文学の現場――『「文藝」戦後文学史』(1)

まず文体。客観的でなければ、「文藝」の戦後史を書くことはできない。しかし、張り詰めた個人が、そこに立っていなければ、そもそも読む気がしない。佐久間文子の文体は、それを兼ね備えている。
 
著者は手練れの元新聞記者だが、その割には個性が際立っていて、これは本当に珍しい。新聞記者と仕事をすれば、ふつう長いものを苦手とすることは、すぐにわかる。手練れの記者ほど、新聞の文体が身体に沁みついているのだ。この著者には、その「沁みつき」がない。

ついでに言うと、文章が、男女の別を超越している。これも珍しいことだ。これは例えば、同じく話題となった『狂うひと』の、梯久美子の文体を思い浮かべれば分かる。これは、どちらが良い悪いという問題ではない。

しかしともかく、読んでいこう。
「文藝」は戦前、改造社から刊行され、太平洋戦争の末期には「河出書房に譲渡され、文芸誌としてはただ一誌だけ、戦火の中でも刊行が続けられ」た。ふーん、そうなんだ。
 
そして、改造社から出ていた時代には、たとえば全国の同人雑誌掲載作を対象に、文藝推薦作品の募集を開始し、第一回当選作には、織田作之助の「夫婦善哉」が選ばれている。

改造社が軍部の圧力で解散させられたのちは、河出書房に移り、野田宇太郎が編集した。

大統領選、反省の弁――『トランプ大統領の衝撃』(3)

選挙戦の後半に入ってからも、トランプは相変わらず次から次へと問題を起こす。例えばトランプ大学は、大学とは名ばかりの、いわゆる金満家に学ぼうというセミナーだが、これが法外の金を取って訴えられる。
 
またメラニア・トランプ夫人の「スピーチ盗用疑惑」もある。これはあろうことか、ミシェル・オバマ夫人のスピーチを、借用したものだった。
 
そうかと思えば、スターになれば「女は思いのままだ」という、トランプのお気楽な、そして普通なら致命傷の痛手もある。
 
普通はこのあたりで、もう退場ということになりそうだが、これがならない。
 
あるいは、イスラム教の夫婦が、アメリカのために息子が戦死したのだが、イスラム教の故に冒瀆された、とトランプに抗議した例もある。これはさすがにトランプが謝っている。しかし、謝ってすむこととは思えない。
 
これ以外にも、要するに日替わりで、トランプのスキャンダルが続出している。
 
それに対してヒラリーは、相変わらず「低次元のトランプ叩き」ばかりで、堂々と政策提言をすればいいのに、これをやらない。その結果、まったく白けた選挙戦になっているのだ。
 
けれども一つだけ、確実なことがある。それは、「アメリカ社会の中で、現状に不満を抱え、トランプが『すべてを引っくり返して』くれることに期待を寄せる層というのは確実に存在する」ということだ。
 
今度の大統領選をどういうふうに見ればよいか、僕なんかにはもちろん分からない。
トランプの方が、何十倍もの致命傷を受けているのに、それでもヒラリーではなく、トランプを選んだ。やはり、ガラスの天井はあったのだろうか。
 
しかし、総得票数から見れば、ヒラリーはトランプよりも300万票(!)も多い。州ごとの選挙だから、これはたまにあることで、これもどう見たらよいか、よくわからない。
選挙制度に基づいた大統領選だから、仕方のないことだけれど、それでもアメリカの人々が間違えていないことを、祈らずにはおられない。

むかし、大阪府知事選挙に漫才師が出て、当選したことがある。アメリカの人々が、大阪の人たちと、政治的には、同じ水準の知性でないことを祈る。あるいはもっと、やけくそかもしれないが。

(『トランプ大統領の衝撃』冷泉彰彦、幻冬舎新書、2016年11月25日初刷)

大統領選、反省の弁――『トランプ大統領の衝撃』(2)

問題は、オバマの後にやってくる大統領だと言うことだ。当然、何らかの新味を出す必要がある。トランプはその意味では、反TPPでも、メキシコとの間に壁を造るでも(これ本当にやるのかね)、とにかく最も旗幟鮮明だ。また同じ民主党でも、サンダースは、「より左にシフト」することができる。
 
問題はヒラリーだ。オバマのこの8年間は、著者によれば、外野にいて批判するのは簡単だが、「非常に複雑化した国際情勢、グローバル経済の中で、とりあえず『最善手』を打ってきている。・・・・・・他の方法論をとったとして、景気回復をここまで続け、国際情勢の破綻を防止し、ついでにアメリカのエネルギー自給をほぼ達成して軍事外交の自由度を挙げた。その『他の選択肢』が描けるのかというと、非常に疑問だ。」
つまり、ヒラリーは政権の中にいたことがあるので、与えられた選択肢の幅は、非常に狭くなる。
 
以上が著者の、この時点での情勢分析である。もっとも共和党のこのときの本命は、ルビオ上院議員だが。だからヒラリーになっても、ルビオになっても、比較的実務型の政権になるであろう、という予測だ。これは今から考えれば、若干願望も入っている。
 
ところが3月の「スーパーチューズデー」を経たところでは、あろうことかトランプ候補が独走態勢を築きあげる。3月15日の予備選では、オハイオ以外のフロリダ、ミズーリ、イリノイ、ノースカロライナの各州で、トランプが勝っている。これに対し共和党の本流は、本格的にトランプ降ろしを画策する。
 
一方、民主党のヒラリーの方はどうか。
「ヒラリー・クリントンという政治家は、特にアメリカの現状に不満を持つ若者にとっては、『オバマの8年』に加えて『ブッシュの8年』を合わせた『過去16年について責任がある』ということになるし、さらに夫のビル・クリントン政権までさかのぼれば『過去24年間のアメリカにおいて常に政治の中枢にいた』ということになる。
そのことは・・・・・・現状に不満を持つ人にとっては『ありとあらゆる不満をぶつけるターゲットそのもの』になってしまうのである。」
 
この4月の段階で冷泉彰彦氏は、ヒラリーの弱点を実に正確に見抜いている。ここまでくれば、ヒラリーは危ない、場合によってはトランプもあり得るか、と思ってもよさそうなのに、それは思わない。

「現在のヒラリーの立場は『中道というイバラの道』を進んでいるということが指摘できる。イデオロギー的に有権者の耳に心地よい批判が左右から飛んでくる中で、傷つきながらも中道現実主義を訴える、その困難なプロセスを耐えて進むことで、もしかしたらこの人は大政治家に化けるかもしれない。」
 
今となっては荒唐無稽だが、しかし確かにヒラリーは、その岐路に立っていたと思われる。

大統領選、反省の弁――『トランプ大統領の衝撃』(1)

アメリカの大統領選の一年を追い、その前段に、なぜヒラリーがトランプに敗れたのか、という口上を付したもの。
 
どれも後付けであるから、真相はわからない。また、選挙の一年を追った記録を提出するのは、著者の冷泉彰彦氏にとっては、恥をさらすようで辛かったろう。しかし、おかげで自分もまた、同じような間違いをしていたなあ、とリアルに思い出すことができる。
 
著者の一番の反省点は、次のようなものだ。
「トランプ現象はしばしば『反知性運動』だと形容されるが、それは少し違う。そうではなくて、『知的ではない』自分たちにも『名誉』があるという『異議申し立て』が静かに行われたという面が大きいのではないだろうか。『知的なるものへの敵意』があったり、破壊衝動があったりするわけではないが、その意味合いは大変に重い。」
 
またトランプ支持者は、貧しい白人たちではないという。
「オハイオ州の知事で、大統領候補として善戦したジョン・ケーシックは、かねてからトランプ支持者は『決して貧しくはない』のだという指摘をしていた。つまり、本当に貧しかったら再分配を期待して民主党に行くというのだ。」
 
そういうことを含んだ上で、第二部の2016年の前半戦を、見ていくことにしよう。

まず今年の1月である。
「どうやらこの『トランプ現象』というのは、『都市の賃金労働者によるミドルクラス崩壊への怒り』と見るのが正しい――私には、現時点ではそのように思えてならない。」
要するに、上と下への格差の拡大、という見方である。

「では、そのトランプは仮に共和党ジャックに成功したとして、本選で勝てるのだろうか。私はそれは難しいと思う。『過去の破壊と現在のアメリカへの怒り』という心情は、全国レベルでは決して多数派にはならないからだ。」
これが、まあアメリカでも日本でも、メディアの主流を占めていた見方だ。
 
2月には、長い予備選レースが動きだす。
そこで、トランプはどこで敗退して散っていくか、という予測をしている。
「仮にニューハンプシャーで負ければ、意外に早い段階で『トランプ現象が雲散霧消』することもあるかもしれない。」

これは単純な予測ではなく、そうなればなったでスッキリする、という側面を含んでいる。少なくとも、著者はそういう含みを持たせている。
 
また民主党では、事前の調査でヒラリーが、バーニー・サンダースに、かなり追い込まれている。

幻の作家――『小説家』(3)

「森さんいうのは、どんな人なんや」
「面白い人やったな。『季刊仏教』という雑誌に出てもろたんがきっかけで、『一即一切、一切即一―「われ逝くもののごとく」をめぐって―』という対談集を、作ることになったんや。装幀を司修さんにお願いして。あのころ森さんは、朝八時を超えると電話してきてなあ」

「森敦は、こんなふうに描写されてるで。
『話をするときは、鋭い眼光を湛えた眼差しが、眼鏡の向こうからひたと相手に据えられる。話しぶりはきわめてゆっくりとしているのだが、それはそのまま文字に書き移せば、理路も結構もきちんと整った文章になるだろうと思われるくらいに、無駄も乱れもないものだった。』」

「そうやねえ。でも、眼光を相手に据えるというのは、森さんはちょっとやぶにらみやったから、そこでわずかに愛嬌が生まれるんや」

「ふーん、そうなんか。まあ、もうちょっと読むで。
『その上に、話の勘所や、面白いエピソードの山場などにさしかかると、森敦は必ずいささかの思い入れをこめたようすを見せて、「しかもきみ、おどろくなかれ」とか「そればかりか、さらには・・・・・・」などという多少時代がかったようなことばを差し挟んで、聴き手に気を持たせるような実に絶妙な間をそこに置く。だから聴き手は思わず身を乗り出さずにはいられなくなる。
 それは話術の妙というより、一種の幻術のようなものだったのかもしれない。』」

「ふふ、なかなか正確な描写やな。『しかもきみ、おどろくなかれ』は、よう使うてはったね。でも、だから幻術の一種やとは、思わんかったけどな」

「交流のあった作家の面々が、ちょっと信じられんかった、というのもあるんちゃうかな。例えばこんな場面や。
『(森敦は)早くから横光利一の家に出入りしていたとか、その縁で菊池寛にかわいがられたとか、二十二歳のときに『大阪毎日新聞』と『東京日日新聞』に「酩酊船」という小説を連載したとか、太宰治や檀一雄などとよく酒を飲んだ、などといった話が実にさりげなくちらりともらされるのである。』
そういう話を、勝目梓は半信半疑で聞いてたらしいね」

「べつに半信半疑という気は、せんかったけどな。しかし勝目さんも、ちょっとついてない感じやな。同人誌で相争うのが中上健次で、文学の師匠が森敦さんというのはなあ」

「それでも、この『小説家』いうのはなかなか力作で、ええ小説や、と2006年には思われたはずや。それがいまは、文学作品の土俵が崩壊しとる」
「もう、あかんわなあ」
 
するとNやんは突然、私の背中をどやし、
「ふん、おまえはあほか。それはそれで、文学の土壌が溶解してることを、真正面から問わんかいや」
「・・・・・・」

(『小説家』勝目梓、講談社、2006年10月5日初刷)

幻の作家――『小説家』(2)

「中上健次にやられてもたいうのは、どういうことなんや」
「そのまえにやね」
Nやんは、バッグから『小説家』を取り出した。

「勝目梓の目標とする作家がおるんや。どういう作家かというと、
『出来栄えの見事な小説に彼は惹かれていた。彼が敬愛していた作家は、内田百閒、永井龍男、井伏鱒二、木山捷平、梅崎春生といった人たちだった。』
なっ、分かるやろ」

「うーん、ちょっと渋すぎる、というか古典的やねえ。それで食うていくいうのは、並大抵のこっちゃないで」

「まあそれでも、石に齧りついても、という気でやりゃあよかったんやが、そこに出てきたのが、中上健次や。中上は、内田百閒以下の作家に私淑するってなことは、思うてもみいひんやろ」
「だいたい木山捷平や梅崎春生を崇めてる者が、中上健次と同じ土俵で勝負しよう、という方が無理やね」

「そうなんやねえ。でもそれが、わからへんねん。そこ、ちょっと読むで。
『それはまことに苦くて歯痒い、痛烈な自覚だった。そこからの脱皮をめざして、彼は苦闘をはじめた。結果的には彼はその闘いに敗れて、遂には出口の見つからない迷路で行き倒れになった。』
なっ、ちょっと泣けるやろ」

「うーん、でも苦闘の末に敗れさるというのは、その苦闘がよく書けてれば、それ自体は面白いけどね」
「さすが元編集者。その通りや。苦闘の末、ずたずたに敗れ去るいうのは、太宰治以来の私小説の伝統や。ところが勝目さんは、そのからくりを理解しようとはせんのやね。」
「それは、いかにも惜しいね」

「もちろん、そのころの文学は、今とちごうて、ひたすら修行やけどね。そこはこういうふうに書いてある。
『四十年ほど前の当時は、文学作品は作者自身の存在との、何らかののっぴきならない係わりの中から生み出されてくるものだとする考え方が支配的だった。情報化という新しい時代の波が文学に変容を迫る少し前の時代、と言ってもよいだろう。』」

「ああ、それは本当にその通りや。このまえ三浦哲郎の『忍ぶ川』を読んで、つくづくそう思たねえ。読者も、著者と同じく、のっぴきならん修業を味おうてこそ、文学という共通の土俵に乗れるんや」
「今はそれが崩壊寸前か、あるいは崩壊してもとるで」

「しかし勝目さんの時代は、まだかろうじて、カッコつきの『文学』が、生きてた時代やろ」
「せや、『文学』が、漠然と生きてた時代だけじゃなくて、ほんまに人の形をしてた時代なんや」
「ああ、森敦さんのことやな」

幻の作家――『小説家』(1)

久しぶりの雨の昼下がり、Nやんがぶらりと立ち寄った。

「勝目梓、読んだことあるか」
「前の会社におるとき、森敦さんの対談集を作ったことがあって、その流れで月山祭に何度か出掛けたんや。そのとき、勝目梓さんも一緒やったなあ」

「話したことはあるのんか」
「いいや、ない」
「それは惜しいことしたな」
「なんでや」
「勝目梓の小説は全編、セックス&ヴァイオレンスばっかりやけど、一つだけ違うのがある。それが『小説家』や。これは私小説や」

「おもしろいのか」
「さあ、それは微妙や。なにしろ400ページのうち、勝目梓が小説家を目指して頑張るんは、270ページ超えてからやからねえ。」

「それまで何してるんや」
「まあ、放浪やねえ」
「そんなにあちこち出歩くのんか」

「高校を中退して、炭鉱に入ってから、いろいろ紆余曲折があって、養鶏場の主に収まるまでが、三分の二やね」
「『小説家』を期待すると、ちょっとどうかと思うけど、しかしそれはそれで面白そうやないか」

Nやんは、そこでちょっと逡巡した。
「それが、あんまり、おもろないんやわ。勝目梓は、小説のときはハードヴァイオレンスで光景が目まぐるしく変わるのに、自伝となると、も一つやねえ」
「なんや、三分の二がそれではしょうがないなあ」

「ところがや、三分の二を超えたところから、がぜんおもしろなるんや」
「それは編集者が、もうちょっと放浪のところを削って、はよう小説家に入れば、と言われんかったんやね。」
 
Nやんは、そこでまたちょっと逡巡した。
「勝目梓は、はじめ純文学で身を立てようとしてたんや。それで同人誌の『文藝首都』に所属したんやわ。知ってるやろ、『文藝首都』?」
「北杜夫とか佐藤愛子、田辺聖子、中上健次、ほかいろいろおるわなあ」

「その中上や。中上健次にやられてもたんや」

幸福な時代――『忍ぶ川』

芥川賞をもらった「忍ぶ川」を含む、三浦哲郎の第一創作集。これは三浦哲郎だし、期待したのだけども、あてが外れた。

目次には、「忍ぶ川」「十五歳の周囲」「ブンペと湯の花」「風船座」「恥の譜」「村の災難」の順で並ぶが、これは書かれた順に、「ブンペと湯の花」「十五歳の周囲」「風船座」「忍ぶ川」「恥の譜」「村の災難」とすると、非常によくわかる。ためらいがちの修作から、腕を挙げていくまでが、如実に分かる。

やはり「忍ぶ川」が、大きな転機になっている。まあ、昭和35年に芥川賞をもらったのだから、当たり前だ。ちなみに「忍ぶ川」というのは、主人公が思いを寄せる女の、働いている店の名。別に著者に責任はないとはいえ、こういうところは、ちょっとがっかりしてしまう。やっぱり雄大な川を、別名こういうふうに読んでくれないと、そしてそういうところを背景に、女と男の愛の物語が育まれるのでなけりゃ、と思う。

このあと、兄弟姉妹が次々と不幸に会う「恥の譜」が書かれるが、これが三浦哲郎にとって大きな回り舞台だったと思う。その終わりに近い場面。

「私は、たとえてみれば翁の面そっくりに完成した父の死顔を眺めて、こんな豊かな表情がもし生前の父にあったのだとしたら、それを汚辱で塗りつぶしてしまったのは上の四人のきょうだいの罪であり、そうして父が生きているあいだにその汚辱を雪ぎえなかったのは私の恥だと思った。死だけがそれをなしえたのである。そして、私の恥は永久に消えない。」

こういう作品を読むと、やはり文学作品に向かう時の心構えが違うなあ、と思わずにはいられない。そもそも、修作を入れた第一創作集を、芥川賞受賞作が入っているとはいえ、3年の間に22刷りまでもって行けるのは、すごいことだ。文学が修業であり、それを読むことによって、読者の側にも、作者の修業が共有されていたのだ。文学にとって、それは限りなく幸福な時代だったのだ。

(『忍ぶ川』三浦哲郎、新潮社、1961年3月5日初刷、1964年4月30日第22刷)

ようやく分かった――『ヨーロッパ・コーリング―地べたからのポリティカル・レポート―』(4)

そのニコラ・スタージョンは、ギリシャ危機は債務の問題ではないという。ノーベル賞経済学者ジョセフ・スティグリッツや、『二一世紀の資本』の著者、トマ・ピケティも、同じ意見だ。
 
ステイグリッツは「反緊縮ではなく、緊縮こそが欧州の災いの種なのだと書いている。」トマ・ピケティは、もっと露骨に書いている。「EU本部とドイツ政府の複数の人々を見ているとこんな感じですね。『ギリシャを排除しろ』。」
 
そして著者はこう書く。
「緊縮や今回のギリシャ問題では英国の左派もかなりEUに反感を抱き、失望している。このまま右と左の両サイドから徐々に浸食されていけば、EU支持者はどのくらい残るのだろう。
ギリシャを世界の笑いものにして勝ち誇っているEUは、自分たちの足元に深くて暗い墓穴を掘っているかもしれない。」
 
このレポートが書かれたのは、2015年7月4日。それから一年後の2016年6月23日に、英国は国民投票によって、EUを離脱した。投票の日もなお、EU離脱なんてイギリス国民以外は、いや国民の半数近くも、考えてもいなかったのだから、ブレイディみかこの先見の明たるや、驚くべきものがある。
 
それにしてもEUは、どうしてダメなのだろうか。ギリシャ問題に関連して、保守系の新聞『テレグラフ』が、サッチャーを思い出して書いている。

「単一通貨を成功させるには政策を一致させる必要があり、それは最終的には欧州の政治的統合と国家崩壊につながるという避けがたいロジックを彼女〔=サッチャー〕は理解していた。」
 
つまりこれが、人間の限界というものなのか。タイムマシーンを作りたいわけではない。地球を捨てて、宇宙で暮らしたいわけではない。100メートルを1秒で走り抜けたいわけではない。たかだか欧州の人間が、国家を超えて暮らすことが、もうそれだけでダメなのか。人間というのは、ほんとうにしょうがない、儚いものであることよ。
 
そのサッチャーだが、ブレイディみかこに言わせると、けちょんけちょんである。
「サッチャー以降の英国政治は、八〇年代からずっと『人民』より『資本』に寄り添ってきた。そしてその最終形とも言える『新自由主義の成れの果て+緊縮』のノー・フューチャーな時代を生きる若者たちが、『人民』を顧みる政治に真新しさを感じるのは不思議ではない。」
 
そこでは、エリートではない政治家、SNP党首のニコラ・スタージョンや、労働党のジェレミー・コービンといった、叩き上げの人たちに支持が集まる。
「もはやこれは『右と左』の構図ではない。欧州は『上と下』の時代だ。」
 
ブレイディみかこによって、日本の読者には新しい地平が開けた。それは確かだ。
しかしその逆も、またあるはずだ。第二次大戦後、ヨーロツパは全体として、一つの地域としてまとまるべく努力してきた。こんどは、反対の陣営からの反論を読みたい。

(『ヨーロッパ・コーリング―地べたからのポリティカル・レポート―』
 ブレイディみかこ、岩波書店、2016年6月22日初刷、7月15日第2刷)

ようやく分かった――『ヨーロッパ・コーリング―地べたからのポリティカル・レポート―』(3)

ファーザー・エデュケーション(以下FE)という、地域の公立の成人教育システムがある。これは国家によって運営されているので、費用が「激安」というところに特徴がある。ところがこれが現保守党の緊縮政策により、2020年までには存続できなくなるという。これは大変に困ったことなのだ。

「わたし自身、FEの成人向け算数教室で講師アシスタントのヴォランティアをしていた頃、二ケタの足し算や引き算で躓き、マイナス二度とマイナス二〇度ではどちらが寒いのかわからない成人がずらっと座っているのに驚いたものだった。・・・・・・彼らが再教育を受けられる場やチャンスを閉ざしてしまえば、こどもの頃に勉強しなかった(またはできなかった)人間は一生涯そのペナルティを引きずることになり、階級が絶望的に固定する。」
 
これを読むと、その点はまだ、日本の方がずっとましなんじゃないか、という気になる。日本も中流が無くなり、全部が下層化しているのかも知れないが、ここまで固定化はされていない。されていないよね、多分。
 
ブレイディみかこは、またスペインにも注目する。2014年1月に、ポデモス(「We can」という意味)という政党が結成された。ポデモスを率いるのは、36歳の政治学教授、パブロ・イグレシアスである。

「彼は共産党のドクトリンに根付いたクラシックなスペインのインテリ左翼ではない。だが、現代の世界を病ませている原因を明確に指摘し、その終焉を目指す。それは緊縮政策であり、市場主義であり、グローバル資本主義だ。」
ここでもまた反緊縮政策と、反グローバル資本主義、すなわちEU離脱が目指されている。
 
じつは何日か前に、イタリアで憲法改正の国民投票があった。マッテオ・レンツィ首相はこの投票に、政治生命を賭けていたが、完膚なきまでに敗れ去った。このとき勝ったのが、「五つ星運動」という新興の政治団体である。Yahoo!ニュースはそれを、こんなふうに伝える。

「欧州連合(EU)からの離脱を選んだ英国民投票やトランプ氏の勝利に象徴されるポピュリズム(大衆迎合主義)の台頭が、既成政党批判を展開する新興政治団体『五つ星運動』ら反対派に『追い風』となった。」
 
ここでも、イギリスやスペインと同じ風が吹いている、ということが、ブレイディみかこを読んでいると、よく分かる。
 
しかし著者の贔屓の政治家、ニコラ・スタージョンとなると、よくわからない。スタージョンはスコットランド自治政府首相で、スコットランドの地域政党、SNP党首である。といっても、地域政党というのがよくわからない。大阪の、維新の会みたいなものか。

「SNPは反戦、反核、反軍縮の左翼的政策と、燃えるようなナショナリズムを共存させている特殊な政党である。」
 
ふーむ、これは、もうひとつよく分からないけれど、しかし反EUとナショナリズムを併せ持った左翼というのは、新しいとは思う。僕にはまだ、そのSNPの全体的整合性が、よく分かっていないけど。