その川島さんから、ロアルド・ホフマンという化学者の、「これはあなたのもの」という戯曲が素晴らしいのよ、という話があった。
ホフマンはアメリカの化学者で、ノーベル賞を、福井謙一氏と共同受賞している。そういう人の戯曲が素晴らしいの、と言われてもなあ、というのが、その時の印象だった。
ホフマン先生と川島さんは、2003年頃から、お互いがいいものを書けば、送り合う間柄だという。
川島さんによれば、今度の戯曲のテーマは、ナチの時代を辛くも生き延びた人々が、現代にまで抱えている、どうにもならない戦争の傷跡だという。
ホフマン教授は五歳のとき、ナチの手を逃れて、母親と一緒に、ウクライナの知り合いの家の屋根裏部屋にかくまわれ、奇跡的にこの時代を生き延びた。その自伝だという。
舞台は、1992年のフィラデルフィアと、1943年から44年にかけてのウクライナのフリーヴニウ村が、何度も交錯する。ユダヤ人の母は、ウクライナ人のさまざまな裏切り行為と、ユダヤ人虐殺計画のために、ウクライナの人たちのことを「人殺し」と呼ぶのだ。しかしまた、母子を屋根裏部屋に長くかくまってくれたのも、善良なウクライナ人一家なのである。
つまり、「個々人の善行と集団の罪。それらを忘れずにいること。認めること。そうした記憶と認識のバランスを取る事が『これはあなたのもの』のテーマです。」(ロアルド・ホフマン)
この本は、川島さんが訳した戯曲の他に、右のような構成で、一巻ができあがっている。
ロアルド・ホフマン、訳・左近充ひとみ「ズウォーチュフから東京へ――『許し』への道」
矢野久「ナチスのユダヤ人政策――作品の歴史的背景」
黒木雅子「女性の越境とサバイバル――語れない物語をどう聞くか」
鵜山仁「『これはあなたのもの』舞台化のための、いくつかのイメージ」
川島慶子「『訳者あとがき』にかえて――ノーベル賞科学者が紡ぐ戦争と平和の詩」
それに、付録として「『これはあなたのもの』世界と日本で公演」一覧がついている。日本では、この5月から6月にかけて、全国のあちこちで公演が行われる。とくに6月15日から25日は、新国立劇場だから評判を呼ぶだろう。役者は八千草薫、吉田栄作、保坂知寿、かとうかず子、万里紗、田中菜生である。
しかし、たとえ川島慶子さんが、これはぜひ自分で訳してみたい、そして日本で上演したいと思ったとしても、なぜそんなことが、しかも第一級の役者を得て、実現したんだろうか。
ノーベル賞化学者の戯曲――『これはあなたのもの――1943‐ウクライナ』(1)
ノーベル賞化学者、ロアルド・ホフマンの『これはあなたのもの――1943‐ウクライナ』については、その前に、訳者の川島慶子さんとの間に、長いやり取りがある。
川島慶子先生は、18世紀フランスの科学史の専門家で、『エミリー・デュ・シャトレとマリー・ラヴワジエ――18世紀フランスのジェンダーと科学』(2005年)は、一躍その名を高からしめたものだ。もってまわったところのない、きりりとした、骨格のはっきりした文章で、18世紀のジェンダーと科学が、素人の私にも手に取るようにわかる。
夫のラヴワジエが実験するのを、妻のマリーが手助けするという、実験における主従の関係の図が、明快な文章と相俟って、読者にぐいぐい迫ってくる。東大出版会から出ている本にしては、じつに歯切れがいい(このころは、東大出版会の人を一人も知らず、出ている本に対しては偏見があった)。
すぐに、著者に手紙を書いた。どんな内容かは忘れてしまったが、たぶん、先生の文章は素晴らしい、骨格がはっきりしていて、これは未来に残すに足る本になる、とまあそんなことを書いたに違いない。そして、トランスビューでも書き下ろしをお願いしたいと締め括った。
それから5年後の、2010年に『マリー・キュリーの挑戦――科学・ジェンダー・戦争』が出た。というと、けっこう年月はかかっているのだが、そのわりには、著者と艱難辛苦をともにした、という感じはあんまりしない。
ひょっとすると、著者の川島さんは、「冗談じゃないわよ、人の苦労も知らないで」と思っておられるかもしれない。でも、とにかく、ゲラのやり取りも含めて、先生との仕事は面白かった。
できた本は、非常に評判がよかった。科学史の村上陽一郎氏、作家の最相葉月さん、朝日新聞・論説委員の辻篤子さん、物理学者の米沢富美子さんが、さっそく書評をしてくださった。どれもとにかく絶賛の嵐、というのは言いすぎとしても、みな手放しでほめている。もちろん、すぐに何度も重版した。
私は、脳出血後のリハビリで、『マリー・キュリーの挑戦』を二度、朗読したが、とにかく文章の歯切れがいい。
同時に、あらためて思ったのは、いろんなものが詰め込まれていて、200ページちょっとの本なのに、ものすごいヴォリュームがあるということだ。7年前に、自分で刊行した本を、いまごろ何を言ってるんだ、と言われるんだろうけど、でもしょうがない。
本ができた直後は、著者と一緒になって喜ぶのに忙しくて、また書評用の本を手配するなど忙しくて、その本を、適度な距離を置いて、正確に評価するなんて、私にはとても無理だった。
いま、その目次を挙げておく。慧眼な読者なら、うーむと唸ると思う。
1 少女の怒り、2 三つの恋の物語、3 ノーベル賞を有名にしたもの、4 墓はなぜ移されたか、5 誤解された夫婦の役割、6 二つの祖国のために、7 ピエール・キュリーの「個性」、8 科学アカデミーに拒まれた母と娘、9 変貌する聖女、10 マルグリット・ボレルとハーサ・エアトンとの友情、11 放射能への歪んだ愛、12 アインシュタインの妻、13 リーゼ・マイトナーの奪われた栄光、14 放射線研究に斃れた日本人留学生、15 「偉大な母」の娘たち、16 キュリー帝国の美貌のプリンス、17 湯浅年子の不屈の生涯、18 キュリー夫人とモードの歴史、19 「完璧な妻、母、科学者」という罠
「キュリー夫人とモードの歴史」などは、宝塚ファンの川島慶子先生の、面目躍如たるものがある。もちろん、キュリー夫人の不倫恋愛を扱った、「マルグリット・ボレルとハーサ・エアトンとの友情」や、女であるがゆえにノーベル賞を逃した〝原爆の母〟、「リーゼ・マイトナーの奪われた栄光」にみる、不屈のフェミニストたる点は、言うまでもない。
川島慶子先生は、18世紀フランスの科学史の専門家で、『エミリー・デュ・シャトレとマリー・ラヴワジエ――18世紀フランスのジェンダーと科学』(2005年)は、一躍その名を高からしめたものだ。もってまわったところのない、きりりとした、骨格のはっきりした文章で、18世紀のジェンダーと科学が、素人の私にも手に取るようにわかる。
夫のラヴワジエが実験するのを、妻のマリーが手助けするという、実験における主従の関係の図が、明快な文章と相俟って、読者にぐいぐい迫ってくる。東大出版会から出ている本にしては、じつに歯切れがいい(このころは、東大出版会の人を一人も知らず、出ている本に対しては偏見があった)。
すぐに、著者に手紙を書いた。どんな内容かは忘れてしまったが、たぶん、先生の文章は素晴らしい、骨格がはっきりしていて、これは未来に残すに足る本になる、とまあそんなことを書いたに違いない。そして、トランスビューでも書き下ろしをお願いしたいと締め括った。
それから5年後の、2010年に『マリー・キュリーの挑戦――科学・ジェンダー・戦争』が出た。というと、けっこう年月はかかっているのだが、そのわりには、著者と艱難辛苦をともにした、という感じはあんまりしない。
ひょっとすると、著者の川島さんは、「冗談じゃないわよ、人の苦労も知らないで」と思っておられるかもしれない。でも、とにかく、ゲラのやり取りも含めて、先生との仕事は面白かった。
できた本は、非常に評判がよかった。科学史の村上陽一郎氏、作家の最相葉月さん、朝日新聞・論説委員の辻篤子さん、物理学者の米沢富美子さんが、さっそく書評をしてくださった。どれもとにかく絶賛の嵐、というのは言いすぎとしても、みな手放しでほめている。もちろん、すぐに何度も重版した。
私は、脳出血後のリハビリで、『マリー・キュリーの挑戦』を二度、朗読したが、とにかく文章の歯切れがいい。
同時に、あらためて思ったのは、いろんなものが詰め込まれていて、200ページちょっとの本なのに、ものすごいヴォリュームがあるということだ。7年前に、自分で刊行した本を、いまごろ何を言ってるんだ、と言われるんだろうけど、でもしょうがない。
本ができた直後は、著者と一緒になって喜ぶのに忙しくて、また書評用の本を手配するなど忙しくて、その本を、適度な距離を置いて、正確に評価するなんて、私にはとても無理だった。
いま、その目次を挙げておく。慧眼な読者なら、うーむと唸ると思う。
1 少女の怒り、2 三つの恋の物語、3 ノーベル賞を有名にしたもの、4 墓はなぜ移されたか、5 誤解された夫婦の役割、6 二つの祖国のために、7 ピエール・キュリーの「個性」、8 科学アカデミーに拒まれた母と娘、9 変貌する聖女、10 マルグリット・ボレルとハーサ・エアトンとの友情、11 放射能への歪んだ愛、12 アインシュタインの妻、13 リーゼ・マイトナーの奪われた栄光、14 放射線研究に斃れた日本人留学生、15 「偉大な母」の娘たち、16 キュリー帝国の美貌のプリンス、17 湯浅年子の不屈の生涯、18 キュリー夫人とモードの歴史、19 「完璧な妻、母、科学者」という罠
「キュリー夫人とモードの歴史」などは、宝塚ファンの川島慶子先生の、面目躍如たるものがある。もちろん、キュリー夫人の不倫恋愛を扱った、「マルグリット・ボレルとハーサ・エアトンとの友情」や、女であるがゆえにノーベル賞を逃した〝原爆の母〟、「リーゼ・マイトナーの奪われた栄光」にみる、不屈のフェミニストたる点は、言うまでもない。
燃やしてくれといったけど――『あの頃――単行本未収録エッセイ集』(3)
田村正和の、『赤穂浪士』に言及したものもある。これは面白い。
「田村正和扮する堀田隼人が出てくる。カスカスの千代紙人形が歩いてくる。一人でニヒルになりくり返っていて、どうしようもない。ニヒルすぎてか、言ってることも聞きとれない。」
どうも、ひどいもんだ。で、これが、どんどんエスカレートしていく。
「ずっと前、田村正和はよかったのだ。だんだん、だんだん、こんなになってしまった。体でも悪いのかもしれない。私が心配したって仕様がない。兄さんと弟さんが、考え方とか病気とかを直すように、注意してあげたらどうなんだろう。」
田村正和はその後、「警部補 古畑任三郎」で、パロディ化した田村正和を、本人自らが演じることによって危機を脱した。
とまあ、こういうふうに挙げてくると、そこそこ面白いような気はするのだが、でも500ページのうちで、いいもの悪いものの、落差がありすぎる。そしてどちらかといえば、悪いものの方が多い。
おそらく武田百合子は、編者の娘さんが言うように、徹底的に、初出原稿に手を加えたに違いない。それでなければ、手を加えるのが間に合わなければ、焼けと言った。
でも、著者はもう亡くなったのだから、どうしようもない。手元に残った原稿は、いよいよ重くなる。しょうがない、本にせねば、しょうがない。
こういうエッセイ集は、ネットが主流の時代には、もう編まれないんじゃないか、と思う。その意味では、最後の本と言っていいかもしれない。
(『あの頃――単行本未収録エッセイ集』
武田百合子、編者・武田花、中央公論新社、2017年3月25日初刷)
「田村正和扮する堀田隼人が出てくる。カスカスの千代紙人形が歩いてくる。一人でニヒルになりくり返っていて、どうしようもない。ニヒルすぎてか、言ってることも聞きとれない。」
どうも、ひどいもんだ。で、これが、どんどんエスカレートしていく。
「ずっと前、田村正和はよかったのだ。だんだん、だんだん、こんなになってしまった。体でも悪いのかもしれない。私が心配したって仕様がない。兄さんと弟さんが、考え方とか病気とかを直すように、注意してあげたらどうなんだろう。」
田村正和はその後、「警部補 古畑任三郎」で、パロディ化した田村正和を、本人自らが演じることによって危機を脱した。
とまあ、こういうふうに挙げてくると、そこそこ面白いような気はするのだが、でも500ページのうちで、いいもの悪いものの、落差がありすぎる。そしてどちらかといえば、悪いものの方が多い。
おそらく武田百合子は、編者の娘さんが言うように、徹底的に、初出原稿に手を加えたに違いない。それでなければ、手を加えるのが間に合わなければ、焼けと言った。
でも、著者はもう亡くなったのだから、どうしようもない。手元に残った原稿は、いよいよ重くなる。しょうがない、本にせねば、しょうがない。
こういうエッセイ集は、ネットが主流の時代には、もう編まれないんじゃないか、と思う。その意味では、最後の本と言っていいかもしれない。
(『あの頃――単行本未収録エッセイ集』
武田百合子、編者・武田花、中央公論新社、2017年3月25日初刷)
燃やしてくれといったけど――『あの頃――単行本未収録エッセイ集』(2)
筑摩書房の創業者、古田晁の話もある。僕は、大学を出て最初に入った会社が、筑摩書房だった。そこは入社して、三か月で潰れた。出版社は浮草家業で、だからまあ、そんなこともあるだろうなあ、と僕は思っていた。
古田さんは、倒産の五年くらい前に、亡くなっていたと思う。
「本郷台町」と題する一篇は、その古田さんを活写する。
「昼間立寄られる古田さんは、極度の羞ずかしがりで、こわれかかった古い籐椅子に大きな体を縮めて坐り、大きな眼や耳のついた大きな顔をうつむき加減にして、お茶をすすっておられるのだが、夜になって酒気を帯び、再び現われる古田さんは、冨山房裏の年中青みどろ色の水溜りがある路地を、風を起すような大股で歩いてきて、ドアを蹴破らんばかりの勢であけ、『お嬢さん、ビール‼ カストリ‼』と叫ぶのだった。」
古田さんのいろんなところでの魅力は、それこそいろんな人が書くものだから、一度も行きあったことのない僕でも、なんだか目に浮かぶような気がする。
「閉店後灯りの消えたRにやってきた古田さんが、二階の窓から踏み込もうと、裏口の板壁をよじ上り、二階のガラス窓から転がりこんだところ、見当が外れて、そこは同じ造作の長屋である隣りの二階だったから、寝ていたお婆さんに大へん怒られて逃げ帰るという晩などもあった。」
どうして、今と違って、そういうことができたのだろう。いや、もちろん、そんなことが、許されるわけはないのだが。でも、古田晁だと、そういうことが、苦笑いして済まされるような気がする。
「古田さんは突然烈しく泣きだされる。そんなとき、私たちはこの大きな人の号泣が納まるまで粛然とした気持になって待っているのだった。」
つまりは、そういうことだ。あんなこともあり、こんなこともあり、それらをひっくるめて、古田晁という人なのだ。
それからまた、武田百合子は赤坂に住んでいたことがあるので、俳優にもよく会った。あるとき、天知茂と行きあったことがある。
「凶悪シリーズというのがあったなあ。徹頭徹尾ワンパターンで、そこがまたよくて『Gメン75』の水色Yシャツ刑事のワンパターンぶりとちがうのである。しまいにいい加減な題になってきて、『凶悪の母』なんていう簡単なのもあった。『凶悪の望郷』あれが一番メチャクチャな題でびっくりした。あれには、片岡千恵蔵が、過去に影があるマドロス(?)風の老人になって出てきて、多羅尾坂内とジャン・ギャバンを一緒くたにしたような力演をしたっけ。」
「多羅尾坂内とジャン・ギャバンを一緒くたにしたような力演」というのが、なんとも言えずおかしい。そして、どこまでも筆が伸びていって、気持ちがいい。
古田さんは、倒産の五年くらい前に、亡くなっていたと思う。
「本郷台町」と題する一篇は、その古田さんを活写する。
「昼間立寄られる古田さんは、極度の羞ずかしがりで、こわれかかった古い籐椅子に大きな体を縮めて坐り、大きな眼や耳のついた大きな顔をうつむき加減にして、お茶をすすっておられるのだが、夜になって酒気を帯び、再び現われる古田さんは、冨山房裏の年中青みどろ色の水溜りがある路地を、風を起すような大股で歩いてきて、ドアを蹴破らんばかりの勢であけ、『お嬢さん、ビール‼ カストリ‼』と叫ぶのだった。」
古田さんのいろんなところでの魅力は、それこそいろんな人が書くものだから、一度も行きあったことのない僕でも、なんだか目に浮かぶような気がする。
「閉店後灯りの消えたRにやってきた古田さんが、二階の窓から踏み込もうと、裏口の板壁をよじ上り、二階のガラス窓から転がりこんだところ、見当が外れて、そこは同じ造作の長屋である隣りの二階だったから、寝ていたお婆さんに大へん怒られて逃げ帰るという晩などもあった。」
どうして、今と違って、そういうことができたのだろう。いや、もちろん、そんなことが、許されるわけはないのだが。でも、古田晁だと、そういうことが、苦笑いして済まされるような気がする。
「古田さんは突然烈しく泣きだされる。そんなとき、私たちはこの大きな人の号泣が納まるまで粛然とした気持になって待っているのだった。」
つまりは、そういうことだ。あんなこともあり、こんなこともあり、それらをひっくるめて、古田晁という人なのだ。
それからまた、武田百合子は赤坂に住んでいたことがあるので、俳優にもよく会った。あるとき、天知茂と行きあったことがある。
「凶悪シリーズというのがあったなあ。徹頭徹尾ワンパターンで、そこがまたよくて『Gメン75』の水色Yシャツ刑事のワンパターンぶりとちがうのである。しまいにいい加減な題になってきて、『凶悪の母』なんていう簡単なのもあった。『凶悪の望郷』あれが一番メチャクチャな題でびっくりした。あれには、片岡千恵蔵が、過去に影があるマドロス(?)風の老人になって出てきて、多羅尾坂内とジャン・ギャバンを一緒くたにしたような力演をしたっけ。」
「多羅尾坂内とジャン・ギャバンを一緒くたにしたような力演」というのが、なんとも言えずおかしい。そして、どこまでも筆が伸びていって、気持ちがいい。
燃やしてくれといったけど――『あの頃――単行本未収録エッセイ集』(1)
こういう本は難しい。5月14日の東京新聞・読書面に、武田花さんが、編者としてインタビューを受けている。そこで、こんなことをしゃべっている。
「母はどんな文章も熱心に推敲した人で、母の手が入らないまま本にすると怒られると思った。未発表の文章や日記は燃やしてほしいと言った母ですから、〈遺言だからダメ〉と長い間書籍化を断り続けてきた。」
これは、著者が自覚的なものかきの場合、当然そうだろう。
しかし、歳を重ねた娘の心境には、変化が生じる。
「でも私も年をとり、せめて自分の責任で本にしようと心境が変わった。」
おかげで、500ページになんなんとする本が、生まれたわけだ。
でも、どうなんだろうねえ。武田百合子は、推敲を重ねた文章以外は、人に見せることをよしとしなかった。うーん、考えてしまうなあ。
もちろん、素晴らしいところは、いくつもある。たとえば、
「餌を漁るのか、足にくもの糸などからめている蝙蝠のために、私は思いついて蛾や虫を部屋へ誘い入れてみた。夜になると硝子戸の向こうにはりついて、肥った腹を見せているおびただしい蛾や虫は、戸を少し開ければ粉を散らして争って流れ込んできた。食べているかしら? 夜更け、私は隣室で蝙蝠の気配に息をひそめている。とろりとしたものがこみ上げてくる。蛾や虫が、ことに肥った大きな蛾が、栄養あるおいしそうなものに私にも思われてくる。」
隣りの部屋にいる蝙蝠が、大量の蛾や虫をとらえている。それを、隣室で息を殺して、うかがっている私。やがて、「とろりとしたものがこみ上げてくる。」この、とろりとしたもの、というのが、武田百合子の真骨頂である。
でも、そんなところは、多くない。
それからまた、武田泰淳と編集者・村松友視の、原稿をめぐるやり取りもある。それは「富士」の原稿であった。
「(村松友視は)ちっとも原稿のことなど口にしない。おしまいになる頃、とうとう武田は『村松君。一度でいいから、僕の原稿欲しそうな顔してみてくれないかなあ』と、笑いながら原稿を渡していたが、村松さんは爽やかに笑って、やっぱり欲しそうな顔をしてみせてくれなかった。」
途中で休みたがる癖のある武田泰淳が、一回も休まずに連載を終えたのは、そういう村松の魅力によるものだ、と百合子は言う。
ちなみに、単行本の『富士』は、司修が装幀をしていて、これはどこかに書いたことがあるが、それは戦後の文学の中で、ナンバーワンだ。
「母はどんな文章も熱心に推敲した人で、母の手が入らないまま本にすると怒られると思った。未発表の文章や日記は燃やしてほしいと言った母ですから、〈遺言だからダメ〉と長い間書籍化を断り続けてきた。」
これは、著者が自覚的なものかきの場合、当然そうだろう。
しかし、歳を重ねた娘の心境には、変化が生じる。
「でも私も年をとり、せめて自分の責任で本にしようと心境が変わった。」
おかげで、500ページになんなんとする本が、生まれたわけだ。
でも、どうなんだろうねえ。武田百合子は、推敲を重ねた文章以外は、人に見せることをよしとしなかった。うーん、考えてしまうなあ。
もちろん、素晴らしいところは、いくつもある。たとえば、
「餌を漁るのか、足にくもの糸などからめている蝙蝠のために、私は思いついて蛾や虫を部屋へ誘い入れてみた。夜になると硝子戸の向こうにはりついて、肥った腹を見せているおびただしい蛾や虫は、戸を少し開ければ粉を散らして争って流れ込んできた。食べているかしら? 夜更け、私は隣室で蝙蝠の気配に息をひそめている。とろりとしたものがこみ上げてくる。蛾や虫が、ことに肥った大きな蛾が、栄養あるおいしそうなものに私にも思われてくる。」
隣りの部屋にいる蝙蝠が、大量の蛾や虫をとらえている。それを、隣室で息を殺して、うかがっている私。やがて、「とろりとしたものがこみ上げてくる。」この、とろりとしたもの、というのが、武田百合子の真骨頂である。
でも、そんなところは、多くない。
それからまた、武田泰淳と編集者・村松友視の、原稿をめぐるやり取りもある。それは「富士」の原稿であった。
「(村松友視は)ちっとも原稿のことなど口にしない。おしまいになる頃、とうとう武田は『村松君。一度でいいから、僕の原稿欲しそうな顔してみてくれないかなあ』と、笑いながら原稿を渡していたが、村松さんは爽やかに笑って、やっぱり欲しそうな顔をしてみせてくれなかった。」
途中で休みたがる癖のある武田泰淳が、一回も休まずに連載を終えたのは、そういう村松の魅力によるものだ、と百合子は言う。
ちなみに、単行本の『富士』は、司修が装幀をしていて、これはどこかに書いたことがあるが、それは戦後の文学の中で、ナンバーワンだ。
必ず二度読むことに――『月の満ち欠け』
傑作。
これは、まごうかたなき傑作である。
僕は一度目を読んで、すぐに二度目にとりかかった。作者は、二度読む人間を、標準の読者と考えていると思う。
一度目は、本を読み終えて、ただ呆然としていた。目くるめく世界で、眩暈(めまい)を覚えていた。二度目は、緻密きわまりない構成が、いやでもクリアーに頭に入ってきて、実に充実した読書体験が味わえる。
これは、生まれ変わりの話だ。女が、四回生まれ変わる。それに関わる男が三人いるが、その絡みが複雑である。
その複雑に絡みあった話を、一度目はよくわからないなりに、それでもページを繰る手も忙しく、飛ぶように読めるのは、文体のゆえである。佐藤正午の文体のせいである。
著者は、そのことを意識している。そうでなければ、四回生まれ変わるうちの、二度目の女の父親を、冒頭に持ってくるような、行ってみればトリッキーな真似はしない。
冒頭の、男が母親と娘に会う場面は、いま現在の時点で、「午前十一時」である。途中、カットバックが入るが、この現在時点というのは、ここを含めて五回ある。「午前十一時」「午前十一時三十分」「正午」「午後十二時三十分」「午後一時」の五回だが、目次も章見出しも、活字ではなくて、時計の絵が描いてある。だから必然的に、二度読まないと、何が何だかわからない。
なお登場人物で言うと、男は三人目の男だし、親子のうち、母親の方ではなくて、小柄な小学生の方が、四回目に生まれた女だ。
話はそこから何度かカットバックし、最終的に、なるほどと納得できるが、話はそれで終わらない。終わらないどころか、いよいよクライマックスというところで、話は終わる。それが実にいい。佐藤正午の真骨頂である。
これは、佐藤正午の中でも傑作だし、あえていえば、何年かに一度の、至高の読書体験が得られる。
(『月の満ち欠け』佐藤正午、岩波書店、2017年4月5日初刷)
これは、まごうかたなき傑作である。
僕は一度目を読んで、すぐに二度目にとりかかった。作者は、二度読む人間を、標準の読者と考えていると思う。
一度目は、本を読み終えて、ただ呆然としていた。目くるめく世界で、眩暈(めまい)を覚えていた。二度目は、緻密きわまりない構成が、いやでもクリアーに頭に入ってきて、実に充実した読書体験が味わえる。
これは、生まれ変わりの話だ。女が、四回生まれ変わる。それに関わる男が三人いるが、その絡みが複雑である。
その複雑に絡みあった話を、一度目はよくわからないなりに、それでもページを繰る手も忙しく、飛ぶように読めるのは、文体のゆえである。佐藤正午の文体のせいである。
著者は、そのことを意識している。そうでなければ、四回生まれ変わるうちの、二度目の女の父親を、冒頭に持ってくるような、行ってみればトリッキーな真似はしない。
冒頭の、男が母親と娘に会う場面は、いま現在の時点で、「午前十一時」である。途中、カットバックが入るが、この現在時点というのは、ここを含めて五回ある。「午前十一時」「午前十一時三十分」「正午」「午後十二時三十分」「午後一時」の五回だが、目次も章見出しも、活字ではなくて、時計の絵が描いてある。だから必然的に、二度読まないと、何が何だかわからない。
なお登場人物で言うと、男は三人目の男だし、親子のうち、母親の方ではなくて、小柄な小学生の方が、四回目に生まれた女だ。
話はそこから何度かカットバックし、最終的に、なるほどと納得できるが、話はそれで終わらない。終わらないどころか、いよいよクライマックスというところで、話は終わる。それが実にいい。佐藤正午の真骨頂である。
これは、佐藤正午の中でも傑作だし、あえていえば、何年かに一度の、至高の読書体験が得られる。
(『月の満ち欠け』佐藤正午、岩波書店、2017年4月5日初刷)
競い合う編集者――『「考える人」は本を読む』(5)
粕谷一希は2014年に、84歳で亡くなった。『作家が死ぬと時代が変わる』は、象徴的に挙げられていて、ここでは河野氏と粕谷さんの、個人的なエピソードが中心になる。
「そもそも、この人のコラムを読まなければ、雑誌の編集者なるものに興味を抱いたのかどうか、というような〝出会い〟がありました。あるところで、たまたま目にした創刊間もない1冊の雑誌。そこに掲載されていた見開き2ページのコラムが、粕谷さんとの出会いでした。
見知らぬ筆者の肩書きは『中央公論編集長』でした。」
こうして河野氏は、見えないものに導かれるようにして、「中央公論」の編集長になる。
それにしても、なぜこれほどまでに、亡くなった人の本ばかりが、中心を占めるのだろうか。とくに「仕事を考える」という章は、すべて亡くなった人の話だ。
ここにきて河野氏の、または編集者の、あるいは著者と編集者の二人が、出版の仕事を考えるとき、その仕事を、死者に照らしていることがわかる。つまり、今生きて存在している者は、海面から上の部分にすぎない。その下にいる無数の死者たちこそ、今の仕事を正確に評することができるのだ。
そしてもう一つは、はじめは『〆切本』や『「本屋」は死なない』、『僕らの仕事は応援団』などで始まったものが、本の真ん中あたりで、「死者の本」が、読んでいる者の胸の奥底に沈み込む。そしてふたたび「家族を考える」「社会を考える」「生と死を考える」というふうに、話が広がってゆくとき、じつは本は、一つの世界を構成しており、それは例えば、データを並べたところで、取り替えのきかないものなのだ。
『「考える人」は本を読む』は、1冊の新書にすぎないけれど、いったんそこを入ると、限りない世界が開けていて、読みはじめる前と後では、はっきり、自分の立っている位置が違っている。
(『「考える人」は本を読む』河野通和、角川新書、2017年4月10日初刷)
「そもそも、この人のコラムを読まなければ、雑誌の編集者なるものに興味を抱いたのかどうか、というような〝出会い〟がありました。あるところで、たまたま目にした創刊間もない1冊の雑誌。そこに掲載されていた見開き2ページのコラムが、粕谷さんとの出会いでした。
見知らぬ筆者の肩書きは『中央公論編集長』でした。」
こうして河野氏は、見えないものに導かれるようにして、「中央公論」の編集長になる。
それにしても、なぜこれほどまでに、亡くなった人の本ばかりが、中心を占めるのだろうか。とくに「仕事を考える」という章は、すべて亡くなった人の話だ。
ここにきて河野氏の、または編集者の、あるいは著者と編集者の二人が、出版の仕事を考えるとき、その仕事を、死者に照らしていることがわかる。つまり、今生きて存在している者は、海面から上の部分にすぎない。その下にいる無数の死者たちこそ、今の仕事を正確に評することができるのだ。
そしてもう一つは、はじめは『〆切本』や『「本屋」は死なない』、『僕らの仕事は応援団』などで始まったものが、本の真ん中あたりで、「死者の本」が、読んでいる者の胸の奥底に沈み込む。そしてふたたび「家族を考える」「社会を考える」「生と死を考える」というふうに、話が広がってゆくとき、じつは本は、一つの世界を構成しており、それは例えば、データを並べたところで、取り替えのきかないものなのだ。
『「考える人」は本を読む』は、1冊の新書にすぎないけれど、いったんそこを入ると、限りない世界が開けていて、読みはじめる前と後では、はっきり、自分の立っている位置が違っている。
(『「考える人」は本を読む』河野通和、角川新書、2017年4月10日初刷)
競い合う編集者――『「考える人」は本を読む』(4)
次の「Ⅲ 仕事を考える」は、4編とも、逝った人の面影を偲ぶ、つまり「死者の本」である。NHKの名ディレクター、吉田直哉の『思い出し半笑い』、井上ひさしの二度目の妻、井上ユリの『姉・米原万里――思い出は食欲と共に』、こまつ座の座長、井上麻矢の『夜中の電話――父・井上ひさし 最後の言葉』、そして最後は粕谷一希の『作家が死ぬと時代が変わる』。
『思い出し半笑い』の吉田直哉は、テレビの草創期から全盛期まで、仕事をした人である。大河ドラマでは「太閤記」「源義経」などを作り、ドキュメンタリーでは「明治百年」「未来への遺産」「21世紀は警告する」などを作った。
この本は、「いずれも、著者がテレビ番組制作中に出会った珍事を軽妙に綴った滑稽譚」であり、よくできたコント集だが、しかしその裏では、個人が生きてきた、かけがえのない時間が、どうしようもなくいとおしいものとして、軽妙な筆で書き留められる。
吉田直哉の最晩年のエッセイ集、『敗戦野菊をわたる風』には、次のような一節がある。
「〈人がひとり死ぬということは、単にひとつの命が消えるというだけではない・・・・・・私が消えるだけならたいしたことはないが、私が死ぬと、私のなかで私と共に生きてきた何人もの、すでに死んでいる人びとがもういちど死ぬ。今度こそ、ほんとうに死んでしまうのではないか?
死者ばかりではない。たくさんの、すでに失われた風景も永遠に消えてしまうのだ。〉」
河野氏の後註は、こんなふうだ。
「尊敬する何人かのテレビマンたちから、本当にいろいろなことを教わりました。硬派を代表するのが吉田直哉さんです。座談はいつも楽しく、本書の帯にある通り、『NHKのヒトはこんなにオカしいぞ』を地で行く人でした。」
よけいなことだが、僕は吉田直哉と養老孟司の対談集、『目から脳に抜ける話』を読んだことがある。これも本当に面白かった。
米原万里は、河野氏が東大の露文にいるころ、3歳年上の大学院生として、同じ研究室に在籍したことがある。そのころはまだ、自分がどういう道を進んだらいいか、考えあぐねているようだった。
その後、米原はロシア語の同時通訳者として、またエッセイストとして、はなばなしく活躍するようになる。河野氏は、後に中公文庫になる連載原稿を依頼したり、雑誌の対談に出てもらったりする。
「ただ、本質的な意味で、編集者として彼女に向き合う機会はありませんでした。活躍する彼女の姿を脇から頼もしく見てはいましたが、お互いテレもあって、彼女の根っこの部分について議論することはありませんでした。」
米原万里は、56歳の若さで病没する。
「本書は米原万里さんを蘇らせます。よく知られた万里さんではなく、私たちにはまだ見えていなかった米原万里の魂を近しく感じさせてくれる1冊です。」
『夜中の電話』は父、井上ひさしがこまつ座のことを、娘の井上麻矢に託した言葉を集める。
「抗がん剤治療をしていない日の夜11時過ぎ、スポーツニュースが終わった頃に、父から電話がかかってきます。『マー君ちょっといいかな。三十分だけ。今日はどうでしたか? 疲れていないですか?』――こうしてかかってきた電話は、明け方で終わることもあれば、朝の8時、9時まで続くこともありました。」
こうして77の言葉が収められ、それを受け止めた娘の言葉も記される。河野氏は「井上さん亡き後、こまつ座の公演はできるだけ観るようにしています。何度見ても面白いのが井上芝居の特徴です」と、後註に記している。
そうして、「Ⅲ 仕事を考える」の最後に、粕谷一希がくる。
『思い出し半笑い』の吉田直哉は、テレビの草創期から全盛期まで、仕事をした人である。大河ドラマでは「太閤記」「源義経」などを作り、ドキュメンタリーでは「明治百年」「未来への遺産」「21世紀は警告する」などを作った。
この本は、「いずれも、著者がテレビ番組制作中に出会った珍事を軽妙に綴った滑稽譚」であり、よくできたコント集だが、しかしその裏では、個人が生きてきた、かけがえのない時間が、どうしようもなくいとおしいものとして、軽妙な筆で書き留められる。
吉田直哉の最晩年のエッセイ集、『敗戦野菊をわたる風』には、次のような一節がある。
「〈人がひとり死ぬということは、単にひとつの命が消えるというだけではない・・・・・・私が消えるだけならたいしたことはないが、私が死ぬと、私のなかで私と共に生きてきた何人もの、すでに死んでいる人びとがもういちど死ぬ。今度こそ、ほんとうに死んでしまうのではないか?
死者ばかりではない。たくさんの、すでに失われた風景も永遠に消えてしまうのだ。〉」
河野氏の後註は、こんなふうだ。
「尊敬する何人かのテレビマンたちから、本当にいろいろなことを教わりました。硬派を代表するのが吉田直哉さんです。座談はいつも楽しく、本書の帯にある通り、『NHKのヒトはこんなにオカしいぞ』を地で行く人でした。」
よけいなことだが、僕は吉田直哉と養老孟司の対談集、『目から脳に抜ける話』を読んだことがある。これも本当に面白かった。
米原万里は、河野氏が東大の露文にいるころ、3歳年上の大学院生として、同じ研究室に在籍したことがある。そのころはまだ、自分がどういう道を進んだらいいか、考えあぐねているようだった。
その後、米原はロシア語の同時通訳者として、またエッセイストとして、はなばなしく活躍するようになる。河野氏は、後に中公文庫になる連載原稿を依頼したり、雑誌の対談に出てもらったりする。
「ただ、本質的な意味で、編集者として彼女に向き合う機会はありませんでした。活躍する彼女の姿を脇から頼もしく見てはいましたが、お互いテレもあって、彼女の根っこの部分について議論することはありませんでした。」
米原万里は、56歳の若さで病没する。
「本書は米原万里さんを蘇らせます。よく知られた万里さんではなく、私たちにはまだ見えていなかった米原万里の魂を近しく感じさせてくれる1冊です。」
『夜中の電話』は父、井上ひさしがこまつ座のことを、娘の井上麻矢に託した言葉を集める。
「抗がん剤治療をしていない日の夜11時過ぎ、スポーツニュースが終わった頃に、父から電話がかかってきます。『マー君ちょっといいかな。三十分だけ。今日はどうでしたか? 疲れていないですか?』――こうしてかかってきた電話は、明け方で終わることもあれば、朝の8時、9時まで続くこともありました。」
こうして77の言葉が収められ、それを受け止めた娘の言葉も記される。河野氏は「井上さん亡き後、こまつ座の公演はできるだけ観るようにしています。何度見ても面白いのが井上芝居の特徴です」と、後註に記している。
そうして、「Ⅲ 仕事を考える」の最後に、粕谷一希がくる。
競い合う編集者――『「考える人」は本を読む』(3)
なお新書に付した後註は、この場合は、次のようなものである。
「本書の解説を書いている編集者・長谷川郁夫さんが、『途中で思わず目頭が熱くなったことを告白しなくてはならない。巧すぎるよ、内堀さん!』とツッコミを入れていますが、『文庫版のための少し長いあとがき』に書かれた出会いと発見は、憑かれたようにボン書店の幻を追い続けた著者への天からの贈り物だったように思えてなりません。」
この後註を付したことにより、腹にグンと応える内容になっている。これを、25章全部に付け加えるのは骨だが、しかし、編集者が労を惜しまずそれをやったために、中身に格段の奥行きが生まれた。
それはともかく、『ボン書店の幻』を皮切りに、「Ⅱ 言葉を考える」「Ⅲ 仕事を考える」という、目次の体裁とは別の、先ほども言った「死者の本」とでもいうべき、読み手の胸の底まで降りて行った、一連の本が現れてくる。
目次とは別に、『ボン書店の幻』の次は、山際淳司の『スローカーブを、もう一球』である。これは日本シリーズの江夏の21球で有名になったものだが、山際淳司が表題作に選んだのは、それではない。
「代わってタイトルに謳われたのは、地味な高校野球の地方大会に取材した作品です。有名選手が登場するわけでもなく、手に汗握る名勝負の舞台裏が再現されるのでもなく、『ありふれた』題材をあっけないほど淡々と描いたドラマなき物語。だが、そこにこそ山際淳司の真骨頂があったのだと、時を隔てて見るとよく分かります。」
そして、それから14年後に、山際淳司は、「読み終えた本をパタンと閉じるように」、去っていった。
この章の後註は次の通り。
「もっと長生きしてほしかった大事な友人の一人です。本名で週刊誌に連載していた『現代人劇場』という人物ルポを読み、即座に連絡を取りました。会うなり親しくなりました。持ち味が遺憾なく発揮されたのは、本格的デビューとなった『江夏の21球』です。意表を突く角度から、鮮やかに人間ドラマを切り取ります。注がれる眼差しが温かく、それでいて湿っていないのが特徴でした。」
これだけなら、しんみりするけれども、それはこの章を読んだというだけのことだ。
しかし続いて、山川方夫の『展望台のある島』を取り上げるに及んで、これは著者が、というよりも編集者が、著者のかすかな意図を感じ取り、死者を意図的に次々に呼び出していくのが、いやでも納得されよう。
山川方夫は、34歳で、交通事故で逝った。その前の年に結婚し、「新潮」に「最初の秋」と「展望台のある島」を載せ、その二作を一つの作品とするために、改稿を始めたばかりだった。
しかしそもそも河野氏は、なぜ手に入る限りの山川方夫を、集めたのだろうか。
「もちろん山川の誠実な作風、『個』を見つめ『生』を希求する透徹した筆致など、作品の魅力が強く心に働きかけたことは言うまでもありません。しかし、そもそものきっかけは、評論家・江藤淳の鮮烈なデビュー作となった『夏目漱石』を書かせた名伯楽として、山川方夫の名前を記憶に刻んだことが大きな理由でした。」
そう、僕らの世代はみんな、江藤淳の『夏目漱石』を経由して、山川方夫に行き着いたのである。だから、江藤の「山川方夫と私」は、『夏目漱石』の次に、読んだものだ。そこに、こんな一節がある。
「〈君がいなくなってからいろいろなことがおこり、私の確信はますます強まらざるを得ない。つまり、生きるにあたいするから生きるのではない。なにものかへの義務のために生きるのだ、という確信が。そのなにものかとは、なんだろう? 山川、それを私に教えてくれないか。〉」
僕が、遠く胸の底に忘れてしまった一節を、しかし河野氏は、執拗に思い出している。
「このエッセイが書かれた29年後、よもやと思われた江藤氏の自死を知らされた時に、この一文がしきりと頭をよぎりました。」
「本書の解説を書いている編集者・長谷川郁夫さんが、『途中で思わず目頭が熱くなったことを告白しなくてはならない。巧すぎるよ、内堀さん!』とツッコミを入れていますが、『文庫版のための少し長いあとがき』に書かれた出会いと発見は、憑かれたようにボン書店の幻を追い続けた著者への天からの贈り物だったように思えてなりません。」
この後註を付したことにより、腹にグンと応える内容になっている。これを、25章全部に付け加えるのは骨だが、しかし、編集者が労を惜しまずそれをやったために、中身に格段の奥行きが生まれた。
それはともかく、『ボン書店の幻』を皮切りに、「Ⅱ 言葉を考える」「Ⅲ 仕事を考える」という、目次の体裁とは別の、先ほども言った「死者の本」とでもいうべき、読み手の胸の底まで降りて行った、一連の本が現れてくる。
目次とは別に、『ボン書店の幻』の次は、山際淳司の『スローカーブを、もう一球』である。これは日本シリーズの江夏の21球で有名になったものだが、山際淳司が表題作に選んだのは、それではない。
「代わってタイトルに謳われたのは、地味な高校野球の地方大会に取材した作品です。有名選手が登場するわけでもなく、手に汗握る名勝負の舞台裏が再現されるのでもなく、『ありふれた』題材をあっけないほど淡々と描いたドラマなき物語。だが、そこにこそ山際淳司の真骨頂があったのだと、時を隔てて見るとよく分かります。」
そして、それから14年後に、山際淳司は、「読み終えた本をパタンと閉じるように」、去っていった。
この章の後註は次の通り。
「もっと長生きしてほしかった大事な友人の一人です。本名で週刊誌に連載していた『現代人劇場』という人物ルポを読み、即座に連絡を取りました。会うなり親しくなりました。持ち味が遺憾なく発揮されたのは、本格的デビューとなった『江夏の21球』です。意表を突く角度から、鮮やかに人間ドラマを切り取ります。注がれる眼差しが温かく、それでいて湿っていないのが特徴でした。」
これだけなら、しんみりするけれども、それはこの章を読んだというだけのことだ。
しかし続いて、山川方夫の『展望台のある島』を取り上げるに及んで、これは著者が、というよりも編集者が、著者のかすかな意図を感じ取り、死者を意図的に次々に呼び出していくのが、いやでも納得されよう。
山川方夫は、34歳で、交通事故で逝った。その前の年に結婚し、「新潮」に「最初の秋」と「展望台のある島」を載せ、その二作を一つの作品とするために、改稿を始めたばかりだった。
しかしそもそも河野氏は、なぜ手に入る限りの山川方夫を、集めたのだろうか。
「もちろん山川の誠実な作風、『個』を見つめ『生』を希求する透徹した筆致など、作品の魅力が強く心に働きかけたことは言うまでもありません。しかし、そもそものきっかけは、評論家・江藤淳の鮮烈なデビュー作となった『夏目漱石』を書かせた名伯楽として、山川方夫の名前を記憶に刻んだことが大きな理由でした。」
そう、僕らの世代はみんな、江藤淳の『夏目漱石』を経由して、山川方夫に行き着いたのである。だから、江藤の「山川方夫と私」は、『夏目漱石』の次に、読んだものだ。そこに、こんな一節がある。
「〈君がいなくなってからいろいろなことがおこり、私の確信はますます強まらざるを得ない。つまり、生きるにあたいするから生きるのではない。なにものかへの義務のために生きるのだ、という確信が。そのなにものかとは、なんだろう? 山川、それを私に教えてくれないか。〉」
僕が、遠く胸の底に忘れてしまった一節を、しかし河野氏は、執拗に思い出している。
「このエッセイが書かれた29年後、よもやと思われた江藤氏の自死を知らされた時に、この一文がしきりと頭をよぎりました。」
競い合う編集者――『「考える人」は本を読む』(2)
具体的に本文を見ていこう。最初の『それでも、読書をやめない理由』から引かれている次の文章が、全体を貫く骨格になっている。
「〈現代人が触れる情報の多くは表面的なものばかりだ。人々は深い思考や感情を犠牲にしており、しだいに孤立して、他者とのつながりを失いつつある。〉」
こうして全体の土台を示すと、今度は一転、アクロバティックに、『〆切本』の世界を、三週かけて極める。
とはいうものの、これにかかずりあっていては、あまりに面白くて、道を踏み惑う。ここでは、「尋常ならざる凄みを感じ」させる、〆切を延ばす名文句から、二、三、挙げておこう。
「用もないのに、ふと気が付くと便所の中へ這入っている。」
「私の頭脳は、完全にカラッポになってしまったのです。」
「殺してください。」
最後の「殺してください」が、簡潔で泣かせる。
「Ⅰ 読書を考える」の最後の章は、石神井書林の内堀弘氏の『ボン書店の幻――モダニズム出版社の光と影』である。ボン書店は、昭和の初期に、モダニズムやシュルレアリスム関係の本を出していた、夫婦二人だけの小出版社。しかし妻と夫は若くして、つぎつぎと結核に倒れた。
「うたかたの夢のように現われて、やがて誰に知られるともなく消えて行った短く哀切な人生」、と河野氏は痛切に、簡潔に要約する。
この単行本は、1992年に京都の白地社から出ており、2008年には、筑摩書房から文庫が出ている。しかし、この文庫は、親本そのものではない。親本が出た後、驚くべき進展があり、それは「文庫版のための少し長いあとがき」として、その経緯を収める。
単行本の段階では、杳として知られなかったボン書店のその後が、大分県の郷里の村まで、足跡が辿られる。その最後の言葉。
「〈枝葉の間に実がなっていて、近づくとそれは梨の実だった。
・・・・・・・・・・・・
息子と一緒に植えた梨の木にちがいなかった。親子が姿を消し、誰も住まなくなった小さな土地で、梨の苗木は静かに育っていたのだ。広がった枝はもう空を隠している。
これが墓碑なのだと私は思った。〉」
ちなみに朝日新聞読書面の、当時の編集長は、この年度の一冊を挙げるとすれば、『ボン書店の幻』だと述べている。
そしてこれ以後、目次の「Ⅱ 言葉を考える」「Ⅲ 仕事を考える」とは別の、いわば「死者の本」を呼び出す、核の部分ができていくのである。
「〈現代人が触れる情報の多くは表面的なものばかりだ。人々は深い思考や感情を犠牲にしており、しだいに孤立して、他者とのつながりを失いつつある。〉」
こうして全体の土台を示すと、今度は一転、アクロバティックに、『〆切本』の世界を、三週かけて極める。
とはいうものの、これにかかずりあっていては、あまりに面白くて、道を踏み惑う。ここでは、「尋常ならざる凄みを感じ」させる、〆切を延ばす名文句から、二、三、挙げておこう。
「用もないのに、ふと気が付くと便所の中へ這入っている。」
「私の頭脳は、完全にカラッポになってしまったのです。」
「殺してください。」
最後の「殺してください」が、簡潔で泣かせる。
「Ⅰ 読書を考える」の最後の章は、石神井書林の内堀弘氏の『ボン書店の幻――モダニズム出版社の光と影』である。ボン書店は、昭和の初期に、モダニズムやシュルレアリスム関係の本を出していた、夫婦二人だけの小出版社。しかし妻と夫は若くして、つぎつぎと結核に倒れた。
「うたかたの夢のように現われて、やがて誰に知られるともなく消えて行った短く哀切な人生」、と河野氏は痛切に、簡潔に要約する。
この単行本は、1992年に京都の白地社から出ており、2008年には、筑摩書房から文庫が出ている。しかし、この文庫は、親本そのものではない。親本が出た後、驚くべき進展があり、それは「文庫版のための少し長いあとがき」として、その経緯を収める。
単行本の段階では、杳として知られなかったボン書店のその後が、大分県の郷里の村まで、足跡が辿られる。その最後の言葉。
「〈枝葉の間に実がなっていて、近づくとそれは梨の実だった。
・・・・・・・・・・・・
息子と一緒に植えた梨の木にちがいなかった。親子が姿を消し、誰も住まなくなった小さな土地で、梨の苗木は静かに育っていたのだ。広がった枝はもう空を隠している。
これが墓碑なのだと私は思った。〉」
ちなみに朝日新聞読書面の、当時の編集長は、この年度の一冊を挙げるとすれば、『ボン書店の幻』だと述べている。
そしてこれ以後、目次の「Ⅱ 言葉を考える」「Ⅲ 仕事を考える」とは別の、いわば「死者の本」を呼び出す、核の部分ができていくのである。