キツネ目の男――『突破者―戦後史の陰を駆け抜けた五〇年―』(1)

中野翠の『あのころ、早稲田で』を読んでいて、こんな箇所にぶつかった。

「・・・・・・『突破者』の上巻は早大闘争の、貴重で精緻な記録になっている。私はもうひとつ世間知らずなところがあるので、京都における日本共産党の存在意義について、そして旧来のヤクザ社会の独自の生活様式や価値観について、『うーん、なるほどねえ』と啓蒙されるところも多かった。ベストセラーになったのも当然の奇書だと思う。」

『突破者』の紹介だけで、つごう三ページも費やしている。早稲田闘争の貴重な記録にして「奇書」、というところに引っかかった。それに二十年前のベストセラーなら、もう読んでもよかろう。
 
というわけで、宮崎学の『突破者』を読む。中野翠は、上下二巻になったのを読んでいるが、それはおそらく、文庫になったのを揃えているのであろう。僕が持っているのは、初版の単行本である。
 
京都のヤクザの家に生まれて、喧嘩に明け暮れ、一転して早稲田大学に入り、影の民生として学生運動で大暴れするところまでは、正直あまり面白くない。

いろんな人から、この本についていろんなことを聞き、多分こういうことかなあと想像していると、その通りであって、それはつまり面白くない。
 
それでもたとえば、こういうところはちょっと考えさせる。
「要するに『社会の底辺にいる者や差別される者にはヤクザになることもひとつの解放なんだ。それも、最も手っ取り早く、最もラディカルな解放なんだ』・・・・・・。これは確かに私の身のまわりの世界の実相でもあった。」
 
博打と喧嘩に明け暮れる、読み手には退屈極まる描写を一皮めくってみれば、そこには、こういうところに実を置いたもの以外には分からない、真実がある。
 
しかし早稲田を中退する前半までのところは、やはり退屈である。宮崎学は、革命を夢見て早稲田に入った。そうであれば、早稲田を離れるところで、「革命」について、何らかの結論を出しておかなければ、いけないんじゃないか。

それとも、それはもういいじゃないか、若気の至り、バカバカしい限り・・・・・・、ということなのだろうか。
 
ふつうは夢破れて、となるところだが、そういう内面の吐露は書かれていない。僕はこれに不満を持つ。
posted by 中嶋 廣 at 18:30Comment(0)日記