「まえがき」の冒頭がいい。マルク・ブロックの『歴史のための弁明―歴史家の仕事―』にひっかけて、「これに習うなら、私のこの本は『パパ(あるいはじいちゃん)、農民文学って何? 農民文学の歴史は何の役に立つのか説明してよ』という問いに答えるためのものといえる。」
三島さんはこう宣言したのち、一人の男に焦点を絞ってゆく。
山田多賀市(やまだたかいち)、1907年に生まれ、90年に死んだ。若い頃は小作農のため農民解放運動に奔走し、18回もの投獄を体験した。1943年(昭和18)には兵役を逃れるために、志望届を偽造し、反戦運動家の矜持として、死ぬまで無戸籍のままだった。安曇野の堀金図書館に掲げられた肖像を見ると、その風貌は恬淡、磊落な人と思える。
長編小説『耕土』は、雑誌に発表したのち、まとめられたもので、1940年、東京の大観堂書店から刊行された。この小説は山梨の農村を舞台に、小作人の家の勝太郎と、その恋人である登美を中心に、戦前の農村の矛盾に満ちた様々な面が描かれる。
『耕土』の続編は続けて書かれたが、これは戦争中は日の目を見ることはなく、戦後に『農民文学』に連載された。なお『農民文学』は二種類あって、これは最初に出た方で、山田多賀市が発行人になっている。著者の三島さんは、これを「甲府版」とよび、後の「日本農民文学会」が刊行しているものとを区別している。
山田多賀市は戦後、まず『文化山梨』を創刊、続いて全国向けの農業技術雑誌『農業と文化』を出し、軌道に乗せる。そして『農民文学』の発行にも踏み切る。
この『農民文学』は、既成の文壇や東京の出版社などに負けない、心意気がみなぎっている。日本の農村をベースに、小説や評論、随筆などから、政治家、経済学者、マスコミ関係者、医師と多彩を誇っている。ノルウェーの作家でノーベル文学賞を受賞したビョルンソンの短篇を、山室静の訳で載せている。
山田多賀市は出版事業で財を成すが、それも10年ほどで潰える。すべてを絶った山田を、もう一度文学に連れ戻したのは、同じ山梨の作家、熊王徳平である。こうして山田多賀市の、円熟した後半生が始まる。
三島さんは山田多賀市だけでなく、熊王徳平以下、深沢七郎、古屋五郎なども紹介する。「付論」では「農民文学への熱い思い」として、全国の農民作家を挙げている。
三島さんは、克服されるべき「古い共同体」に、もう一度価値を見出すべきだと、本気で思っているのだ。
僕にはどちらとも言えない。三島さんの文章を読んでいるときは、ぐいぐい引き付けられていって、なるほどこの世界があるなと思う。しかし本を閉じれば、どこにも行き場はない。僕はただ、呆然と佇んでいるしかないのだ。
(『安曇野を去った男―ある農民文学者の人生―』
三島利徳、人文書館、2016年9月20日初刷)
知らなかったではすまない――『文系学部解体』(3)
それからまた、悪名高い授業アンケートの問題もある。
「アンケートには、『シラバスに記載された学習目標が達成されるのに十分な内容が提供されていたか』とか、『教材(スライド・プリント・OHP・ビデオ等)が効果的に使われていたか』とかいったどうでもいい質問が書かれており、これに対して『とてもそう思う・そう思う・どちらとも言えない・そう思わない・全くそう思わない』という5段階の評価で答えなくてはならない。」
これは生徒にとっても先生にとっても、著しくやる気を削ぐやり方だ。文科省が大学の質を保証するとは、一事が万事こういうやり方なのだ。本書ではこういうやり方を、「手続き型合理性」と呼んで、徹底的に軽蔑しているが、しかし、理屈で相手にする限りは厄介である。文科省の役人たちとは、いわば「バカの壁」があって、絶対に理解することができない。
ちなみに先の引用で、「シラバス」はあらかじめ公開しておく授業予定、「OHP」はオーバーヘッドプロジェクターの略号で、テキストや画像をスクリーンに提示するためのもの。
そういえば僕のときは、シラバスこそ作ったものの、スライドもビデオもOHPも使わなかったなあ。というよりも、情報学環が入っている福武ホールは、僕には近代的すぎて、使い方がよく分からなかったのだ(これはこれで情けない)。
いずれにせよ、大学は追い詰められている。ということは、教師が疲弊している。すぐに国家に役立つ人材をというわけで、そういう人間を、次から次へと輩出しようとする。この「すぐに役立つ」というのが、最大の問題である。「すぐに役立つ」、とくに「すぐに国家の役に立つ」人間とは、究極は、場合によってはナチスの軍人のようである。
終章に「それでも大学は死なない」として、「変な」教員たちはどこの大学でも、まだ一人や二人残っているはずだと、悲壮な覚悟を述べるが、少なくとも安倍内閣の安定政権が続く限りは、お先真っ暗というほかはないし、僕らはそのことを骨身に刻んだほうがいい。
(『文系学部解体』室井尚、角川新書、2015年12年10日初刷)
「アンケートには、『シラバスに記載された学習目標が達成されるのに十分な内容が提供されていたか』とか、『教材(スライド・プリント・OHP・ビデオ等)が効果的に使われていたか』とかいったどうでもいい質問が書かれており、これに対して『とてもそう思う・そう思う・どちらとも言えない・そう思わない・全くそう思わない』という5段階の評価で答えなくてはならない。」
これは生徒にとっても先生にとっても、著しくやる気を削ぐやり方だ。文科省が大学の質を保証するとは、一事が万事こういうやり方なのだ。本書ではこういうやり方を、「手続き型合理性」と呼んで、徹底的に軽蔑しているが、しかし、理屈で相手にする限りは厄介である。文科省の役人たちとは、いわば「バカの壁」があって、絶対に理解することができない。
ちなみに先の引用で、「シラバス」はあらかじめ公開しておく授業予定、「OHP」はオーバーヘッドプロジェクターの略号で、テキストや画像をスクリーンに提示するためのもの。
そういえば僕のときは、シラバスこそ作ったものの、スライドもビデオもOHPも使わなかったなあ。というよりも、情報学環が入っている福武ホールは、僕には近代的すぎて、使い方がよく分からなかったのだ(これはこれで情けない)。
いずれにせよ、大学は追い詰められている。ということは、教師が疲弊している。すぐに国家に役立つ人材をというわけで、そういう人間を、次から次へと輩出しようとする。この「すぐに役立つ」というのが、最大の問題である。「すぐに役立つ」、とくに「すぐに国家の役に立つ」人間とは、究極は、場合によってはナチスの軍人のようである。
終章に「それでも大学は死なない」として、「変な」教員たちはどこの大学でも、まだ一人や二人残っているはずだと、悲壮な覚悟を述べるが、少なくとも安倍内閣の安定政権が続く限りは、お先真っ暗というほかはないし、僕らはそのことを骨身に刻んだほうがいい。
(『文系学部解体』室井尚、角川新書、2015年12年10日初刷)
知らなかったではすまない――『文系学部解体』(2)
国立大学に民間の経営手法を導入し、大学に第三者による評価という競争原理を導入する。同時に大学をランク付けして、トップの三十校には予算配分を十分に配備し、教育研究環境を整備する。そこでは学長が、従来よりも強いリーダーシップで全体を統括する。
こんなことは、絵空事である。「なぜかと言えば、まずこの『改革』はすべて文科省の定めた『ミッションの再定義』に従うものでなくてはならず、また文科省が設定する『競争的資金』を獲得するためには文科省が定めた改革目標に従わなくてはならないからである。」
つまり学長のリーダーシップとは、カラ元気に過ぎないわけだ。
ここには僕が三年間、非常勤講師を務めた、東大の情報学環の話も出てくる。
「また東京大学の『情報学環』をはじめとして各地で『文理融合型』の学部や大学院も無数に作られたが、これらもまったくうまく行っていない。全部、文科省やあるいは財界などのテコ入れで作られたものだが、どこもかしこも破綻している。(中略)
しかしそういうバカなものを連鎖的に作り続けていかなくてはならないという地獄のような状況に置かれているのである。」
こんなことは全然知らなかった。もちろんそういうことを知っていたからといって、僕がどうにかできたわけでは、全然ない。僕はH先生に頼まれるがままに、書籍編集の基礎を、装幀や校閲も含めてひと通り話をし、それは予想外に好評で(なぜなら、聴講生が減らなかったので)、二年間の予定を、もう一年延長して講義をした。それだけのことだ。
しかし考えてみれば、僕の話は情報学環のどこに位置するのか、まるで分かっていなかった。ホームページで、東大情報学環の概略を読んでみても、文理融合のそれらしいことが書いてあるばかりで、なんのことやら皆目わからない。こういうときに、自分の頭の悪さのせいにせず、これは変だぞと、探求心を持つべきだったのだ。
なおこれは国立大学に限った話で、私立大学はそうではないと考えられるかもしれないが、そうではない。明治の初期の私塾の時代はともかく、「旧制大学として認められて以降は国の政策に従属せざるをえなくなったし、文系の学生を主に対象とした『学徒動員』のときにも、積極的に軍部に協力しなくてはならなかった。そういう意味では私学助成金に依存している現在もあまり変わらない。」
文科省の定めた、各大学における「ミッションの再定義」による「改革」を実行しないと、「競争的資金」が獲得できない。しかしその「ミッションの再定義」によるプランたるや、ただもう噴飯ものとしか言いようがない。
それは、たとえて言うならば、こんなふうなものだ。
「グローバルなリスク社会をガバナンス戦略にもとづいてリーディングモデルとしてマネジメントシステムを提言し、ステークホルダーの都市イノベーションをグローバル・コンピテンシーとしてコンソーシアムを構築し、グローバルリーダーを養育しアクティブ・ラーニングによりノーベル賞を30人取らせる。」(あーあ、ボブ・ディランに笑われるぜ)
でも、少しは真面目に考えないといけない。
「人類が長い時間をかけて蓄えてきた文化や芸術、思想や哲学、自国や他国の歴史に愛着も興味ももたず、ひたすら株式会社化した大学や社会に自分を最適化させ、ただただ自分の人生をグローバル資本主義におけるさまざまな課題解決だけに捧げるような学生しか育てない国立大学でいいのだろうか。そんな国に、明るい未来があるとはどうしても思えない。本当にこのままでいいのか。」
もちろん、いいわけがない。
こんなことは、絵空事である。「なぜかと言えば、まずこの『改革』はすべて文科省の定めた『ミッションの再定義』に従うものでなくてはならず、また文科省が設定する『競争的資金』を獲得するためには文科省が定めた改革目標に従わなくてはならないからである。」
つまり学長のリーダーシップとは、カラ元気に過ぎないわけだ。
ここには僕が三年間、非常勤講師を務めた、東大の情報学環の話も出てくる。
「また東京大学の『情報学環』をはじめとして各地で『文理融合型』の学部や大学院も無数に作られたが、これらもまったくうまく行っていない。全部、文科省やあるいは財界などのテコ入れで作られたものだが、どこもかしこも破綻している。(中略)
しかしそういうバカなものを連鎖的に作り続けていかなくてはならないという地獄のような状況に置かれているのである。」
こんなことは全然知らなかった。もちろんそういうことを知っていたからといって、僕がどうにかできたわけでは、全然ない。僕はH先生に頼まれるがままに、書籍編集の基礎を、装幀や校閲も含めてひと通り話をし、それは予想外に好評で(なぜなら、聴講生が減らなかったので)、二年間の予定を、もう一年延長して講義をした。それだけのことだ。
しかし考えてみれば、僕の話は情報学環のどこに位置するのか、まるで分かっていなかった。ホームページで、東大情報学環の概略を読んでみても、文理融合のそれらしいことが書いてあるばかりで、なんのことやら皆目わからない。こういうときに、自分の頭の悪さのせいにせず、これは変だぞと、探求心を持つべきだったのだ。
なおこれは国立大学に限った話で、私立大学はそうではないと考えられるかもしれないが、そうではない。明治の初期の私塾の時代はともかく、「旧制大学として認められて以降は国の政策に従属せざるをえなくなったし、文系の学生を主に対象とした『学徒動員』のときにも、積極的に軍部に協力しなくてはならなかった。そういう意味では私学助成金に依存している現在もあまり変わらない。」
文科省の定めた、各大学における「ミッションの再定義」による「改革」を実行しないと、「競争的資金」が獲得できない。しかしその「ミッションの再定義」によるプランたるや、ただもう噴飯ものとしか言いようがない。
それは、たとえて言うならば、こんなふうなものだ。
「グローバルなリスク社会をガバナンス戦略にもとづいてリーディングモデルとしてマネジメントシステムを提言し、ステークホルダーの都市イノベーションをグローバル・コンピテンシーとしてコンソーシアムを構築し、グローバルリーダーを養育しアクティブ・ラーニングによりノーベル賞を30人取らせる。」(あーあ、ボブ・ディランに笑われるぜ)
でも、少しは真面目に考えないといけない。
「人類が長い時間をかけて蓄えてきた文化や芸術、思想や哲学、自国や他国の歴史に愛着も興味ももたず、ひたすら株式会社化した大学や社会に自分を最適化させ、ただただ自分の人生をグローバル資本主義におけるさまざまな課題解決だけに捧げるような学生しか育てない国立大学でいいのだろうか。そんな国に、明るい未来があるとはどうしても思えない。本当にこのままでいいのか。」
もちろん、いいわけがない。
知らなかったではすまない――『文系学部解体』(1)
これは新書の名著である。
だいたい2007年に大学で、助教授が准教授になり、助手が助教になったのを見て、編集者である私が、何にも感じないほうがおかしかった。東大以外は、一、二年の教養部が廃止されたのも、考えてみれば、徹底的に論議すべきことだったのだ。
その東大でも、仏教学のS先生は定年を待たずに辞められたし、中国史のK先生は久しぶりにお会いすると、五十を超えたばかりだというのに、もう精も根も尽き果てたという具合で、新書や単行本やシリーズまでを、次から次へ書いていたあの姿は見るべくもない。
ということは、全体としてどういうことか、というふうに頭を回さないといけなかったのだ。
この新書は、大学の新課程編纂に政府が介入するという、ヴィヴィッドな問題を取り上げ、そこから過去へ掘り進んで、もっと大きな問題に突き当たる。これは、いかにも新書にふさわしい。
そもそも文部科学省の言い分はこうだ。少子化で子どもの数が減少し、日本を取り巻く社会経済状況が激変する中で、大学は社会が必要とする人材を育てる必要がある。
「その中でもとりわけ文学部や法学部などの文系学部のほか、教員養成系学部などを徹底的に見直すよう名指しした。少子化が急速に進み、国際競争が激しくなる中、文系学部は理系学部のように『技術革新』に直結せず、将来に向けた目に見える成果がすぐには期待しにくい。さらに、国の財政難から税金を効率的に、集中的に使いたいという政府側の狙いがあるとみられている。」
そしてもちろん、そういう一般的なことの奥に、人文的な知恵はいらないとする安倍政権の「反知性主義」がある。問題は、ほとんど誰にも気づかれないうちに、この大学改革がどんどん進められていたことだ。
だいたい2007年に大学で、助教授が准教授になり、助手が助教になったのを見て、編集者である私が、何にも感じないほうがおかしかった。東大以外は、一、二年の教養部が廃止されたのも、考えてみれば、徹底的に論議すべきことだったのだ。
その東大でも、仏教学のS先生は定年を待たずに辞められたし、中国史のK先生は久しぶりにお会いすると、五十を超えたばかりだというのに、もう精も根も尽き果てたという具合で、新書や単行本やシリーズまでを、次から次へ書いていたあの姿は見るべくもない。
ということは、全体としてどういうことか、というふうに頭を回さないといけなかったのだ。
この新書は、大学の新課程編纂に政府が介入するという、ヴィヴィッドな問題を取り上げ、そこから過去へ掘り進んで、もっと大きな問題に突き当たる。これは、いかにも新書にふさわしい。
そもそも文部科学省の言い分はこうだ。少子化で子どもの数が減少し、日本を取り巻く社会経済状況が激変する中で、大学は社会が必要とする人材を育てる必要がある。
「その中でもとりわけ文学部や法学部などの文系学部のほか、教員養成系学部などを徹底的に見直すよう名指しした。少子化が急速に進み、国際競争が激しくなる中、文系学部は理系学部のように『技術革新』に直結せず、将来に向けた目に見える成果がすぐには期待しにくい。さらに、国の財政難から税金を効率的に、集中的に使いたいという政府側の狙いがあるとみられている。」
そしてもちろん、そういう一般的なことの奥に、人文的な知恵はいらないとする安倍政権の「反知性主義」がある。問題は、ほとんど誰にも気づかれないうちに、この大学改革がどんどん進められていたことだ。
会社を辞める――『山口瞳大全 第一巻』(3)
Eさんはかなりためらった後、口を開いた。
「・・・・・・実は書こうと思ってるんだ。」
「・・・・・・!」
「いや、もちろん、仰りたいことはよく分かってるよ。誰かに見せるとか、そういうことじゃないんだ。でも、心覚えというものでもなくて・・・・・・。」
「なんとなく、言うことはわかるよ。」
「どう言ったらいいんだろう、僕の会社では、言葉が、その、・・・・・・窒息しかかっているんだ。とにかく雑誌でも書籍でも、ちょっとでも話題になるようなものを、毎月毎月、血眼になって探しまわり、編集者はもうへとへとだよ。実際、もう何をやったらいいのか分からないんだ。」
「それはどこも同じだろう。新潮社だって講談社だって、大半はそのたぐいだろうけど、でも少数、先鋭なのがいて、頑張っているんじゃないのかね。まあ、Eさんはラインから外れちゃったから、しようがないけれど」
「いや、僕はいいんだ。僕のことは、まあよくないけど、でもしょうがないと思って、あきらめることはできるんだ。でも全社すべておんなじなんだ。先鋭な少数はもういないんだ。」
Eさんは吐き出すようにそう言った。その苦しそうな、激しそうな、言い方は、こちらを黙らせずにはいなかった。
「直木賞だ、芥川賞だ、エンタテインメントだ、純文学だ、そういうものを全部含み込んだうえで、山口瞳は成り立っていると思うんだ。でももちろん、だから山口瞳を手本にする、ということではないんだよ。ただ、うちのような会社に長年いると、自分の言葉が、すでにどこかに属していて、自分は新しいところに出られないような気がするんだ。」
「うーん、それは頭の中では、分かるような気がするけど、・・・・・・でもやっぱり分からないなあ。」
「それはそうだろうね。そう言ってる僕からして、では山口瞳を支えにして、どこかへ出ていけるかと言うと、なんとも言えないものね。」
それからEさんと僕は、いっとき黙っていた。かつてなら、こんな時は酒、というふうになったのだが、僕が病気してからは、酒は一切やめている。
「もう帰るよ。」
「そうかい。」
「自分が山口瞳を読むわけが、言葉にして言えてよかったよ。」
「なんだ、自分で山口瞳を読むわけが、分かってなかったのか。」
「いや、だいたい話したようなことなんだけど、でも自分ではっきりするということもある。」
Eさんは、快活そうに言った。
「なんだかよくわかんないけど、じゃあな。」
僕はそのやり方では、上手くはいかないだろうと思った。それは、いってみれば編集という作業を、否定するようなやり方だからだ。
でもEさんには、今はそういうことは言わなかった。これから何度も、そういうことを話す機会は、あるはずだからだ。
(『山口瞳大全 第一巻 江分利満氏の優雅な生活・居酒屋兆治』
新潮社、1992年10月20日初刷)
「・・・・・・実は書こうと思ってるんだ。」
「・・・・・・!」
「いや、もちろん、仰りたいことはよく分かってるよ。誰かに見せるとか、そういうことじゃないんだ。でも、心覚えというものでもなくて・・・・・・。」
「なんとなく、言うことはわかるよ。」
「どう言ったらいいんだろう、僕の会社では、言葉が、その、・・・・・・窒息しかかっているんだ。とにかく雑誌でも書籍でも、ちょっとでも話題になるようなものを、毎月毎月、血眼になって探しまわり、編集者はもうへとへとだよ。実際、もう何をやったらいいのか分からないんだ。」
「それはどこも同じだろう。新潮社だって講談社だって、大半はそのたぐいだろうけど、でも少数、先鋭なのがいて、頑張っているんじゃないのかね。まあ、Eさんはラインから外れちゃったから、しようがないけれど」
「いや、僕はいいんだ。僕のことは、まあよくないけど、でもしょうがないと思って、あきらめることはできるんだ。でも全社すべておんなじなんだ。先鋭な少数はもういないんだ。」
Eさんは吐き出すようにそう言った。その苦しそうな、激しそうな、言い方は、こちらを黙らせずにはいなかった。
「直木賞だ、芥川賞だ、エンタテインメントだ、純文学だ、そういうものを全部含み込んだうえで、山口瞳は成り立っていると思うんだ。でももちろん、だから山口瞳を手本にする、ということではないんだよ。ただ、うちのような会社に長年いると、自分の言葉が、すでにどこかに属していて、自分は新しいところに出られないような気がするんだ。」
「うーん、それは頭の中では、分かるような気がするけど、・・・・・・でもやっぱり分からないなあ。」
「それはそうだろうね。そう言ってる僕からして、では山口瞳を支えにして、どこかへ出ていけるかと言うと、なんとも言えないものね。」
それからEさんと僕は、いっとき黙っていた。かつてなら、こんな時は酒、というふうになったのだが、僕が病気してからは、酒は一切やめている。
「もう帰るよ。」
「そうかい。」
「自分が山口瞳を読むわけが、言葉にして言えてよかったよ。」
「なんだ、自分で山口瞳を読むわけが、分かってなかったのか。」
「いや、だいたい話したようなことなんだけど、でも自分ではっきりするということもある。」
Eさんは、快活そうに言った。
「なんだかよくわかんないけど、じゃあな。」
僕はそのやり方では、上手くはいかないだろうと思った。それは、いってみれば編集という作業を、否定するようなやり方だからだ。
でもEさんには、今はそういうことは言わなかった。これから何度も、そういうことを話す機会は、あるはずだからだ。
(『山口瞳大全 第一巻 江分利満氏の優雅な生活・居酒屋兆治』
新潮社、1992年10月20日初刷)
会社を辞める――『山口瞳大全 第一巻』(2)
「それからまた、江分利の時代は景気がいいけれども、そうではない遠い先を、正確に見据えているところもあるんだ。例えばこういうところ。
『東西電機にもおっかないところがある。新型といっても限度がある。実におっかない。江分利は、飲みものや、化学調味料などの食品業界というものをうらやましく思うことがある。会社はじまって以来の250人近い増員といっても手離しで喜ぶわけにはいかない。売行きのカーブが落ちたらこれが重ったくなってくる。といって現状では増員せざるを得ぬ。いまいる社員も、首脳部も、これが、会社の伸びが嬉しくもあり、重くもあるのだ。』
どうだい、正確に五十年後を予測しているだろう。」
「ふーむ、まさに半世紀後の家電メーカーだなあ。
ところで、『居酒屋兆治』の方はどうなんだい。」
「あんまりよくない。よくないけども、自然に読んじゃうね。」
「よくないというのは、どういうこと。」
「さよという女が出てくるだろう。これが非現実的でどうにもよくない。実際にこういう女がいてごらんよ。子どもはふたり生んどいて、全然かまう気がない。そもそも亭主に興味がないから、というのが理由だけれども、そのくせ兆治にはご執心だ。こういうのは女の人格欠損だね。気味が悪いね。」
「僕はこれも、悲恋を中心に置いた、居酒屋「兆治」にいろんな人の集まる小説として、楽しんで読んだけどね。でも、君のように読むんだと、この小説は二束三文だろう。これを、よくないけども自然に読んじゃう、というのはどういうこと。」
「だからいろんな人が出入りするから、味わいが濃くって自然に読んじゃうんだよ。さよが出てくる場面以外はだよ。」
「モデルになった、国立というか谷保の文蔵という店は行ったの。」
「いいや。でも『居酒屋兆治』で名前を知られる前から、地域では有名だったらしいね。」
「僕は国立に越してから、三回か四回行ったよ。谷保の駅から五、六分てとこだね。一見どうということのない居酒屋だけど、たとえばモツ焼きの切り身が大きいんだよ。それは『兆治』に出てくる通りだね。縄のれんからして格調があって、カウンターだけの店だけど、飲んでいて、思わず居住まいを正すところがあるんだ。」
「それは嫌だね。酒を飲んだら、自然にほぐれてこないと。」
「そりゃあ、『居酒屋兆治』のモデルになった店だという頭が、こちらにあるからさ。でも旦那とおかみさんでやってる、余計なことは喋らない、いい店だったよ。」
「ということは、今はもうないのかね。」
「おかみさんが体を悪くして、店を畳んだんじゃないかな。
しかし、それはともかく、また山口瞳を読むなんて、どういうことかね。」
『東西電機にもおっかないところがある。新型といっても限度がある。実におっかない。江分利は、飲みものや、化学調味料などの食品業界というものをうらやましく思うことがある。会社はじまって以来の250人近い増員といっても手離しで喜ぶわけにはいかない。売行きのカーブが落ちたらこれが重ったくなってくる。といって現状では増員せざるを得ぬ。いまいる社員も、首脳部も、これが、会社の伸びが嬉しくもあり、重くもあるのだ。』
どうだい、正確に五十年後を予測しているだろう。」
「ふーむ、まさに半世紀後の家電メーカーだなあ。
ところで、『居酒屋兆治』の方はどうなんだい。」
「あんまりよくない。よくないけども、自然に読んじゃうね。」
「よくないというのは、どういうこと。」
「さよという女が出てくるだろう。これが非現実的でどうにもよくない。実際にこういう女がいてごらんよ。子どもはふたり生んどいて、全然かまう気がない。そもそも亭主に興味がないから、というのが理由だけれども、そのくせ兆治にはご執心だ。こういうのは女の人格欠損だね。気味が悪いね。」
「僕はこれも、悲恋を中心に置いた、居酒屋「兆治」にいろんな人の集まる小説として、楽しんで読んだけどね。でも、君のように読むんだと、この小説は二束三文だろう。これを、よくないけども自然に読んじゃう、というのはどういうこと。」
「だからいろんな人が出入りするから、味わいが濃くって自然に読んじゃうんだよ。さよが出てくる場面以外はだよ。」
「モデルになった、国立というか谷保の文蔵という店は行ったの。」
「いいや。でも『居酒屋兆治』で名前を知られる前から、地域では有名だったらしいね。」
「僕は国立に越してから、三回か四回行ったよ。谷保の駅から五、六分てとこだね。一見どうということのない居酒屋だけど、たとえばモツ焼きの切り身が大きいんだよ。それは『兆治』に出てくる通りだね。縄のれんからして格調があって、カウンターだけの店だけど、飲んでいて、思わず居住まいを正すところがあるんだ。」
「それは嫌だね。酒を飲んだら、自然にほぐれてこないと。」
「そりゃあ、『居酒屋兆治』のモデルになった店だという頭が、こちらにあるからさ。でも旦那とおかみさんでやってる、余計なことは喋らない、いい店だったよ。」
「ということは、今はもうないのかね。」
「おかみさんが体を悪くして、店を畳んだんじゃないかな。
しかし、それはともかく、また山口瞳を読むなんて、どういうことかね。」
会社を辞める――『山口瞳大全 第一巻』(1)
昼過ぎにEさんが来た。
二週間ほど前に電話をくれて、「こんど、会社を辞めることにしたんだ」という。
電話では埒が明かないので、直接会ってしゃべることにした。
Eさんは僕よりも八つ下だから、今年誕生日が来ていれば五十五歳になる。
僕などとは違って、大きな出版社に勤めていた。どちらかといえば文芸畑の人だから、ここ数年の新刊文芸書の売れ行きは、頭の痛いことだったろう。
「僕はもう文芸書からは外れているし、そもそも編集はクビになって、ここ数年は営業の、それもデータを取るという半端な仕事しかしていないから、希望退職に応じるのは仕方のないことだよ。」
Eさんの奥さんは高校の先生で、子どもはいない。
もう少し我慢していればなどというのは、この期に及んでいうことではない。とはいえ僕などにしてみれば、もうすぐ停年なんだから、やっぱり勿体ない気がする。
「それで、これからどうするんだ。」
「しばらくは、といっても蓄えはすぐに尽きるから、長い間じゃないけど、本を読んで暮らそうと思う。そう思って、さっそく山口瞳を読みはじめたんだ。『山口瞳大全』の第一巻、「江分利満氏の優雅な生活」と「居酒屋兆治」だ。」
「サラリーマンを辞めた日から、サラリーマン小説を読みはじめるのかね。面白いね。」
「そう思ってるでしょ。ところが、『江分利満氏の優雅な生活』は、そうでもないんだ。サラリーマン小説じゃないんだよ。」
「どういうことかね。」
「サラリーマンの浮世の付き合いとか、休みの日の社宅での付き合いとか、まあそういうのもあるにはあるんだけど、焦点は、かなり狂気がかった父親との付き合いと、それから、先の戦争に対する痛切な反省なんだ。戦争のことは、もう気も狂わんばかりだよ。」
「ほんとう? 『江分利満氏の優雅な生活』は、四十年くらい前に読んだんだけどねえ。」
「ずうっとのちに、『家族』として結実する物語を、山口瞳は処女作から温めていたんだね。というよりも、処女作に書いただけじゃあ、物足りなかったんだろう。」
「でも、じゃあ僕は全然、読めてなかったんだなあ。」
「『婦人画報』の連載だし、著者はサントリーというか寿屋の広告マンだしねえ。この小説は、父と子の宿命を描いたものである、とはなかなか言えないよ。あとの戦争については、この小説だけが突出したものではなくて、そのころは、結構いろいろあったんじゃないかねえ。まあそれでも、この反戦思想は狂気すれすれで、息を飲むけどね。」
「ふーむ。」
二週間ほど前に電話をくれて、「こんど、会社を辞めることにしたんだ」という。
電話では埒が明かないので、直接会ってしゃべることにした。
Eさんは僕よりも八つ下だから、今年誕生日が来ていれば五十五歳になる。
僕などとは違って、大きな出版社に勤めていた。どちらかといえば文芸畑の人だから、ここ数年の新刊文芸書の売れ行きは、頭の痛いことだったろう。
「僕はもう文芸書からは外れているし、そもそも編集はクビになって、ここ数年は営業の、それもデータを取るという半端な仕事しかしていないから、希望退職に応じるのは仕方のないことだよ。」
Eさんの奥さんは高校の先生で、子どもはいない。
もう少し我慢していればなどというのは、この期に及んでいうことではない。とはいえ僕などにしてみれば、もうすぐ停年なんだから、やっぱり勿体ない気がする。
「それで、これからどうするんだ。」
「しばらくは、といっても蓄えはすぐに尽きるから、長い間じゃないけど、本を読んで暮らそうと思う。そう思って、さっそく山口瞳を読みはじめたんだ。『山口瞳大全』の第一巻、「江分利満氏の優雅な生活」と「居酒屋兆治」だ。」
「サラリーマンを辞めた日から、サラリーマン小説を読みはじめるのかね。面白いね。」
「そう思ってるでしょ。ところが、『江分利満氏の優雅な生活』は、そうでもないんだ。サラリーマン小説じゃないんだよ。」
「どういうことかね。」
「サラリーマンの浮世の付き合いとか、休みの日の社宅での付き合いとか、まあそういうのもあるにはあるんだけど、焦点は、かなり狂気がかった父親との付き合いと、それから、先の戦争に対する痛切な反省なんだ。戦争のことは、もう気も狂わんばかりだよ。」
「ほんとう? 『江分利満氏の優雅な生活』は、四十年くらい前に読んだんだけどねえ。」
「ずうっとのちに、『家族』として結実する物語を、山口瞳は処女作から温めていたんだね。というよりも、処女作に書いただけじゃあ、物足りなかったんだろう。」
「でも、じゃあ僕は全然、読めてなかったんだなあ。」
「『婦人画報』の連載だし、著者はサントリーというか寿屋の広告マンだしねえ。この小説は、父と子の宿命を描いたものである、とはなかなか言えないよ。あとの戦争については、この小説だけが突出したものではなくて、そのころは、結構いろいろあったんじゃないかねえ。まあそれでも、この反戦思想は狂気すれすれで、息を飲むけどね。」
「ふーむ。」
恋人は他人に勧めない――『本が虫 本の解剖学Ⅱ』
続いて『本が虫』を朗読する。一般に朗読は楽しみでもあり、苦役でもあるのだが、養老先生の本は、苦役という面が全然ない。でもそうすると、脳出血後の脳の役には、あまり立ってないのかな。
それはともかく、Ⅰは文芸書・人文書。Ⅱは脳・進化・医学など。ⅢはⅠとは違った、広い意味での人文書。Ⅳは、再び本の読み方について。
と言っても漠然としているので、いくつか挙げてみよう。
まずⅠから。奥本大三郎『虫のゐどころ』、ユン・チアン『ワイルド・スワン』、アゴタ・クリストフ『悪童日記』『ふたりの証拠』『第三の噓』、夢野久作『ドグラ・マグラ』なと。
そのうち、『ドグラ・マグラ』では、「私の興味と、著者の興味が妙に一致している点が、きわめて不気味である」。なるほど、不気味ではある。
Ⅱは、オリバー・サックス『妻を帽子とまちがえた男』『レナードの朝』、シャンジュー、コンヌ『考える物質』、池田清彦『分類という思想』、P・B・メダワー『進歩への希望』、梅原猛編『「脳死」と臓器移植』、萬年甫『脳の探求者ラモニ・カハール』など。
『脳の探求者ラモニ・カハール』は、角度を変えた書評を3篇収める。「著者のカハールに対する思い入れも一通りではない」と書いた養老さんは、著者に応えるかたちで、書評を3篇書いたのだ。
Ⅲは、河合隼雄『中年クライシス』、中沢新一『虹の理論』、中村雄二郎『かたちのオディッセイ』、D・モリス『裸のサル』、布施豊正『自殺と文化』などを収める。
『自殺と文化』で、「著者がおよそ自殺しそうもない典型的な健康人として引用するのは、フーテンの寅次郎である」。
なお中沢新一氏の『虹の理論』は、さすがの養老さんも、ちょっと往生しているかに見える。「中沢氏の連合野は、下位の中枢からの入力が、同時に大量に吹き上げてくる」というのは、著者を横目で見ながら、内容には立ち至っていない。
Ⅳは、「私の書斎術」、「読書のすすめ」、「本と虫」など。
このうち「読書のすすめ」は、「自分が好きだからといって、自分の恋人を他人に勧める人はいない」というものだ。
なおⅢの終わりに、『馬鹿の使い方』が載せてある。「本書の姉妹編である『ハサミの使い方』は、すでに七刷を重ねている」、という本文と合わせて、いっしょに探すのは辞めてほしい。
(『本が虫 本の解剖学Ⅱ』養老孟司、法蔵館、1994年12月10日初刷)
それはともかく、Ⅰは文芸書・人文書。Ⅱは脳・進化・医学など。ⅢはⅠとは違った、広い意味での人文書。Ⅳは、再び本の読み方について。
と言っても漠然としているので、いくつか挙げてみよう。
まずⅠから。奥本大三郎『虫のゐどころ』、ユン・チアン『ワイルド・スワン』、アゴタ・クリストフ『悪童日記』『ふたりの証拠』『第三の噓』、夢野久作『ドグラ・マグラ』なと。
そのうち、『ドグラ・マグラ』では、「私の興味と、著者の興味が妙に一致している点が、きわめて不気味である」。なるほど、不気味ではある。
Ⅱは、オリバー・サックス『妻を帽子とまちがえた男』『レナードの朝』、シャンジュー、コンヌ『考える物質』、池田清彦『分類という思想』、P・B・メダワー『進歩への希望』、梅原猛編『「脳死」と臓器移植』、萬年甫『脳の探求者ラモニ・カハール』など。
『脳の探求者ラモニ・カハール』は、角度を変えた書評を3篇収める。「著者のカハールに対する思い入れも一通りではない」と書いた養老さんは、著者に応えるかたちで、書評を3篇書いたのだ。
Ⅲは、河合隼雄『中年クライシス』、中沢新一『虹の理論』、中村雄二郎『かたちのオディッセイ』、D・モリス『裸のサル』、布施豊正『自殺と文化』などを収める。
『自殺と文化』で、「著者がおよそ自殺しそうもない典型的な健康人として引用するのは、フーテンの寅次郎である」。
なお中沢新一氏の『虹の理論』は、さすがの養老さんも、ちょっと往生しているかに見える。「中沢氏の連合野は、下位の中枢からの入力が、同時に大量に吹き上げてくる」というのは、著者を横目で見ながら、内容には立ち至っていない。
Ⅳは、「私の書斎術」、「読書のすすめ」、「本と虫」など。
このうち「読書のすすめ」は、「自分が好きだからといって、自分の恋人を他人に勧める人はいない」というものだ。
なおⅢの終わりに、『馬鹿の使い方』が載せてある。「本書の姉妹編である『ハサミの使い方』は、すでに七刷を重ねている」、という本文と合わせて、いっしょに探すのは辞めてほしい。
(『本が虫 本の解剖学Ⅱ』養老孟司、法蔵館、1994年12月10日初刷)
病後の脳の活性化――『脳が読む 本の解剖学Ⅰ』
朗読用に読む本は、どうしても養老孟司さんのものが多くなる。論理が明晰で歯切れがいいから、病後の脳の活性化に、いいような気がする。よく考えると、必ずしもわかりやすくはないのだが、読んでいるときは、快調に読める。
『脳が読む』と『本が虫』は書評集で、2冊併せて「本の解剖学Ⅰ・Ⅱ」として法蔵館から刊行した。養老さんに、この書評集の企画を持って行ったところ、商売がうまいねと(ひょっとすると喉の奥で苦虫をかみつぶして)、わらっておられたかもしれないのを思い出す。
前にも書いたように、先生は書評集という本を、必ずしも是としておられなかった。
「誰かが『書いたもの』について『書く』。これは『メタ』作業である。実物からは、二段階遠くなっている。そんなものを人に読ませていいのか。」(『本が虫』「あとがき」)
これは養老先生が受けた、東大解剖学の教育に原因がある。本を読む前に、まず実物を見よ、と。
もちろん僕は、そんな教育は受けていない。それよりも、見事な文章は本にする価値がある、これが絶対の教えである。
『脳が読む』は全体が、ゆるやかなⅣ部立てになっている。Ⅰは書評集というよりも、本の読み方についてで、「わたくし流・秋の読書計画」、「臨床読書」、「書評と型」「子どもに本を勧める」などが収録されている。
このうち、「わたくし流・秋の読書計画」は、どんなふうになっているかと言うと、「読書計画を立てる暇があるくらいなら、その時間に本を読む。」ふむ、なるほど。
また「子どもに本を勧める」では、「この勝負は、きわめて長い。ルールもまた『ある』ようで『ない』。『ない』ようで『ある』」。つまり、これを読めといって、おさまることはないから、これは子育てそのものなのである。
Ⅱは広い意味で、人文書を収める。鶴見良行『ナマコの眼』から始まって、S・ソンタグ『エイズとその隠喩』、М・サッチャー『サッチャー回顧録』、山本俊一『日本らい史』など。
そのうち、『ナマコの眼』は、こんなふうに始まる。
「ナマコがたどった道をたずねた書物は珍しい。もちろん、ナマコ自身があちこち歩いたわけではない」。
Ⅲは、ホラーを含む文芸書。S・キング『IT』、澁澤龍彦『高丘親王航海記』、ディック・フランシス『帰還』などを収める。
ディック・フランシスは、著者のお気に入りである。とにかく一人で行動する。
「行動的であることは、倫理的であるための前提条件である。さもなければ、倫理の先生になってしまう」。
Ⅳは、進化論を中心とする自然科学書で、バランス的にはこれが最も多い。三木成夫『海・呼吸・古代形象』、ドーキンス『利己的な遺伝子』、立花隆『サル学の現在』、S・J・グールド『個体発性と系統発性』、多田富雄『免疫の意味論』などを収める。
三木成夫については、こんなふうに言う。
「三木は現代のいわゆる実験科学とはソリが合わず、自分の観察と思考から独特の結論を導き出すことを得意としていた」。
まるで養老先生そのものである。
(『脳が読む 本の解剖学Ⅰ』
養老孟司、法蔵館、1994年12月10日初刷、1995年1月10日第2刷)
『脳が読む』と『本が虫』は書評集で、2冊併せて「本の解剖学Ⅰ・Ⅱ」として法蔵館から刊行した。養老さんに、この書評集の企画を持って行ったところ、商売がうまいねと(ひょっとすると喉の奥で苦虫をかみつぶして)、わらっておられたかもしれないのを思い出す。
前にも書いたように、先生は書評集という本を、必ずしも是としておられなかった。
「誰かが『書いたもの』について『書く』。これは『メタ』作業である。実物からは、二段階遠くなっている。そんなものを人に読ませていいのか。」(『本が虫』「あとがき」)
これは養老先生が受けた、東大解剖学の教育に原因がある。本を読む前に、まず実物を見よ、と。
もちろん僕は、そんな教育は受けていない。それよりも、見事な文章は本にする価値がある、これが絶対の教えである。
『脳が読む』は全体が、ゆるやかなⅣ部立てになっている。Ⅰは書評集というよりも、本の読み方についてで、「わたくし流・秋の読書計画」、「臨床読書」、「書評と型」「子どもに本を勧める」などが収録されている。
このうち、「わたくし流・秋の読書計画」は、どんなふうになっているかと言うと、「読書計画を立てる暇があるくらいなら、その時間に本を読む。」ふむ、なるほど。
また「子どもに本を勧める」では、「この勝負は、きわめて長い。ルールもまた『ある』ようで『ない』。『ない』ようで『ある』」。つまり、これを読めといって、おさまることはないから、これは子育てそのものなのである。
Ⅱは広い意味で、人文書を収める。鶴見良行『ナマコの眼』から始まって、S・ソンタグ『エイズとその隠喩』、М・サッチャー『サッチャー回顧録』、山本俊一『日本らい史』など。
そのうち、『ナマコの眼』は、こんなふうに始まる。
「ナマコがたどった道をたずねた書物は珍しい。もちろん、ナマコ自身があちこち歩いたわけではない」。
Ⅲは、ホラーを含む文芸書。S・キング『IT』、澁澤龍彦『高丘親王航海記』、ディック・フランシス『帰還』などを収める。
ディック・フランシスは、著者のお気に入りである。とにかく一人で行動する。
「行動的であることは、倫理的であるための前提条件である。さもなければ、倫理の先生になってしまう」。
Ⅳは、進化論を中心とする自然科学書で、バランス的にはこれが最も多い。三木成夫『海・呼吸・古代形象』、ドーキンス『利己的な遺伝子』、立花隆『サル学の現在』、S・J・グールド『個体発性と系統発性』、多田富雄『免疫の意味論』などを収める。
三木成夫については、こんなふうに言う。
「三木は現代のいわゆる実験科学とはソリが合わず、自分の観察と思考から独特の結論を導き出すことを得意としていた」。
まるで養老先生そのものである。
(『脳が読む 本の解剖学Ⅰ』
養老孟司、法蔵館、1994年12月10日初刷、1995年1月10日第2刷)
正確に、ただ正確に書く――『師・井伏鱒二の思い出』
これは「井伏鱒二全集」の月報に、断続的に掲載されたもの。「井伏鱒二全集」は筑摩書房が出したんだから、三浦哲郎のこういう原稿は取らなきゃあと思うが、無理なのかな(単行本は新潮社)。
僕は井伏の、いい読者ではない。「屋根の上のサワン」、「山椒魚」、「夜ふけと梅の花」以下、何冊か読んだが、ピンとこなかった。『厄除け詩集』以外に、本当に気に入ったものはない。
一方、三浦哲郎にいたっては、何も読んだことがない。でも平松洋子も荒川洋治も、作品にぴたりと寄り添うかたちで、しんみりと絶賛していたなあ。
これは追悼の文章なのに、思い出される方も、思い出す方も、僕はあまり知らない。そういうときが、かえって面白いのだ。
それで、ともかく1ページ目から読んでいく。するとたちまち、眼は釘付けになり、背筋はぴんと伸びる。自然にそうなる。これは一体、何なんだ。
早稲田の先生をやっている小沼丹に連れられて、三浦哲郎は、井伏鱒二に会いに行く。どうということのない始まりである。ところが、はじまって1,2ページで、もうだめである。とにかく眼は、一瞬たりとも本文に吸い付いて離れない。どんなことも、正確に書こうとすると、本当にそのままで美しいのだ。そういうことを当たり前に分からせる。それは、凄味のあることなのだ。
初めの方で、井伏鱒二が三浦哲郎に言う。
「急ぐことはない、ゆっくり書いておいで。うまく書こうとしちゃ、いけないよ。」
「うまく書こうとしちゃ、いけないよ」、これが全編を貫く、三浦哲郎の方法である。そして終わりまで、これ一本で行く。
終わりの方で、『海』の編集長で、「先生の取材のお供をして一緒に富士山の裾野を歩き回ったりした亡き塙嘉彦氏」のことが出てくる。塙嘉彦のことは、大塚信一さんの『山口昌男の手紙』にも出てくる。山口さんが外国にいるとき、塙さんが急性のがんで死に、そのため山口さんは、ただもう身も世もなく泣き崩れる。山口昌男と井伏鱒二、およそタイプの違う両巨頭に、これほど信愛の情を抱かせるなんて、いったいどういう人だったんだろう。
この本は解説を、荒川洋治が書いている。目次では「解説 荒川洋治」とあるが、本文では「『師・井伏鱒二の思い出』について 荒川洋治」となっている。これは非常に珍しいミスだ。
それはともかく、このわずか4ページの「解説」が、素晴らしい。
「かつての作家の出発が、どんなものであったか。同じ道にありながら、世代的に先を行く人が、どのような愛情を注いで、次代の人を見つめていたか。文学のまわりに、どのような風景があったか。どんな人がいたか。その日々の回想であり、記録であるこれらの文章を、『先生』も『私』もいない場所で、ぼくは読んでいることにいま気づく。」
文学というのが、書かれたものだけで連なってゆく。そのことがよくわかる。
ほんとうは僕の文章などよりも、荒川洋治の「解説」を導入にした方がいいのだが、「解説」が単独で先に読めるわけもないので、僕の文章を蛇足代わりに付け加えた。
(『師・井伏鱒二の思い出』三浦哲郎、新潮社、2010年12月20日初刷)
僕は井伏の、いい読者ではない。「屋根の上のサワン」、「山椒魚」、「夜ふけと梅の花」以下、何冊か読んだが、ピンとこなかった。『厄除け詩集』以外に、本当に気に入ったものはない。
一方、三浦哲郎にいたっては、何も読んだことがない。でも平松洋子も荒川洋治も、作品にぴたりと寄り添うかたちで、しんみりと絶賛していたなあ。
これは追悼の文章なのに、思い出される方も、思い出す方も、僕はあまり知らない。そういうときが、かえって面白いのだ。
それで、ともかく1ページ目から読んでいく。するとたちまち、眼は釘付けになり、背筋はぴんと伸びる。自然にそうなる。これは一体、何なんだ。
早稲田の先生をやっている小沼丹に連れられて、三浦哲郎は、井伏鱒二に会いに行く。どうということのない始まりである。ところが、はじまって1,2ページで、もうだめである。とにかく眼は、一瞬たりとも本文に吸い付いて離れない。どんなことも、正確に書こうとすると、本当にそのままで美しいのだ。そういうことを当たり前に分からせる。それは、凄味のあることなのだ。
初めの方で、井伏鱒二が三浦哲郎に言う。
「急ぐことはない、ゆっくり書いておいで。うまく書こうとしちゃ、いけないよ。」
「うまく書こうとしちゃ、いけないよ」、これが全編を貫く、三浦哲郎の方法である。そして終わりまで、これ一本で行く。
終わりの方で、『海』の編集長で、「先生の取材のお供をして一緒に富士山の裾野を歩き回ったりした亡き塙嘉彦氏」のことが出てくる。塙嘉彦のことは、大塚信一さんの『山口昌男の手紙』にも出てくる。山口さんが外国にいるとき、塙さんが急性のがんで死に、そのため山口さんは、ただもう身も世もなく泣き崩れる。山口昌男と井伏鱒二、およそタイプの違う両巨頭に、これほど信愛の情を抱かせるなんて、いったいどういう人だったんだろう。
この本は解説を、荒川洋治が書いている。目次では「解説 荒川洋治」とあるが、本文では「『師・井伏鱒二の思い出』について 荒川洋治」となっている。これは非常に珍しいミスだ。
それはともかく、このわずか4ページの「解説」が、素晴らしい。
「かつての作家の出発が、どんなものであったか。同じ道にありながら、世代的に先を行く人が、どのような愛情を注いで、次代の人を見つめていたか。文学のまわりに、どのような風景があったか。どんな人がいたか。その日々の回想であり、記録であるこれらの文章を、『先生』も『私』もいない場所で、ぼくは読んでいることにいま気づく。」
文学というのが、書かれたものだけで連なってゆく。そのことがよくわかる。
ほんとうは僕の文章などよりも、荒川洋治の「解説」を導入にした方がいいのだが、「解説」が単独で先に読めるわけもないので、僕の文章を蛇足代わりに付け加えた。
(『師・井伏鱒二の思い出』三浦哲郎、新潮社、2010年12月20日初刷)