文学の現場――『「文藝」戦後文学史』(3)

「文藝」復刊に向かって、坂本一亀は悪戦苦闘していた。たぶん創刊よりも復刊の方が、なお難しい。坂本はここで、純文学雑誌は売れないことを、まず経営者に求めた。そこで当然、激論になる。売れないけれど出さねばならぬ、と言うのは、経営者にとっては、身を切られるように辛いからだ。というか、「うん、それでもやろう」と、もろ手を挙げて賛成する経営者は見たことがない。

ここで坂本が個人的に相談したのは、野間宏、中村真一郎、篠田一士である。中村は「思いきった高級文芸誌」にすべきだと言い、坂本は、そうは言っても売れなければ困るので、売れるアイデアを主張すると言うふうに、こんどは攻守所を替えて、激論は続いた。

「ある晩、酒場で同席した中村と水上勉の間で議論になる。新社になってすぐ、親しい戦後派作家に書き下ろしを依頼して断られ、新しい社会派推理小説のジャンルに着目して水上らの本を出している坂本が水上の立場を擁護したところ、憤激した中村が席を蹴って出ようとしたこともある。このときは中村が野間と篠田の両巨漢に片腕ずつ持ち上げられ、もとの席へ戻されるという、喜劇映画のような展開になった。」
森繁久彌、加東大介、フランキー堺ですな。しかし滑稽であればあるほど、ご本人は真面目なのだ。
 
このときは、坂本の担当する、小田実の『何でも見てやろう』がベストセラーになり、それが「文藝」復刊の追い風になった。
 
また、このとき別の出版社にいた寺田博が、『文藝』編集部に参加している。
 
復刊のための新人の発掘は、その前年からやっている。「『文藝』新人の会」第一回に参加したのは、後藤明生、真継伸彦、清水徹、丸谷才一、坂上弘、小田実、結城昌次、宇能鴻一郎、菅野昭正などである。新人のころは本当にごたまぜで、本人自身もどっちへ行くか、分かってはいないのだろう。
 
復刊にさいして、文藝賞も創設されている。

いろいろ工夫を凝らした『文藝』復刊だったが、坂本一亀は善戦虚しく、売れ行き不振の責任を取り、編集長をわずか1年10カ月で交代している。

でも、と私は思う。わずか2年に満たない坂本一亀編集長の時代が、なぜかくも出版史に輝いているんだろうか。もちろんその後も、坂本一亀さんは編集者として長く活躍する。河出の後は、構想社という出版社を作っている。

私は筑摩書房にいるとき、構想社の坂本さんと会っている。駆け出しで、話にも何もなりはしなかった。坂本さんは私と、真剣には、というか同じ土俵では、話さなかったのだ、たぶん。偶然、呑み屋であった坂本さんは、私が『何でも見てやろう』を誰が編集したかを知らずに、口角泡を飛ばして語るのを、合いの手を入れながら、にこにこして聞いていたのである。学校を出て二カ月の私は、坂本一亀か何者かを、全く知らなかった。

文学の現場――『「文藝」戦後文学史』(2)

けれども「すでに文芸誌が出せる状況ではなくなっていた。社長の河出やその他の経営陣も、『文藝』は廃刊するよりほかない、と言ったが、野田は、〈河出書房が焼けても編集には何の支障もないから、このまま一人だけでも続けてゆく〉と抵抗する。
 幸いなことに『文藝』を印刷していた大日本印刷の被害は軽微だとわかり、河出孝雄は『文藝』続行を決断する。」
 
たぶんこれが、雑誌「文藝」のいくつもある危機の、最大の一つだった(もう一つはもちろん、後に来る倒産である)。このときは、「文學界」も「新潮」も、「文藝春秋」までもが休刊する中で、「文藝」だけが、かろうじて残ったのだ。
 
戦後の昭和22年に「文藝」を任された杉森久英は、まだ比較的手の付いていない戦後派を中心に置いた。翌年の新年号には、巻頭グラビアに写真特集「戦後の世代」が掲載され、椎名麟三、野間宏、荒正人、花田清輝、福田恆存、坂口安吾、加藤周一、窪田啓作、梅崎春生と続いていく。
 
そのころの出版社は、まさに破竹の勢いだった。
「戦後すぐに活気を取り戻した『文藝』と河出書房の業績は好調で、河出孝雄の名前は、昭和二十三年度の東京長者番付の十三位に入っている。ちなみにこの年の一位は岩波書店の岩波雄二郎で、新聞記事によれば所得金額は『三千万円』となっている。」
ちょっと信じられないような気がする。焼け跡の中で、食糧の次に本が求められたのだ。
 
河出書房はその後、有為転変あって、昭和32年3月に倒産する。社員は200人ほどいたのが、30人ほどになってしまう。「文藝」は、同年3月をもって休刊となる。
「文藝」の話は、ここまででも十分に面白い。これまで、まとまった歴史として、語られてこなかったからだ。

しかし昭和37年の、坂本一亀編集長による「文藝」復刊の話を急ぐことにしよう。