血沸き肉躍る!――『新聞記者』(4)

著者は、森友・加計問題のような、大きな政治的テーマとは別に、レイプ被害にあった伊藤詩織さんにもインタビューしている。

伊藤さんは、このときはまだ「詩織」という下の名前しか公表していなくて、後に『ブラックボックス』という、性被害を描いた単著を刊行するときに、「伊藤」という上の名も公表している。

「会見での話や関係者への取材によれば、詩織さんは2015年4月3日に都内で山口〔敬之〕氏と会食し、その後、記憶をなくしている状態でホテルで暴行されたという。」
 
相手はTBSでワシントン支局長などを務めた政治部記者で、退社後はフリージャーナリストに転身していた。詩織さんは、同じ道を歩む先輩に話を聞きにいって、暴行を受けたのだ。
 
詩織さんは警察に訴え、警視庁は準強姦罪で告訴状を受理した。捜査員は、アメリカから帰国する山口氏を、成田で捕まえようと待っていた。しかしその直前、上層部から指示があって、逮捕は取り止めになる。
 
なぜか。山口敬之氏は、安倍晋三首相の近くにいて、安倍首相を礼賛する著書を、複数出していたのだ。
 
もちろん逮捕が取りやめになった、理由はわからない。因果関係があったかどうかもわからない。その理由がわからないからこそ、それを取材するべく、新聞記者がいるのだ。
 
こうして、レイプ被害という極めて個人的な事件が、安倍首相及びその周辺に波及していく。
 
結局、前川喜平前事務次官も、フリージャーナリストの詩織さんも、「社会的に抹殺されるかもしれないリスクと背中合わせで疑惑を告発している。2人の勇気をだまって見ているだけでいいのか。遠くで応援しているだけでいいのか。私にできることは何なのか」。
 
こうして新聞記者という職業は、著者にとって天職になっていく。
面白いのは、読者の方もそれに応えていくところだ。

「うれしいことに東京新聞にも、大きな反響が寄せられていた。
6月8日からの一週間で、約50部の新規購読の申し込みがあった。お客様センターへは私に対する激励の電話が数多くかかり、編集局宛に手紙も届けられるようになった。ここまで多くいただいたのは記者人生ではじめての経験だ。」

うーん、たった50部かあ、というなかれ。新聞の部数が増える話は、ここ数年で初めて聞いた。

でも「あとがき」で、望月さんは気になることを書いている。

「私はといえば、社内外から集中砲火を浴びることも増えた。記者として知りたいことを聞いているだけなのに・・・・・・頑張りたいけど意味あるのかな・・・・・・なぜこれほど叩かれるんだろう・・・・・・こんなことならもう会見に行くのはやめようか・・・・・・弱気な思いが何度も何度も頭をよぎる。」
 
気になるのは、「社内外から集中砲火」というところだ。望月さんは、ギリギリのところで耐えているのだ。

僕は何の力にもなれない。でもこれだけは約束する。望月さんがいる限り、東京新聞はやめない。そして、彼女が地団太を踏んで辞めるようなら、そのときは東京新聞を止めようと思う。

(『新聞記者』望月衣塑子、角川新書、2017年10月10日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 18:45Comment(0)日記

血沸き肉躍る!――『新聞記者』(3)

著者はその後、森友問題を取材するチームに、社会部から一人だけはいっている(森友問題のメインは政治部である)。そうして、安倍首相の夫人・昭恵さんから受け取ったという現金100万円を、森友学園の郵便振替口座に入金するその受領証を、カメラで写して、編集部へ送信した。
 
ちょうどそのころ著者は、母の死に遭遇している。母は、限りなく大きな存在だった。

「中学2年生のときに吉田ルイ子さんの著書『南ア・アパルトヘイト共和国』を母が進めてくれなかったら、報道に携わる仕事にはきっと就いていなかった。
もっとさかのぼれば、小学生のころに演劇の楽しさに魅せられ、一時は舞台女優に憧れたのも、母の影響を強く受けていたからだった。」
新聞記者というのも、場合によっては、一代でできる仕事ではないのだ。
 
森友問題を追いかけ始めたころ、「愛媛に第2の森友問題がある」という指摘が飛び交っていた。加計学園の獣医学部新設に関する疑惑である。今度はこのチームに入った。
 
何か突破口はないかと思案していると、読売新聞が目を疑うような記事を出してきた。
「前川前次官 出会い系バー通い 文科省在職中、平日夜」
 
紙面を見ると、首相官邸と対立している前川喜平前事務次官が、怪しい罪を犯したか、と早とちりするような記事だが、じつは何も確定したことは述べていない。
 
僕が思うに、これは安倍首相の「お友だち」である読売新聞が、援護射撃を狙った、典型的なガセネタとも言えないヨタキジである。
 
さっそく著者は、前川前次官にインタビューしている。この中で前川さんは、出会い系バーを「探検」していて、少しそれるかもしれないが、こんなことを話している。

「出会い系バーで話をした女性のなかには、高校卒業資格をもっていないケースも少なくなかったという。ほとんどが数学の単位を取得できずに挫折し、生きていくための日銭を稼ぐために出会い系バーに出入りしているとも聞かされた。」
 
ここまでは、如何にも文科省のキレモノ次官が言いそうなことだ。その次を読んで、僕は仰天した。

「『日本の高校教育における数学は難しすぎるんじゃないかな』
 場合によっては高校の卒業資格から数学を排除してもいいのではないかと文部科学省内で主張したこともあったが、相手にされることはなかったそうだ。」

『新聞記者』の本筋からは外れるので、この話はここでおしまいになるが、この前川前事務次官の、数学を高校の卒業資格から除外を、という提言は、真に画期的なことだ。角川新書の編集者には、次は前川前事務次官が執筆者で、『数学よさらば―新しい高校卒業資格の提案―』(仮)というのを書いてもらいたい。もう少し加工すれは、爆弾のような新書になると思う。
posted by 中嶋 廣 at 20:42Comment(0)日記

血沸き肉躍る!――『新聞記者』(2)

著者は千葉支局、横浜支局と渡り歩き、そこで汚職を摘発したり、また「日歯連」の汚職に関しては、取材源の秘匿をめぐって、東京地検の取り調べまで受けている(もちろん検察が、著者の取材源を特定しようとしても、それは絶対に明かすことはできない)。

面白いのは、取材費の使い過ぎを、素直に反省しているところだ。

「実は少し前から、取材経費を使いすぎていると会社側から注意を受けていた。ハイヤーと、関係者との会食代だ。
 ・・・・・・
 張り込みに際しては、ハイヤーをかなり使っていたとはいえ、大いに反省すべき点はある。たとえば取材以外の所用で2、3時間抜けるときでも、ハイヤーをそのままキープしていた。夜の取材が長引き、夜が明けてからの朝駆け取材も早いときには、数時間だけおいて、すぐまたハイヤーを手配していたこともあった。」
 
そこで会社から睨まれたわけだが、しかしそもそも新聞記者の場合、適正な経費の使い方というのは、あるのだろうか。取材の一番根幹に関わってきそうなところだが、新聞記者の経費の使い方について、突っ込んだ議論をしたものは、読んだことがない。
 
その後、著者は整理部からさいたま支局に移った。この1年半は、心身ともに充実していたという。たぶん取材をしない整理部という部署が、いったんはタメの時期になり、よかったのだろう。
 
著者はさいたま支局で、虐待事件を取材したことがある。母親が育児放棄して、子どもは糞尿の中で、遺体で発見されたという。けれども取材をしていくうちに、母親もまた、その母親に幼少のときからネグレクトされ、母親となってからは、子育てに関し相談できる人もなく、孤立していった。これは「鬼母」などという言葉では、捉えきれない事件だ。

「つらい事件では思いが積もる。しんどくなって、車の中で行きも帰りもよく泣いた。新聞記者は実際に涙を流すかどうかは別にして、だれもが泣いているのではないかと思う。」
 
新聞記者のこういうところも、初めて見た。実際に仕事で泣く記者が、望月さん以外に大勢いるのだろうか。実に興味津々だ。

これを読んで、新聞記者を志す人は、必ずいると思う。マスコミはネットにしてやられて、気息えんえんだが、救世主現わるというところか。
 
著者はその後、結婚し子供も生まれる。そうなると出産前と違って、夜討ち朝駆けの取材はできない。夜中に、何度も泣き声を上げる子に授乳していると、寝不足にも悩まされた。
 
戦力にならずに、参ったなあと思っているとき、経済部の部長が、腰を据えて調査報道をやってみれば、と声をかけてくれた。ここから、あの『武器輸出と日本企業』が生まれたのだ。
 
とはいっても、三菱重工業をはじめ、中小企業や下請けに至るまで、「東京新聞の望月という記者には気をつけろ、取材に応じるな」というお触れは回っていた。それでも、そこを突破して取材をする。

「取材を重ねていると『本当にこれでいいのか』と私と同じような疑問や懸念を覚え、匿名を条件に取材に応じてくれる官僚や研究者、企業関係者がちらほらと出始めた。」
 
そういう声を丹念に集めて、『武器輸出と日本企業』は出来たのだ。
posted by 中嶋 廣 at 17:49Comment(0)日記

血沸き肉躍る!――『新聞記者』(1)

これは思いきった企画だ。東京新聞記者・望月衣塑子(いそこ)は、前著『武器輸出と日本企業』で一躍名を高からしめた。そこでは、刻々と変わる武器輸出企業を相手取って、それを新書にするという離れ技を、鮮やかに決めている。
 
それが今度は『新聞記者』。著者は40歳を過ぎたばかりのはずだから、この企画が著者から生まれるはずはない。とすれば、言い出しっぺは編集者か。
 
著者は今年の6月6日、初めて菅義偉官房長官の定例会見に出た。そこで森友・加計問題の取材チームの一員として、文科省の前事務次官・前川喜平に関する質問をした。

それから二日後にも、質問をした。このときは通常5分で終わる定例会見が、37分間に及んだ。そこで望月衣塑子は一躍名をあげたのである。
 
しかし僕に言わせれば、著者以外の記者が、これまでまったくなっていなかった。菅官房長官の受け答えは、人を小馬鹿にしたもので、記者たちは憤然と怒っていいはずのものだ。

通常、人の目を見て、真剣に懐に飛び込み、言葉を尽くして相手を巻き込むのが、コミュニケーションの王道である。
 
それを、菅という人は、なんなんだろう。一日何回か、全くやる気を感じさせず、しょうがなくて受け答えをしている(ように見える)。これでは、若い人が「さあ」「べつにぃ」と、真似してもしょうがない。

小さい子がいれば、この人のやる気のない記者会見を見せるのは、本当に教育に悪い。ずっとそう思ってきたから、望月記者の登場は溜飲が下がった。
 
著者は中学生のときに、フォトジャーナリストの吉田ルイ子に会い、これが決定的な出会いになる。

「興奮しながら握手を交わした右手から、しびれるような何かも伝わってきた。私も吉田さんのように、世界を歩き、社会の矛盾、困っている人たちの生(なま)の姿を伝えられるような仕事、生き方ができたら――」
 
ここから、新聞記者という仕事までは一直線だ。新聞をはじめマスコミの入社試験では、著者は軒並み落ちた。けれども、東京新聞一社あれば、いうことはない。この人はドンピシャのところに入ったのだ。

実際、記者が堂々と正論を吐くことができるのは、今のところ東京新聞しかない(と書いといて大丈夫だろうな、東京新聞)。
posted by 中嶋 廣 at 17:46Comment(0)日記

これは凡作――『盤上の向日葵』

これは書評を書くのをためらった。あまりの凡作は、さすがに書く気がしないし、また書いても意味がない。

しかしこれは東京新聞の、藤井聡太四段の特集記事の関連で出ていたもので、つい読む気になるかもしれない(僕がそうだ)。それでひとこと言う気になった。『盤上の向日葵』の「盤上」は、将棋の盤である。
 
主人公の男の子は、幼くして母親を亡くし、父親からは虐待を受けている。それで大学へ入るときに、父親とは縁を切り、そのまま実業界に入り、一躍寵児となる。ちなみに大学は東大、学部は文Ⅰである。

ここまでの経緯がすでに嘘くさいなあ、と思わせるのに十分である。これは、よほど特異な文体を持っていなければ、読者を引きこむことはできない。
 
もっと嘘くさいのは、その先である。この男は子供のときから、将棋の異常な才能があった。そこで篤志家が、奨励会を受けさせようとするのだが、父親の反対で駄目になる。
 
けれども異常な才能は、いずれ芽を出さずにはいられない。それで実業家の地位を放り投げて、特例で将棋の世界に飛び込み、ついに第一人者と覇を競うまでになる(ここまでで、やってらんない、そんなバカな、だね)。
 
この話は、刑事二人が犯人を追う現在形と、主人公の回想とが、各章交互になっている。その刑事も、真面目な若い刑事と、中年のはみ出しデカで、絵にかいたような凡庸さ。
 
通常、将棋に本物の才能のある人は、高校へ行こうかどうしようか、迷うものである。大学になるともっと迷う。そのくらい、将棋の才能は特異なものだ。
 
そういう普通に迷うところから、何段階か飛び越えて、読者を小説世界に連れてこなければならない。
 
たとえば佐藤正午の『月の満ち欠け』は、同じ女が死んで三度、生まれ変わる話だった。そんなバカなと言っても、読み出せば、やめられるものではない。佐藤正午でも読んで、一から勉強し直すことだ。

(『盤上の向日葵』
 柚月裕子、中央公論新社、2017年8月25日初刷、9月25日第四刷)
posted by 中嶋 廣 at 18:30Comment(0)日記

キツネ目の男――『突破者―戦後史の陰を駆け抜けた五〇年―』(5)

実はバブルには、いかがわしい「闇の方程式」が、一気に表に噴出したという側面もあるという。

「『闇の方程式』とは、政官財の中枢に位置する一部の優秀な連中が戦前から行っていた陰の財テク方法である。例えば、有力政治家や財界のトップ経営者が財テクを行う場合、従来から土地転がしや株操作の手法が取られていた。それが『闇の方程式』たる所以は、その方程式のなかに必ず損をする人間、つまりババ抜きのババをあえて摑む人間、つまり泥をかぶる人間をあらかじめ準備していること。」
 
それが一挙に、表に噴き出てきたというのだ。宮崎学は、なまじ実社会にすっぽり組み込まれていない分、それだけ全体がよく見えている。
 
けれども、よく見えているからこそ、逆にそれが、望ましい方向に進んでいるとは、とうてい思えない。

「暴対法の作成・施行の尖兵になったのは私より年下の若手官僚、次代のエスタブリッシュメントであった。・・・・・・彼らは従来のダーティなものに依存した『不潔』で『非合理的』な統治を清算して、『清潔』で『合理的』な統治を実現しようという構想をもっている。・・・・・・『暴力団が生きていける環境を根絶する』ことを本気で追求しようとしているのだ。これは、暴力団追放という形をとりあえずは取っているが、気色の悪い思想、というより感性である。徹底した異物排除の上に立った『清潔なファシズム』を目指しているとしか思えないのだ。」

「暴力団が生きていける環境」を根絶やしにすることが、そのまま、異物を排除した「清潔なファシズム」を招来する、ということについては、一足飛びにその結論にはなりにくい。でも言っていることは、分かるような気がする。それはつまりこういうことだ。

「この本に登場した多くの人間は滅びゆく者たちである、と私は思っている。だがしかし、もう一度この連中が最後の光芒を放つときがあるのではないか、いやあるに違いない、とも思うのだ。」
 
そして著者は、たとえば北朝鮮の動乱の波紋が、アジア全域に広がるとき、それまでの小市民では、時代を突破できまいというのだ。
 
たしかに現実はどうなるかわからない。けれども、著者のいう「突破者」は、すでに歴史のかなたに追いやられたのではないか。二十年前のベストセラーを読みつつ、僕はそんなことを考えた。それはもちろん、人間の非合理的な側面が、突然噴き上げてくるのを防げるものでは全然ないけれど。

(『突破者―戦後史の陰を駆け抜けた五〇年―』
 宮崎学、南風社、1996年10月20日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 17:52Comment(0)日記

キツネ目の男――『突破者―戦後史の陰を駆け抜けた五〇年―』(4)

宮崎学はまた、銃撃戦にも遭遇している。いや遭遇という言い方は正確ではない。出し抜けに、腹を拳銃で撃たれたのだ。
 
舞台は夕刻の京都のレストラン、ヤクザ同士が角つき合わせている。

「それは突然に、まったく突如として起った。カーテンの後ろで『パン、パン』という乾いた炸裂音が三回ほど響き、その音に合わせるようにして、横に坐っていた鉄の上体がいきなり、がくん、がくんと大きく波打った。
 ・・・・・・私は反射的に立ち上がり、
『止めえ! こらっ!』と村上に向かって怒鳴った。」
 
その瞬間、銃口から火煙が噴き出て、著者は撃たれる。
「その火煙が突き刺さったかのように右腹部に途方もなく熱いものが走った。」
 
著者の真骨頂はここから先である。銃撃によって負傷したわが身を対象に、精緻な描写が続く。

「切り裂かれ、灼かれる・・・・・・銃撃されたときの感触は、そんな感じだった。銃口から火煙が吹き出した瞬間、腹部に切り裂かれたような激痛が走り、内部を熱いものが駆けめぐった。灼かれるような熱さだった。もっと具体的に表現すれば、火で真っ赤に灼いた中華料理用の肉厚の包丁をいきなり腹に刺し込まれた、といった感じだった。息ができないほど、熱く痛い。とっさに両手で熱い芯を押さえ、ソファに腰から崩れ落ちた。」
 
その分析的描写は、この後まだ続く。
驚くべきは、銃撃戦の犯人は捕まったが、他の関係者は、撃たれた著者も含めて、みんな逃げおおせていることだ(しかしそのことを、本に書いてもいいのかね)。
 
終わりの方に、「バブルの時代」の考察が述べられている。

「私から見れば、バブルをあそこまで膨らませたのには、金融機関、ことに銀行が果たした役割が決定的に大きい。というより、銀行こそバブルの主役だった。銀行のお手盛りの貸し出し競争がなかったならば、バブルは絶対に起きなかった。」
 
それをもう少し説明すると、次のようになる。
大手優良企業は、転換社債などを利用して、株式市場から金利の安い資金を調達できるようになり、銀行に頼る必要がなくなった。

「だが、銀行には金がだぶついている。自然、銀行の金は優良ではない企業に流れていくことになる。非優良企業は生き残るために本来的に投機的なことをやるものであり、銀行の金を得たことで一気に投機性を煽られた、というのがバブルの基本的な構造だったように思う。」
 
これは明快極まる見方だ。しかしそれ以外にも、じつはもう少し深いところまで掘り進んで抉っている。
posted by 中嶋 廣 at 12:20Comment(0)日記

キツネ目の男――『突破者―戦後史の陰を駆け抜けた五〇年―』(3)

宮崎学は、グリコ・森永事件で浮上したキツネ目の男にそっくりだ、と言うことで評判になった。もちろん官憲に対抗するヤクザということで、状況証拠は真っ黒である。
 
執拗に刑事に狙われ、ついには自宅での事情聴取に応じている。しかしここでは、辛うじてアリバイがあって、無罪放免になった。
 
このとき刑事が、こんなことを言う。
「問題は株価だと思う。ターゲットにされた企業の株価が事件の進展にともなって下落し、終結宣言後は上昇する。その間に、犯人は株の空売りや買い戻しで利ざやを稼ぐ。犯人が現金を強奪しようとしたのは、株価操作のカムフラージュではないか」
 
前に、グリコ・森永事件を下敷きにした『罪の声』を読んだことがある。あのときは身代金を稼ぐと見せかけて、株価操作をするというのが、犯人側の斬新な手口だと感心したが、なあんだ、もうずいぶん前に書かれていたのか。『罪の声』、がっかりだなあ。それなら、もう一工夫、二工夫しなければ。
 
それはともかく、キツネ目の男の件では、官憲に執拗に付け狙われた。

「一番腹立たしいのは、警察が私をグリコ犯だと広言していることだった。企業恐喝で逮捕されたときに私を取り調べた刑事が、
『学がグリコ犯だ。警察に対する挑戦的な態度といい、マスコミを巧みに利用するやり方といい、手口がそっくりや。それにあいつは倒産して金に困っとる』
 といい、刑事係長も『間違いない』と発言していることを人づてに聞いた。」
 
警察もまったくひどいものだが、しかし無責任なところから見ていると、申し訳ないけれど、可笑しい。
 
もちろん著者は逆襲し、京都府警に怒鳴り込みにいく。
「『ええかげんなこというたら承知せえへんぞ。こらっ!』といっておいたが、そんなことをいえばいうほどドツボにはまることはよくわかっていた。」
 
僕だけではなくて、著者も、おかしくなって笑う以外に、手がないようだ。
posted by 中嶋 廣 at 17:16Comment(0)日記

キツネ目の男――『突破者―戦後史の陰を駆け抜けた五〇年―』(2)

その後、宮崎学は「週刊現代」の専属記者になる。これは講談社の専属社員というわけではない。週刊誌が売れに売れた時代に、記者として半分関わりつつ、それを半分外から見ている。これは、出身がヤクザという特異さによるだろうが、それがプラスに出た面がある。
 
高度成長の下での労働過程の変化も、独特の見方をしていて面白い。

「職人ということでいえば、ちょうどこの頃、日本の職人や労働者の世界が大きく変貌したように思う。……かつての多機能的熟練作業が単純流れ作業に、組単位の請負的作業体系がラインに統合される一貫作業体系に置き換えられていく。・・・・・・高度成長のなかで労働過程が変化し、こうしたものが壊されていくにしたがって、自治的秩序、組的団結の要であったはずの労働組合は、賃上げと労働条件改善のみを追い求めるものになっていき、・・・・・・労働者は個々ばらばらの形で企業社会のなかでの出世を追い求めることにしか自らの社会的地位を見出すことができなくなっていった。」
 
これは、経済学の本ではないので、裏付けとなる資料は提示されていないが、いまから1960年代を振り返れば、正確な労働の変質だと思える。
 
その後、著者は関西に帰り、親の代からの解体屋、寺村建産を兄と一緒に経営するが、うまくいかない。
 
本はこのあたりから、徐々に面白くなってくる。倒産に至る借金地獄に、きりきり舞いするところは、読んでいて息苦しくなるほど素晴らしい、というとちょっと語弊があるが、とにかくぐいぐい読ませる。
 
いよいよ最後に、北陸の親戚に金を借りようとするのだが、上手くいかない。「私」はもう、ホテル代も持っていない。しょうがないので、小さな駅の待合室で夜を明かすことにして、とりあえず眠ろうとする。でも眠れない。

「眠れないのは寒さのためばかりではなかった。最後に残しておいた融資口から体よく断られたことで、私に金を貸す者はもうだれもいないことが身に沁みてわかった。その事実を嚙みしめながら、人気もなく、物音ひとつない北国の深夜の駅で身体を縮めて横たわっていると、自分が人格を喪失してゼロの存在になったような思いに襲われるのであった。」
 
虚しく足掻き、あげくの果てに倒産する。これは、元手の掛かった文章である。
posted by 中嶋 廣 at 13:29Comment(0)日記

キツネ目の男――『突破者―戦後史の陰を駆け抜けた五〇年―』(1)

中野翠の『あのころ、早稲田で』を読んでいて、こんな箇所にぶつかった。

「・・・・・・『突破者』の上巻は早大闘争の、貴重で精緻な記録になっている。私はもうひとつ世間知らずなところがあるので、京都における日本共産党の存在意義について、そして旧来のヤクザ社会の独自の生活様式や価値観について、『うーん、なるほどねえ』と啓蒙されるところも多かった。ベストセラーになったのも当然の奇書だと思う。」

『突破者』の紹介だけで、つごう三ページも費やしている。早稲田闘争の貴重な記録にして「奇書」、というところに引っかかった。それに二十年前のベストセラーなら、もう読んでもよかろう。
 
というわけで、宮崎学の『突破者』を読む。中野翠は、上下二巻になったのを読んでいるが、それはおそらく、文庫になったのを揃えているのであろう。僕が持っているのは、初版の単行本である。
 
京都のヤクザの家に生まれて、喧嘩に明け暮れ、一転して早稲田大学に入り、影の民生として学生運動で大暴れするところまでは、正直あまり面白くない。

いろんな人から、この本についていろんなことを聞き、多分こういうことかなあと想像していると、その通りであって、それはつまり面白くない。
 
それでもたとえば、こういうところはちょっと考えさせる。
「要するに『社会の底辺にいる者や差別される者にはヤクザになることもひとつの解放なんだ。それも、最も手っ取り早く、最もラディカルな解放なんだ』・・・・・・。これは確かに私の身のまわりの世界の実相でもあった。」
 
博打と喧嘩に明け暮れる、読み手には退屈極まる描写を一皮めくってみれば、そこには、こういうところに実を置いたもの以外には分からない、真実がある。
 
しかし早稲田を中退する前半までのところは、やはり退屈である。宮崎学は、革命を夢見て早稲田に入った。そうであれば、早稲田を離れるところで、「革命」について、何らかの結論を出しておかなければ、いけないんじゃないか。

それとも、それはもういいじゃないか、若気の至り、バカバカしい限り・・・・・・、ということなのだろうか。
 
ふつうは夢破れて、となるところだが、そういう内面の吐露は書かれていない。僕はこれに不満を持つ。
posted by 中嶋 廣 at 18:30Comment(0)日記