毎週一回、老健久我山のデイケアに通っている。時間は午前9時から、午後3時半まで。総勢30人で、男と女が半分ずつくらい。午前中1時間、みんなで体操があり、午後の1時間は、いってみればレクリエーションの時間である。ほかに、専門の先生がついて、リハビリの時間が20~30分ある。ちょっと薄味だけど、昼飯も出る。
それ以外は自由であるが、みんなそれぞれ手足が不自由なので、自由時間とはいっても、活発に動き回る人はいない。僕は若い方から数えて、4番目か5番目くらい。90歳以上の人も、男女合わせて6、7名いる。
僕は、自由時間は、家から持ってきた本を、ひたすら読んでいる。
僕より少し上のKさんは、大手出版社の校閲係だった人で、この人も自由時間は、ひたすら本を読んでいる。老健の職員がKさんと僕を、ひたすら本を読んでいるんだから、話が合うだろうと、いつも隣り合わせにしてくれるが、考えて見れば、本を読んでいるのだから、話はほとんどしない。
それでも日によっては、少し話をする。
「『文藝春秋』の芥川賞、読んだかね。」
「「しんせかい」ですか。あんまり読む気しないですけど。」
「読まなくて正解だよ。3ページも読めなかったよ。選考委員の一人が、山下清の日記ふうだとクソミソに言ってたけども、さもありなんだ。」
そこで、「山下清の日記ふう」というのに惹かれて、読んでみた(この選評は島田雅彦による)。
「しんせかい」は、高倉健やブルース・リーになりたくて、脚本家・倉本聰の富良野塾に入り、そこで起こる一年間の記録を、わざと拙くつけたものだ。ただし倉本聰や富良野塾などの固有名詞は、いっさい出てこない。
文体に特徴があって、
「それは俳優と脚本家、脚本家というものが何なのかよくわからなかったので辞書で調べた、を目指すものを育てる知らない名前の人の主宰する場で、・・・・・・」
こんなふうに地の文章で、いわば関係代名詞のように、非常に露骨に挿入されているのが、個性といえば個性。この他、会話の文章も一見、山下清ふうに作ってあって、これがまあ工夫といえば工夫である。
島田雅彦の「しんせかい」の評は、「無個性のおばかさんが半自給自足生活のかたわら、劇団修業に励んだ青春時代を淡々と記録したもので、山下清の日記に通じるペーソスもあり、また人間関係の悩みも機微も排除した結果、立ち上がってくる無意味さに味があるものの、なぜこれが受賞作になるのかよくわからなかった。」
これは、「・・・・・・ものの、なぜこれが受賞作になるのかよくわからなかった」を取ってしまえば、そのまま授賞理由に使えそうですね。
僕はそれよりも、「しんせかい」というタイトルに違和感を持った。この人は、容貌からすると、失礼ながら高倉健やブルース・リーというよりは、「仁義なき闘い」方面の方が、ぴったりくる。それで「しんせかい」とくれば、大阪の新世界をどうしたって連想する。いったいいつ新世界方面が登場してくるのかと、どきどきしながら待っていたが、すっかりスカだった。でも、これはもちろん僕が悪い。
(「しんせかい」、山下澄人、『文藝春秋』3月号、2017年2月10日発行)