最後の雑誌編集者――『言葉はこうして生き残った』(4)

しかし河野さんの不思議な魅力は、じつは、こんなところだけに、あるわけではない。それはたとえば、「寅彦のまなざし」の章によく顕われている。

「私にとってもっとも本書(柏木博「日記で読む文豪の部屋」)で面白かったのは寺田寅彦の章でした。漱石門下にあって異彩を放った文人肌の物理学者です。
 そんな寅彦が正岡子規を訪ねた時の様子が紹介されています。」
 
そうして寅彦の「根岸庵を訪う記」が引用される。
「黒い冠木門の両開き戸をあけるとすぐ玄関で案内を請うと右わきにある台所で何かしていた老母らしきが出て来た。姓名を告げて漱石師よりかねて紹介のあったはずである事など述べた。玄関にある下駄が皆女物で子規のらしいのが見えぬのがまず胸にこたえた。外出という事は夢のほかないであろう。」
 
読点が少ないのは、昔の文章だからしょうがない。しかしこの呼吸、目配りは、現代人の文章といっても、十分に通用する。
 
次は寺田寅彦の、「乞食」と題する随筆である。ある日、裏木戸をあけて縁側に、一人の乞食が入ってくる。国へ帰る旅費がないといって、哀しい顔をするので、小紙幣を一枚だけやると、乞食は、「だんな様、どうぞ、おからだをおだいじに」と挨拶をした。

「『どうぞ、おからだをおだいじに』と言ったこの男の一言が、不思議に私の心に強くしみ透るような気がした。これほど平凡な、あまりに常套であるがためにほとんど無意味になったような言葉が、どうしてこの時に限って自分の胸に食い入ったのであろうか。乞食の目や声はかなりに哀れっぽいものであったが、ただそれだけでこのような不思議な印象を与えたのだろうか。しゃがれた声に力を入れて、絞り出すように言った『どうぞ』という言葉が、彼の胸から直ちに自分の胸へ伝わるような気がすると同時に、私の心の片すみのどこかが急に柔らかくなるような気がした。」

「現代の名随筆」として、今年選ばれたとしても、おかしくはない。
河野さんは「彼(寅彦)の短文集『柿の種』(岩波文庫)を、ふと読み返したくなりました」というところで止めているけれど、これが明治大正の文章だということは、一考を要する。
 
たとえば、子弟という関係から、漱石は寅彦に影響を与えたと想像されるけれど、文章を見る限り、先生と弟子は、互いに影響を与えあっていたのではないか。そして、こと文章に関する限りは、寺田寅彦の方が、持って生まれたセンスは、漱石よりも新しい。その新しさに感応するところが、河野さんの非凡なところだ。
 
そういう目で、この本の全体を見れば、たとえば「古書を古読せず、雑書を雑読せす」、「こんな古本屋があった」、「寂寥だけが道づれ」、「生涯一教師」、「美女とコラムニスト」、「言葉に託された仕事」、「父の目の涙」、「翻訳という夢を生きて」などは、河野さんの独特の目が、見事に光を当てて、独特の光景を浮かび上がらせている。

以上は、この本のごく一部を触ったに過ぎない。この本の内容は、あまりに芳醇すぎて、描き切るのは難しい。これを、編集長という仕事の傍ら、毎週配信するというのは、想像を絶するものがある。

『考える人』は4月で休刊になるという。河野通和氏が今度はどんな雑誌をやるか、興味津々である。なぜなら河野さんは、時代状況を見れば、おそらく雑誌における最後の大編集者だから。もし河野さんが手を引けば、その瞬間、日本の総合雑誌・教養雑誌の命脈は尽きるといってもいい。

けれども編集長という激務の傍らで、これだけおもしろいものが書けるのであれば、では筆一本になったとき、いったいどれほどのものが書けるのか。そちらもぜひ見てみたい。河野通和という人の行く先は、しばらく目が離せないのである。

(『言葉はこうして生き残った』河野通和、ミシマ社、2017年2月1日初刷)

最後の雑誌編集者――『言葉はこうして生き残った』(3)

もうすこし司修さんの話を続ける。
「ぼくには『テキストを深読みする』という〝悪い癖〟があるとおっしゃる方です。どの作家とも長時間をともにし、舞台となった土地を歩き、それらを滋養としながら仕事をするのが流儀です。」(「装幀の奥義」)
 
司さんの仕事では、松谷みよ子が原稿を書いた絵本『まちんと』もある。これは三歳になる女の子が、原爆に遭って息絶え、鳥になって「まちんと まちんと」(もっと もっと)と水を求めて、空を飛びまわる話だ。この絵本を一度見た人は、終生その絵が焼き付いて離れることはない。
 
松谷さんは、その本の「あとがき」に書いている。
「司さんは『すっかり仕上がった絵をずらりとならべてみせてくださったかと思うと、すぐぱたぱたとしま』うと、『一さつ描いてみて、見えてきました。ぜんぶ新しく描きなおします』と言って、一冊分をすべてやり直した、と。
 そうか。こういう長い時間を経て、一九七八年刊の初版本ができあがったのか、と得心します。」(同)
 
一冊やってみて、見えてきたことがあり、だからもう一度やり直す。もう一度やり直した結果だからこそ、あの奇跡的な絵がある。そんな人は、もういないんじゃないか。
 
しかし、問題は挿絵ではなく、それに十倍するところの、野坂さんの原稿なのだ。
野坂昭如著「行き暮れて雪」の顚末は、この本の中でも白眉だ。

「追跡劇はいつも予想を超えた波乱含みのゲームでした。ラクをしてすんなり四〇枚の原稿を手にすることは一度としてなく、こうした一連の〝儀式〟を共にすることで、締切のどんづまりに向けて自らの妄想をかき立てていく作家の役づくりをお手伝いしている、といった感もありました。
 追いかけて新潟、山形、神戸・・・・・・。逃亡先を突き止め、夜汽車で追い、現地で身柄を拘束して、東京へ連れ戻す。」(「野坂番のさだめ」)
 
こういうことは、もうほとんどない。締め切りを守らなければ、執筆者のリストから消されてゆくばかりだ。けれども、ではあの締切を守れない著者がごろごろしていた頃は、なぜコクのある原稿が多かったのか。

「村松(友視)さんともよく語り合ったものですが、あれだけ酷い目にあって、いいかげん腹も立ち、もうしばらく原稿を頼むのは止めよう、と思う端から、最後の一枚がようやく手に入った瞬間に、怒りはすっかり消え失せて、ゴールした喜びをともに分かち合うような共感が生まれるのはなぜだろう、と。」(同)
 
それはもちろん、「現地で身柄を拘束して、東京へ連れ戻す」刑事の心意気である、というのは冗談だけれど、でもこれは、本当に不思議だ。

最後の雑誌編集者――『言葉はこうして生き残った』(2)

だからたとえば、「石川達三の『生きている兵隊』」事件などは、河野さんにとって戦前のことと忘れるわけにはいかない。

「私自身はこの事件から六十年以上も後に『中央公論』の編集長職に就きました。そして何度か必要があって、当時の関係者の証言、回想録のほとんどすべてに目を通しました。」(「言論統制の時代」)
 
該当箇所の切り抜かれた「中央公論」は、かくして再び出て行くのだが、そこに至るまでの、河野さんの筆さばきは見事だ。

「当時の『中央公論』の発行部数が約七万三〇〇〇部。全冊が回収されたわけではないにせよ(約一万八〇〇〇部が差し押さえを逃れ、それが海外で翻訳されるなど後々問題をこじらせます)、尋常の数ではありません。
 三月号は全体で約六〇〇ページ。そこから一〇六ページ分を切り取ります。・・・・・・それにしても当時八〇名足らずの社員で、押収された約五万五〇〇〇部を処理するとなれば、単純計算でも一人あたり七〇〇冊近くから切り取らなくてはなりません。たいへんな肉体労働です。その間じゅう、胸にどういう思いが去来していたか、想像するだけで暗澹たる気分におそわれます。」(同)
 
そんなふうに、「暗澹たる気分」をどこまでリアルに想像できるかどうか、編集長の資質は、そこに掛かっているといえる。
 
この本は、37本のコラムからなっている。だから、付け合わせの妙も堪能できる(これは河野さんではなくて、この本を編集した担当者の功績か)。
 
たとえば「『再版』の効用」の章。
河野さんは、雑誌連載で水上勉さんと北陸を旅したとき、真宗の僧侶・暁烏敏(あけがらすはや)のゆかりの地を旅した。水上さんの書く記事とは別に、3ページのカラーグラビアが組まれていたのだが、事件はそのカラーページで起きた。「暁烏敏」が、すべて「焼鳥敏」になっていたのだ。

河野さんは生きた心地がしなかったろうが、しかし周りにしてみたら、おかしいことこの上ない。そして若いうちのこういうことが、編集者の血や肉になるのである、たぶん。
 
ほかにも例として、いくつか挙げられている。
「➀かつて岩波書店の奥付で、発行人を『岩波雑二郎』にした(正しくは雄二郎)、②同じく岩波書店で、ギリシャ悲劇の『アンティゴネー』を『アンコティゴネー』にした、③筑摩書房では、カバー背の社名が『筑房摩書』になっていた、④きわめつけは『汝、姦淫するなかれ』を『汝、姦淫せよ』とした聖書、などでした。」
当事者でなければ、笑って済ませても、聖書以外は罪は軽い、たぶん。
 
河野さんは、装幀も、極めつけを出してくる。
「司修という名前をはっきり脳裏に刻んだのは、古井由吉さんの『杳子・妻隠』(河出書房新社、一九七一年)の装幀家としてでした。表紙に描かれた「一本の木」の姿をした痩身の女性像が忘れられません。」(「装幀の奥義」)
 
僕は、河野さんと同じ年齢だ。だから「一本の木」の姿をした女性像、といっただけで、もうだめだ。それがありありと、浮かんで来る。

その古井さんの芥川賞受賞記念の席で、司修さんは、武田泰淳の代表作『富士』の装丁を依頼される。この『富士』の、鳩が羽を広げた装幀こそは、最も美しい、最も力強い、この世に並ぶ物のない装幀なのだ。

河野さんは入社まもないときに、その司修の挿絵で、あの野坂昭如の雑誌連載の担当をする。このお二人を、一本の作品で同時に担当するということは、ちょっとでもその世界を知るものには、恐ろしくて身がすくむ。

最後の雑誌編集者――『言葉はこうして生き残った』(1)

本を題材に、類いまれな傑作が生まれた。著者の河野通和氏は、季刊雑誌『考える人』(新潮社)の編集長。この本は、彼が7年にわたって毎週発行している、都合300本余のメールマガジンから、37本を選んだもの。

でも、メルマガから選んだものというには、あまりに面白すぎるし、また考えさせられもする。時に対象と深く切り結び、時におおらかに、笑いをもって本に接し、その行くところ、出版社の歴史を紐解き、出版人・著者たちの過去から現在に及び、果ては古本、映画など、至らざるはない。
 
さっそく読んでゆこう。
まずは滝田樗陰である。大正元年に31歳で『中央公論』の編集長になると、執筆者たちは、樗陰の人力車が家の前で止まり、原稿を依頼されることを願ったと言う。
 
河野さんもまた、何代めか後の『中央公論』編集長である。後輩は、先輩をどう見ていたか。
「それにしても樗陰という男はとてつもないスケールの人間だったようです。・・・・・・ともかく情熱家、活動家、努力家、並はずれた読書家にして健啖家であり、エネルギーの量がとてつもない人物であったことは誰しも認めるところです。・・・・・・
 さらに人に飲み食いさせることが大好きという性格の持ち主で、それがしばしば強引過ぎたため、『食らい殺されはしないかと、不安を感じた』人も少なくなかったようです。」(「燕楽軒の常客」)
 
ふつうは歴史上の、はるかかなたの人物だが、それにしては、ほかのところを読んでも、彼我の距離がどうも小さい。どうやら河野さんは、この怪物編集長に個人的な親しみを感じているらしい。
 
そういう例は、洋の東西を問わない。編集者、とくに大編集者が急場に陥っていたりすると、河野さんの筆は迫真の力を見せ、対象に乗り移る。

ウィリアム・ショーンは、『ニューヨーカー』の名物編集長だった。ジョン・ハーシーの「ヒロシマ」、トルーマン・カポーティの「冷血」、レイチェル・カーソンの「沈黙の春」は、ショーンが編集長をしているときに、『ニューヨーカー』に掲載された。

ハンナ・アーレントの「イェルサレムのアイヒマン」もまた、ここに載った(「ハンナ・アーレント」その1・その2)。これは掲載されるや、アウシュビッツのありふれた悪、つまり「悪の陳腐さ」でひときわ有名になるが、一方、ユダヤ人指導者たちが、ガス室送りに手を貸したことを明るみに出したために、アーレントと『ニューヨーカー』は轟々たる非難を浴びた。

ショーンの苦境は、アーレントがヨーロツパからの亡命者であり、英語が達者ではなかったことで、倍加する。アーレントは、原稿の表現を問題にする彼に食ってかかり、罵詈雑言を浴びせる。それでも彼は粘り抜く。その胸の内を、河野さんは的確に言い当てる。

「『編集者の自由』という先述の言葉に、おそらく尽きるのだろうと思います。書き手たちが『可能なかぎり自分自身でありうるようにしむける義務がある』というひと言です。そこで自らを抑制し、踏みとどまることが、身についた職業倫理――『編集者の自由』だと考えたのでしょう。」
 
ここまできて読者は、いよいよ河野さんは、大文字で書かれる大編集者の一人であることを、思い知るのである。

文章で音楽を――『蜜蜂と遠雷』

これはなんというか、音楽を文章で表現したいという熱意だけで、全編が貫かれている。

だからピアノコンクールに臨む、女主人公の栄伝亜夜や、それと釣り合うジュリアード音楽院のマサル・C・レヴィ・アナトール、養蜂家の父とともに各地を転々とする、ピアノをもたない天才児、風間塵、そしてコンクール年齢上限ぎりぎりの高島明石の四人は、少女マンガの登場人物に見える。
 
これでよく直木賞が取れたな。それが取れるのである。文章で音楽を現したいという以外のことは思っていないから。あとはほんとに通俗の極みである。むしろ、あとは通俗というのが、かえって主題を際立たせている。
 
音楽を文章で表現した、ほんのさわりのところ。
「しかし、ザカーエフのブレーキは故障したままだった。というよりも、完全にテンポについての意識がどこかに飛んでしまったのだろう。道路標識も、カーブも、すべてを無視して突っ走り、どこかにぶつからない限り彼の演奏は終わらないのだ。
 一本調子の、それもつんのめるような速さで演奏は突き進んでいった。」
 
これは、三次予選のトップバッターが登場するところ。三次予選まで来て、そのトップで焦っているところだ。
 
次は音楽に乗って、どこまでも、なんというか、イッてしまう様子。
「いいなあ、そこって、すごい気持ちよさそうな場所だよね。
 塵はうっとりとステージの上から吹いてくる風を受け止める。
 彼には、亜夜のいる場所が分かった。
 青々とした草原、降り注ぐ光。
 おねえさん、まだまだ、そこで飛べるよね。
 塵は目をつむり、亜夜と一緒に宙を舞っている。」
こういうところも、しかし考えてみれば、少女マンガ的ですね。
 
僕はこの作品を、かなり面白く読んだ。でも同じ著者の本は、もう二度とは読まないだろう。それは例えば、こういうところがあるから。
「ところが、逆に勇気を貰った。」
校閲は必ずや指摘したろうと思う。だから恩田陸は、確信犯としてこれをよしとしている。僕は駄目だ。

(『蜜蜂と遠雷』恩田陸、幻冬舎、2016年9月20日初刷、12月25日第7刷)

これは難しい――『独裁国家・北朝鮮の実像―核・ミサイル・金正恩体制―』(2)

そもそも北朝鮮と向き合うときの、心構えの問題がある。
「坂井 ・・・・・・北朝鮮というのは交渉するに値しない、決めても守らない国なのか、それとも、交渉でギリギリのところを狙ってくるかもしれないけれど、根本的には信頼できないわけではない国なのか、どう思いますか。
 
 平岩 私はどちらかと言うと後者だと思っていますね。北朝鮮って、確かにずるいところはあるんだけど、北朝鮮からすると日本やアメリカや韓国だって。・・・・・・
 北朝鮮が一方的に約束を破ったことというのは、あんまりないような気がするんですよね。」
 
ほんとかね。考えてみれば、そういう目で、北朝鮮を見たことはないから、盲点であると言えば言える。でも、北朝鮮、よくわからないなあ。
 
かつての6者協議についても、新しい見方が示される。もちろん僕にとって、新しいということだが。

「中国にとっての北朝鮮でのレッドライン(超えてはならない一線)は、北朝鮮自身が核戦力を増強することよりも、それに対する国際社会の反応、具体的には、アメリカの過激な行動であり、さらには韓国、日本、台湾が核保有に向けて動き始めることなのかもしれません。6者協議はそうしたレッドラインを越えさせないための枠組みと言ってもいいかもしれませんね。」(平岩)
 
へー、そうかあ、そういうことか。しかしこれも、見方によるだろう。
 
北朝鮮の経済状況は、もうどん詰まりまで来ている、という見方も根強い。北朝鮮で隠し撮りされた、地方の食糧事情などを見ると、いかにも悲惨なありさまである。

ところが、「経済状況全体に対する評価で言うと、韓国で出される様々な推計を見ても、金正恩時代になって以降、微弱ながら北朝鮮経済は成長の傾向にある。たしかに苦戦しているのは間違いないと思うけれど、それをもって、『ギブアップ寸前』と見るのはどうか。」(坂井)
 
たしかにこれなんかは、繰り返しやってるテレビの洗脳の臭いがする。
要するに、北朝鮮は破綻国家で、経済はちゃんと回っていなくて、若い最高指導者が気まぐれに、ちょっと気に入らないことがあると、身内を含む側近をどんどん粛清しちゃう、というような見方は間違っている。彼ら二人は、そういうことを主張している。
 
しかし現実には、どんどん側近が粛清されているし、金正男は暗殺された(もちろん、あれは別人であるという、北朝鮮の報道もあるにはあるが)。やっぱりまともな国として見るのは、そうとう無理があるとしか思えない。
 
ただ次のようなことは、僕には盲点だった。
「本当に核兵器を保有することが目的だったとすれば、明示的なやり方ではなく、秘密裏に開発することも可能だったと思います。」(平岩)
 
たしかに核を秘密裏に開発し、それを隠し持っておくというのは、考えればありそうなことだ。と言うよりも、その方が恐ろしい。

しかし、そうでないやり方を、北朝鮮はとっているわけだから、核は「見世物」と考えたほうがよい。もちろん核を誤って誤射するのは、いかにもありそうな話で怖いけども。
 
他にもいろいろな点で、この本は勉強になった。なによりも北朝鮮の立場に立ってみると、というのが新鮮だった。
 
しかし一方に、個人崇拝の狂気の世界が渦巻いていて、これも僕の頭では、どうしようもなくリアルだ。

(『独裁国家・北朝鮮の実像―核・ミサイル・金正恩体制―』
  坂井隆・平岩俊司、朝日新聞出版、2017年1月30日初刷)

これは難しい――『独裁国家・北朝鮮の実像―核・ミサイル・金正恩体制―』(1)

これは、編集者のNさんが送ってくれた。いまふうの文芸ものばかり読んで、いい加減な感想を述べてないで、たまには骨のあるものを読んで書評してみなさい、ということだと思う。
 
でもこれを読んでいるとき、金正男(と思われる男)の暗殺が起こった。そしてまた北朝鮮は、ミサイル4発を打ち上げた。そういうことを見たり聞いたりしていると、テレビや新聞と、この本との乖離は、凄まじいと思う。
 
それはともかく、まず読んでみよう。この本は、坂井隆・平岩俊司の対談本である。
「大量破壊兵器の存在を疑われ実際に持っていなかったイラクのフセイン、核を放棄したリビアのカダフィの事例から、体制を維持するためには絶対核兵器を持たなければならない、北朝鮮指導部はそう確信したのだと思います。」(平岩)

「北朝鮮にしてみれば」というのが、二人の対談者の基本姿勢で、考えてみれば、これは当たり前の姿勢だが、しかし北朝鮮の立場に立ってみる、というのは新鮮で珍しい。

坂井隆氏は、元公安調査庁で北朝鮮を担当、平岩俊司氏は、関西学院大学や南山大学で教鞭を取り、専門はやはり北朝鮮である。

「気を付けなきゃならないのは、あの国を『わけの分からない国だ』とか、『若い指導者が気まぐれで何かやっている』と見ないことです。彼らは彼らなりの目的を持って着実に邁進している。」(平岩)
うーん、そうかなあ。とてもそうは思えないんだけど。

「アメリカや韓国は『これ以上放置したら危ない』という状況が生まれないと交渉に応じてこない。だから北朝鮮の瀬戸際政策もだんだん過激になっていくわけですね。」(坂井)
 
北朝鮮の立場に立てば、そういう言い方もできるかもしれない。でも逆に無理に緊張を高めるだけで、かえって北朝鮮は面倒だ、そこから北朝鮮危うし、とならないだろうか。トランプがしびれを切らし、面倒だ、核を先制でお見舞いしてやるぞ、とならないだろうか。僕はこの方が、危ないと思うけど、でもわからない。追い詰められた者には、追い詰められた者の、切羽詰まった思いがある、ということだろうか。

「核問題は、『開発』『拡散』『配備』のステージがあるわけです。・・・・・・拡散のところはなんとしても止めなければ、とりわけ中東のテロリストに北朝鮮製の核が渡るというのは悪夢だと。これが1回目の核実験のあとのブッシュ政権の基本的認識だったと言ってよいでしょう。」(平岩)
こういうこともあるんだから、国際政治は本当に分からない。

「冷戦期は東西冷戦の枠組みで自分たちの安全はなんとか維持できていたけれども、冷戦の終焉とともにソ連、中国が韓国と国交正常化してしまい、自分たちだけが一方的にアメリカの脅威にさらされてしまっている、この状況を何とか解消したい、というのが、いまの彼らの理屈なんだと思うんですね。」(平岩)
 
こういうふうに理路整然としゃべってくれれば、対処の仕様もあると思うんだけども、こちらが、そういうふうに忖度しなければならないということは、北朝鮮の極度に貧しい外交政策のなせる業ではないか(なーんて、ちょっと「専門家」みたいだ)。

奇妙な余韻――『あひる』

「あひる」「おばあちゃんの家」「森の兄妹」の三作を収める。濃淡はあるが、どれも不思議な味わいを残す。

「おばあちゃんの家」と「森の兄妹」は、あまりに淡彩で、これではよくできた子供の作文と、区別がつかないと言われそうだ。たしかにそうだが、よく読むと、文章は丹念だが、それが危ういところに立っている、という気がしてくる。こういう文章こそを、的確に書評しなければいけないのだけれと、難しい。

「あひる」は他二作に比べれば、奇妙な味が際立っている。「のりたま」というあひるを譲り受けて、飼い始めるのだが、そこへ近所の小学生が連れ立って、のりたまを見にくる。晴れた日には庭先で、何人もの子供たちのがやがやという声がする。

「わたしは終日二階の部屋にこもって、医療系の資格を取るための勉強をしていたので、初めはそんな状況の変化に戸惑った。でもじきに慣れて、気づけば外から聞こえてくる笑い声もあまり気にならなくなっていった。」
 
ここまで、非常にスムーズに流れてくるが、しかし子供たちの声が、庭先で毎日聴こえてくると言うのは、考えてみれば、ちょっとおかしいと言えばおかしい。話者の女は、「医療系の資格を取るための勉強をしていたので、」などと、もっともらしいことを言うので、そのまま行き過ぎてしまうが。

「かわいいお客さんが増えて、父と母は喜んだ。・・・・・・孫がたくさんできたようだと、両親は縁側から庭を眺めながら、顔をほころばせていた。」
 
非常にスムーズに読めるので、ここまですんなり来てしまうが、考えてみれば、毎日毎日、小学生を歓迎するのはちょっと変である。しかし、変ではないという意見も成り立つ。
 
そのうちに、のりたまの具合が悪くなって、動物病院に入院する。二週間たって、のりたまは病気が治って帰ってくるけども、それはどうも、のりたまではないようだ。

「のりたまじゃない、という言葉がのどまで出かかった。本物ののりたまはどこ行った?
 でも、何も聞けなかった。父と母が緊張した様子で、わたしの次の言葉を待っているのがわかったからだ。
『べつにどうもしない』と、わたしは言った。」
 
父と母が緊張した様子で、次の言葉を待っているから、「わたし」は本当のことが聞けない、と言うのもおかしな話だ。
 
そういうことが何度かあり、そしてあひるは死ぬ。それで話はおしまいだけど、その間、子供たちが家に入ってきたり、誕生日会でご馳走を用意するのだけど、誰も来ないということがある。でも、誕生日会に誰も来ないわけは、分からない。
 
その誕生日会の日に、夜、突然、子どもがひとりやってきて、カレーや誕生日のケーキをたらふく食べて、さっと帰る。

「わたし」は一晩考えて、あひるが男の子の姿を借りて、現われたと分かる。でも、あひるが現われたと分かる理由は、分からない。

「『のりたま』
 小屋の外から呼びかけた。せめて直接伝えたかった。
『ゆうべはありがとう。お父さんとお母さん、あなたが来てくれて嬉しそうだった。』
のりたまは返事をしなかった。」
 
そういうわけで、夜、子供がカレーをご馳走になるところが、一つのクライマックスだと分かる。
 
そんなふうに、いろいろと分かることが、後からぽろぽろと出てくるが、でものりたまの替え玉が死んだことを含めて、だいたい中に浮いている。その浮き方が地上数センチで、なんともおかしい。

それゆえ「あひる」は、長く奇妙な余韻が残る。

(『あひる』今村夏子、書肆侃侃房、2016年11月21日初刷)

着想はいいが――『コンビニ人間』

「しんせかい」以来、芥川賞づいてしまい、『コンビニ人間』も読んでみた。これは割とじわじわ来て、50万部を超えたというから、期待して読んだ。
 
結論から言うと、たいしたことはない。
主人公の女はアスペルガーである。それが成長するにつれて、どうなるかと思って読んでいたのだが、着想どまりだった。
 
たとえば、冒頭のあたりで、こういうところがある。
「小学校に入ったばかりの時、体育の時間、男子が取っ組み合いのけんかをして騒ぎになったことがあった。
『誰か先生呼んできて!』
『誰か止めて!』
 悲鳴があがり、そうか、止めるのか、と思った私は、そばにあった用具入れをあけ、中にあったスコップを取り出して暴れる男子のところに走って行き、その顔を殴った。」
 
こういう女の子が、どういう半生を辿ることになるのか。ひょっとすると、殺人まで犯すことになるのかどうか。誰でも、そういうことの想像までは行くだろう。
 
しかしその想像は、はるか手前のところでストップしてしまう。
「『いらっしゃいませ!』
 私はさっきと同じトーンで声をはりあげて会釈をし、かごを受け取った。
 そのとき、私は、初めて、世界の部品になることができたのだった。私は、今、自分が生まれたと思った。世界の正常な部品としての私が、この日、確かに誕生したのだった。」

開始20ページでこれだから、いやが上にも期待は高まる。
しかし終わりまで行っても、そこから一歩も出ることはない。

山下澄人の「しんせかい」といい、村田沙耶香の『コンビニ人間』といい、こんな片隅で、ちょっと外れた人間を描くばかりで、いいんかね。ほんとうにテレビと同じで、まともな人からは、相手にされなくなるよ。
 
そういえば、老健久我山のデイケアで会うKさんが、『コンビニ人間』は、あれはああいうもので、ちょっといいところもあるけど、でもああいう具合でしょう。昔は芥川賞も、該当作なしというのがあったけど、今は不況だから、とにかく何でもやらなければならない、と痛烈なことを言っていた。

(『コンビニ人間』
村田沙耶香、文藝春秋、2016年7月30日初刷、2017年2月10日第15刷)

奇跡の対話――『死と生きる―獄中哲学対話―』(2)

一審で死刑判決が出たが、陸田氏はこれを当然のこととして受け入れ、控訴はしないという。それに対する池田さんの返事はこうだ。

「全然、甘い。
 端的に私は、そう感じました。がっかりです。人を殺しておいて、そのうえ、かっこよく死んでやろうなんて、考えが甘すぎます。・・・・・・かっこよく死ぬことと、善く生きることとは、全く関係がありません。あなたはそこを、ごっちゃにしている。甘えるな。」
 
死刑囚だろうか何だろうが、全然お構いなし。そうでないと、相手の胸に届かない。とにかく、気軽に会って話して、という関係ではない。それどころか、時間もないし、相手を見すえて真っ向から立ち向かっていかないと、対話は成り立たない。
 
それにしても、まずは文章の書き方から、指導しなければならない。
「文章を書く際に、くだらないほうの人間を読者に想定しては、絶対にいけません。常に自分にとって最高と思われる読者をのみ、遠くに想定し、『その人』に向かって書くのです。」
 
でも睦田氏には、それだけでは漠然としすぎているかもしれない。そこで池田さんは、たとえば自分にとっては、こういう読者が相手になると説く。

「たとえば、私にとって最高の読者とは、真理を受けとめてくれる相手としての『神』であり、あるいは、より賢明である(だろう)数千年後の人類です。歴史上の偉人や哲人である場合もあります。文章を書くことを『いいほうに意識する』とは、つまりこういうことです。」
 
そうして陸田氏を、ピンポイントで射抜く。
「とはいえ、あなたには、往復書簡というこの形式において、とりあえずは私という『読者』がいるのだから、私にのみ向かって書くこと、そして、よそ見をしないこと、あらためて念を押しておきます。」
 
それでもやはり大変である。睦田氏は回心し、善く生きようとして、いろいろなことを学び始める。そして踏み迷って出られなくなる。池田さんはそれに対して、時に優しく、しかし大半は単刀直入に、相手に魂を込めた言葉を投げかける。

「あなたは、悪いと知らずにそれを為し、為してからそれを悪いと『知った』。これはいったいどういうことなのか。ここで起こったことはなんなのか、殺人を犯してのち、それを悔悟するという稀有な経験を経た者として、もう一度きちんと語ってみて下さい。」
 
こうして彼は、誰も語ったことのない当事者としての物語を、語り始めるのである。

(『死と生きる―獄中哲学対話―』
池田晶子・陸田真志、新潮社、1999年2月20日初刷)