棋士の何を見るか――『不屈の棋士』(3)

ほかに村山慈明が、コンピュータと将棋の美しさについて、面白いことを言っている。

「村山 ・・・・・・ソフトの将棋は形がグロテスクというか、美しさがまったくない。でもそれは人間の感覚で、ソフトからしたらあれが美しいのかもしれない。」
これはプロのみが、肌で知る感覚である。
 
村山はあくまで正統派である。ソフトが発達した現代に、いったいどういう将棋を指そうとしているのか、という問いに対して、こんなふうに応えている。

「村山 とにかく内容重視でいい将棋を指したい。私は勝った時も相手が勝手に転んだような将棋だとうれしくないんです。」
 
しかしその正統派の将棋で、「形がグロテスク」なソフトに、太刀打ちできるのか。他人事ながら、悩みは深そうである。
 
これに対して佐藤康光は、じつに明快である。だいたいこの人は、コンピュータ・システムに指南してもらわなくとも、とにかく自由奔放なのである。

「ちまちまとした修正ではなく(それも十分価値があるが)、人をあっと驚かすような、見たこともない絵模様を盤上に浮かび上がらせるのが佐藤なのだ。」
 
もちろん佐藤は、そんなことはない、きちんと理論に基づいてやっている、というけれど。「将棋魂」――佐藤はたまに、この言葉を揮毫することがある。確かに、ソフトに「魂」はない。

「佐藤 (将棋は)結論を出すためのゲームではない。将棋には、形勢が悪くても逆転するという魅力がある。それは持ち駒が使えるという、将棋ならではの魅力なんです。プロ棋士のいちばん好きな勝ち方ってわかりますか。逆転勝ちなんです。」

佐藤のこの言葉には、将棋の神髄がある。
かつて、大山康晴十五世名人も、言っていた。人間はミスをする動物である、と。しかし今、ミスをしないコンピュータが、相手として出てきたのだ。これを、どう考えたらいいか。
 
僕は、例えばNHK杯の将棋を見続けるだろう。終盤の手に汗握る攻防は、相変わらず、ずっと面白いにちがいない。けれどもすでにコンピュータがあって、それと比較して、時の名人以下プロの棋士たちの指し手があるとすれば、やっぱりその面白さは、どこかに影が差している、ということにならないだろうか。
 
こっちの棋士は、コンピュータに比較すれは60点、あっちの棋士は、90点、そんな見方を、僕は好まないけれど、でも人の見方は、どこでどう影響を受けるかわからない。コンピュータを参照しながら、将棋を見るようなことは、絶対にしないつもりだけれど、そんなことはしないと自分を信じているけれど、でも行く手には、ぼんやりと影が差している。

(『不屈の棋士』大川慎太郎、講談社現代新書、2016年7月20日初刷、8月2日第2刷)