ノーベル賞化学者の戯曲――『これはあなたのもの――1943‐ウクライナ』(3)

はじめにもちろん、上演に賭ける川島さんの情熱がある。

「自分が直接知っている誰かが、こんな経験(=ナチの時代を生き延びること)をしていたということも私には衝撃的だったが、何よりもフリーダ(=主人公の母親)という女主人公に魅せられてしまった。英雄だった夫を『絶対に許さない』と言ってはばからない女性。ウクライナ人すべてを『ひとごろし』とののしり、同時にウクライナ人の乳母を慕いつづける。誰にも媚びず、強く、激しく、心の熱い女性。そして、小さな子供を守って生き抜いた母親。
 この戯曲を舞台化したい。日本でこれを見たい。生きたフリーダが目の前で動くのを見たい。」
 
しかし、そもそも川島慶子先生は、名古屋工業大学で科学史を教える、れっきとした社会科学の教授である。そういう人が、ヨーロッパからアメリカに渡ったノーベル賞科学者の、ナチの時代の自伝が素晴らしいからといって、それを新国立劇場で、しかも八千草薫や吉田栄作といった配役で、上演できるものだろうか。
 
詳しいことはよくわからないが、まず最初に、勤務先の名古屋工業大学の鵜飼裕之学長が、この劇に興味をもった。大学の創立111周年記念行事として、上演したいというのである。
 
そしてもう一つは、日本を代表する演出家の一人、鵜山仁氏がこれを上演したいと言ったという。
 
時をおかず、続けて上演の話が来たので、このときはさすがに、川島先生も舞い上がったらしい。
しかし、川島先生は、そもそも上演については、大丈夫だと思っていたのだった。

「心の底では私は心配していなかった。私の後ろにいるフリーダが『絶対大丈夫』とささやきかけていた。何の根拠もなかったが、私は楽天的だった。あとでホフマンに『クレイジー』と言われたが、本当にそう感じていたのだ。」
 
川島さんの後ろにいて、「絶対大丈夫」とささやきかけるフリーダを、メタファーととってはいけない。
 
川島さんは『マリー・キュリーの挑戦』の「あとがき」に書いている。私はずっと「二つの黒い瞳に見張られているような気がしていました。」
この瞳の持ち主は、アンネ・フランクである。私ははじめ、これを比喩と取った。

だから、ホフマン先生の戯曲も、いくらなんでも、これは無理でしょう、と思ったのである。でも、後ろにいるフリーダは、現実に「絶対大丈夫」と、後押ししてくれた。

私は、先生に近いところにいながら、ぜんぜんわかっていなかったのである。

(『これはあなたのもの――1943‐ウクライナ』
 ロアルド・ホフマン、訳・川島慶子、アートデイズ、2017年6月1日初刷)