謎の人――『シベリア物語』

戦争の末期、日本兵がソ連軍の捕虜に取られる。そこで見聞きした話だ。と言っても、比較的長い「勲章」以外の十篇は、言ってみればスケッチ風で、心理の彩や、短篇の骨格で読ませるものではない。
 
そもそも各短篇の主人公は、「勲章」と「犬殺し」を除けは、日本兵ではなく、シベリアに生きる男女なのである。そして冒頭の一篇「シルカ」では、「マリーヤ・ゾロトゥヒナも、野菜の積み込みにやってきた『兵隊たち』に対し、捕虜とか日本人とかいう観念を全然持っていなかった」という具合で、『シベリア物語』全体の視点は、日本の捕虜もいるシベリアなのである。
 
なんだか僕の歯切れが悪いけれども、じつはこの短篇集の骨格がよくわからないのだ。唯一の例外は「勲章」で、冒頭、「佐藤少佐は不幸にして捕虜となったのだが、大へん威張っていた」というところから、最後の帰国船に乗る手前まで、その七転八倒が戯画化して描かれる。それはシベリア抑留文学の、ある典型だろうと思う。しかしこれと、それ以外の短篇とは、組み立てがあまりにも違っている。
 
最後の「犬殺し」は、日本人捕虜が主人公ではあるけれども、その内面には相渉らない。これはその他の短篇、「馬の微笑」「小さな礼拝堂」「舞踏会」「人さまざま」「掃除人」「アンナ・ガールキナ」「ラドシュキン」「ナスンボ」の場合と同じである。
 
文芸文庫なので巻末に作家案内がある。青山太郎という人が書いている。
「長谷川四郎の作品に、事件のロマネスクは皆無ではないがすこぶる乏しい。・・・・・・心理のロマネスクに至ってはほぼ皆無である。」
いってみれば、文体だけが支える作品といえよう。
 
では、今となっては読む価値はなかろう、そう思いたがるのは当然である。でも、何か、そう、わけのわからないものがある。

長谷川四郎の『シベリア物語』は昔も今も、読む価値のない人にとっては、つまらないものだ。天沢退二郎の「解説」を読むと、五木寛之が著者に、「のんきな本で捕虜生活の苦しみが出てないですね」、と言ったということが書かれている。

では「勲章」以外は、のほほんとしたスケッチかと言われれば、それは絶対に違う。もう少し読んでみなければ、何も言えないのだ。

(『シベリア物語』長谷川四郎、講談社文芸文庫、1991年4月10日初刷)