これは凡作――『盤上の向日葵』

これは書評を書くのをためらった。あまりの凡作は、さすがに書く気がしないし、また書いても意味がない。

しかしこれは東京新聞の、藤井聡太四段の特集記事の関連で出ていたもので、つい読む気になるかもしれない(僕がそうだ)。それでひとこと言う気になった。『盤上の向日葵』の「盤上」は、将棋の盤である。
 
主人公の男の子は、幼くして母親を亡くし、父親からは虐待を受けている。それで大学へ入るときに、父親とは縁を切り、そのまま実業界に入り、一躍寵児となる。ちなみに大学は東大、学部は文Ⅰである。

ここまでの経緯がすでに嘘くさいなあ、と思わせるのに十分である。これは、よほど特異な文体を持っていなければ、読者を引きこむことはできない。
 
もっと嘘くさいのは、その先である。この男は子供のときから、将棋の異常な才能があった。そこで篤志家が、奨励会を受けさせようとするのだが、父親の反対で駄目になる。
 
けれども異常な才能は、いずれ芽を出さずにはいられない。それで実業家の地位を放り投げて、特例で将棋の世界に飛び込み、ついに第一人者と覇を競うまでになる(ここまでで、やってらんない、そんなバカな、だね)。
 
この話は、刑事二人が犯人を追う現在形と、主人公の回想とが、各章交互になっている。その刑事も、真面目な若い刑事と、中年のはみ出しデカで、絵にかいたような凡庸さ。
 
通常、将棋に本物の才能のある人は、高校へ行こうかどうしようか、迷うものである。大学になるともっと迷う。そのくらい、将棋の才能は特異なものだ。
 
そういう普通に迷うところから、何段階か飛び越えて、読者を小説世界に連れてこなければならない。
 
たとえば佐藤正午の『月の満ち欠け』は、同じ女が死んで三度、生まれ変わる話だった。そんなバカなと言っても、読み出せば、やめられるものではない。佐藤正午でも読んで、一から勉強し直すことだ。

(『盤上の向日葵』
 柚月裕子、中央公論新社、2017年8月25日初刷、9月25日第四刷)
posted by 中嶋 廣 at 18:30Comment(0)日記