文学の現場――『「文藝」戦後文学史』(2)

けれども「すでに文芸誌が出せる状況ではなくなっていた。社長の河出やその他の経営陣も、『文藝』は廃刊するよりほかない、と言ったが、野田は、〈河出書房が焼けても編集には何の支障もないから、このまま一人だけでも続けてゆく〉と抵抗する。
 幸いなことに『文藝』を印刷していた大日本印刷の被害は軽微だとわかり、河出孝雄は『文藝』続行を決断する。」
 
たぶんこれが、雑誌「文藝」のいくつもある危機の、最大の一つだった(もう一つはもちろん、後に来る倒産である)。このときは、「文學界」も「新潮」も、「文藝春秋」までもが休刊する中で、「文藝」だけが、かろうじて残ったのだ。
 
戦後の昭和22年に「文藝」を任された杉森久英は、まだ比較的手の付いていない戦後派を中心に置いた。翌年の新年号には、巻頭グラビアに写真特集「戦後の世代」が掲載され、椎名麟三、野間宏、荒正人、花田清輝、福田恆存、坂口安吾、加藤周一、窪田啓作、梅崎春生と続いていく。
 
そのころの出版社は、まさに破竹の勢いだった。
「戦後すぐに活気を取り戻した『文藝』と河出書房の業績は好調で、河出孝雄の名前は、昭和二十三年度の東京長者番付の十三位に入っている。ちなみにこの年の一位は岩波書店の岩波雄二郎で、新聞記事によれば所得金額は『三千万円』となっている。」
ちょっと信じられないような気がする。焼け跡の中で、食糧の次に本が求められたのだ。
 
河出書房はその後、有為転変あって、昭和32年3月に倒産する。社員は200人ほどいたのが、30人ほどになってしまう。「文藝」は、同年3月をもって休刊となる。
「文藝」の話は、ここまででも十分に面白い。これまで、まとまった歴史として、語られてこなかったからだ。

しかし昭和37年の、坂本一亀編集長による「文藝」復刊の話を急ぐことにしよう。