この著者にしては信じられない――『ネガティブ・ケイパビリティ―答えの出ない事態に耐える力―』(3)

ここは、分かれ道である。

「二〇一六年七月、相模原で起きた元介護職員による十九名の重症障害者の殺人事件は、世間に戦慄を与えました。真心をもって真摯に介護を続けていけば、いつかはこのケアする喜びに気がつくはずです。
 しかしそこには、共感とネガティブ・ケイパビリティが要請されます。介護をしても無駄ではないかという速断は、その双方が欠けるとき、恐ろしくも成立してしまうのです。」(「第六章 希望する脳と伝統治療師」)
 
これは、今からちょうど一年前、元介護職員が夜間、介護施設に忍び込み、19名の障害者を殺害し、ほかにも多数の重傷者を出した事件である。この事件は、逮捕された後も、犯人が自分の正当性を主張したとして、特異なものであった。

こういう犯罪事件に対抗するためには、文字通り、粘り強いネガティブ・ケイパビリティの力が必要になる。
 
それはそうだけれど、とはいっても、その中身が、外側から否定形で語られるばかりでは、どうしようもない。
 
それはあとも、同じことだ。「第七章 創造行為とネガティブ・ケイパビリティ」は、たとえば作家は、文字通りネガティブ・ケイパビリティを、駆使しているという。

「作家は、日々この宙ぶらりんの状態に耐えながら、わずかな懐中電灯の光を頼りにして、歩き続けなければなりません。」
 
これは言わずもがな、作家が予定通り、すいすい書けるのであれば、編集者はいらない。と言うか、いまさらこんなことを、書く必要があるんだろうか。

「第八章 シェイクスピアと紫式部」は、どちらもネガティブ・ケイパビリティを、発揮していたという話。これは、極端なことを言えば、どうとでも、取ってつけられる話である。ここでは、『源氏物語』の講釈がかったるくて、辟易する。

「第九章 教育とネガティブ・ケイパビリティ」は、もう読む前から、何となく見当がつく。現代の教育は、ポジティブ・ケイパビリティのみであり、ひたすら知識の詰め込みと、それを試験のときに、迅速に吐き出す方法のみが、問題になる。これではいけない、学習速度に個人差があるのは、自然なことではないか。
 
こういうお題目は、散々聞かされた。学校という場で、それではどうすれば、よいのか。鳥山敏子さんのような教育者は、めったに現われないのだ。

「第十章 寛容とネガティブ・ケイパビリティ」は、フランスのユマニスムにおける、ネガティブ・ケイパビリティの重要さについて。
 
エラスムスの『愚神礼賛』や、ラブレーの『ガルガンチュワとパンタグリュエル物語』を題材に、寛容を支えているのは、ネガティブ・ケイパビリティだ、ということを説く。

「どうにも解決できない問題を、宙ぶらりんのまま、何とか耐え続けていく力が、寛容の火を絶やさずに守っているのです。」
 
これもまったくその通り。この最終章まで来て、ネガティブ・ケイパビリティについては、初めから終わりまで、まったく深化も変化もしていないのが、お分かりだろう。
 
突飛な例だが、私は、漱石の『吾輩は猫である』に出てくる、「大和魂の話」を思い出してしまった。みんなが持っている大和魂、しかしそれを見たものはない。軍隊の大将から政治家まで、果てはスリや盗人も持っている、と漱石は揶揄する。

ネガティブ・ケイパビリティを、大和魂なんかと一緒にできるか、という人もあるだろう。果たして、そういえるか。

(『ネガティブ・ケイパビリティ―答えの出ない事態に耐える力―』
 帚木蓬生、朝日新聞出版、2017年4月25日初刷、6月30日第三刷)

この著者にしては信じられない――『ネガティブ・ケイパビリティ―答えの出ない事態に耐える力―』(2)

「第三章 分かりたがる脳」は、人間の脳は、とにかく何でも分かりたがる、しかし安手の理解の手前で、これをぐっとこらえて我慢しなければ、ダメだというお話。

「ネガティブ・ケイパビリティは拙速な理解ではなく、謎を謎として興味を抱いたまま、宙ぶらりんの、どうしようもない状態を耐えぬく力です。その先には必ず発展的な深い理解が待ち受けていると確信して、耐えていく持続力を生み出すのです。」
 
これが第三章の、結びの言葉である。「必ず発展的な深い理解が待ち受けている」というのは、根拠の示されていない言葉であり、全体は第二章までと、まったく同じである。

第四章の「ネガティブ・ケイパビリティと医療」は、日本の医療においては、ポジティブ・ケイパビリティの教育だけが問題にされてきた、そういうことでは、末期状態の患者には、手の施しようがなくなる。

「こうなるとポジティブ・ケイパビリティのみを身につけた主治医は、もう患者さんの傍にいること自体を苦痛に感じます。表立って何もしてあげられないからです。どうせ何もしてあげられないなら、病室を訪れないほうが楽です。受け持ち看護師に様子を見に行かせ、報告を聞くだけで、事はすみます。」
 
これでは、主治医といえたものではない。
そういうときに、ネガティブ・ケイパビリティの考え方を知る医者は、患者と共に耐えることができる、という。
 
でもこういうのは、どちらかといえば、医師の人間性の問題ではないかと思う。あるいは、医師の働かされ方の問題ではないかと思うが、どうか。

少なくともネガティブ・ケイパビリティを、題目として知っているかどうかは、あまり関係がないんじゃないかと思うが。

「第五章 身の上相談とネガティブ・ケイパビリティ」も、第四章と関連する。やはり患者の傍らにいて、見守っている医師の話だ。

「こうなると、祈りに近い臨床になります。祈りをかたちに出してしまうと祈禱師や宗教家と同じになるので、ひたすら胸の内で祈るのみです。」
 
そうすると、ネガティブ・ケイパビリティは、意地の悪い見方をすれば、患者のためではなく、医師の、とくに精神科医にとっての、精神的必需品といえそうである。
 
もちろん、これは患者のためである、という線を、著者は崩さない。というよりも、著者はそのことを、疑いもなく信じている。

「誰か自分の苦労を知って見ている所なら、案外苦労に耐えられます。患者さんも同じで、あなたの苦労はこの私がちゃんと知っていますという主治医がいると、耐え続けられます。」
 
そのとき、ネガティブ・ケイパビリティが役に立つ。
「いつか希望の光が射してくることを願い、患者さんに『めげないように』と声をかけ続ければいいのです。」
 
精神科医は、ネガティブ・ケイパビリティと唱えて、ただひたすら、患者に声掛けすればいい、という。ほんとうに、そんなことでいいんだろうか。

この著者にしては信じられない――『ネガティブ・ケイパビリティ―答えの出ない事態に耐える力―』(1)

これは困ったなあ、という本だ。
帚木蓬生は、作家で精神科医である。僕が読んだ数は多いが、その中でも『三たびの海峡』や『閉鎖病棟』、それに『逃亡』は、著者の徹底的にヒューマンな面が出ており、本当に素晴らしい。もちろん小説としても、第一級品だ。
 
そこでこの本だが、これは作家としてではなく、精神科医としての立場から書かれた本である。そして、精神科医としての主張があるかと言われたら、これがどうもはっきりしない。
 
もちろん「はじめに」の冒頭から、テーマは、この上なくはっきり示されている。

「ネガティブ・ケイパビリティ(negative capability 負の能力もしくは陰性能力)とは、『どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力』をさします。
 あるいは、性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力』を意味します。」
 
ところこれが、最後までこの調子なのだ。
 
第一章では、詩人キーツが、ネガティブ・ケイパビリティを、どうやって発見したかを、キーツ自身の、短くも悲しい人生を辿ることで明らかにしたい、と述べるのだが、これがそうはなっていない。
 
キーツの人生は、細かく述べられるのだが、肝心のネガティブ・ケイパビリティの方は、「はじめに」の内容を繰り返すのみ。だいたい、キーツの事細かな人生の些事なんて、どうでもいいじゃないか、と思えてしまうのだ。

「第二章 精神科医ビオンの再発見」も、似たようなものだ。イギリスの精神科医であり精神分析医であるビオンの人生は、従軍経験も含めて、細かく辿られる。患者として、サミュエル・ベケットを治療する機会も得た。メラニー・クラインによる教育分析も、8年間にわたって受けた。
 
でもそれでたとえば、次のような精神分析の言葉が、理解できるだろうか。

「お互いにこの〝頂点〟を持った人間と人間が言葉を交わすのが精神分析です。そこに起きる現象、さまざまな感情や様々(ようよう)の表現のどのひとかけらでも見逃してはなりません。それでなければ、達成の言語とは言えなくなります。
 このとき分析者が保持していなければならないのが、キーツのネガティブ・ケイパビリティだと言いきったのです。
・・・・・・
つまり、不可思議さ、神秘、疑念をそのまま持ち続け、性急な事実や理由を求めないという態度です。」

これでは、堂々巡りではないかな。
さすがにこれではまずいと思ったのか、こんな言葉も書きつける。

「ネガティブ・ケイパビリティが保持するのは、形のない、無限の、言葉ではいい表わしようのない、非存在の存在です。この状態は、記憶も欲望も理解も捨てて、初めて行き着けるのだと結論づけます。」
 
ほら、これ、何かに似ているでしょう。著者はそんなことは、全然気にしていないけど、でも禅の言葉に似ているんですね。

意外や面白い――『女子プロレスラー小畑千代―闘う女の戦後史―』(3)

「第7章 わが街、浅草」は、小畑千代が生まれた浅草について。じつは小畑は、1967年から2011年まで、佐倉輝美と一緒に、浅草でバーを経営していた。店の名前は、佐倉輝美からとり、「BAR さくら」とした。

「インディペンデントの興業をするのに、プロレスラーの若い女性を何人か抱えていたこともあり、もしプロレスができなくなっても、お店をすれば彼女たちの面倒を見ることもできる。」

小畑によれば、「バカはやり」したここを舞台に、芸者ややくざなどが入り乱れて、この章は女子プロレスとは違った意味で、そこはかとなく面白い。
 
ここで小畑は、「女の館」を建てることを、夢見ている。
「マンションを建て、不器用で生きるのが下手な女たちを住まわせる。店をやってそこでその女たちを働かせる。自分はプロレスで稼いで、女たちの駆け込み寺としても使えるようにする。」
 
これは結局、実現しなかったが、「今も小畑の胸にはさまざまな女の姿が去来する。」これを聞きだせば、ここからはまた、別の女たちの物語が始まるはずだ。

「第8章 引退はしていない」は、1970年に一度、女子プロレスのテレビ放送が終わったのだが、74年から76年まで、第二次のテレビ放映があった、その最後に、佐倉輝美が引退を決めている。
 
じつは、小畑千代も、その後はリング上で、試合をしていない。でも、引退したつもりは全然ない。

「機会があったら、リングに上がりたいと思っている。
『私は引退じゃないもの。永遠に引退はしないと思った。死ぬまで現役よ』」
 
それで小畑は、じつは今でも、毎日のようにジムに通っている。これは、浅草の三社祭の神輿を担ぎたい、というのもある。小畑は、80歳になった2016年も、神輿を担いだのだ。

「第9章 日本の女子プロレスとは何だったか」は、少し引いたところから、女子プロレスの全体像を、俯瞰してみる。
 
ジョービジネスを前面に押し出したマッハ文朱、ビューティ・ペアのジャッキー佐藤とマキ上田、このあたりからなら、僕も知っている。
 
長与千草とライオネス飛鳥のクラッシュ・ギャルズは、歌手としてもデビューしている。ダンプ松本やブル中野といった、ヒールもいた。
 
著者はその中で、例外的に長く活躍した、デビル雅美に焦点を当てる。

「筆者は、デビルのデビュー直後から引退までをリアルタイムで見続けてきたが、年齢と共にレスリングの技やリング上のふるまいの一つ一つが味わいを増し、滋味深くなった。このような女子プロレスラーの一生を見届けられて幸せだった。体力は落ちていっても、他の点で十分カバーできることを実証した。デビルは、『プロレスの意味』について『勝ち負けだけじゃなくて、試合を全部見て、おもしろい、楽しい、あの選手のああいうところがいいとか、そういうことを味わってほしい』と語っている。」
 
以上は、本書のエピソードを点描し、ごく駆け足で辿ってきたものだ。本当はもっと内容にコクがあって、しいて言えば猥雑なものである。その猥雑な土壌が、日本の女子プロレスを背負ってきた、小畑千代と佐倉輝美を、いっそう輝かせている。

(『女子プロレスラー小畑千代―闘う女の戦後史―』
 秋山訓子、岩波書店、2017年5月26日初刷)

意外や面白い――『女子プロレスラー小畑千代―闘う女の戦後史―』(2)

小畑千代が、プロレスに感じた魅力は、二つある。

「自分の体で答えが出る。女でしょう、私たちの時代には白い目で見られがちな格闘技をあえてやって、痛い思いまでしてやるんだから、一番になるまでやろう、と思ったの。女だからやりたいの。結婚して普通の主婦になるのは嫌だった。自分で答えが出したかった。」
 
つまり、痛い思いまでして、一番になるまでやろうという、プロレスそのものの魅力と、もう一つは、たかが女という見方を変えたい、女だからこそ、プロレスという職業を全うしたい、というものだ。
 
また、小畑千代の盟友とも言うべき、佐倉輝美にも一章を割いている。佐倉は1938(昭和13)年、東京の足立区に生まれた。

「初めて道場に行った日、佐倉は水着姿で練習する少女たちを見て衝撃を受けた。まだまだ女性が肌を見せるのは珍しく、『売られちゃうんじゃないかと思った』という。」
しかしそれでも、佐倉はどうしてもプロレスがやりたくて、入門してしまう。
 
このころ、小畑と佐倉がやっていたプロレスには、はっきりした主張があった。
「彼女たちのプロレスは、オーソドックスで堅実。華やかで派手な大技を次々に、という試合展開ではないが、地味でも着実な技を決めていく。そして、序破急や起承転結、流れを大事にする。」
 
だから女子プロレスを色物として見て、下品なヤジを飛ばす客とは、真っ向からやり合った。

「『もっと股を広げろ!』そうヤジを飛ばした男性客がいた。
 試合中だった小畑は、それを聞きつけると、突如動きを止めた。
 ・・・・・・
『若い子が一生懸命、汗水たらして鼻血を出してやっているのに、何が股を開けだ。ばかやろう。お前がリングに上がってこい。私がやってやるから』
 男は縮み上がり、もう何も言わない。」

小畑千代は、こんなふうにヤジを飛ばした男には、必ず向かっていった。
 
このあと韓国、沖縄、ハワイへの、遠征の秘話があり(第5章)、また後輩、千草京子の話(第6章)がある。

とくに第5章は、新聞記者としての目配りが、よく効いており、しかも結局は、新聞記者らしい佇まいを、みごとに超え出ていく。

「韓国、沖縄、ハワイ。虐げられた者の歴史がある地はまた、米軍基地があり、一九五〇年代と六〇年代、冷戦真っ只中の東西が向き合うフロントラインでもあった。
その最前線の地で小畑たちはあくまでも自由に、のびのびと闘った。そこには国や権力の思惑も渦巻いていたが、小畑らはハワイで遊び、韓国で親善をし、沖縄で興行した。」

千草京子を取り上げた、「第6章 プロレスに青春をかけて」では、文章はますます研ぎ澄まされ、躍動感に溢れてくる。

「(危険な技の)恐ろしさをも本能的に、直観した。死の淵がごく近くに、ぱっくりと口を開けて存在していることも、吸い寄せられる理由かもしれない。思春期と死には親和性がある。だからこそ女子プロレスに熱狂したのだ。千草も、筆者も、多くの少女たちも。」
 
こうなると、ペンの勢いは、というかキーボードをたたく手は、もはや止められない。

「体操競技や新体操にフィギュアスケート、柔道に空手に歌舞伎、宝塚、新劇、それもコメディとギリシャ悲劇にシェイクスピア、サーカスとシンクロナイズドスイミング、そしてもちろんアマチュアレスリング、それらすべてが合わさったようなもの・・・・・・、それが女子プロレスなのだ。」
 
うーん、恐れ入りました。

意外や面白い――『女子プロレスラー小畑千代―闘う女の戦後史―』(1)

岩波の本で、こういうジャンルは珍しい。ということで、つい手に取った。
 
著者の秋山訓子は、新聞記者だということだが、奥付の著者紹介には、その紙名がない。「新聞社で政治担当の編集委員を務める」とあるので、ネットで調べてみると、朝日新聞である。朝日と書かないのは、何か意図があるのか。ネットで調べるという、よけいなひと手間がかかって煩わしい。
 
それからもう一つ、著者には、成熟した大人の女、闘う自立した女こそが美しい、という今風の「信仰」がある。

「小畑たちはいち早く成熟した大人の女こそ美しく魅力的であることを世の中に問い、熱狂的に支持されたのだった。」
 
うーん、女子プロレスが人気があって、テレビ放映されれば高視聴率を稼げたのは、そういう理由じゃないと思うよ。成熟した大人の女の魅力ではなくて、もっと猥雑なものじゃないかと思うんだけど。
 
だいたい大人の女にだって、美しい人もいれば、そうでない人もいる。それは、二十歳そこそこの小娘にしたって、同じことだ。その「美しい人」も、十人十色、千差万別である。
 
だから女子プロレスを、東映の藤純子の『緋牡丹博徒』にひっかけて、「以後四年の間に八作が作られた。『闘う自立した美しい女』が受け入れられる素地ができていたということだろう。小畑もまた仁俠映画を愛する。それをリング上でも体現していたといっていいかもしれない」と言うに及んでは、本当にげんなりした。
 
第1章で、こういう前提が述べられているのでは、とても終わりまで読むことはできない。と思いきや、そうではなかった。

「第2章 戦後復興と共に」で、具体的な取材に入っていくと、これがなかなか面白い。そして読み進むにしたがって、ぐんぐん速度が増してくる。
 
小畑千代は1936(昭和11)年生まれ、東京・墨田区の吾妻橋の出身。しかし隅田川を挟んだ、台東区・浅草っ子と呼んだほうがよい。
 
小畑がリングにデビューしたのは1955年。じつは引退試合をしていないから、まだ正式に引退はしていない。しかし最後に、リングに上がったのは1976年で、その21年の現役時代は、日本の高度成長期とぴったり重なっている。
 
しかしそもそも、プロレスの何が、小畑千代をそれほど魅了したのだろう。

歴史というよりは冒険活劇――『昭和解体―国鉄分割・民営化30年目の真実―』

著者の牧久は昭和16年生まれ、元日本経済新聞社会部に所属、サイゴン・シンガポール特派員なども経験している。
 
最初に言っておくと、この本は、僕には、まったく面白くなかった。最初から、読みかけるのだが、すぐに眠くなる。いかん、いかん、と顔を洗って出直すが、また眠くなる。
 
しょうがないので、初めのところから、朗読に切り替えた。高次脳機能障害のリハビリ用である。四六判で500ページ余、これだけを朗読する忍耐力が身につけば、脳機能障害も、六、七割は戻ったと言えるのではないか。

という冗談はさておき、とにかく『昭和解体』はいくらなんでも、ハッタリが過ぎる。「昭和解体」ではなくて「国鉄解体」、もっといえば「組合解体」、さらに言えば「国労解体」であろう。

国鉄の分社化と民営化は、そもそも25兆円を超える借金を、清算することにあった。そして人員を整理して、経営改善をすることが目的だった。しかしそれは、オモテ向きにすぎない。

「そのウラでは、戦後GHQの民主化政策のもとで生まれた労働組合、中でも最大の『国鉄労働組合』(国労)と、同労組が中核をなす全国組織『日本労働組合総評議会』(総評)、そしてその総評を支持母体とする左派政党・社会党の解体を企図した、戦後最大級の政治経済事件でもあった。」
 
終始こういう文体で綴られるから、隔靴搔痒、もうひとつ芯に迫ってゆかない。まあ、日経新聞の文体で、全篇書き下ろされている、といったらいいですかね。
 
そもそも国労は、「親方日の丸意識」でどうにもならない、ということが前提である。
「これを打破し鉄道再生を図ろうと、井出正敬、松田昌士、葛西敬之の、『三人組』と呼ばれる若手キャリアを中心にした改革派が立ち上がり、『国鉄解体』に向けて走り出す。その奔流は、国鉄問題を政策の目玉に据えた『時の政権』中曽根康弘内閣と、『財界総理』土光敏夫率いる第二臨調の行財政改革という太い地下水脈と合流し、日本の戦後政治・経済体制を一変させる大河となった。」
 
時の権力と財界をバックに、「三人組」が立ち上がり、さしもの「国労」帝国も崩れ去った。そういう「活劇」では、本当の歴史には迫れないんじゃないか。

どうしてこういう本に手が伸びたかというと、僕はトランスビューにいるころ、菊地史彦さんの『「幸せ」の戦後史』と『「若者」の時代』という二冊を作った(正確には脳出血の発作で、『「若者」の時代』は装幀の入稿を人に任せたが、しかし『「幸せ」の戦後史』の続編というか、対になるもので、装幀の菊地信義氏は、よく分かっていたと思う)。

この『「幸せ」の戦後史』と『「若者」の時代』は、じつはもう一冊を加えて、三部作で完成させる予定なのだ。
 
それで「昭和」と名のつく本は、必然的に手が伸びる。『昭和解体』なんて、もっとも手が伸びやすいタイトルだ。だから読み終えて、ちょっとほっとしたというか、あまりにスカタンというか・・・・・・。
 
とにかくいまは、菊地史彦さんの原稿を、緊張して、じっと待っている。

(『昭和解体―国鉄分割・民営化30年目の真実―』
 牧久、講談社、2017年3月15日初刷)

出版の裏表を全部語る――『風から水へ―ある小出版社の三十五年―』(4)

はじめ「書肆風の薔薇」と名乗り、途中で「水声社」と名前を変えた、一出版社の来し方については、本文に当たられたい。小出版社のいろいろな出来事については、自分でもやってきたことで、ここで繰り返したくはない(これは、嫌だと言っているわけではないので、誤解のないように)。
 
ただここで、僕には、著者のしていることで、どうしても肯けないことがある。それは仕事をしてゆくときの仲間、スタッフの問題である。

「二〇〇四年の時点(〇三年の実績)での新刊点数は、十八点しかありませんでした。これだけの点数ではどうしようもありません。すくなくとも、倍増、三倍増くらいは必要です。・・・・・・
 新刊点数を増やすためには、スタッフを増やす必要があります。同じスタッフのままでは、新刊点数の多少の増加はありえても、倍増、三倍増は無理です。ですから、新刊点数を増やすことを第一に考えて、スタッフを増やそうと考えたわけです。」
 
こういう考え方に、僕は与しない。もちろん、いろんな考え方があっていい。しかし出版をやるのであれば、何通りもの考え方を、自分一人で選び取るわけにはいかない。たぶん最初に、ある規模の出版社を考えて、しかる後に企画を考えるというのは、ごく当たり前の考え方なのだろう。でも僕は、このやり方を取らない。

著者が企画を、溢れんばかりに持っていて、それで手が足りないというのなら分かる。そうではなくて、とにかく生産額(=定価×部数)を上げるために、人手がいるとなると、そういう出版社は、読者にとっては迷惑なだけだ。それが、文学を中心とする、ハイブラウな出版社であっても、変わりはない。
 
それにしても出版は、本当に大きな曲がり角にある。20年前、2兆6千億あった売り上げは、2017年には、1兆5千億を切りかけている。
 
もっとも、本当の危機は売り上げではなく、本の中身の問題である。しかし、これはまた別に、論じるべきものであろう。
 
著者がここで、いくつか論じている中で、目からウロコだったのは、取次の問題である。
1999年に、人文科学書を中心とする柳原書店が倒産する。2001年には、岩波を中心として、人文書の主だったところと取引のあった、鈴木書店が倒産する。そうして2015年には栗田出版販売が、2016年には太洋社が、いけなくなる。二大取次のトーハン、日販も、売り上げは最盛期の6,7割だという。
 
そこで著者は、根本的な疑問を出す。
「そもそも、再販制度に『守られて』、戦後、数十年、いわば『発展しつづけてきた』取次が、なぜ倒産するのか。出版業に特有の『返品』のリスクはすべて出版社が負うわけであり、他業種にくらべればそう多くないとはいえ、一定のマージンが入ってくるはずの取次が、たとえ売上高が年々減少し続けているとはいえ、いったいなぜ倒産しなければならないのか。」
 
うーん、これはコロンブスの卵。そういえば、マージンだけとっている取次が、出版社や書店を差し置いて、なぜまっさきに潰れるのか(とはいえ出版社も書店も、先を争うように潰れているけどね)。

「出版業界が今後とも『健全に』発展してゆくためには、倒産をなくすためには、倒産の『原因』が分からなくてはなりません。関係者が公けの場で、倒産の真の『原因』について、はっきりと発言してくれないことには、柳原書店の倒産、鈴木書店の倒産、栗田、太洋社の倒産が、業界全体の『経験』にならないのではないでしょうか。」
 
どうしてこんなことが、著者が問題にするまで、分からなかったんだろう。それとも、著者と僕が分からないだけで、みんなには分かっているんだろうか。
 
そのほか、インターネット書店などについても論じられている。また製作原価や、印税、原稿料について、さらには制作との絡みでいう人件費、在庫の考え方まで、問題にすべきことは、すべて網羅している。
 
その考え方を首肯するにせよ、疑問符をつけるにせよ、いま出版を考えるうえでは、じつに適切な書物である。

(『風から水へ―ある小出版社の三十五年―』鈴木宏、論創社、2017年6月25日初刷)

出版の裏表を全部語る――『風から水へ―ある小出版社の三十五年―』(3)

著者はその後、三人の先輩編集者に会ったことを思い出している。
弓立社を立ち上げた宮下和夫、『現代思想』『エピステーメ』などを創刊し、最後は哲学書房によった中野幹隆、『パイデイア』の竹内書店から中央公論社、メタローグに移り、最後はフリーになった安原顕の三人である。この三人を挙げるところからして、著者は、小出版社への道のりを、選んだのか、選ばれたのか・・・・・・。
 
三人のうちでは、僕は、中野幹隆さんに思い出が深い。トランスビューを創業するとき、中野さんに会って話を聞いた。中野さんは、山の上ホテルのシェ・ヌーで、昼飯をご馳走してくれた上に、こと細かにいろんな注意をして、そして最後に「言っても聞かないと思うけど、出版社をやるのは、おやめなさい」と言われたのだ。もちろん僕は聞かなかった。中野さんも、本気では言わなかった、というか諦めていたと思う。
 
著者は中野さんと、もう少し親しく接している。
「・・・・・・中野さん(だけでは無論ないのでしょうが)の姿勢、態度をできるだけ真似するように心掛けました。具体的に言えば、初めてつきあう執筆者の場合、まず、必ず会う、原稿を受け取るのも必ず会って受け取る――近年は、原稿の依頼も受け取りもeメールですませ、執筆者の顔も知らないといった編集者もいるなどということを聞きますが、論外です――」
 
中野さんは、『現代思想』や『エピステーメ』によって、また哲学書房の出版活動によって、1970年代以降の哲学・思想の出版シーンに、多大な影響を与えた人である。

「七〇年代以降、われわれをとりまく哲学・思想の「風景」は一変しました。〈構造主義革命〉が起こったわけです。・・・・・・この変化、敢えて言えば、この〈革命〉に加速度を与えた、ということはできると思います。それが中野さんの最大の功績ではないでしょうか。
 ・・・・・・中野さんが亡くなったとき、こういうことをはっきり言うひとがあまりいなかったのは、残念でした。・・・・・・中野さんの功績はいずれ正当に評価されるべきだし、されるだろうと思います。」
 
そこまで言ってもらえれば、中野さんも本望だろう。
そうして次に、創業が来る。

出版の裏表を全部語る――『風から水へ―ある小出版社の三十五年―』(2)

その後、鈴木宏さんは、国書刊行会で編集の仕事をする。その内容は、小出版社なら、みんなやっていることだ。

「著者、訳者と企画の相談をし、会社に企画書めいたものを提出し、上司と話し合い、著者、訳者に原稿を依頼し、ときどき催促する。原稿ができあがれば、赤字で指定を入れて印刷所にまわす。装幀を依頼する。校正し、校了にし、見本をチェックする。これはこれで、もちろん面白かったし、・・・・・・それはそれで『幸福』でした。」
 
本当に、こういう時期があるのだ。僕の場合は、二度目の会社がそうだった。
 
著者はここで、『世界幻想文学大系』や『ゴシック叢書』を手がけることになる。『幻想文学大系』のブック・デザインは、杉浦康平。著者が出版を志すようになってから、最初に出会ったブック・デザイナーだったという。著者はここで、もう出版の女神に魅入られているのだ。

「杉浦さんは、非常にはっきりしたポリシーをもった方で、いっさい(といっていいのかどうか分かりませんが)『妥協』ということをしない方でした。簡単に言うと、『私のプラン通りにやってください。無理なら、どなたか別の方に頼んで下さい』ということです。もちろん私は、杉浦さんの『造本』プラン通りにやりました。」

駆け出しで、「造本」と「装幀」の区別もできない、新米編集者の著者は、当代並ぶもののない、超の付く一流デザイナーに、「それと明確に認識することもなく、『猪突猛進』の精神で」、十五巻ものシリーズの「造本」を頼んだのである。

これを、ただ幸運なだけの出会いとは呼ぶまい。たとえ駆け出しであろうと、著者は杉浦さんと、十五巻もの仕事をしたのだ。著者は、杉浦さんに、編集者として選ばれたのである。
 
並行して取りかかることになった『ゴシック叢書』は、装幀を加納光於に依頼した。駆け出し編集者には、大きすぎる名前である。しかしこれも、いってみれば編集者として「コンビ」を組んで、装幀の仕事を成し遂げている。こういうことは、なんでもないことのように書かれているが、著者はこの段階で、選ばれているのである。

そして、かの『ラテンアメリカ文学叢書』に挑むことになる。

「・・・・・・六〇年代に欧米の読書界にときならぬ「ブーム」を巻き起こしたラテンアメリカの現代文学をある程度まとめて紹介しようとしたものです。その鼓直さんに編集責任者になっていただき、斎藤博士さんの翻訳によるボルヘス+ビオイ=カサーレス『ブストス=ドメックのクロニクル』を第一回配本、鼓直さんの翻訳によるカルペンテイエール『時との戦い』を第二回配本として、刊行を開始しました。」
 
この広告は、今でも鮮明によみがえってくる。僕はこの中では、コルタサル『遊戯の終わり』、マヌエル・プイグ『リタ・ヘイワースの背信』、オクタビオ・パス『弓と竪琴』、カルロス・フェンテス『聖域』、ガルシア=マルケス『ママ・グランデの葬儀〛、バルガス=リョサ『小犬たち/ボスたち』などを読んだ。
 
これは、毎月一冊刊行であったという。すべて本邦初訳で、このペースは信じられないが、しかし、これはという企画が、燦然と輝くときには、こんなことも起こりうる。著者は、大変ではあったものの(それは当然そうだろう)、紀田順一郎や荒俣宏らと企画を相談したり、訳者をお願いしたりするときは、とても楽しかったという。

『ラテンアメリカ叢書』の装幀は、中西夏之。中西は、本の装幀はできない代わりに、一冊につき一点、ドゥローイングを提供するという。

「そのドゥローイングを見返に四色で使わせていただくことにしました。全十五巻、すべて違う作品です。われながら、非常に豪華な見返だったと思います。いまなら、こういう、いわば『ぜいたく』な使い方はできません。」

こういうことができれば、もう編集者としては、もって瞑すべし、あとは余生といってもいいくらいだ。