女と男の行く先は――『狂うひと―「死の棘」の妻・島尾ミホ―』(4)

島尾敏雄とミホは、病院を出た後すぐに奄美に帰る。ミホは故郷の荒れ果てた様を見たとき、彼女にとっての戦後が終わり、それとともに、ようやく狂気の「発作」も収まってゆく。しかし島尾の、ミホに対する従順の意志は徹底していて、終生変わらなかった。
 
『死の棘』では「書かれる女」だったミホは、奄美に移ってからは「書く女」に転じる。ミホには、『海辺の生と死』と『祭り裏』の二冊の創作集がある。はじめの『海辺の生と死』は、田村俊子賞を受賞しているが、これは幼年期の回想と、島尾との恋物語で、一見すると、いかにも作家の妻にふさわしい本だ。
 
二冊目は、これに目をつけた辣腕の編集者がいた。
「ミホに小説を書くよう強く勧めたのは、文芸誌『海』で島尾の担当編集者だった安原顕である。ミホによれば、単行本として刊行された『海辺の生と死』を読んだ安原が「あなたは天才です」と言って、『海』への寄稿を依頼してきたという。」
 
これは本格的な創作集で、第二十七回女流文学賞の候補になっている。ちなみに、このとき候補になったのは、塩野七生『わが友マキアヴェッリ』、金井美恵子『タマや』、岩橋邦枝『迷鳥』で、塩野七生と金井美恵子の二人が受賞している。
 
ところが島尾敏雄が死んでしまうと、やがてミホの姿は、二つに引き裂かれてしまう。
「『愛された妻』として文学史に残りたいという欲望と、本当のことを書きたいという欲望の両方をミホは持っていた。それは、妻から見た『死の棘』を書こうとしたときにミホを引き裂くことになる・・・・・・。」
結局のところ、ミホは「書く女」ではなく、「書かれる女」として残ることを決意する。
 
それにしても島尾敏雄とミホとは、結局どういう関係だったのだろうか。
「ミホに日記を見られたころの島尾は自分の『業の浅さ』に小説家としてコンプレックスを抱き、生々しい手応えのある悲劇を家庭内に求めていたが、ミホにとっても、自分が狂うことは状況を打開するほとんど唯一の道だった。あのとき起きたのは、それぞれにとって必要な出来事だったのだ。」
 
そう、何度も言うように、島尾敏雄とミホは、絶妙の組み合わせだった。
「島尾が機会を提供し、ミホはそれを逃さなかった。二人は凹凸が嚙み合うように、みごとに呼吸のあった夫婦だったといえる。そしてミホは何をしても許される生来の地位を取り戻し、島尾は家庭内にこれ以上ない小説の素材を手に入れた。」
 
けれども、意外なところに反逆者がいたのだ。島尾とミホの、言葉による絶妙の組み合わせをあざ笑うかのように、いや、もっと強烈に、身内でありながら、子供の段階から言葉を失っていった者がいたのである。
「『少しも手のかからない子供』だったマヤは、小学校三年生のころから言葉を発しなくなった。言葉によって結ばれ、言葉をめぐって闘争を繰り広げた夫婦の娘は、長ずるにつれて言葉を失っていったのである。」

ミホと敏雄にとって、このくらい強烈な批判はないだろう。二人とも、そのことはよく分かっていた。だからといって、どうにもできるわけではなかったが。

『死の棘』の事件が起こったとき、マヤは4歳、伸三は6歳である。その伸三の学齢期前の言葉を挙げておく。
「もう見てしまったから仕方がない、生きていたって仕様がないから、おかあさんの言う通りになる、お母さんが死のうと言えば一緒に死ぬよ」〔原文のカタカナは平仮名に直した〕