文章は絶妙なのだが――『白夜を旅する人々』

これはまず、文章表現を味わうべき本だ。文庫で573頁、その間、一点の緩みもない。
たとえば、清吾が「できもの」の治療に、温泉に通うところ。

「根太〔=腫物〕は、ちょうど緩慢な噴火を繰り返しているうちに山裾まで噴火口と化してしまった火山のように、十日もすると、頂に出来た破れ目が腫物事態とほとんどおなじ大きさにひろがって、なかに隠れていた溶岩のような膿の塊がむき出しになった。」
たかが「できもの」の描写に、これだけ神経を注ぐことができるというのは、尋常ではない。
 
女三人、男三人の兄弟姉妹のうち、次女は青函連絡船から身を投げ、長男は行方知れず、長女は睡眠薬を飲んで自殺する。三浦哲郎は、六人兄弟の末っ子として、この滅びゆく家族を、描かなくてはならなかった。

「れん〔=次女の名〕は、いずれ自分たち一家が崩壊の危機に見舞われることを予感していて、それで座敷童子のようなものにまで恃む気持を抱いているのではなかろうか。」

最初のところから、すでに崩壊は予期されているが、しかし著者は焦ることなく、その過程を丹念に描いてゆく。

「解説」で、川村二郎はこんなふうに書いている。
「『白夜を旅する人々』の成功は、このモチーフを、自己の経験に即した私小説の定式を越えて、ある時代の一家の、ゆったりとして幅広い年代記風な物語の流れの中に、そっとくるみこんでいる所にかかっている。モチーフの直截な表出だけでは息苦しくて応対し切れぬかもしれず、物語の流れだけでは遠々しく気疎い昔話にとどまるかもしれない。くるみこまれたモチーフが、流れに委ねられながら、しかも流れを先に推し進める活力と化して、双方がたがいに生かし合い、作品全体を生動する有機的な統一体たらしめるべく協同作業にいそしんでいる。」
 
さすがにうまいことを言うものだ。私小説でありながら、ある一家の年代記ふうなところもあり、それが相乗効果をもって、独特の小説世界を形作っている。
 
しかし、にもかかわらず、僕にはこの小説は、やや古臭い感じがした。
きょうだいのうち、長女と三女が「しらこ」、つまりアルビノだったということは、特に地方では、ある時期までは、宿命的に呪われた一家だと思われたかもしれない。しかし、現代ではどうだろうか。

というよりも、自殺する次女のれんや長女のるいにしても、失踪する長男の清吾にしても、あまりにも従容として運命を受け入れるばかりで、それに抵抗するところがまったくない。

三浦哲郎にとっては、血を分けた兄弟姉妹であり、自らの運命を受け入れるべき人々だったかもしれないが、他人が言うのは酷だけれど、僕には不満だ。文章が、これ以上はないくらい絶妙なのだから、内容に対する不満は、実にはっきりしている。

(『白夜を旅する人々』
三浦哲郎、新潮文庫、1989年4月25日初刷、2010年9月15日第10刷)