高橋順子と車谷長吉――『夫・車谷長吉』ほか(5)

ピースボート主催の南半球一周航海への参加は、高橋順子の発案だった。長吉は、三カ月以上も置いていかれては困る、と思ってついてきたのである。

「うちの嫁はんは、私が日本脱出に同意しなければ、私を家におっぽっといて、自分一人で世界一周旅行に行っただろう。私は家に百日も取り残されるのが恐かった。」
 
これは、同時進行で原稿を『文學界』に載せ、その後、加筆して『世界一周恐怖航海記』として刊行された。本の帯に、「船上にて自らの半生を綴った100日間」とあるが、日本を離れたぶん、半生を振り返る、その振り返りぐあいが、ちょっと変わっていて面白い。
 
そもそも長吉は、世界一周旅行に怯むところがあった。
「人はなぜ世界一周旅行を羨ましいと思うのだろう。私には分からない。世界には魑魅魍魎が跋扈しているのに。」
 
しかしとにかく、ついて行かねばならない。ただ、大海原の真ん中にいて、来し方を考える以外に、することがない。

「平成二十年春に某出版社から、私の全集が出る予定なので、それまで生きていられたら、本望だ。もうこの世に思い残すことは何もない。強迫神経症が苦しいので、私は早くこの世を立ち去りたい。文学のほか一切を捨てて生きて来た。無常(死)を感じたら、文学をやる以外に、生きる道はなかったのである。」
 
悲痛な叫びだが、でもどこか対象との距離が、取れているように感じられる。対象はもちろん、文学をやる自分であるが、この「自分」が、よく見定められている。

「私は生を楽しむことが嫌いだ。苦を楽しみたい。困った人だ。」
最後の「困った人だ」という押さえが、よく効いている。
 
次はちょっと道学者ふう。
「この船の生活には、慰めがない。『しみじみとした生活』がない。みんな、生の楽しみをむさぼろうと、はしゃいでいる。この『むさぼる』というのが、私は嫌いだ。」
 
しかしとうとう長吉にも、船旅の思いもかけない感動が訪れる。

「イタリア氷河は山から一気に海へなだれ込んでいた。太古の風景だ。原始の光景だ。気温、零下三度ぐらい。夏なのに。感動に胸が慄える。この旅に来て、よかった。雨が来て、晴れると、虹が立った。」
 
車谷は基本的に、じっと家にいるのが好きだ。いつも家に居たいのに、高橋順子に引っ張りまわされる。でも、旅行に来てよかったと、心から思うときもあるのだ(たぶんそれを文章にしたのは、この一回だけだと思うけど)。ここは読んでいて、思わず感動してしまう。
 
しかしもちろん、車谷長吉の根っこは変わらない。

「バルパライソ港着岸。軍港。美しい港だ。
 八時半、順子さんと町へ出る。歩いているうち、急に便意をもよおし、カフェを探すが、見当たらず。ますます便意はつのり、繁華街の洋品店の前でパンツを脱いで糞をする。下痢。」
 
わざわざ「下痢」と記すところがおかしい。

高橋順子と車谷長吉――『夫・車谷長吉』ほか(4)

『漂流物』は、タイトルになった中篇も含めた、七篇からなっている。なかでは「漂流物」が、もっとも力が籠もっている。
 
料理場から料理場へ放浪していく「青川さん」は、十円玉を放って表と裏のどちらが出るかで、行く先を決めていく。そうして何の理由もなく、内灘海岸で男の子を殴り殺してしまう。
 
これは芥川賞の本命だったが、落選してしまい、のちに日本経済新聞に選考経過の異例の報告が出た。

「物情騒然たるこの時期、この小説は時の運で落ちた、ということが書かれていた。不条理殺人小説が社会不安を助長させるかもしれないことを恐れた選考委員が過半だったということから、文学と社会について問題提起をしていた。
 長吉の怒りがたぎってきた。」(『夫・車谷長吉』)
 
そりゃあ、怒り沸騰して当たり前だ。そもそも、世情を不安に陥れるかもしれないから、芥川賞を授与するのを止めるというのは、信じられない話だ。むしろ、文学の問題作としてはまったく逆で、うやうやしく差し出すのではないのかね。

『業柱抱き』(ごうばしらだき)は、帯の表に「新直木賞作家の文章道」とあり、「詩・俳句・小説・エッセイを収録。」とある。
 
まず巻頭の、「業柱抱き」と題する詩が面白い。そこに「補註」が付されている。

「平成二年の夏、私は高橋順子さんの詩集『幸福な葉っぱ』(書肆山田刊)に触発されて、詩のようなものを書いた。それがこの「業柱抱き」であるが、その後、この生殺しの詩のようなものをもとに「鹽壺の匙」をかいた。」
 
初出は、平成五年の『新潮』七月号である。ここで、編集者が止めるのもかまわず、高橋順子に懸想していることを告白し、高橋順子はびっくりしつつも、これを受け入れたのだった。車谷は、おかげで「鹽壺の匙」が書けたことを告白している。
 
このごった煮の寄せ集めは、寄せ集めたものにしては面白い。たとえば色川武大の『狂人日記』をテーマにしたところ。

「うちの嫁はん(高橋順子)は、しぶとい女で、私が発狂したことを素材に『時の雨』(青土社刊)という詩集を著して、奇しくも色川氏と同じ読売文学賞をもらったが、文学は血みどろである。」(「血みどろの狂気」)
 
それからまた、日本人の「思想」について。
「思想、と言うと、人は何かむつかしいもののように受け取りがちであるが、平易に言えば、人の言動の基いにあって、その人を動かしている動機(モチーフ)のようなものである。年の暮れに、私方の近所の商店街で『歳末大売出し・現金つかみ取り』というのをやっていた。・・・・・・些細な行事ではあるが、恐らくはこの『現金つかみ取り』が、昭和三十年に高度経済成長政策がはじまって以来、日本人の魂を動かして来た思想であろう。」
 
その容赦ない視線は、自分に向かうとき、最も厳しくなる。『鹽壺の匙』一冊で、藝術選奨文部大臣新人賞と、三島由紀夫賞をもらったときの溜め息。

「嬉しいのは嬉しいに相違なかったが、それも浅ましく、さもしく、己れにうんざりした。」(「人間一生二萬六千日」)
 
結局、車谷は、次のようなところに徹さなければ駄目なのだ。
「私は私の骨身に沁みたことを、私の骨身に沁みた言葉だけで書きたかった。」(「物の怪」)
 
最後に「因業集」と題して、俳句が載せられている。読んでいくと、俳句というよりも、究極の掌篇に近い。二篇だけ、いや二句だけ引いておく。

  秋の蠅忘れたきこと思ひ出す
  去年今年因果の風は吹き通り

高橋順子と車谷長吉――『夫・車谷長吉』ほか(3)

松下昌弘さん推奨の『贋世捨人』は、大学を出た後、広告会社に入り、そこを辞めて、右翼がやっている左翼の雑誌、『現代の目』に入り、そこも辞めて、料理場の下働きとして関西の板場を渡り歩く。

そしてもう一度、文学の志を立て、「弟にもらった萬年筆一本と、粟田口近江守忠綱の匕首(どす)をふところに服(の)んで。いよいよとなったら、匕首で首の頸動脈を切って、自決する覚悟」で、上京するところまでを扱う。
 
いいところはいろいろあるが、たとえば左翼雑誌『現代の目』の編集部がある現代評論社を、次のように言うところ。

「何かいびつに『空気の死んだ会社』だった。」
うーん、これはうまい。
 
あるいはまた、こういうところも。
「現代評論社が借りているのは、その大きな倉庫の片隅であって、そこにもう何年も前の『現代の目』や、売れる見込みもない単行本が散乱していた。右翼の武器と左翼の言葉が一つの建物の中に同居しているのである。」
 
車谷が友人と、文学について話をするところも読ませる。小説中では車谷は、「生島」という名前で登場する。

友人が勤務する精神医学研究所の中を歩いていると、患者が釣糸を垂らして、風呂桶の中を一心に見つめている。そこで患者に、何か釣れたのか、と声をかける。すると患者は「馬鹿ッ、風呂桶で魚が釣れると思っているのかッ」と、血走った凄まじい目で怒鳴る。

それを見た友人が、「生島」にこう語る。
「小説を書くというのは、この男のように狂気でするのではなく、正気で風呂桶の中の魚を釣ろうとすることではないか。それを一生続けるのは辛いことだろうけれど、僕はきみにそれをやって欲しいんだ。きみなら出来る。正気で、一生風呂桶の上に釣竿を差し続けて欲しいんだ。魚なんか、一匹も連れなくったっていいじゃないか。それが、小説を書くということじゃないか。」
 
小説を書くということは、必ずしもこういうことではない、と思う。しかし、こういうことであってもいい、とも思う。ただ文学をこういうふうに捉えると、ゆく道は限りなく隘路になって、窮屈でたまらなくなる、とは思う。
 
終わり近くに、車谷の「櫻子の孤独」が、芥川賞候補作に選ばれるところがある。
「お袋にその事実を告げると、目の色を変えた。
『あんた、うちが田んぼ売って、これから二千萬円の金を作る。あんたその金を持って、東京へ行きな。ほいで、銓衡委員の先生方に二百萬円ずつ配って歩きな。ほら違うで、どなな偉い人かて銭もうたら。あんたが行かへんのやったら、うちが行く。』
『阿呆言えッ。』」
 
笑ってしまう。ちなみに、このときは票が過半数に達せず、落選している。

高橋順子と車谷長吉――『夫・車谷長吉』ほか(2)

ほかにも、一度黙読しただけでは分からない、こんな大事なことを知った。
 
高橋順子が、車谷長吉の原稿を本にすることについて、三浦雅士としゃべっている場面だ。

「私は三浦さんに、『車谷さんという人が私のところから自費出版したいといってきてるけど、新潮社かどこかのほうがいいですよね』と相談した。三浦さんはそれには答えず、『高橋さんのことを観音さまみたいな人だと言ってるぜえ』と面白がっているふうに言った。」
 
ここは、三浦雅士の言う「高橋順子は観音さま」という言葉が、荒唐無稽な比喩などではないということに、気づかなくてはならない。

高橋順子が、車谷の書くものを掛け値なくいいといったから、それまで灰色の世界で、ぺしゃんこになっていた車谷の人格が、むっくりと起き上がってきたのだ。
 
高橋順子の『夫・車谷長吉』が、あまりに素晴らしいことは、朗読するまでわからなかった。黙読するだけでは、通り一遍の良さしかわからない。ということは、田中晶子の、脚本にするならという、詳細な解説を聞いて、初めて分かったのだ。
 
それで、その素晴らしさを、心ゆくまで堪能すべく、三回朗読をして、今四回目の途中である。これでは、ひょっとすると、高橋順子の書くものから、逃れられないかもしれないけど、しかしまあそんなことはあるまい、たぶん。
 
と同時に、車谷長吉の方は、いったいどんなものを書いたのか。『赤目四十八瀧心中未遂』と『武蔵丸』は読んでいたので、それ以外に面白いものはあるのか。そういうことを、かつて新書館編集部にいた、松下昌弘さんに聞いてみた。
 
松下さんは『車谷長吉全集』の担当者で、『夫・車谷長吉』にも出てくる、「おしゃべりの長吉と気が合って、よく二階の書斎で『ほちゃほちゃ』やっていた」、強烈に印象に残る人だ。

「やっぱり『武蔵丸』がいいですね。それと『贋世捨人』。右翼の大物がやっている、左翼雑誌『現代の目』の編集部が、妙なリアリティがあっていいんですよ。もちろん『赤目四十八瀧心中未遂』と『鹽壺の匙』は絶対です。」
 
というわけで、『贋世捨人』と『鹽壺の匙』、それに僕の方でかってに選んで、『業柱抱き』『漂流物』『世界一周恐怖航海記』を読んでみた。

『鹽壺の匙』は、世評はこの上なく高いが、僕はかつて二篇読んだだけで、打っちゃっておいた。
今度、終わりまで読んでみると、終わりの二篇、「吃りの父が歌った軍歌」「鹽壺の匙」が、それまでの四篇とはまるで違って、断然いい。

それがつまり、高橋順子を知る前と後の差だ。高橋順子さんは、自分が男を蘇らせた、なんて書かないけれど、しかし『夫・車谷長吉』と『鹽壺の匙』を丹念に読めば、それがはっきりと分かる。

高橋順子と車谷長吉――『夫・車谷長吉』ほか(1)

高次脳機能障害のリハビリため、毎日一時間を朗読に当てている。本当にそれでよくなるかどうかは、分からない。病院でも、脳のためには朗読がいい、なんて全然言われなかった。でもとにかく、何でもやってみなければ分からない。

この前は、『昭和解体―国鉄分割・民営化30年目の真実―』を、二十日以上かかって朗読し終えたが、これは本当に詰まらなかった。

ここで味のよいのをもってこなければ、朗読そのものが嫌になってしまう。というわけで、少し前に黙読し終えた『夫・車谷長吉』はどうだろうか。

これは少し読むと、言葉が身体に染みていくのが分かる。こんなことは初めてだ。養老孟司先生の朗読用の本も、頭には染み込むが、身体に沁み込んでいくのは、高橋順子さんの本が初めてだ。
 
それを横で、田中晶子が聞くともなしに聞いていて、この男と女の話は面白いね、映画になるね、と言う。田中晶子は脚本家だから、映画になるね、は最大の褒め言葉だ。
 
たとえば、と田中晶子が言う、はじめて曙橋駅のそばの、喫茶店「クラウン」で会ったとき。

「ほっそりした坊主頭の人だった。向き合って座ったが、何もしゃべってくれない。怖くなって、後ろへ身を引いた。」
 
まず後ろへ身を引く。しかし身を引いたっきりでは、何も始まらない。そこで意を決して、声をかけてみる。

「頭陀袋をわきに置いていたので『いい布の袋ですね』と私が言っても黙っている。『布の袋だと落ち着きますでしょ』と言っても返事がない。私はまた後ろに身を引いた。」
 
頭陀袋ぐらいしか、どうにも褒めるものがない。それで、褒めてはみるけれど、相手は無反応。これでは、後ろに身を引く以外にない。これは滑稽極まりない、でも温かい場面だ。
 
なるほど、田中晶子の解説つきだと、その場の情景がよくわかる。言葉が、いっそう身体に沁み込んでいく。
 
この後二人は、短い会話をする。
「しばらくして積み木の箱を出して、『これ、お祝いです』とやっと言ってくれた。『ありがとうございます。もう時間なので』と私は立ち上がると、その人も立ち上がった。外に出てその人の目を見たとき、こんな澄んだ目の人は見たことがないと思った。」
 
最後の押さえ、「こんな澄んだ目の人は見たことがないと思った」、というのがとてもいい。

これで、全部で半ページほどの描写だが、そんなふうに解説されると、男と女の心理の襞が、動作を通して、じつに立体的によく分かる。

凡庸な本――『ドキュメント 日本会議』

これは、読んでおかねばと思って手に取ったが、たいして面白くなかった。しかし面白くないぶん、逆に考えさせられもした。
 
著者の藤生明氏は1967年生まれ。朝日新聞に入り、長崎支局などを経て、AERA編集部へ。その後、2014年からは東京社会部で右派全般を担当し、現在は編集委員を務める。
 
帯の裏には「日本会議――/1997年に結成され、『草の根保守主義』を標榜。/会員約四万人。日本会議国会議員懇談会約290人。/同地方議員連盟約1800人。全都道府県に地方本部を置き、/250の地方支部を持つ保守運動体。/それは、/『日本を裏支配するシンジケート』/なのか?」
 
表には「すべて事実!」と、大きな書体で書かれている。思わず買っちゃうでしょう。
 
とにかく「常に改憲勢力の中心にあり続け、教育基本法の改正推進のほか、国立追悼施設建設、女系天皇、夫婦別姓、外国人地方参政権いずれにも反対し、実現阻止のための活動を精力的に展開してきた」、という謎の組織のドキュメントだ。
 
でもね、なぜドキュメントかというと、丹念に取材はしているけど、ただそれだけなんだよね。非常に細かい、緻密な、でも通り一遍の取材なんだなあ。だから、これを逆から見れば、よく言えば、ドキュメントとしか言いようがないわけ。
 
発端は1966年、長崎大学有志の会が自治会選挙で、左翼学生に勝利を収め、それから組織の名前を変え、いくつかあった組織を統合し、97年に日本会議が結成される。
 
そこに至る途中で、取材している著者は、こんな感想を漏らす。
「・・・・・・署名を集め、地方組織をつくり、地方議会の決議を積み上げていった。私は、彼らの思想には必ずしも同意しないが、極めてまじめな、できる人々の集まりなのだ。」
 
これ、おかしいでしょう。「必ずしも同意しない」って、どういうこと? 「極めてまじめな」学生たちなら、ほかにもたとえば、人殺しを続けていった連合赤軍事件もあったなあ。
 
それはともかく、こういう細かい動きをとらえても、大きな流れとしては、とくに思想的な流れとしては、深いところが出てこないのだ。
 
ほぼ半世紀にわたる流れを見ても、相も変わらぬ空念仏ばかりで、これが日本会議に集約されることは、はたして「驚異」なのだろうか。
 
政治家は票になれば、何でも欲しいだろうが、しかしそれは本当に黒い核として、中心にあり続けるのだろうか。
 
こういう「凡庸な本」を読むと、「引き続きこの特異な組織に注目していきたい」、という感想にならない感想しか、出てこないじゃないか。

(『ドキュメント 日本会議』藤生明、ちくま新書、2017年5月10日初刷)

すれちがい――『ちいさい言語学者の冒険―子どもに学ぶことばの秘密―』

岩波科学ライブラリーの一冊。この本は、じつに詰まらなかった。
 
僕は三年前に脳出血になり、その後遺症で、高次脳機能障害になった。病院にいた半年間のうち、特に最初の頃は、言葉はほとんどしゃべれなかった。もちろん書くなど、とんでもない。

三か月が経ったころ、キーボードを前にしても、一字も打てなかった。「a」でも「あ」でも何でもよい、一字くらいは何とかなりそうだと思うのだけど、それが何ともならない。なぜ一字も打てなかったのだろう。
 
それが、ほぼ三年足らずの間に、少なくともキーボードは打てるようになり、会話も、スムーズにではないが、なんとか用は足りる。三年の間、僕の体に起こったことは何か。そういう興味をもって読んでも、得るところは何もない。
 
広瀬友紀という東大の先生は、いずれ大人になれば、言葉を上手に操れるようになるものとして、対象と接している。でも、それは違うのではないだろうか。

「ことばってなんと奥が深い知識体であることか、そしてそれを遠い昔に自力で身につけた、かつての自分の頭の中ではどんなに面白いことが起きていたことか。」
 
確かに自分の頭の中で、何かが起きていた。それは間違いないが、しかし大人になって、余裕をもって振り返るようなことでは、ぜんぜんないんじゃないか。こどもは、もっと切実に、今日を一杯一杯、生きているんじゃないだろうか。言葉の習得も、そのような一回性のもとで、なされたのではないか。
 
とはいっても、個々の事例は興味深いものばかりだ。
例えば、「『た―だ』『さ―ざ』『か―が』の間に成立している対応関係が成り立っているのは、『ぱ(pa)』と『ば(ba)』の間の方なんですね。日本語の音のシステムでは『は』『ぱ』『ば』が奇妙な三角関係をつくっているようですが、『ば(ba)』の本来のパートナーは『ぱ(pa)』と考えるべきです。じつは、大昔の日本語では、現在の『は』行音はpの音であったことがわかっています。」
 
じっさいキーボードを叩いていても、濁点を打つか打たないかは、非常に迷う。いまでこそ、濁点のあるなしは、眼で見てわかるけれど、それでも一度は見ておかないと、不安でしょうがない(僕はブラインドタッチでは、キーボードが叩けないのだ)。
 
そしていまでも、「は」の濁点のあるなしは、非常に迷う。それは、この本を読むと、「は」と「ば」が、正確に対応してないからだ、ということがわかる。
 
でも広瀬先生は、大人になれば、そんなことで迷っているような人はいないから、楽しみながら、子どもの言い間違いを見つけてあげましょう、という態度だ。これは、「ちいさい言語学者の冒険」を上から見ている、きつい言い方をすれば、子どもをバカにした態度だ。
 
いや、もちろん僕の目指すところのものと、著者のそれとが、うまく噛み合ってないということは、よく分かっている。
 
そのうえで、もう少し積極果敢に、子どもの言葉に肉薄できないものか、ということを言いたかったのである。

(『ちいさい言語学者の冒険―子どもに学ぶことばの秘密―』
 広瀬友紀、岩波書店、2017年3月17日初刷、5月26日第4刷)

デザインの見方――『塑する思考』(4)

それからまた、仕事で自分を追い詰めてゆく、その追い詰め方が、どんな職業であっても、結局は不変なものである、ということを語っているところもある。

「・・・・・・自分を追い込むとは、できるかぎり客観的に自分のやるべきことを考え抜く、の意味です。とことん追いこんだ後は自由に、ああでもない、こうでもないと考えを巡らしてみる。するとある時、『あ』と思う瞬間が必ずやってきます。アイデアが、まるで天から降りてくるかのように、自分から湧いて出るのではなく、外からやってくる感覚なのです。」
 
これは「さよなら、元気で。ペンギン君」と題する、ロッテのクールミントガムのデザインをリニューアルする話。これも実に面白い。
 
そしてアイデアを得る方法について。
「アイデアは、みんなで話し合いを重ねれば出てくるというようなものではなく、十人いても百人いても、出ない時には出ません。・・・・・・アイデアについては、たとえ何人で出し合うにせよ、一人一人が自分をどこまで追い込めるかに掛かっているのです。みんなで考えさえすれば先を切り拓くアイデアが出てくるようなものではない。民主主義を取り違えてはなりません。」
 
アイデアを求め、企画を求めて、どれほど企画会議をやったことか。でもトランスビューになってからは、僕一人だから、ほとんど企画会議はしていない。
 
もちろん企画会議は、企画の、いってみれば毛羽だったところを処理する、整流器の役目をしているので、なくてもいいと言うわけにはいかない。その辺は、企画会議をやる部長なり課長なりの、判断の難しいところだ。
 
それで結局、デザインとは何か。
「デザインする基本は、内容をよくよく理解し、できるだけそのまま表現することに尽きるのです。きれいなものはきれいに。面白いものは面白く。素朴なものは素朴に。」
 
なるほど、ちょっとした「悟り」の世界である。
しかし、著者はさらに、そこからもう一歩、進める。

「私は今、切実に、小学校の義務教育の授業に『デザイン』を取り入れるべきだと思っています。・・・・・・ありとあらゆる物事と人との間にデザインはなくてはならず、人の営みの中で何事かに気づき、これからを想像し、先を読みつつ対処するのがデザインであるならば、それは『気づいて思いやる』、つまり『気づかう』ことに他なりません。デザインは、自ずと道徳にも繫がっており、それは、我々を取り巻く地球環境を人の営みと共に気づかい考えることでもある。」
 
だから世界に先駆けて、日本で「デザイン」の授業をやってはどうか、と説く。道徳につながる世界については願い下げだが、しかしここまで突き詰めなければ、デザインの奥義は極められない、という意気込みはおおいに買える。

(『塑する思考』佐藤卓、新潮社、2017年7月30日初刷)

デザインの見方――『塑する思考』(3)

『明治おいしい牛乳』のデザインを生むにあたっては、紆余曲折があった。そもそもこの牛乳のネーミングにしてからが、決まっていなかった。何百という案の中から、何度も調査が重ねられ、著者のところに上がってくるときには、3点に絞り込まれていた。
 
ところがその3点が、どれもよくない。1つ目は「美味」。「びみ」と読んで、これは瞬時に意味を感じ取れる。2つ目はアルファベットで、「PURE‐RE」。「ピュアレ」と読む。3つ目が「明治おいしい牛乳」である。
 
著者は、はっきりいって3つとも気に入らない。「美味」は、いってみれば高級料亭で出てくるような味わいで、気持が引けてしまうだろう。

「ピュアレ」は、おしゃれな若者にはいいかもしれないが、牛乳は子どもから老人まで飲むものだ。そこで「ピュアレ」といっても、どうもピンと来ない。

「明治おいしい牛乳」は、「おいしい牛乳」というのが一般的過ぎて、商標登録ができない。

「少なくともこれはないな、と思いました。商標登録の問題以前に、これがそもそもネーミングになり得るのだろうか。提供する側から『おいしい』と言っていいものなのだろうか。美味しいかどうかは買って飲んだ人が判断することではないのか。」
 
けれども明治乳業が、この3点のどれかでいくのだから、ともかくデザイナーとしては、形にしなくてはいけない。こうして著者の悪戦苦闘が始まる。

この箇所は本当に面白い。デザイナーの働いている頭を、そのまま取り出して見ているような気がする。

そして著者は、最初にできた20ほどの案に、1つだけ、方向性の違うものを入れてみるのである。それは、「できるだけデザインを感じさせない」、異色の案だった。

「基本的には単純に、太くて大きめの楷書体で『おいしい牛乳』を縦に置いた素直なデザインです。・・・・・・他の案と比べて見ていくうちに、どうもいい感じがしてきたのです。その気配は、ニッカのピュアモルトウイスキーの時と通じていました。すなわち『デザインをする』のではなく、『できるだけデザインをしない』方向。」
 
もちろんそのあとも、紆余曲折はあるが、その困難を乗り越えて、いま食卓に登場する「明治おいしい牛乳」が生まれたのだ。
 
この本を読んで以来、毎朝、「明治おいしい牛乳」のパッケージを一渡りじっくり見ながら、パンを食する癖がついた。

デザインの見方――『塑する思考』(2)

タイトルの『塑する思考』とは、どういう意味か。柔よく剛を制す、という言葉がある。この「柔」という言葉は、さらに二つの意味に分けられる。それは「弾性」と「塑性」である。

「弾性」はよく分かっている。外部から力が加わって、形が変わっても、その力がなくなれは、元の形に戻ろうとすること。

では「塑性」はどうか。これは耳慣れない言葉だが、外部からの力で変形されると、加わった力に応じて、そのつど形を変化させてしまうこと。著者はわかりやすい例として、粘土を挙げている。

一般には、「弾性」を鼓舞し、しっかりした自分を作り上げようとする。だから例えば、そういうものを目指し、自己実現を目的として、教育を受けさせたりするわけである。

しかし著者は、若い頃から今まで、そのしっかりした自分というのが、さっぱり分からなかった。

「私には、若い時分から今に至るまで、自分とは何かを考えれば考えるほど、さっぱり分からない。ところがこの分からないまま自分など考えないのが、自分にとっては良好の状態らしいと、この歳になって気づき始めています。何を考えているにしても、すでに考えている自分が存在するのだから、自分なんてまったく気にかける必要はなく、そのつど与えられた環境で適切に対応している自分のままがいいのではないか、と。」
 
自分はどうしたら自己実現できるだろうか、と考えるのではなく、目の前のことを、自己実現もへったくれもなく、夢中でおやりなさい。それが、いってみれば「人生の王道」なのですよ。と、そこまでいっているわけではないけれど、でも小林秀雄から養老孟司まで(間にどんな人が入るかはわからないが)、「達人」たちはそういう。
 
そして、佐藤卓もそう言うのだ。それがつまり、「塑する思考」の意味である(やっぱりちょっと難しいですね)。

著者は初め電通に入り、そこでニッカ・ウイスキーの広告を、中身をどんなウイスキーにするかまでを含めて、企画を練る。著者の側から新商品を、広告込みで、自主的にプレゼンテーションしてみるのだ。

無論この時代には、めったにないことだった。酒の中身と、ボトルのデザインの、両方を考えるのだ。すると工場の人たちの話が、俄然おもしろくなる。

「工場の責任者やブレンダーの話に聞き入ってしまうだけでなく、煉瓦造りの工場の質感ひとつにしても、何しろ興味深くてならない。
 ・・・・・・
 対象を理解すべく深く深く入り込んでいく方法は、次々に疑問を持てるかどうかに懸かっています。この頃から『分かる』だけでなく、むしろ『分からない』のほうが重要なのではないかと考え始めました。」
 
こういうところも、養老さんとぴったり合うのだろう。ちなみに、このとき生まれたのが、「ピュアモルト」である。