奇妙な余韻――『あひる』

「あひる」「おばあちゃんの家」「森の兄妹」の三作を収める。濃淡はあるが、どれも不思議な味わいを残す。

「おばあちゃんの家」と「森の兄妹」は、あまりに淡彩で、これではよくできた子供の作文と、区別がつかないと言われそうだ。たしかにそうだが、よく読むと、文章は丹念だが、それが危ういところに立っている、という気がしてくる。こういう文章こそを、的確に書評しなければいけないのだけれと、難しい。

「あひる」は他二作に比べれば、奇妙な味が際立っている。「のりたま」というあひるを譲り受けて、飼い始めるのだが、そこへ近所の小学生が連れ立って、のりたまを見にくる。晴れた日には庭先で、何人もの子供たちのがやがやという声がする。

「わたしは終日二階の部屋にこもって、医療系の資格を取るための勉強をしていたので、初めはそんな状況の変化に戸惑った。でもじきに慣れて、気づけば外から聞こえてくる笑い声もあまり気にならなくなっていった。」
 
ここまで、非常にスムーズに流れてくるが、しかし子供たちの声が、庭先で毎日聴こえてくると言うのは、考えてみれば、ちょっとおかしいと言えばおかしい。話者の女は、「医療系の資格を取るための勉強をしていたので、」などと、もっともらしいことを言うので、そのまま行き過ぎてしまうが。

「かわいいお客さんが増えて、父と母は喜んだ。・・・・・・孫がたくさんできたようだと、両親は縁側から庭を眺めながら、顔をほころばせていた。」
 
非常にスムーズに読めるので、ここまですんなり来てしまうが、考えてみれば、毎日毎日、小学生を歓迎するのはちょっと変である。しかし、変ではないという意見も成り立つ。
 
そのうちに、のりたまの具合が悪くなって、動物病院に入院する。二週間たって、のりたまは病気が治って帰ってくるけども、それはどうも、のりたまではないようだ。

「のりたまじゃない、という言葉がのどまで出かかった。本物ののりたまはどこ行った?
 でも、何も聞けなかった。父と母が緊張した様子で、わたしの次の言葉を待っているのがわかったからだ。
『べつにどうもしない』と、わたしは言った。」
 
父と母が緊張した様子で、次の言葉を待っているから、「わたし」は本当のことが聞けない、と言うのもおかしな話だ。
 
そういうことが何度かあり、そしてあひるは死ぬ。それで話はおしまいだけど、その間、子供たちが家に入ってきたり、誕生日会でご馳走を用意するのだけど、誰も来ないということがある。でも、誕生日会に誰も来ないわけは、分からない。
 
その誕生日会の日に、夜、突然、子どもがひとりやってきて、カレーや誕生日のケーキをたらふく食べて、さっと帰る。

「わたし」は一晩考えて、あひるが男の子の姿を借りて、現われたと分かる。でも、あひるが現われたと分かる理由は、分からない。

「『のりたま』
 小屋の外から呼びかけた。せめて直接伝えたかった。
『ゆうべはありがとう。お父さんとお母さん、あなたが来てくれて嬉しそうだった。』
のりたまは返事をしなかった。」
 
そういうわけで、夜、子供がカレーをご馳走になるところが、一つのクライマックスだと分かる。
 
そんなふうに、いろいろと分かることが、後からぽろぽろと出てくるが、でものりたまの替え玉が死んだことを含めて、だいたい中に浮いている。その浮き方が地上数センチで、なんともおかしい。

それゆえ「あひる」は、長く奇妙な余韻が残る。

(『あひる』今村夏子、書肆侃侃房、2016年11月21日初刷)