で、問題にすべきところがまだたくさんある。特に最終章、「第六章 崩壊」は、私の経済の知識が追いついてない。東芝は今もニュースになっている。そのニュースになっている事柄を、よく理解するために、もう一度、二度、精読しなくてはならない。

(『東芝の悲劇』大鹿靖明、幻冬舎、2017年9月20日初刷)

日本の負の縮図――『東芝の悲劇』(4)

ここまでの4社長の事績の要約は、すべて東芝に入ってからのことだった。じつは著者は、もう少し丁寧にその全段階、つまり子供のときからを取材している。そしてこれが、じつに面白いのだ。

「第一章 余命五年の男」では、西室泰三の若い時から社長になるまでが描かれる。西室は若い時から人望があり、仲間が集まった。慶應大学で全塾自治会委員長の委員長になり、そこで取り組んだのが学生健康保険の創設である。

西室は、自身が結核を患ったこともあって、当時の役所の認可を得て、慶應学生健康保険互助組合を創設している。学生とは思えない行動力である。
 
また西室は、あるとき足を引きずるように歩いていたので、病院で診てもらうと、進行性筋萎縮症と診断された。これは原因不明の病で、徐々に全身の筋力が低下して、五年はもたないと言われた。それで東芝でも、忘れられまいと死に物狂いで働いた。

さいわい診断は誤っており、手術によって進行を食い止めることができたが、死の淵まで行った男が、しかも若い時から周りに人が寄ってくるような人物が、社長として物足りないと言われても、なかなか首肯はしにくい。
 
また西室を扱った「第一章」の末尾に、こんなことが書かれている。
「西室と出井〔伸之ソニー社長〕が新しい経営者としてマスコミにもてはやされるなか、電機業界の底流では大きな地殻変動が生じていた。やがて日本メーカーはその変動によって、次第に世界の最先端から脱落していくことになるのである。」
 
この底流にある「大きな地殻変動」とは何なのか。それが、もう一つはっきりしない。もちろんいろいろと推測はつくが、しかしこれだと言えるほど、はっきりはしない。ここは、著者がはっきり、「大きな地殻変動」とはこういうことなのだ、と言うべきではないか。

岡村正の次の社長は、西田厚聰だった。西田はもともと、東大大学院の政治学博士課程にいて、福田歓一教授の下でフィヒテを研究し、政治学者になるつもりだった。修士課程のときには岩波書店の雑誌「思想」にフッサールについて論文を執筆している。

けれども西田は突然コースを変えて、東大に来ていたイラン人の女学生を追ってイランに渡り、そこで結婚している。このとき結婚相手が勤めていた、パース東芝工業に入ったのである。

幼少のころから東大大学院に入り、一転イランの東芝に所属し、そして社長になるまでは、まさに波乱万丈の物語である。部下の一人は西田を、「ドイツ語、英語、フランス語の原書で本を読んでいて、グローバルレベルで見てもすごい教養人。彼に引き寄せられる人はいっぱいいたと思います」と語った。
 
そういう人が、赤字決算を怖がって不正、粉飾に走る。20万人の社員の重圧は、それだけ恐ろしいものなのか。けれどもよく考えてみれば、国の予算を立てるとき、いつも赤字国債という借金は、先送りにしているではないか。東芝は、まさにその縮図である。
 
あるいは原発。東芝は、破綻したウェスチングハウスという貧乏くじを引いたけど、しかしまだ原発はやめない。これも日本国の縮図ではないか。核のゴミが出て、しかも運転延長で、いずれは事故を起こすと分かっていながら、止めることができない。
 
東芝の4人は、確かに人災だったかもしれない。しかしそれは、対岸の火事では済まされまい。東芝は日本の負の縮図なのだ。 

日本の負の縮図――『東芝の悲劇』(3)

東芝の原発は、ゼネラル・エレクトリックから、沸騰水型原子炉を技術供与されていた。そこに原発メーカーのウェスチングハウスが、加圧水型原子炉を引っ提げて、企業ごと売りに出される。

これを千載一隅のチャンスと捉えたのが、会長の西室泰三だった。両方の原子炉をもてれば、商売の上で鬼に金棒ではないかと、その当時は考えた。

西田厚聰もまた、東芝がウェスチングハウスを持てば、世界中で商売ができると考えた。そして三菱と競争して、あろうことか適正価値の三倍もの価格で買収している。

このとき、ウェスチングハウスは巧妙な罠を仕掛け、東芝と三菱を無理に競わせ、降りられなくさせたと言われている。

また両社の競り合いの背後には、経産省資源エネルギー庁の存在があって、「経産省は『日本勢で買え、買え』とうるさかった(東芝の担当役員)」、「エネ庁はGEに持っていかれるのを恐れていて『絶対に競り落とせ』という感じだった(三菱重工の関係幹部)」。

つまり東芝は(三菱重工もだが)、原発に関しては経産省と、二人三脚で歩を進めているのである。

ところがその後、次の佐々木則夫社長のときに、福島第一原発事故が起こり、世界からの原発工事の要請は止んだ。ウェスチングハウスは実に金食い虫で、あげくの果てには今年、2017年に経営破綻している。ウェスチングハウスに投資した資金は、まったくの無駄金だったわけだ。

こういうときに、原発の旗を振った経産省は、知らん顔である。中央の役所が後ろ盾だと、ある時期までは、たしかに心強かったかもしれないが、それでは世界規模の変革に、後れを取るのではないか。政治家や役人とスクラムを組むのは、ある時期からは、危険なことなのではないか。
 
東芝は、佐々木社長のときには、にっちもさっちも行かなくなっていた。リーマンショックに伴う世界経済危機が東芝を襲い、バイセル取引による粉飾決算は、どうにもならないところまで来ていた。決算の無理を暴き立てる、内部告発が続いた。

さらに悪いことに、佐々木社長は東芝へ入って以来、原発一筋だった。原発は過去のもの、という割り切り方は絶対にできなかった。
 
こうして東芝は、崩壊への道をひたすら走った。「一国は一人を以て興り、一人を以て滅ぶ。東芝で起きたことは、それだった。どこの会社でも起こりうることである。」この4人の社長は、東芝グループ20万人のトップというには、まるで足りなかったのだ。

元広報室長は「模倣の西室、無能の岡村、野望の西田、無謀の佐々木」と評した。東芝で起こったことは、一言でいうと「経営不祥事」、すなわち「人災」だった。

これが著者の結論だ。しかし、この本を読んでの私の考えは違う。

日本の負の縮図――『東芝の悲劇』(2)

西室泰三の「選択と集中」については、結果的に次の三代の社長が東芝を壊していったのだから、しかも「選択」の中に原発が入っていたので、もうどうしようもなかったが、しかし、ではそれ以外にどういうやり方があるか、と問われれば、はたと考えてしまう。

「西室が採用した社内カンパニー制はやがて、・・・・・・遠心力を強めていった。それぞれが『関東軍』のように独立性を高め、本社の経理や財務、人事などコーポレートスタッフが実情を把握しにくい伏魔殿が各カンパニーにできていく。
 ・・・・・・
 後の東芝粉飾決算問題で明らかになる各カンパニーの暴走とチェック機能の形骸化は、このとき西室が主導した組織・機構改革に遠因がある。」
 
本当に他にどんな手法があっただろう。あるいは「選択と集中」のやり方が、ずさんだったのか。私は東芝の経営者に、寄り添いすぎているだろうか。

次の岡村正社長は、西室泰三が会長として権限を振るうための置物にすぎなかった。この間にITバブルが崩壊し、またパソコンの大幅な値崩れが起こっている。ITバブル崩壊については「東芝の半導体部門には設計力も製造力もあるが、半導体部門のトップがタイミングを見た投資決断ができない」ということであった。
 
パソコンについては取締役の西田厚聰が、決算の赤字をたちまち黒字にしている。大赤字のパソコン事業を劇的な黒字に立て直し、東芝社内では「西田の奇跡」「西田マジック」とよばれ、岡村の次の社長を確実なものにしている。
 
しかしこれには、じつはカラクリがあった。「バイセル取引」という「安く調達した部品を各台湾メーカーに売って(セル)、彼らに組み立ててもらって完成品のパソコンになったあかつきには東芝が買い戻す(バイ)」という、これ自体は適法な取引を、極端な数字を当てはめ、四半期の決算ごとに黒字にすり替えるというものだ。
 
これは、西田社長がパソコンを海外で売りまくったがために、それが勲章となり身動きが取れなくなっていく。さらにアメリカからリーマンショックが襲いかかり、粉飾決算は恒常化した。
 
また西田社長のときに「チャレンジ」と称して、より高い目標を設定させ、それに無理やり到達させることが行われた。このときも、生産額は今期中に計上し、経費は次期に繰り越す、という経理操作が行われている。

もちろん、こんなことをしてもしょうがない。けれども、決算があって数字で成績が出るときには、苦し紛れに近視眼的にやってしまうかもしれない。しかしこれを、たとえば「バイセル取引」で、社長自らが率先してやっていては、どうしようもない。

日本の負の縮図――『東芝の悲劇』(1)

これは労作である。著者の大鹿靖明は朝日新聞の記者で、前著『メルトダウン―ドキュメント福島第一原発事故―』は、講談社ノンフィクション賞を受賞した。これがあまりに鮮烈な印象を残したので、今度の本もすぐに読んだ。実に読みごたえがあり、二度目は細かいところまでじっくり読んだ。

これは東芝という、かつての名門家電メーカーが傾き、今に至る惨状を、歴代・四代の経営者を中心に活写したものである。

「その凋落と崩壊は、ただただ、歴代トップに人材を得なかっただけであった。彼ら歴代トップは、その地位と報酬が二十万人の東芝社員の働きによってもたらされていることをすっかり失念してきた。
 それが東芝の悲劇であった。」
 
著者はプロローグで、最初にそう結論付けている。
 
しかし、私の結論はそうではない。なぜ著者と、結論が同じでないのか。しかも著者の、この一冊だけを読んだうえでの感想なのだ。これはちょっと解きほぐすのが難しいけど、とにかくやってみよう。
 
そもそも東芝は、その前段階からすれば百年以上続いた名門会社であり、戦後間もなくの経営者、石坂泰三や、70年前後の土光敏夫は、その後、経団連会長を務めている。
 
城山三郎は『もう、きみには頼まない―石坂泰三の世界―』で、「財界総理」として君臨した石坂のことを書いた。私は読んでいないけど、出てすぐのころは、ベストセラーになったはずだ。
 
土光敏夫は、「メザシの土光さん」として有名だった。経団連会長や第二臨調会長として合理化に腕を振るった土光は、家では朝、メザシを食べていた。それが「清貧」だとして話題になったのだが、でもよく考えれば、年寄りにはよく似合った朝飯の光景だった。
 
東芝の経営者は、このころまでは単なる経営者ではなく、そこからもう一ランク上の、一般の人が尊敬し仰ぎ見る、社会的名士だった。

それが傾きだしたのは、1996年に西室泰三が社長になったときからだった、と著者は言う。西室は「選択と集中」をスローガンに、М&Aを用いて東芝グループ内の事業を再編した。「原発から家電や半導体まで手がける総合電機メーカーは兵站線が伸びきっており、主戦場を限定してそこに経営資源を投入しようとした。」
 
この「選択と集中」は、東芝本社を分割化して、重電、家電、情報通信、電子部品の4つのカンパニーを、持ち株会社にぶら下げようとするものであった。これは結局、後に原発とパソコン、半導体に集約されることになる。そして原発とパソコンについては、言いようもないほどの惨状を見ることになる。

なお西室社長の時代は四年間、業績は悪化し続けている。けれども西室泰三は、社長の次は会長として、腕を振るい続けた。

「西室は、財界トップの経団連会長ポストこそは逸し、副会長に終わったものの、財務省の財政制度等審議会会長、内閣府の地方分権改革推進会議議長、東証の社長、会長、そして日本郵政社長と高位顕職を歴任した。戦後七〇年のこの年は、安倍晋三首相の『談話』のために設けられた『21世紀構想懇談会』の座長役も務めた。」
 
著者は、このような「高位顕職の歴任」に対して、「位人臣を極めた者のモニュメントのようである」と、バッサリ切って捨てている。