まだ新婚の頃、高橋順子は、第二回ヴァルドマルヌ国際詩人ヴィエンナーレに参加するために、十日余り、ヨーロッパに滞在したことがある。帰国してみると、夫から妻宛てに、自宅に、葉書が来ていた。
「『ああ、順子。/ああ、順子さん。/私はいまこの古家の中の、あなたが/いない静寂の中で、/木枯しの音を聞いています。/長吉。』
『あれっ』と言うと、長吉は照れたような顔をしていた。さみしくて、私に葉書を書いたのだが、パリではなく、自宅宛てに投函したのだ。いない私、私の魂に。」
夫の手紙は、妻の魂に届いたのだ。二人で暮らしてゆくことに、これ以上、何を付け加えることがあろうか。
車谷長吉の話は、誇張が多い。ある人は、五割引きで聞いているというし、またある人は「拡大コピー」と言った。
「私はそれに斜体がかかっていると思う。仕事の面で注意されたこともあるそうだ。呆れるよりも、心配になる。」
でも妻は、怒りはしない。そこが大事な点だ。
また、こんな文章もある。
「三月六日、長吉の慶応義塾時代の友人たちと大磯で会食。・・・・・・近くの寺の境内は梅の花が満開でたくさんの目白を隠しており、楽しかった。」
別に夫婦のもつれを、綴った文章ではない。何ということのない一文だが、「たくさんの目白を隠しており、」というところが、忘れがたい。
そうかと思えば、こんな文章もある。
「私が友人の朗読会に行こうとすると、『朗読会なんて行く必要はない。お義理なんだろう。義理とお義理はちがう。』」
朗読会の内容はともかく、義理とお義理はたしかにちがう。
しかし新婚生活には、またたくまに狂気が忍び寄ってくる。
「電話のベルが鳴って、私があわててスリッパを履かずに廊下の電話機のほうへ走って行ったりすると、居間に戻る前に靴下を取り替えるように言われる。廊下の付喪神が私の足裏に付いてしまったというのだ。『あなたが歩いて汚したところを二時間かけてぜんぶ拭きなおさなければならない』と言われて、『ごめんね』と私が言うと、涙ぐんだ。」
これはもう、どうしようもないことだ。「赤目四十八瀧心中未遂」の、完成するかしないかわからない、途上なのだから。
「結婚して二年と四ヵ月だった。この結婚は呪われたものになった。」
でも別れることは、妻も夫も、絶対に口にはしなかった。
手触りのある追悼――『夫・車谷長吉』(1)
女が、男とのなれそめから、中年を過ぎて一緒に暮らし、ついには先に逝った男を、かぎりなく追悼する。
初めは、詩人の高橋順子が、車谷長吉から、彼女の詩について、絵手紙をもらった。それは、尋常の手紙ではなかった。
「手渡された絵手紙には青い空っぽのガラス壜が描かれてい、妖気といったらいいか、怨念といったらいいか、ただならぬ気配のたちこめる肉太の字で、余白がびっしり埋められていた。」
つまり最初から、男と女は、ぴったり息が合っていた。もちろん当人同士は、そんなことは知る由もないが。
けれども、絵手紙を受け取った女が、「妖気といったらいいか、怨念といったらいいか、ただならぬ気配のたちこめる肉太の字で」と記すところが、もう歯車が回っている。ふつうは、そんな手紙は、薄気味悪く、打っちゃって置くところだ。でも、そうはならなかった。
「返事を書けるような内容ではなかった。独り言だった。この孤独な人は私の中にも孤独を認めたのだ、ということだけが分かった。友人たちに囲まれていたとはいえ、独り者の私にはさみしい詩が多かったのだ。」
返事を出せる内容ではないにもかかわらず、車谷長吉の絵手紙は続いた。その三通目に、「今夜は牛の屍体を喰うた」とあった。
「すき焼きかビーフステーキを『牛の屍体』という人はどんな人か。また返事は書かなかった。」
まだ二人は、対話を始めていない。にもかかわらず、どうです、この息の合い方は。
二人は結婚するが、その過程も、詩人のナマの言葉で綴られていて、ほんとになんとも言えない。
結婚したのは、高橋順子が四十九で、車谷長吉が四十八、ともに初婚とはいえ、どちらも生活の流儀ができていた。
「相手のすること、なすこと、期待どおりには動いてくれず、お互いに戸惑うばかりで、なにか息苦しかった。」
そんな新婚のときでも、高橋順子は、見るべきものは見ている。
「前田さんから結婚祝いとして、銅版画の額をいただいたそうだが、それは作家が脂汗を流して原稿を書いている図だった。長吉は私はこれを見ているとつらい、と言ってお返ししたのだそうだが、こういうふうに人さまの厚意に平気で注文をつけることがある人だった。」
しかし、長吉が人様に平気で注文を付けるのは、傍若無人とは違う、と僕は思う。そして高橋順子も、ここには書いていないけど、そのことは分かっていたと思う。
初めは、詩人の高橋順子が、車谷長吉から、彼女の詩について、絵手紙をもらった。それは、尋常の手紙ではなかった。
「手渡された絵手紙には青い空っぽのガラス壜が描かれてい、妖気といったらいいか、怨念といったらいいか、ただならぬ気配のたちこめる肉太の字で、余白がびっしり埋められていた。」
つまり最初から、男と女は、ぴったり息が合っていた。もちろん当人同士は、そんなことは知る由もないが。
けれども、絵手紙を受け取った女が、「妖気といったらいいか、怨念といったらいいか、ただならぬ気配のたちこめる肉太の字で」と記すところが、もう歯車が回っている。ふつうは、そんな手紙は、薄気味悪く、打っちゃって置くところだ。でも、そうはならなかった。
「返事を書けるような内容ではなかった。独り言だった。この孤独な人は私の中にも孤独を認めたのだ、ということだけが分かった。友人たちに囲まれていたとはいえ、独り者の私にはさみしい詩が多かったのだ。」
返事を出せる内容ではないにもかかわらず、車谷長吉の絵手紙は続いた。その三通目に、「今夜は牛の屍体を喰うた」とあった。
「すき焼きかビーフステーキを『牛の屍体』という人はどんな人か。また返事は書かなかった。」
まだ二人は、対話を始めていない。にもかかわらず、どうです、この息の合い方は。
二人は結婚するが、その過程も、詩人のナマの言葉で綴られていて、ほんとになんとも言えない。
結婚したのは、高橋順子が四十九で、車谷長吉が四十八、ともに初婚とはいえ、どちらも生活の流儀ができていた。
「相手のすること、なすこと、期待どおりには動いてくれず、お互いに戸惑うばかりで、なにか息苦しかった。」
そんな新婚のときでも、高橋順子は、見るべきものは見ている。
「前田さんから結婚祝いとして、銅版画の額をいただいたそうだが、それは作家が脂汗を流して原稿を書いている図だった。長吉は私はこれを見ているとつらい、と言ってお返ししたのだそうだが、こういうふうに人さまの厚意に平気で注文をつけることがある人だった。」
しかし、長吉が人様に平気で注文を付けるのは、傍若無人とは違う、と僕は思う。そして高橋順子も、ここには書いていないけど、そのことは分かっていたと思う。
圧倒的だ・・・でも――『騎士団長殺し――第2部 遷ろうメタファー編』(3)
腑に落ちない最大の問題は、二つある。
まず、雨田具彦が巻き込まれたという、ナチの高官暗殺未遂事件。これは結局、どうなったのだろう。公式的には、まったく記録が残っていない事件は、しかし明らかに、この作品の背骨を形作っている。
「とすれば、彼の絵『騎士団長殺し』の中に描かれている「騎士団長」とはナチの高官のことだったのかもしれない。あの絵は一九三八年のウィーンで起こるべきであった(しかし実際には起こらなかった)暗殺事件を仮想的に描写したものなのかもしれない。事件には雨田具彦とその恋人が関連している。その計画は当局に露見し、その結果二人は離ればなれになり、たぶん彼女は殺されてしまった。彼は日本に帰ってきてから、そのウィーンでの痛切な体験を、日本画のより象徴的な画面に移し替えたのだ。つまりそれを千年以上昔の飛鳥時代の情景に「翻案」したわけだ。」
この「騎士団長殺し」が描かれた由来を説明しているのは、上巻である。それが下巻では、より解き明かされているのか。
もちろん、伊豆の老人ホームで、雨田具彦が見ている前で、「私」は「騎士団長」を殺害する。それは本当に、クライマックスの頂点だ。
でも、その関係は、言葉では説明されていない。だから、象徴的な方法でもって、謎の余韻を残して、本を閉じた後も、そこから逃れられないんじゃないか、そこが素晴らしいんじゃないか、という意見もあるだろう。でも僕は、それでは納得できない。
腑に落ちないもう一つの問題は、「私」が地下のメタファーの国を、あてどなく旅しているとき、「秋川まりえ」は「免色」の屋敷に、忍び込んでいたことだ。
「私」は「秋川まりえ」を奪還すべく、果敢に「騎士団長」を殺し、地下帝国の旅に出たのではないのか。
しかし、もし「秋川まりえ」を救うことが目的であるなら、伊豆まで行って、雨田具彦の眼前で、「騎士団長」の格好をしたイデアを殺さなくとも、自分のうちから山一つ越えた「免色」邸を、家探しすればよかったではないか。
まして「秋川まりえ」は、ひょっとすると「免色」の実の娘かもしれないのだから、これは進む方向によっては、喜劇になる可能性も大いにある。
つまり、いろいろと謎に満ちた話は、お話としては面白いけれど、それはそれだけのことだとも言える。
まあ結局は、謎が残るかたちになるから、この作家を読み続けるわけだけれど、でも考えてみれば、これはちょっとおかしなことでもある。
(『騎士団長殺し――第2部 遷ろうメタファー編』
村上春樹、新潮社、2017年2月25日初刷)
まず、雨田具彦が巻き込まれたという、ナチの高官暗殺未遂事件。これは結局、どうなったのだろう。公式的には、まったく記録が残っていない事件は、しかし明らかに、この作品の背骨を形作っている。
「とすれば、彼の絵『騎士団長殺し』の中に描かれている「騎士団長」とはナチの高官のことだったのかもしれない。あの絵は一九三八年のウィーンで起こるべきであった(しかし実際には起こらなかった)暗殺事件を仮想的に描写したものなのかもしれない。事件には雨田具彦とその恋人が関連している。その計画は当局に露見し、その結果二人は離ればなれになり、たぶん彼女は殺されてしまった。彼は日本に帰ってきてから、そのウィーンでの痛切な体験を、日本画のより象徴的な画面に移し替えたのだ。つまりそれを千年以上昔の飛鳥時代の情景に「翻案」したわけだ。」
この「騎士団長殺し」が描かれた由来を説明しているのは、上巻である。それが下巻では、より解き明かされているのか。
もちろん、伊豆の老人ホームで、雨田具彦が見ている前で、「私」は「騎士団長」を殺害する。それは本当に、クライマックスの頂点だ。
でも、その関係は、言葉では説明されていない。だから、象徴的な方法でもって、謎の余韻を残して、本を閉じた後も、そこから逃れられないんじゃないか、そこが素晴らしいんじゃないか、という意見もあるだろう。でも僕は、それでは納得できない。
腑に落ちないもう一つの問題は、「私」が地下のメタファーの国を、あてどなく旅しているとき、「秋川まりえ」は「免色」の屋敷に、忍び込んでいたことだ。
「私」は「秋川まりえ」を奪還すべく、果敢に「騎士団長」を殺し、地下帝国の旅に出たのではないのか。
しかし、もし「秋川まりえ」を救うことが目的であるなら、伊豆まで行って、雨田具彦の眼前で、「騎士団長」の格好をしたイデアを殺さなくとも、自分のうちから山一つ越えた「免色」邸を、家探しすればよかったではないか。
まして「秋川まりえ」は、ひょっとすると「免色」の実の娘かもしれないのだから、これは進む方向によっては、喜劇になる可能性も大いにある。
つまり、いろいろと謎に満ちた話は、お話としては面白いけれど、それはそれだけのことだとも言える。
まあ結局は、謎が残るかたちになるから、この作家を読み続けるわけだけれど、でも考えてみれば、これはちょっとおかしなことでもある。
(『騎士団長殺し――第2部 遷ろうメタファー編』
村上春樹、新潮社、2017年2月25日初刷)
圧倒的だ・・・でも――『騎士団長殺し――第2部 遷ろうメタファー編』(2)
この地下につづく土地には、「メタファー」が住んでいる。
「顔なが」と「私」の会話。
「『おまえはいったい何ものなのだ? やはりイデアの一種なのか?』
『いいえ、わたくしどもはイデアなぞではありません。ただのメタファーであります』
『メタファー?』
『そうです。ただのつつましい暗喩であります。ものとものとをつなげるだけのものであります。ですからなんとか許しておくれ』」
ここから、クライマックスは最高潮に達する。「ただのつつましい暗喩」が喋るなんて。しかも変な言葉で、「ですからなんとか許しておくれ」というような言葉を使って、会話するなんて。
ちなみに「私」は、メタファーの住む地下に、「秋川まりえ」を探すために、後戻りのできない冒険に出かけているのだ。
この地下王国をさまよう「私」の叙述は、本当に見事なものだ。ここからの描写は、叙景ではない。それなら心象風景? いいや、違う。すべては、言ってみれば、メタファーなのだ。
ここに、プロローグに登場した、〈顔のない男〉が出てくる。
また『騎士団長殺し』の絵から抜け出した、身長六〇センチほどのドンナ・アンナが出てくる。
そうかと思えば、十二歳で死んだ、「私」の妹の「コミ」も出てくる。
そうして伊豆の老人ホームから始まった、地下の世界の旅は、ついに山中の屋敷の裏手にある、秘密の穴で大団円を迎える。
このとき、「秋川まりえ」は、「免色」の屋敷に忍び込み、隙をついて必死で出てきたのだ。
こうして「私」と「秋川まりえ」は、無事に、ではないけれど、再開を果たす。お互いが、自分の冒険を話すところは、なんというか、心が温かくなる。
クライマックスがあって、大団円を迎えるところは、連綿と続く最高峰の古典文学が描くのと、共通の世界だ。
でも、すべてを読み終わってみると、どうしても腑に落ちないところが残る。
「顔なが」と「私」の会話。
「『おまえはいったい何ものなのだ? やはりイデアの一種なのか?』
『いいえ、わたくしどもはイデアなぞではありません。ただのメタファーであります』
『メタファー?』
『そうです。ただのつつましい暗喩であります。ものとものとをつなげるだけのものであります。ですからなんとか許しておくれ』」
ここから、クライマックスは最高潮に達する。「ただのつつましい暗喩」が喋るなんて。しかも変な言葉で、「ですからなんとか許しておくれ」というような言葉を使って、会話するなんて。
ちなみに「私」は、メタファーの住む地下に、「秋川まりえ」を探すために、後戻りのできない冒険に出かけているのだ。
この地下王国をさまよう「私」の叙述は、本当に見事なものだ。ここからの描写は、叙景ではない。それなら心象風景? いいや、違う。すべては、言ってみれば、メタファーなのだ。
ここに、プロローグに登場した、〈顔のない男〉が出てくる。
また『騎士団長殺し』の絵から抜け出した、身長六〇センチほどのドンナ・アンナが出てくる。
そうかと思えば、十二歳で死んだ、「私」の妹の「コミ」も出てくる。
そうして伊豆の老人ホームから始まった、地下の世界の旅は、ついに山中の屋敷の裏手にある、秘密の穴で大団円を迎える。
このとき、「秋川まりえ」は、「免色」の屋敷に忍び込み、隙をついて必死で出てきたのだ。
こうして「私」と「秋川まりえ」は、無事に、ではないけれど、再開を果たす。お互いが、自分の冒険を話すところは、なんというか、心が温かくなる。
クライマックスがあって、大団円を迎えるところは、連綿と続く最高峰の古典文学が描くのと、共通の世界だ。
でも、すべてを読み終わってみると、どうしても腑に落ちないところが残る。
圧倒的だ・・・でも――『騎士団長殺し――第2部 遷ろうメタファー編』(1)
それは、下巻の三分の二くらいのところで、突如、景色が一変することによって始まる。
伊豆にある老人ホームに、雨田具彦を、その息子の雨田政彦と一緒に尋ねるところから、幕が開く。
章の見出しは、ストレートに、「今が時だ」。それは、こんなふうに始まる。
「『簡単なことだ。あたしを殺せばよろしい』と騎士団長は言った。」
『あなたを殺す?』と私は言った。
『あの『騎士団長殺し』の画面にならって、諸君があたしをあやめればよろしい』」
騎士団長の衣装をまとったイデアは、二人称単数の人を指して「諸君」と呼びかける。
もちろん下巻でも、それまで『私』は、ひたすら時間を味方につけることを言いつのる。
「『そういう日もある』と私は言った。『時間が奪っていくものもあれば、時間が与えてくれるものもある。時間を味方につけることが大事な仕事になる』」
そうなのだ。とにかく時間を味方につけること。そうすれば『私』には、退屈している暇はなかったはずだ。具体的にはこういうことだ。
「初夏にここに越してきて、ほどなく免色と知り合い、彼と一緒に祠の裏手の穴を暴き、それから騎士団長が姿を現し、やがて秋川まりえと叔母の秋川笙子が私の生活に入り込んできた。そして性的にたっぷり熟した人妻のガールフレンドが私を慰めてくれた。雨田具彦の生き霊だって訪ねてきた。退屈している暇はなかったはずだ。」
でも「私」と違って、この本を読んでいる僕は、ときどき退屈だった。下巻の三分の二まで来て、もう耐えられないとなったとき、そのとき突然、奔流がやってきたのだ。
『騎士団長殺し』の絵にならって、嫌がる「私」に手をかけさせ、騎士団長の姿をしたイデアは、自分を殺させた。そして「私」は、騎士団長を殺すことによって、さらに次のシーンを得たのだ。
「そこに出現しているのは、雨田具彦が『騎士団長殺し』の左下の隅に描いたのと同じ光景だった。『顔なが』は部屋の隅に開いた穴からぬっと顔を突き出し、四角い蓋を片手で押し上げながら、部屋の様子をひそかにうかがっていた。」
この部屋の隅に開いた、地下のように続く穴から、「私」の、後戻りできない冒険が始まる。
伊豆にある老人ホームに、雨田具彦を、その息子の雨田政彦と一緒に尋ねるところから、幕が開く。
章の見出しは、ストレートに、「今が時だ」。それは、こんなふうに始まる。
「『簡単なことだ。あたしを殺せばよろしい』と騎士団長は言った。」
『あなたを殺す?』と私は言った。
『あの『騎士団長殺し』の画面にならって、諸君があたしをあやめればよろしい』」
騎士団長の衣装をまとったイデアは、二人称単数の人を指して「諸君」と呼びかける。
もちろん下巻でも、それまで『私』は、ひたすら時間を味方につけることを言いつのる。
「『そういう日もある』と私は言った。『時間が奪っていくものもあれば、時間が与えてくれるものもある。時間を味方につけることが大事な仕事になる』」
そうなのだ。とにかく時間を味方につけること。そうすれば『私』には、退屈している暇はなかったはずだ。具体的にはこういうことだ。
「初夏にここに越してきて、ほどなく免色と知り合い、彼と一緒に祠の裏手の穴を暴き、それから騎士団長が姿を現し、やがて秋川まりえと叔母の秋川笙子が私の生活に入り込んできた。そして性的にたっぷり熟した人妻のガールフレンドが私を慰めてくれた。雨田具彦の生き霊だって訪ねてきた。退屈している暇はなかったはずだ。」
でも「私」と違って、この本を読んでいる僕は、ときどき退屈だった。下巻の三分の二まで来て、もう耐えられないとなったとき、そのとき突然、奔流がやってきたのだ。
『騎士団長殺し』の絵にならって、嫌がる「私」に手をかけさせ、騎士団長の姿をしたイデアは、自分を殺させた。そして「私」は、騎士団長を殺すことによって、さらに次のシーンを得たのだ。
「そこに出現しているのは、雨田具彦が『騎士団長殺し』の左下の隅に描いたのと同じ光景だった。『顔なが』は部屋の隅に開いた穴からぬっと顔を突き出し、四角い蓋を片手で押し上げながら、部屋の様子をひそかにうかがっていた。」
この部屋の隅に開いた、地下のように続く穴から、「私」の、後戻りできない冒険が始まる。
面白い、でもときどき退屈、だが・・・――『騎士団長殺し――第1部 顕れるイデア編』(3)
同じように、雨田具彦の絵もまた、洋画から日本画へと、劇的に展開、変容した。洋画の時代には、雨田具彦は、高い評価は受けていたにせよ、「しかしそこには何かが欠けていた。」
つまり「私」とおなじく、強く心を揺さぶるものがなかったのだ。しかし、ドイツに留学して帰ってくると、作風は驚くべきことに、一変していた。洋画から、日本画に変わっていたのだ。
「そこには洋画時代の『何かが欠けている』という印象はもう見受けられなかった。彼は『転向』したというよりは、むしろ『昇華』したのだ。」
そのドイツ留学こそは、戦時中のことであり、そして政府高官の暗殺未遂に関わる、もっとも大きな謎だったのだ。
この作品の中にはまた、「私」の絵を自己批評すると見せて、じつはこの作品の批評と見紛うような文言が、散りばめられている。
「しかるべき時間の経過がおそらく私に、それが何であるかを教えてくれるはずだ。それを待たなくてはならない。電話のベルが鳴るのを辛抱強く待つように。そして辛抱強く待つためには、私は時間というものを信用しなくてはならない。時間が私の側についていてくれることを信じなくてはならない。」
だから僕も、ひたすらこの本を読んで、なんとか村上春樹と同じ時間感覚を、身につけようとするのだが、これが難しい。
たとえば、「私」と「免色」は、車の話をする。それも高級車について、延々と言葉をやり取りする。こういうのは面白いんだろうか。
あるいは、「私」が「免色」の家に招待され、酒や食べ物について、またひとしきりウンチクめいた話がある。こういうのは、村上春樹の文章だから、我慢して読みもするけれど、でもたいがいにしてほしい。
だいたい、この「免色」との話が、あまり面白くない。「免色」と話している「私」は、三十半ばとは思えないくらい、老成している。というか、五十半ばの「免色」が、どんな話をしても、「私」はとまどったり、びびったりしない。これ、おかしいでしょう。
それに舞台も、おおむね山の中の屋敷で、いつもの、快調に舞台が変わっていく感じがない。そういえば、今回は「僕」ではなくて、「私」という、いってみれば、ちょっと落ち着いた、見ようによっては、ちょっと気取りのある一人称だし。
そこで、いささかげんなりしながら、上巻を読み終えて、下巻に入ったのだが、下巻に入ってしばらくして、僕は、大げさに言えば、雷に打たれたように、覚醒した。そうか、村上春樹は、こういう流れをもくろんでいたのか。
(『騎士団長殺し――第1部 顕れるイデア編』
村上春樹、新潮社、2017年2月25日初刷)
つまり「私」とおなじく、強く心を揺さぶるものがなかったのだ。しかし、ドイツに留学して帰ってくると、作風は驚くべきことに、一変していた。洋画から、日本画に変わっていたのだ。
「そこには洋画時代の『何かが欠けている』という印象はもう見受けられなかった。彼は『転向』したというよりは、むしろ『昇華』したのだ。」
そのドイツ留学こそは、戦時中のことであり、そして政府高官の暗殺未遂に関わる、もっとも大きな謎だったのだ。
この作品の中にはまた、「私」の絵を自己批評すると見せて、じつはこの作品の批評と見紛うような文言が、散りばめられている。
「しかるべき時間の経過がおそらく私に、それが何であるかを教えてくれるはずだ。それを待たなくてはならない。電話のベルが鳴るのを辛抱強く待つように。そして辛抱強く待つためには、私は時間というものを信用しなくてはならない。時間が私の側についていてくれることを信じなくてはならない。」
だから僕も、ひたすらこの本を読んで、なんとか村上春樹と同じ時間感覚を、身につけようとするのだが、これが難しい。
たとえば、「私」と「免色」は、車の話をする。それも高級車について、延々と言葉をやり取りする。こういうのは面白いんだろうか。
あるいは、「私」が「免色」の家に招待され、酒や食べ物について、またひとしきりウンチクめいた話がある。こういうのは、村上春樹の文章だから、我慢して読みもするけれど、でもたいがいにしてほしい。
だいたい、この「免色」との話が、あまり面白くない。「免色」と話している「私」は、三十半ばとは思えないくらい、老成している。というか、五十半ばの「免色」が、どんな話をしても、「私」はとまどったり、びびったりしない。これ、おかしいでしょう。
それに舞台も、おおむね山の中の屋敷で、いつもの、快調に舞台が変わっていく感じがない。そういえば、今回は「僕」ではなくて、「私」という、いってみれば、ちょっと落ち着いた、見ようによっては、ちょっと気取りのある一人称だし。
そこで、いささかげんなりしながら、上巻を読み終えて、下巻に入ったのだが、下巻に入ってしばらくして、僕は、大げさに言えば、雷に打たれたように、覚醒した。そうか、村上春樹は、こういう流れをもくろんでいたのか。
(『騎士団長殺し――第1部 顕れるイデア編』
村上春樹、新潮社、2017年2月25日初刷)
面白い、でもときどき退屈、だが・・・――『騎士団長殺し――第1部 顕れるイデア編』(2)
その前に、いくつかの魅力的なところを見ておこう。
「私」が肖像画を描くために、担当エージェントがいるのだが、その彼が、「私」に言った言葉。
「『あなたはものごとを納得するのに、普通の人より時間がかかるタイプのようです。でも長い目で見れば、たぶん時間はあなたの側についてくれます』
ローリング・ストーンズの古い歌のタイトルみたいだ、と私は思った。」
旨いですね。「ローリング・ストーンズの古い歌」と、まあいってみれば流して行き、深刻に考え込ませないところが、絶妙です。
そのちょっと後、担当エージェントと「私」の、会話の続き。
「『でも肖像画を描き続けるのは、今のところぼくのやりたいことじゃないんです』
『それもよくわかっています。でもその能力はいつかまたあなたをたすけてくれるはずです。うまくいくといいですね』
うまくいくといい、と私も思った。時間が私の側についてくれるといい。」
これは、主人公の祈りであると同時に、村上春樹の、かなり自信をもった、祈りでもあるだろう。
つぎは『騎士団長殺し』という絵を、発見するところ。これによって、まわりは一変する。
「私が『騎士団長殺し』というタイトルのついた雨田具彦の絵を発見したのは、そこに越して数ヶ月経った頃のことだった。そしてそのときには知るべくもなかったが、その一枚の絵が私のまわりの状況をそっくり一変させてしまうことになった。」
これは、それまでの延々続く箇所がないと、ギアを一段吹かしたことが、わかりにくいかもしれない。でも、勘のいい人には、わかるはずだ。
「私」が性行しているところとか、人妻が性器を口に含んでいるところとかを、スケッチしてあげると、女は顔を赤らめながら喜ぶ。でも「私」が本当に描きたい絵は、そういうものではないし、また学生時代に盛んに描いた「抽象画」でもない。
「今の時点から振り返ってみれば、私がかつて夢中になって描いていた作品は、要するに『フォルムの追求』に過ぎなかったようだ。青年時代の私は、フォルムの形式美やバランスみたいなものに強く惹きつけられていた。それはそれでもちろん悪くない。しかし私の場合、その先にあるべき魂の深みにまでは手が届いていなかった。そのことが今ではよくわかった。私が当時手に入れることができたのは、比較的浅いところにある造形の面白みに過ぎなかった。強く心を揺さぶられるようなものは見当たらない。そこにあるのは、良く言ってせいぜい『才気』に過ぎなかった。」
もちろん村上春樹は、私小説家ではない。だから「私」と作者とを、重ねて読む必要はないのだが、それでもここは、全部を読んだ後で、どうしても、少し重ねて読みたくなる。
「私」が肖像画を描くために、担当エージェントがいるのだが、その彼が、「私」に言った言葉。
「『あなたはものごとを納得するのに、普通の人より時間がかかるタイプのようです。でも長い目で見れば、たぶん時間はあなたの側についてくれます』
ローリング・ストーンズの古い歌のタイトルみたいだ、と私は思った。」
旨いですね。「ローリング・ストーンズの古い歌」と、まあいってみれば流して行き、深刻に考え込ませないところが、絶妙です。
そのちょっと後、担当エージェントと「私」の、会話の続き。
「『でも肖像画を描き続けるのは、今のところぼくのやりたいことじゃないんです』
『それもよくわかっています。でもその能力はいつかまたあなたをたすけてくれるはずです。うまくいくといいですね』
うまくいくといい、と私も思った。時間が私の側についてくれるといい。」
これは、主人公の祈りであると同時に、村上春樹の、かなり自信をもった、祈りでもあるだろう。
つぎは『騎士団長殺し』という絵を、発見するところ。これによって、まわりは一変する。
「私が『騎士団長殺し』というタイトルのついた雨田具彦の絵を発見したのは、そこに越して数ヶ月経った頃のことだった。そしてそのときには知るべくもなかったが、その一枚の絵が私のまわりの状況をそっくり一変させてしまうことになった。」
これは、それまでの延々続く箇所がないと、ギアを一段吹かしたことが、わかりにくいかもしれない。でも、勘のいい人には、わかるはずだ。
「私」が性行しているところとか、人妻が性器を口に含んでいるところとかを、スケッチしてあげると、女は顔を赤らめながら喜ぶ。でも「私」が本当に描きたい絵は、そういうものではないし、また学生時代に盛んに描いた「抽象画」でもない。
「今の時点から振り返ってみれば、私がかつて夢中になって描いていた作品は、要するに『フォルムの追求』に過ぎなかったようだ。青年時代の私は、フォルムの形式美やバランスみたいなものに強く惹きつけられていた。それはそれでもちろん悪くない。しかし私の場合、その先にあるべき魂の深みにまでは手が届いていなかった。そのことが今ではよくわかった。私が当時手に入れることができたのは、比較的浅いところにある造形の面白みに過ぎなかった。強く心を揺さぶられるようなものは見当たらない。そこにあるのは、良く言ってせいぜい『才気』に過ぎなかった。」
もちろん村上春樹は、私小説家ではない。だから「私」と作者とを、重ねて読む必要はないのだが、それでもここは、全部を読んだ後で、どうしても、少し重ねて読みたくなる。
面白い、でもときどき退屈、だが・・・――『騎士団長殺し――第1部 顕れるイデア編』(1)
大長編である。でも村上春樹にしてみたら、いつもの通りなのかもしれない。
今回は、ちょっと変則かもしれないが、全二巻のうち、まず「第1部 顕れるイデア編」を取り上げる。上巻だけの書評である。
まず「プロローグ」があって、「顔のない男」が「私」の前に現われ、肖像を書いてくれという。これは、クライマックスの先取りというやつで、映画などでよく使われる手だ。こうすると、ここまでは、とにかく読まねばなるまいという気になる(なりませんか)。
ここで大事なのは、末尾の部分だ。
「私は時間を味方につけなくてはならない。」
これはすごく大事なことだが、しかしどの点で大事かというと、それはちょっとわからない。しかしとにかく、非常に大事なことであることはわかる。
「私」は三十半ばすぎの画家で、それも職人的な肖像画家である。
一方的に妻から別れようと言われて、それを無理やり受け入れるために、「私」は北日本を長く旅行した。
旅から帰ってくると、友だちの父の画家が養老院へ入ることになったので、無人になった別荘を借りて住んでいる。そこは山の中で、山一つ越えたところに「免色渉(メンシキワタル)」という、謎の富豪が住んでいる。この富豪は、五十代半ば過ぎである。
この家で「私」は、つぎつぎに不思議な経験をする。いまは養老院にいる画家が、「騎士団長殺し」という傑作を、こっそり描いていたり、そこから、とりあえず騎士団長の装束をまとった、「イデア」が出てきたりして、混乱の謎に陥る。
「イデア」はまた、騎士団長の装束をまとったまま、「騎士団長以外の何ものでもあらない」というような、奇妙な言葉遣いをする。「何ものでもない」というのを、「何ものでもあらない」というふうに、一度肯定型を入れてから、否定形にするのである。
「免色」はまた、山一つ越えたところにいる「秋川まりえ」を毎日、双眼鏡で見ている。ひょっとすると、「秋川まりえ」は、「免色」の実の娘かもしれないのだ。
謎は謎を呼んで、これ以上はないくらい大きくなり、でも、村上春樹は全部の謎は解かないだろうな、というか、謎解き小説ではないから、謎は謎を呼んで、終わりまで行くだろうな、と思わせる。そして、その謎は、どれも魅力に満ちているのだ。
しかし問題は、謎には関わらない部分が、なんというか、退屈であることだ。
今回は、ちょっと変則かもしれないが、全二巻のうち、まず「第1部 顕れるイデア編」を取り上げる。上巻だけの書評である。
まず「プロローグ」があって、「顔のない男」が「私」の前に現われ、肖像を書いてくれという。これは、クライマックスの先取りというやつで、映画などでよく使われる手だ。こうすると、ここまでは、とにかく読まねばなるまいという気になる(なりませんか)。
ここで大事なのは、末尾の部分だ。
「私は時間を味方につけなくてはならない。」
これはすごく大事なことだが、しかしどの点で大事かというと、それはちょっとわからない。しかしとにかく、非常に大事なことであることはわかる。
「私」は三十半ばすぎの画家で、それも職人的な肖像画家である。
一方的に妻から別れようと言われて、それを無理やり受け入れるために、「私」は北日本を長く旅行した。
旅から帰ってくると、友だちの父の画家が養老院へ入ることになったので、無人になった別荘を借りて住んでいる。そこは山の中で、山一つ越えたところに「免色渉(メンシキワタル)」という、謎の富豪が住んでいる。この富豪は、五十代半ば過ぎである。
この家で「私」は、つぎつぎに不思議な経験をする。いまは養老院にいる画家が、「騎士団長殺し」という傑作を、こっそり描いていたり、そこから、とりあえず騎士団長の装束をまとった、「イデア」が出てきたりして、混乱の謎に陥る。
「イデア」はまた、騎士団長の装束をまとったまま、「騎士団長以外の何ものでもあらない」というような、奇妙な言葉遣いをする。「何ものでもない」というのを、「何ものでもあらない」というふうに、一度肯定型を入れてから、否定形にするのである。
「免色」はまた、山一つ越えたところにいる「秋川まりえ」を毎日、双眼鏡で見ている。ひょっとすると、「秋川まりえ」は、「免色」の実の娘かもしれないのだ。
謎は謎を呼んで、これ以上はないくらい大きくなり、でも、村上春樹は全部の謎は解かないだろうな、というか、謎解き小説ではないから、謎は謎を呼んで、終わりまで行くだろうな、と思わせる。そして、その謎は、どれも魅力に満ちているのだ。
しかし問題は、謎には関わらない部分が、なんというか、退屈であることだ。
パロディ、パロデイ――『もう一度 倫敦巴里』(3)
限りがないから、やめておくといったのに、でも仕方がない。最初は淀川長治で、いつもの名調子。
「トンネルを出ましたねぇ。長いですねぇ。長いトンネルですねぇ。このトンネルは、清水トンネル言いまして、長さは九千七百メートルもあるんですよ。長いですねぇ。この長いトンネルを出ますと、もう雪国ですねぇ。寒いですねぇ。・・・・・・娘さんが窓をあけて『駅長さあん』言いますね、あそこの景色、きれいですねぇ。その写真、もう一回見せて下さい。ハイ、写真出ました。きれいですねぇ。撮影がいいですねぇ。カメラマンは、グレッグ・トーランド言いまして、アカデミー賞を三回もとっております。上手ですねぇ。ハイ、写真ありがとうございました。」
つぎは、つげ義春。とはいっても、1ページに、3コマの漫画があるだけ。題は「『ねじ式』式」。例の「わたし」の乗っている汽車が、迫ってくるところだ。1コマに、それぞれフキダシが1つある。
「(ゴトン ゴトン)国境の/トンネルを/抜けると」
「見たまえ/雪が降って/いるでは/ないか」
「雪国から/逃げてきたのに/また雪国に/もどっている/ではないか」
・・・・・・天才としか言いようがない。
最後は宇能鴻一郎。
「トンネルを抜けたら雪国だったんです。国境のトンネル、とっても長かった。
夜の底、まっ白みたい。そう思ってたら、信号所に汽車がとまったんです。
あたし、エロチックな気持になってしまった。これは内緒なんだけど、トンネルを通るたんびに感じちゃうみたい。
トンネルがいけないんです。
トンネルに汽車が入ると、あたし、いけないことを連想しちゃうんです。ああ、あたしにも逞しい汽車が入ってきて欲しい、なんて思ったりして・・・・・・」
ほかにも「007贋作漫画集」、「ビートルズ・ギャラリー」、「初夢ロードショー」、「漫画オールスターパレード」、「はめ絵映画館」など、じつに盛り沢山である。
面白いと同時に、それ以上に、懐かしい気分に浸りきった。
(『もう一度 倫敦巴里』和田誠、ナナロク社、2017年1月25日初刷)
「トンネルを出ましたねぇ。長いですねぇ。長いトンネルですねぇ。このトンネルは、清水トンネル言いまして、長さは九千七百メートルもあるんですよ。長いですねぇ。この長いトンネルを出ますと、もう雪国ですねぇ。寒いですねぇ。・・・・・・娘さんが窓をあけて『駅長さあん』言いますね、あそこの景色、きれいですねぇ。その写真、もう一回見せて下さい。ハイ、写真出ました。きれいですねぇ。撮影がいいですねぇ。カメラマンは、グレッグ・トーランド言いまして、アカデミー賞を三回もとっております。上手ですねぇ。ハイ、写真ありがとうございました。」
つぎは、つげ義春。とはいっても、1ページに、3コマの漫画があるだけ。題は「『ねじ式』式」。例の「わたし」の乗っている汽車が、迫ってくるところだ。1コマに、それぞれフキダシが1つある。
「(ゴトン ゴトン)国境の/トンネルを/抜けると」
「見たまえ/雪が降って/いるでは/ないか」
「雪国から/逃げてきたのに/また雪国に/もどっている/ではないか」
・・・・・・天才としか言いようがない。
最後は宇能鴻一郎。
「トンネルを抜けたら雪国だったんです。国境のトンネル、とっても長かった。
夜の底、まっ白みたい。そう思ってたら、信号所に汽車がとまったんです。
あたし、エロチックな気持になってしまった。これは内緒なんだけど、トンネルを通るたんびに感じちゃうみたい。
トンネルがいけないんです。
トンネルに汽車が入ると、あたし、いけないことを連想しちゃうんです。ああ、あたしにも逞しい汽車が入ってきて欲しい、なんて思ったりして・・・・・・」
ほかにも「007贋作漫画集」、「ビートルズ・ギャラリー」、「初夢ロードショー」、「漫画オールスターパレード」、「はめ絵映画館」など、じつに盛り沢山である。
面白いと同時に、それ以上に、懐かしい気分に浸りきった。
(『もう一度 倫敦巴里』和田誠、ナナロク社、2017年1月25日初刷)
パロディ、パロデイ――『もう一度 倫敦巴里』(2)
「兎と亀」はよほど気にいったのか、なんと11年後に続編を作っている。そのときの映画監督は、黒沢明、クロード・ルルーシュ、サム・ペキンパー、ヴィンセント・ミネリ、山田洋次、ジョン・ギラーミン、ジュリアン・デュヴィヴィエ、深作欣二、ウォルト・ディズニー、セシル・B・デミル、フェデリコ・フェリーニである。
ここでは、深作欣二の「兎と亀」を、一部抜粋してみる。
「穴熊(金子信雄)「ご苦労じゃったのう」
亀「兎は?」
穴熊「あいつはお前のおらんうちにのさばりよって、わしの跡目を狙うとるんじゃ。やってくれんかのう。」
兎の家。
亀「お前をやれと言われてきた」
兎「おやっさんはもう終りじゃ。それよりお前と俺で、勝った方が跡目継ごうや」
亀「殺し合うんか?」
兎「競走じゃ。山のふもとまで早う行った方が勝ちや。受けてつかあさい」
スタートラインに兎と亀。スターター(渡瀬恒彦)の合図で走り出す。」
配役はもちろん、言わずと知れた、菅原文太(亀)と松方弘樹(兎)。
しかしなんですねえ、パロディというのは、具体的に作品を引いてこないと、面白さが分からないから、どうしようもないですね。この調子で引いていくと限りがないから、もうやめにしよう。
全編の中で、いちばん多く出てくるのは、川端康成の『雪国』のパロディである。「雪国・またはノーベル賞をもらいましょう」と題して、庄司薫・野坂昭如・植草甚一・星新一・淀川長治・伊丹十三の各氏が、『雪国』冒頭の一節を、それふうに披露する。もちろん全部、似顔絵つき。これは70年2月号の『話の特集』である。
「雪国ショー」(72年11月号)では、笹沢左保・永六輔・大藪春彦・五木寛之・井上ひさし・長新太・山口瞳を真似る
「新・雪国」(73年12月号)では、北杜夫・落合恵子・池波正太郎・大江健三郎・土屋耕一・つげ義春・筒井康隆。
75年2月号では「又・雪国」と題し、川上宗薫・田辺聖子・東海林さだお・殿山泰司・大橋歩・半村良の各氏。
77年2月号の「お楽しみは雪国だ」では、司馬遼太郎・村上龍・つかこうへい・横溝正史・浅井慎平・宇能鴻一郎・谷川俊太郎。
そうして、復刊のために付け加えた「『雪国』・海外篇」では、シェイクスピア(小田島雄志訳)・サリンジャー(野崎孝訳)・ジャン=ポール・サルトル(白井浩司訳)・レイモンド・チャンドラー(清水俊二訳)。それぞれ、原文を真似た訳者という、二重の複雑なパロディである。
さらにそれに追加して、村上春樹・俵万智・蓮實重彦・椎名誠・吉本ばなな・丸谷才一・井上陽水が加わる。
というふうに名前を挙げてくれば、これを全部パロディにするのは、ほとんど天才か狂人だね。
しかし、和田誠が、どんなふうな天才、または狂人であるかを示せと言われても、ブツがないと、どうしようもない。というわけで、懲りずに2,3本、ほんの抜粋を挙げておく。
ここでは、深作欣二の「兎と亀」を、一部抜粋してみる。
「穴熊(金子信雄)「ご苦労じゃったのう」
亀「兎は?」
穴熊「あいつはお前のおらんうちにのさばりよって、わしの跡目を狙うとるんじゃ。やってくれんかのう。」
兎の家。
亀「お前をやれと言われてきた」
兎「おやっさんはもう終りじゃ。それよりお前と俺で、勝った方が跡目継ごうや」
亀「殺し合うんか?」
兎「競走じゃ。山のふもとまで早う行った方が勝ちや。受けてつかあさい」
スタートラインに兎と亀。スターター(渡瀬恒彦)の合図で走り出す。」
配役はもちろん、言わずと知れた、菅原文太(亀)と松方弘樹(兎)。
しかしなんですねえ、パロディというのは、具体的に作品を引いてこないと、面白さが分からないから、どうしようもないですね。この調子で引いていくと限りがないから、もうやめにしよう。
全編の中で、いちばん多く出てくるのは、川端康成の『雪国』のパロディである。「雪国・またはノーベル賞をもらいましょう」と題して、庄司薫・野坂昭如・植草甚一・星新一・淀川長治・伊丹十三の各氏が、『雪国』冒頭の一節を、それふうに披露する。もちろん全部、似顔絵つき。これは70年2月号の『話の特集』である。
「雪国ショー」(72年11月号)では、笹沢左保・永六輔・大藪春彦・五木寛之・井上ひさし・長新太・山口瞳を真似る
「新・雪国」(73年12月号)では、北杜夫・落合恵子・池波正太郎・大江健三郎・土屋耕一・つげ義春・筒井康隆。
75年2月号では「又・雪国」と題し、川上宗薫・田辺聖子・東海林さだお・殿山泰司・大橋歩・半村良の各氏。
77年2月号の「お楽しみは雪国だ」では、司馬遼太郎・村上龍・つかこうへい・横溝正史・浅井慎平・宇能鴻一郎・谷川俊太郎。
そうして、復刊のために付け加えた「『雪国』・海外篇」では、シェイクスピア(小田島雄志訳)・サリンジャー(野崎孝訳)・ジャン=ポール・サルトル(白井浩司訳)・レイモンド・チャンドラー(清水俊二訳)。それぞれ、原文を真似た訳者という、二重の複雑なパロディである。
さらにそれに追加して、村上春樹・俵万智・蓮實重彦・椎名誠・吉本ばなな・丸谷才一・井上陽水が加わる。
というふうに名前を挙げてくれば、これを全部パロディにするのは、ほとんど天才か狂人だね。
しかし、和田誠が、どんなふうな天才、または狂人であるかを示せと言われても、ブツがないと、どうしようもない。というわけで、懲りずに2,3本、ほんの抜粋を挙げておく。