ご存じ・・・!――『文庫解説ワンダーランド』(2)

次の『走れメロス』は、太宰治の師匠筋の井伏鱒二が、これでも解説か、という抱腹絶倒の滅茶苦茶さを見せる。

井伏の岩波文庫版『走れメロス』の「あとがき」は、こうだ。まず収録された十の短篇の初出誌を列挙する。しかしそのあとは、もういけない。

「辛うじて解説と呼べるのはそこまでだ。
 このあと井伏は〈ただし、いま「あとがき」を書く私は、作品鑑賞の自由を読者に一任して、太宰君自体について書いてみたい〉とうそぶき、次の行は〈私が初めて太宰君に会ったのは、昭和五年の春、太宰君が大学生として東京に出て来た翌月であった〉。あとはただただ太宰との交友録が続くのみ。」
 
いやあ、さすがは井伏先生。「いま「あとがき」を書く私は、作品鑑賞の自由を読者に一任して、」というところが、なんとも言えずいい(と思いませんか)。
 
斎藤美奈子は、「表題作への言及は一切なし。最後は太宰の私信を(勝手に?)引用して終わりって、ふざけてんの?」と啖呵を切るけども。
まあ、そういう気持もわからないではない。でも、井伏先生だから、いいとしよう。
 
しかし問題は、『走れメロス』である。
「友情、正義、信頼、純潔。みなさま、ほんとにこんなことを思っているのだろうか。」
 
そもそもこれは、シラーの詩を下敷きにしたパロディなのだ。
「毒の入らないパロディを太宰がわざわざ書くだろうか。まして発表されたのは一九四〇年。皇紀二六〇〇年で世間が沸き、大政翼賛会が発足した年である。」

『走れメロス』の文庫化を予定しているところがあれば、ぜひ解説は、斎藤美奈子にお願いしよう。茶化しじゃなくて、本当に素晴らしいものになるはずだ。
 
次の林芙美子『放浪記』は、ちょっと読んでみたくなった。いくつものテキストが錯綜し、僕には、一度読んだだけでは、何がどうなっているのか分からない。

「しょうがないのよ『放浪記』は。だってこのテキストは、身辺雑記をつなぎ合わせたブログみたいなものなんだから。」

しかも林芙美子は、ここが大事なところだが、違う版元から出るたびに改稿を重ねてゆく。
「『放浪記』はおそらく日本の近代文学史上、もっとも込みいった成立史を持つテキストだろう。もとは若い女性のブログみたいなものなのに。作家の執念おそるべし、である。」
 
これは読みたくなるでしょう。と同時に、「文庫解説」のこと、はすっかり忘れてしまう。最初に、この岩波新書はどうなのかと言ったのは、その意味である(でもまあ、面白ければ何でもいいという見方に、結局はなるけど)。