とは言うものの、ブント全学連は最初から、「甘え」と紙一重の開放感があった。
「ブントの組織は開けっぴろげで、リンチや査問がつきものの共産党の陰険さや秘密性などまったくなかった。しかし、私から言わせれば、この開放感というより〝ワキの甘さ〟こそ、その後のセクトにはないブントの魅力だった。」
ブントは、日本共産党に反発して別れた、稀有な左翼集団で、その寿命も非常に短かった。
「ブントは短命だったが、日本共産党のようなリンチ事件や、そしてブント消滅後の革共同内部の内ゲバ事件や、連赤の殺人事件のような陰惨な出来事は起こさなかった。」
なぜ、そういうことが起こらなかったのか。
「ブントが左翼運動が宿命的にもつ『暗さ』から免れたのは、奇跡的だったといってもよい。それは唐牛の〝人間性〟によるところが大きかっただろう。」
こういうところを読むと、舞台は違うけれど、スペイン市民戦争の頃のPOUMを思い出す。共産主義で上からガチガチに固めたのとは違う、市民の軍隊だったPOUMは、1人ひとりが納得するまでは動かない、けれどもいったん納得すれば、素晴らしい働きをしたものだった。
スペイン市民戦争は、反革命軍のフランコと、ソ連の巧妙な革命つぶしの挟み撃ちに遭って、POUMは潰されるけれど、オーウェルの『スペイン市民戦争』に、その名を残した。
ブントは、唐牛の体現したものの中に、かろうじてその影を残したのではないか。
「唐牛は、本当はちゃんとした仕事につこうとしたんだ。だけど、全部権力が手を回して、排除した。つまり、唐牛は一罰百戒というか見せしめで、ほかの活動家はみんな大企業に入っていった。」
唐牛のこの姿勢は、ひょっとしてどこか、佐野眞一に似ていはしないか。
また唐牛は、仕事で組む相手を、徹底的に選んだ。
「それにしても、田中清玄しかり、田岡一雄しかり、そして徳田虎雄しかり・・・・・・。唐牛は〝大物食い〟というか〝悪食〟というか、個性が強烈すぎて辟易とする人物に近づきたがる性癖を生来持っていたようである。」
思わず笑ってしまう。組む相手もたちが違うし、仕事の仕方も違うんだけど、でも「個性が強烈すぎて・・・・・・」というのは、佐野眞一に、あまりにもぴったり当てはまってしまう。
末尾に近く、唐牛が生涯を終えるところで、佐野はこんなつぶやきを漏らす。
「唐牛健太郎は、全学連仲間の島成郎や青木昌彦らがそれぞれの分野で目覚ましい業績をあげたのとは対照的に、『長』と名の付く職に就くことを拒み、無名の市井人として一生を終えた。だが、それこそが唐牛が生涯をかけて貫いた無言の矜持ではなかったか。」
400ページになんなんとする本書には、もちろんまだ大きな問題がいくつもある。というか本としては、そちらの方が大きな問題だろう。
しかしここでは、佐野の執筆の原動力となった、「失意から立ち直らせ」るものだけについて書いた。
(『唐牛伝―敗者の戦後漂流―』佐野眞一、小学館、2016年8月1日初刷)
再起第一作――『唐牛伝―敗者の戦後漂流―』(1)
2012年、佐野眞一は『週刊朝日』で、大阪市長だった橋下徹の人物論の連載を始めたが、それが差別問題に触れることになり、筆を折った。ちなみに、当時の『週刊朝日』の編集長も更迭されている。
これは、佐野の再起第一作なのだ。だから読む方も、そのあたりを意識しながら読み続けることになる。
佐野はプロローグで書いている。
「心無い中傷で人生のどん底に突き落とされながら、愚痴一つ言わず生き抜いた唐牛の強靭な精神は、私をどれだけ勇気づけてくれたかわからない。それが私を失意から立ち直らせ、これを書かせる原動力になった。」
唐牛健太郎は、1959年6月に全学連委員長に就任し、61年7月に辞任した。この間、安保闘争にかかわって、公務執行妨害などで三度逮捕された。唐牛は懲役10カ月の実刑判決を受け、63年7月まで宇都宮刑務所に服役した。これが60年安保闘争の、唐牛に関する全記録である。
63年2月26日には、TBSラジオで「ゆがんだ青春―全学連闘士のその後」が放送された。全学連闘士が、その後右翼と結びついて、金をもらっていたこともあって、大きな衝撃を与えた。佐野は言う。「山口組+全学連vs児玉誉士夫+右翼という構図は、聞く者を興奮させずにはおかない。」
そうだろうか。僕は興奮しない。学生の言う「革命」の内実は、もし内実というものがあるとして、世間一般でおおむね真面目に暮らしている人たちに比較すれば、ほとんど噴飯もの、というにも値しないものだ。
そんなことよりも、唐牛がその後、様々な職業を模索していたところに、興味とある種の痛ましさを感じる。佐野は的確に、そこを突く。唐牛の「この乱雑過ぎる好奇心のベクトルは、〝山ッ家〟や〝気の多さ〟だけでは済まないアブノーマルなまでの社会への甘えを感じさせる」。
「アブノーマルなまでの社会への甘え」という的確きわまる書き方に、佐野眞一に対する信頼感があるのだ。
これは、佐野の再起第一作なのだ。だから読む方も、そのあたりを意識しながら読み続けることになる。
佐野はプロローグで書いている。
「心無い中傷で人生のどん底に突き落とされながら、愚痴一つ言わず生き抜いた唐牛の強靭な精神は、私をどれだけ勇気づけてくれたかわからない。それが私を失意から立ち直らせ、これを書かせる原動力になった。」
唐牛健太郎は、1959年6月に全学連委員長に就任し、61年7月に辞任した。この間、安保闘争にかかわって、公務執行妨害などで三度逮捕された。唐牛は懲役10カ月の実刑判決を受け、63年7月まで宇都宮刑務所に服役した。これが60年安保闘争の、唐牛に関する全記録である。
63年2月26日には、TBSラジオで「ゆがんだ青春―全学連闘士のその後」が放送された。全学連闘士が、その後右翼と結びついて、金をもらっていたこともあって、大きな衝撃を与えた。佐野は言う。「山口組+全学連vs児玉誉士夫+右翼という構図は、聞く者を興奮させずにはおかない。」
そうだろうか。僕は興奮しない。学生の言う「革命」の内実は、もし内実というものがあるとして、世間一般でおおむね真面目に暮らしている人たちに比較すれば、ほとんど噴飯もの、というにも値しないものだ。
そんなことよりも、唐牛がその後、様々な職業を模索していたところに、興味とある種の痛ましさを感じる。佐野は的確に、そこを突く。唐牛の「この乱雑過ぎる好奇心のベクトルは、〝山ッ家〟や〝気の多さ〟だけでは済まないアブノーマルなまでの社会への甘えを感じさせる」。
「アブノーマルなまでの社会への甘え」という的確きわまる書き方に、佐野眞一に対する信頼感があるのだ。
打ちのめされて――『理想の出版を求めて―一編集者の回想 1963‐2003―』(3)
全体を朗読してみると、僕はこの本を少し誤解していた。大塚さんが、「私ははじめ、アンチ岩波だった」とおっしゃるので、てっきりそのつもりでいたが、よく読んでみると、そうではない。
例えば哲学で言えば、正統な哲学者を押さえた上に、梅原猛、上山春平といった人たちがいる。結局、大塚さんは伝統の中に小さく収まることをせず、伝統を生きたものとして、より革新的に広げていったから、その仕事に命が通ったのだ。
「出版の営為とは、優れた人間の知識と知恵の創出に加担し、併せてそれらを保持し次の世代に継承していくことにある」、こういうことを上滑りでなく、身に着いたこととして口にできる経営者は、今はもういないのではないだろうか。
いくつもある大塚本のうち、これはもう誰にも真似のできない企画として、一つ挙げておく。「講座・転換期における人間」(全10巻・別巻1)である。編集委員は宇沢弘文(経済学)、河合隼雄(心理学)、藤沢令夫(哲学)、渡辺慧(物理学)。
経済学、心理学、哲学、物理学の著者を集めて、それを編集委員にして講座を作る。これがそもそも、あっと驚くことだ。しかも講座の題名が、「転換期における人間」。これは「心理学」や「社会学」の講座とは違って、大塚さんがいなければ、絶対にできなかった企画だ。岩波ならではの、しかし従来の岩波を超えた企画だ。
最後にもう一つ、エピソードを挙げておく。大塚さんは30歳を越えたころ、木田元さんに新書で『現象学』を書いてほしい、という依頼をした。
木田さんは、その『現象学』が大詰めに差しかかったとき、折悪しく学生を山荘に連れていき、5日間ほど夏季セミナーをやることになっていた。
「出発の前夜徹夜して、終章を除く最後の原稿を書きあげ、八時半ごろの汽車に乗る前に、上野駅のホームで大塚さんに渡すことになっていた。発車ギリギリの時間に乗車ホームにいくと、もう発車のベルが鳴っている。大塚さんの姿が向こうに見えるが、渡している暇がない。大塚さんが気づいたのを見て、原稿の入った袋を地べたに置き、手近かのデッキに跳びのった。ドアがしまり動き出した汽車のなかから、大塚さんが走ってきて袋を拾いあげるのを見とどけた上で、自分の席をさがし、座るやいなや眠ってしまった。」
編集者は、もっぱら頭脳労働者と見られているが、こんな離れ業も、ときに見せることがある。そして、若いときにこういうことを経験していない編集者は、結局は伸びない。
(『理想の出版を求めて―一編集者の回想 1963‐2003―』
大塚信一、トランスビュー、2006年11月5日初刷)
例えば哲学で言えば、正統な哲学者を押さえた上に、梅原猛、上山春平といった人たちがいる。結局、大塚さんは伝統の中に小さく収まることをせず、伝統を生きたものとして、より革新的に広げていったから、その仕事に命が通ったのだ。
「出版の営為とは、優れた人間の知識と知恵の創出に加担し、併せてそれらを保持し次の世代に継承していくことにある」、こういうことを上滑りでなく、身に着いたこととして口にできる経営者は、今はもういないのではないだろうか。
いくつもある大塚本のうち、これはもう誰にも真似のできない企画として、一つ挙げておく。「講座・転換期における人間」(全10巻・別巻1)である。編集委員は宇沢弘文(経済学)、河合隼雄(心理学)、藤沢令夫(哲学)、渡辺慧(物理学)。
経済学、心理学、哲学、物理学の著者を集めて、それを編集委員にして講座を作る。これがそもそも、あっと驚くことだ。しかも講座の題名が、「転換期における人間」。これは「心理学」や「社会学」の講座とは違って、大塚さんがいなければ、絶対にできなかった企画だ。岩波ならではの、しかし従来の岩波を超えた企画だ。
最後にもう一つ、エピソードを挙げておく。大塚さんは30歳を越えたころ、木田元さんに新書で『現象学』を書いてほしい、という依頼をした。
木田さんは、その『現象学』が大詰めに差しかかったとき、折悪しく学生を山荘に連れていき、5日間ほど夏季セミナーをやることになっていた。
「出発の前夜徹夜して、終章を除く最後の原稿を書きあげ、八時半ごろの汽車に乗る前に、上野駅のホームで大塚さんに渡すことになっていた。発車ギリギリの時間に乗車ホームにいくと、もう発車のベルが鳴っている。大塚さんの姿が向こうに見えるが、渡している暇がない。大塚さんが気づいたのを見て、原稿の入った袋を地べたに置き、手近かのデッキに跳びのった。ドアがしまり動き出した汽車のなかから、大塚さんが走ってきて袋を拾いあげるのを見とどけた上で、自分の席をさがし、座るやいなや眠ってしまった。」
編集者は、もっぱら頭脳労働者と見られているが、こんな離れ業も、ときに見せることがある。そして、若いときにこういうことを経験していない編集者は、結局は伸びない。
(『理想の出版を求めて―一編集者の回想 1963‐2003―』
大塚信一、トランスビュー、2006年11月5日初刷)
打ちのめされて――『理想の出版を求めて―一編集者の回想 1963‐2003―』(2)
この本を作ったときから思っていたことだが、新書にしても選書にしても、あるいは単行本、叢書にしても、僕は大塚さんの作った本を、じつによく読んでいる。それはちょっと、信じられないほどだ。そしてそれは、たぶん僕だけに限らない。ためしに僕が読んだ書名・著者名を、ざっと挙げてみる。
まず岩波新書から。
『非ユダヤ的ユダヤ人』(I・ドイッチャー)、『現象学』(木田元)、『アフリカの神話的世界』(山口昌男)、『現代映画芸術』(岩崎昶)、『コンプレックス』(河合隼雄)、『プラトン』(斎藤忍随)、『ことばと文化』(鈴木孝夫)、『昭和恐慌―日本ファシズム前夜』(長幸男)、『知識人と政治―ドイツ・一九一四~一九三三』(脇圭平)、『イエスとその時代』(荒井献)、『十字軍―その非神話化』(橋口倫介)、『社会科学とは何か』(R・ハロッド著、清水幾太郎訳)、『武器としての笑い』(飯沢匡)、『フロイトの方法』(牧康夫)。
続いて現代選書から。これは簡素にして、しゃれた装幀だった。
『小説の方法』(大江健三郎)、『ソシュール』(J・カラー著、川本茂雄訳)、『インド―傷ついた文明』(V・S・ナイポール著、工藤昭雄訳)、『共通感覚論―知の組みかえのために』(中村雄二郎)、『あずさ弓―日本におけるシャーマン的行為』(C・ブラッカー著、秋山さと子訳)、『現代伝奇集』(大江健三郎)、『人類学者と少女』(A・シュルマン著、村上光彦訳)、『文化の詩学・Ⅰ』(山口昌男)、『野うさぎ』(R・バーコヴィチ著、邦高忠二訳)、『「もの」の詩学―ルイ十四世からヒトラーまで』(多木浩二)。
ふー、なんか嫌になってきたな。一人の人が作った本を、ここまでたくさん読むことがあるだろうか。しかも、まだまだあるのだ。
まず単行本。
『二十世紀の知的冒険 山口昌男』『知の狩人 続・二十世紀の知的冒険』(山口昌男編)、『ソシュールの思想』(丸山圭三郎)、『昔話と日本人の心』(河合隼雄)、『魔女ランダ考―演劇的知とはなにか』(中村雄二郎)、『夢の秘法―セノイの夢理論とユートピア』(W・ドムホフ著、富山太佳夫・奥出直人訳)、『М/Tと森のフシギの物語』(大江健三郎)、『安楽に死にたい』(松田道雄)、『幸運な医者』(松田道雄)。
「20世紀思想家文庫」の『チョムスキー』(田中克彦)は、僕は同時代ライブラリーに入ったものを読んだ。
「叢書・文化の現在」はたしか四冊、持っていた。しかし内容は全然覚えていない。ただ紙箱に入った並製の、柔らかな手触りの本だった。
そして『へるめす』がある。『へるめす』は号数によって、読んだり読まなかったりしたが、少なくとも「文学部唯野教授」が載った、第12号から第18号までは読んでいる。
今、大まかに見たところでも、これだけある。まるでお釈迦様の手のひらだ。
そういえば妻が、高校生の終わりぐらいに、学年みんなで『胎児の環境としての母体』を購入して読んだ。女子高だったので、いずれ母になるときのために、そういうものを読まされたのだ。妻は、良妻賢母の教育を馬鹿にしていたが、この本は本当に面白かったし、役に立ったと言っていた。これも、大塚さんがつくった本だ。
編集者はふだん何をしているのかわからない、とはよく聞く言葉だが、しかし大塚さんがもしいなければ、つまりここに挙げた本が一冊もなければ、僕は確実に違う人間になっていた。
まず岩波新書から。
『非ユダヤ的ユダヤ人』(I・ドイッチャー)、『現象学』(木田元)、『アフリカの神話的世界』(山口昌男)、『現代映画芸術』(岩崎昶)、『コンプレックス』(河合隼雄)、『プラトン』(斎藤忍随)、『ことばと文化』(鈴木孝夫)、『昭和恐慌―日本ファシズム前夜』(長幸男)、『知識人と政治―ドイツ・一九一四~一九三三』(脇圭平)、『イエスとその時代』(荒井献)、『十字軍―その非神話化』(橋口倫介)、『社会科学とは何か』(R・ハロッド著、清水幾太郎訳)、『武器としての笑い』(飯沢匡)、『フロイトの方法』(牧康夫)。
続いて現代選書から。これは簡素にして、しゃれた装幀だった。
『小説の方法』(大江健三郎)、『ソシュール』(J・カラー著、川本茂雄訳)、『インド―傷ついた文明』(V・S・ナイポール著、工藤昭雄訳)、『共通感覚論―知の組みかえのために』(中村雄二郎)、『あずさ弓―日本におけるシャーマン的行為』(C・ブラッカー著、秋山さと子訳)、『現代伝奇集』(大江健三郎)、『人類学者と少女』(A・シュルマン著、村上光彦訳)、『文化の詩学・Ⅰ』(山口昌男)、『野うさぎ』(R・バーコヴィチ著、邦高忠二訳)、『「もの」の詩学―ルイ十四世からヒトラーまで』(多木浩二)。
ふー、なんか嫌になってきたな。一人の人が作った本を、ここまでたくさん読むことがあるだろうか。しかも、まだまだあるのだ。
まず単行本。
『二十世紀の知的冒険 山口昌男』『知の狩人 続・二十世紀の知的冒険』(山口昌男編)、『ソシュールの思想』(丸山圭三郎)、『昔話と日本人の心』(河合隼雄)、『魔女ランダ考―演劇的知とはなにか』(中村雄二郎)、『夢の秘法―セノイの夢理論とユートピア』(W・ドムホフ著、富山太佳夫・奥出直人訳)、『М/Tと森のフシギの物語』(大江健三郎)、『安楽に死にたい』(松田道雄)、『幸運な医者』(松田道雄)。
「20世紀思想家文庫」の『チョムスキー』(田中克彦)は、僕は同時代ライブラリーに入ったものを読んだ。
「叢書・文化の現在」はたしか四冊、持っていた。しかし内容は全然覚えていない。ただ紙箱に入った並製の、柔らかな手触りの本だった。
そして『へるめす』がある。『へるめす』は号数によって、読んだり読まなかったりしたが、少なくとも「文学部唯野教授」が載った、第12号から第18号までは読んでいる。
今、大まかに見たところでも、これだけある。まるでお釈迦様の手のひらだ。
そういえば妻が、高校生の終わりぐらいに、学年みんなで『胎児の環境としての母体』を購入して読んだ。女子高だったので、いずれ母になるときのために、そういうものを読まされたのだ。妻は、良妻賢母の教育を馬鹿にしていたが、この本は本当に面白かったし、役に立ったと言っていた。これも、大塚さんがつくった本だ。
編集者はふだん何をしているのかわからない、とはよく聞く言葉だが、しかし大塚さんがもしいなければ、つまりここに挙げた本が一冊もなければ、僕は確実に違う人間になっていた。
打ちのめされて――『理想の出版を求めて―一編集者の回想 1963‐2003―』(1)
元講談社の鷲尾賢也さんの、『新版 編集とはどのような仕事なのか』を音読したので、続けて編集論の上級編として、岩波の元社長・大塚信一さんの、『理想の出版を求めて―一編集者の回想 1963‐2003―』を音読することにする。
音読は、やはり1時間が限度である。それを超えると、目と声がバラバラになって、何を読んでいるのか、分らなくなる。それでも去年の今頃は、10分を超えると、自分の声はすれども、言葉のイメージはバラバラだったのだから、進歩と言えば進歩である(と思って慰めるしかない)。
大塚さんの書き下ろしは、手書きの原稿で、優に六百枚を超えていた。ワープロでない書き下ろし原稿は、考えてみれば、池田晶子さん以来だった。そうして、これ以後も、大塚さん以外はなかった(大塚さんの原稿はこれ以後も、『山口昌男の手紙』以下、いくつも入った)。
大塚さんは、はじめアンチ岩波だった。だから山口昌男や河合隼雄といった、当時としてはよくわからない、傍流の著者たちを、積極的に重用した。その人たちが今を時めく寵児となり、いわば天下を取った形となって、それに連れて大塚さんも編集の役員になり、ついには社長にまで上り詰めたのだ。
今回、その全体を朗読してみて、改めて圧倒された。打ちのめされたといったほうがいい。ゲラのやり取りをしているあいだ、僕は大塚さんと普通に喋っていた。普通に喋らなければ、仕事にならない。ゲラを挟んで、ここはもう少し工夫した方がいいですよとか、文章の言い回しはこういうふうにすればいいとか、六百枚を超える手書きの原稿なら、そういうところは無数にある。
見出しも、小見出しからつけるのは大変である(これは当然、編集者、つまり僕が付けた)。ほかにも、校正者の手配もすれば、装幀家と打ち合わせもする。だから編集も相応の仕事はある。著者も、(内実はともかく)一応は編集者に感謝をする。これがつまり、編集の仕事である。
今回、編集の現場を離れて、純粋に読者として、この本を朗読してみた。
それで、例えばこういうところ。
「私は編集の基礎作業の一つとして、最低月に一度は神保町の北沢書店や三省堂で、洋書の新刊を確かめることを自分に課していた。併せてTLS(『タイムズ文芸付録』)やNew York Review of Booksに、図書室で必ず目を通すようにしていた。」
翻訳の新刊に、心を配る人は必ずいる。しかし、その心構えが違う。
「これは林達夫氏が教えてくれたことの一つでもある。つまり自らの仕事を常に国際的な水準に照らして測定する、ということだ。」
僕は全く駄目だった。海外の図書目録を、ただ漫然と見ているだけ。というか、いま編集者で、自らの仕事を、国際的な水準に照らそうとしている人が、何人いるだろうか。
音読は、やはり1時間が限度である。それを超えると、目と声がバラバラになって、何を読んでいるのか、分らなくなる。それでも去年の今頃は、10分を超えると、自分の声はすれども、言葉のイメージはバラバラだったのだから、進歩と言えば進歩である(と思って慰めるしかない)。
大塚さんの書き下ろしは、手書きの原稿で、優に六百枚を超えていた。ワープロでない書き下ろし原稿は、考えてみれば、池田晶子さん以来だった。そうして、これ以後も、大塚さん以外はなかった(大塚さんの原稿はこれ以後も、『山口昌男の手紙』以下、いくつも入った)。
大塚さんは、はじめアンチ岩波だった。だから山口昌男や河合隼雄といった、当時としてはよくわからない、傍流の著者たちを、積極的に重用した。その人たちが今を時めく寵児となり、いわば天下を取った形となって、それに連れて大塚さんも編集の役員になり、ついには社長にまで上り詰めたのだ。
今回、その全体を朗読してみて、改めて圧倒された。打ちのめされたといったほうがいい。ゲラのやり取りをしているあいだ、僕は大塚さんと普通に喋っていた。普通に喋らなければ、仕事にならない。ゲラを挟んで、ここはもう少し工夫した方がいいですよとか、文章の言い回しはこういうふうにすればいいとか、六百枚を超える手書きの原稿なら、そういうところは無数にある。
見出しも、小見出しからつけるのは大変である(これは当然、編集者、つまり僕が付けた)。ほかにも、校正者の手配もすれば、装幀家と打ち合わせもする。だから編集も相応の仕事はある。著者も、(内実はともかく)一応は編集者に感謝をする。これがつまり、編集の仕事である。
今回、編集の現場を離れて、純粋に読者として、この本を朗読してみた。
それで、例えばこういうところ。
「私は編集の基礎作業の一つとして、最低月に一度は神保町の北沢書店や三省堂で、洋書の新刊を確かめることを自分に課していた。併せてTLS(『タイムズ文芸付録』)やNew York Review of Booksに、図書室で必ず目を通すようにしていた。」
翻訳の新刊に、心を配る人は必ずいる。しかし、その心構えが違う。
「これは林達夫氏が教えてくれたことの一つでもある。つまり自らの仕事を常に国際的な水準に照らして測定する、ということだ。」
僕は全く駄目だった。海外の図書目録を、ただ漫然と見ているだけ。というか、いま編集者で、自らの仕事を、国際的な水準に照らそうとしている人が、何人いるだろうか。
最晩年は人それぞれ――『死を迎える心構え』(3)
最晩年に必ず話題になる自殺について。
これはもう自殺などというのは、元気なときの強がりで、実際にそうなれば、ただただ生きていく以外の選択はできないだろうから、そうなれば、ただ生きていくという覚悟を決めなくてはいけない。実際、自力で排泄できない人が、梁にロープをかけるのは無理である。
うーん、覚悟を決めるか。でもそこまで行ったら、覚悟も何もなく、ただだらだらと生きてるだけのような気もする。
そこから派生する問題として、身内の自殺についてだが、これはちょっとユニークだ。
「もしも、私の息子が自殺したら私は以前の私ではなくなってしまう。息子には自殺する権利がない。父の同一性に傷をつける権利がないからである。『他人の死=自分の死』というのは、論理的には矛盾を含んでいるように見えるが、暗黙の内に私たちは『他人の死=自分の死』という関係のなかにいる。」
これは面白い見方だ。父(または母)がこう言いたくなるのは当たり前だが、でもこれはちょっと無理だろう。そもそも自殺する人は、追い詰められていて、そこまで論理的に考えることはできない。それに「他人の死=自分の死」とはいうものの、この「他人の死」は、いわゆる「第二人称の死」であることにも、注意した方がいい。
もちろん加藤先生が、自分の息子にそう言いたくなる気持ちは、僕も子供の親として非常によくわかるが。しかしそう言うわけで、「一般に法律では『他者=自己』という関係を認めていない。」これは当たり前のことである。
加藤先生は、死を迎えるにあたって、古今東西すべての知見を書き残したいと考えた。その出来については、それぞれが読んで納得すればいいことだが、ここには一つ抜けていることがある。それは、ひょっとすると「書くもの」のすべてでは、具体的なことは、どうにも分からないんじゃないか、ということだ。
これは養老孟司先生が出された例だが、臨死体験はいわば夢から覚めて、それを追体験して書く。この場合、夢から覚めているので、整合性の取れた論述になっている。しかし本当にそうかと問われたら、じつは怪しい。
また、肉体の外と内が分断されて、内外が隔絶した例がある。これは誰あろう、自分の場合だ。一昨年の暮れに、脳出血になって手術を受けだが、右半身に麻痺が残った。だから右脚と右手は、神経がないかのように、ぶらんとしたままだ。
ところが右脚の場合には、非常にはっきりとした「運動」の後が、頭に残る。例えばベッドに寝て、脚を交互に動かせば、実に鮮やかに足に疲れが残る。でも左脚は左右に動かしてはいても、右脚はまったく動いていない。外からはピクリとも動かないのであり、内側で何が起こっているかは、まったく分からないのだ。
こんな例は特殊なのだが、何が言いたいかといえば、いまわの際にすべてが書き残せるものだろうか。もっといえば、書き残すことのできたその向こう側に、真相が現れては来ないだろうか、ということである。
加藤先生のように、死をめぐるすべてのことを、古今東西にわたって書きとめることは、もちろん大事だ。しかしその裏に、ひょっとすると広大な未知の分野が広がっていることも、忘れないほうがいいと思う。
(『死を迎える心構え』加藤尚武、PHP研究所、2016年5月6日初刷)
これはもう自殺などというのは、元気なときの強がりで、実際にそうなれば、ただただ生きていく以外の選択はできないだろうから、そうなれば、ただ生きていくという覚悟を決めなくてはいけない。実際、自力で排泄できない人が、梁にロープをかけるのは無理である。
うーん、覚悟を決めるか。でもそこまで行ったら、覚悟も何もなく、ただだらだらと生きてるだけのような気もする。
そこから派生する問題として、身内の自殺についてだが、これはちょっとユニークだ。
「もしも、私の息子が自殺したら私は以前の私ではなくなってしまう。息子には自殺する権利がない。父の同一性に傷をつける権利がないからである。『他人の死=自分の死』というのは、論理的には矛盾を含んでいるように見えるが、暗黙の内に私たちは『他人の死=自分の死』という関係のなかにいる。」
これは面白い見方だ。父(または母)がこう言いたくなるのは当たり前だが、でもこれはちょっと無理だろう。そもそも自殺する人は、追い詰められていて、そこまで論理的に考えることはできない。それに「他人の死=自分の死」とはいうものの、この「他人の死」は、いわゆる「第二人称の死」であることにも、注意した方がいい。
もちろん加藤先生が、自分の息子にそう言いたくなる気持ちは、僕も子供の親として非常によくわかるが。しかしそう言うわけで、「一般に法律では『他者=自己』という関係を認めていない。」これは当たり前のことである。
加藤先生は、死を迎えるにあたって、古今東西すべての知見を書き残したいと考えた。その出来については、それぞれが読んで納得すればいいことだが、ここには一つ抜けていることがある。それは、ひょっとすると「書くもの」のすべてでは、具体的なことは、どうにも分からないんじゃないか、ということだ。
これは養老孟司先生が出された例だが、臨死体験はいわば夢から覚めて、それを追体験して書く。この場合、夢から覚めているので、整合性の取れた論述になっている。しかし本当にそうかと問われたら、じつは怪しい。
また、肉体の外と内が分断されて、内外が隔絶した例がある。これは誰あろう、自分の場合だ。一昨年の暮れに、脳出血になって手術を受けだが、右半身に麻痺が残った。だから右脚と右手は、神経がないかのように、ぶらんとしたままだ。
ところが右脚の場合には、非常にはっきりとした「運動」の後が、頭に残る。例えばベッドに寝て、脚を交互に動かせば、実に鮮やかに足に疲れが残る。でも左脚は左右に動かしてはいても、右脚はまったく動いていない。外からはピクリとも動かないのであり、内側で何が起こっているかは、まったく分からないのだ。
こんな例は特殊なのだが、何が言いたいかといえば、いまわの際にすべてが書き残せるものだろうか。もっといえば、書き残すことのできたその向こう側に、真相が現れては来ないだろうか、ということである。
加藤先生のように、死をめぐるすべてのことを、古今東西にわたって書きとめることは、もちろん大事だ。しかしその裏に、ひょっとすると広大な未知の分野が広がっていることも、忘れないほうがいいと思う。
(『死を迎える心構え』加藤尚武、PHP研究所、2016年5月6日初刷)
最晩年は人それぞれ――『死を迎える心構え』(2)
そういう心構えで「第1章 死なない生物と死ぬ生物」から順に読んでいく。
続いて「第2章 ほんとうに私は一人しかいないか」「第3章 現代哲学としての仏教――どうしたら本当に死ねるか」「第4章 鬼神論と現代」「第5章 霊魂の離在、アリストテレスからベルクソンまで」「第6章 私をだましてください」「第7章 他人の死と自分の死」と読み進む。
そして「第8章 人生は長すぎるか、短すぎるか」「第9章 世俗的来世の展望」「第10章 どこから死が始まるか」「第11章 人生の終わりの日々」「第12章 胃瘻についての決断」「第13章 往生伝と妙好人伝」「第14章 宗教と芸術」「第15章 人生の意味のまとめ」で終わる。
目次は非常に魅力的だが、それに反して、何となくどこかで聞いた話が多い。考えてみれば、「死について、確実に語りうることを、今の時点で集約しておきたい」と考えたのだから、当たり前といえば当たり前である。
ところが「第11章 人生の終わりの日々」だけは違っている。これは徹底して自分のことだから。だから、人生の最終晩を迎えて、なるほどというところと、ウーンと首を捻らざるを得ない箇所とが、入り混じっている。読んでいて、それが実に面白い。例えばこんなところ。
「若者をだます張り合いで生きている。だまされたフリをするのもうまい。」
加藤先生の知られざる一面である。いやあ、びっくりしたなあ。
「そつなく挨拶を欠かさないようにする。挨拶とは他人との扉を開くことだということがよくわかっているそぶりをして、挨拶さえしていれば他人はだまされる。私が私を介護する人々に協力的だと思わせることができる。好々爺ぶって芝居をする。」
先生、何となく「意地悪ばあさん」かと思わせる。
「健康のためにもっと歩いてください。はいはい。
爽快のためにもっと野菜を食べてください。はいはい。
他人のために大きな声は出さないでください。はいはい。
他人に迷惑をかけないように、できることは自分でしてください。はいはい。
こういう態度を『おとぼけ物語の時代』と名付けてもいい。」
これはかなりユニークな最晩年だと思うよ。
続いて「第2章 ほんとうに私は一人しかいないか」「第3章 現代哲学としての仏教――どうしたら本当に死ねるか」「第4章 鬼神論と現代」「第5章 霊魂の離在、アリストテレスからベルクソンまで」「第6章 私をだましてください」「第7章 他人の死と自分の死」と読み進む。
そして「第8章 人生は長すぎるか、短すぎるか」「第9章 世俗的来世の展望」「第10章 どこから死が始まるか」「第11章 人生の終わりの日々」「第12章 胃瘻についての決断」「第13章 往生伝と妙好人伝」「第14章 宗教と芸術」「第15章 人生の意味のまとめ」で終わる。
目次は非常に魅力的だが、それに反して、何となくどこかで聞いた話が多い。考えてみれば、「死について、確実に語りうることを、今の時点で集約しておきたい」と考えたのだから、当たり前といえば当たり前である。
ところが「第11章 人生の終わりの日々」だけは違っている。これは徹底して自分のことだから。だから、人生の最終晩を迎えて、なるほどというところと、ウーンと首を捻らざるを得ない箇所とが、入り混じっている。読んでいて、それが実に面白い。例えばこんなところ。
「若者をだます張り合いで生きている。だまされたフリをするのもうまい。」
加藤先生の知られざる一面である。いやあ、びっくりしたなあ。
「そつなく挨拶を欠かさないようにする。挨拶とは他人との扉を開くことだということがよくわかっているそぶりをして、挨拶さえしていれば他人はだまされる。私が私を介護する人々に協力的だと思わせることができる。好々爺ぶって芝居をする。」
先生、何となく「意地悪ばあさん」かと思わせる。
「健康のためにもっと歩いてください。はいはい。
爽快のためにもっと野菜を食べてください。はいはい。
他人のために大きな声は出さないでください。はいはい。
他人に迷惑をかけないように、できることは自分でしてください。はいはい。
こういう態度を『おとぼけ物語の時代』と名付けてもいい。」
これはかなりユニークな最晩年だと思うよ。
最晩年は人それぞれ――『死を迎える心構え』(1)
加藤尚武さんが、「死について、文理融合、東西融合、古今融合という三融合の書を書きたい」、ということで始められた本。
まず「文理融合」とは、生物学・生理学の最先端と、哲学・法律・宗教の知恵を比較する。「東西融合」は、これはギリシャに始まる西洋と、インド、中国、日本の伝統思想とを比較する。最後の「古今融合」は、太古の昔、人間が洞窟に絵を描き、墳墓を残した思いから、近代科学の登場まで。
「すなわち生物学、医学、法律学、哲学、文学、芸術、宗教などの古今東西の知見を集めて、死について、確実に語りうることを、今の時点で集約しておきたい。」
いま現在、死について語りうることを語っておきたいというのは、企画として絶対に成り立つ。しかも著者が加藤尚武さんというのは、実にバランスが取れていていい。
巻末の「謝辞」を見ると、編集したのはO氏だ。Oさんとはもうずいぶん会っていないが、相変わらず切れのある企画で勝負してくる。
そう思って読んでいると、「序文」にあれれ、というところを見つけた。
「科学的な真理が広まれば、身体を離れて霊魂は不滅で肉体の死後にもいき、この世での生を終えて『あの世』に生き続けると信じる人はいなくなると思う。」
著者がこれを、冒頭に言ってはおしまいでしょう。死については、古今東西の考え方すべてが、霊魂は不滅か否かで大別されるが、科学的な見方が広まっていくにつれて、霊魂不滅という見方はいずれなくなるだろう。これは「序文」で言ってはいけないし、かりに結論のところでも、そう言えるかどうかは怪しい、と僕は思う。
それはともかく、「序文」の末尾に驚くべき個所がある。
「従来の生命倫理学では『患者の自己決定を尊重する』という自己決定尊重論が主流であった。私も自己決定尊重論を主張し、普及に努めた。『パターナリズムから自己決定へ』というスローガンで、その方向性を示すことができた。これは多くの患者が六十代で死亡する場合にはおおむね正しい。」
ところが人が九十歳代で死亡する場合には、これとは逆に、必要なのは「自己決定からパターナリズムへ」というスローガンである。九十歳を過ぎた認知症の人が「口先でどう言うかは、必ずしも判断のよりどころにならない。見繕いで、当人にとっての最善を追求するというスタイルを確立しなくてはならない。」
これは大変なことになった。
まず「文理融合」とは、生物学・生理学の最先端と、哲学・法律・宗教の知恵を比較する。「東西融合」は、これはギリシャに始まる西洋と、インド、中国、日本の伝統思想とを比較する。最後の「古今融合」は、太古の昔、人間が洞窟に絵を描き、墳墓を残した思いから、近代科学の登場まで。
「すなわち生物学、医学、法律学、哲学、文学、芸術、宗教などの古今東西の知見を集めて、死について、確実に語りうることを、今の時点で集約しておきたい。」
いま現在、死について語りうることを語っておきたいというのは、企画として絶対に成り立つ。しかも著者が加藤尚武さんというのは、実にバランスが取れていていい。
巻末の「謝辞」を見ると、編集したのはO氏だ。Oさんとはもうずいぶん会っていないが、相変わらず切れのある企画で勝負してくる。
そう思って読んでいると、「序文」にあれれ、というところを見つけた。
「科学的な真理が広まれば、身体を離れて霊魂は不滅で肉体の死後にもいき、この世での生を終えて『あの世』に生き続けると信じる人はいなくなると思う。」
著者がこれを、冒頭に言ってはおしまいでしょう。死については、古今東西の考え方すべてが、霊魂は不滅か否かで大別されるが、科学的な見方が広まっていくにつれて、霊魂不滅という見方はいずれなくなるだろう。これは「序文」で言ってはいけないし、かりに結論のところでも、そう言えるかどうかは怪しい、と僕は思う。
それはともかく、「序文」の末尾に驚くべき個所がある。
「従来の生命倫理学では『患者の自己決定を尊重する』という自己決定尊重論が主流であった。私も自己決定尊重論を主張し、普及に努めた。『パターナリズムから自己決定へ』というスローガンで、その方向性を示すことができた。これは多くの患者が六十代で死亡する場合にはおおむね正しい。」
ところが人が九十歳代で死亡する場合には、これとは逆に、必要なのは「自己決定からパターナリズムへ」というスローガンである。九十歳を過ぎた認知症の人が「口先でどう言うかは、必ずしも判断のよりどころにならない。見繕いで、当人にとっての最善を追求するというスタイルを確立しなくてはならない。」
これは大変なことになった。
謎の人――『シベリア物語』
戦争の末期、日本兵がソ連軍の捕虜に取られる。そこで見聞きした話だ。と言っても、比較的長い「勲章」以外の十篇は、言ってみればスケッチ風で、心理の彩や、短篇の骨格で読ませるものではない。
そもそも各短篇の主人公は、「勲章」と「犬殺し」を除けは、日本兵ではなく、シベリアに生きる男女なのである。そして冒頭の一篇「シルカ」では、「マリーヤ・ゾロトゥヒナも、野菜の積み込みにやってきた『兵隊たち』に対し、捕虜とか日本人とかいう観念を全然持っていなかった」という具合で、『シベリア物語』全体の視点は、日本の捕虜もいるシベリアなのである。
なんだか僕の歯切れが悪いけれども、じつはこの短篇集の骨格がよくわからないのだ。唯一の例外は「勲章」で、冒頭、「佐藤少佐は不幸にして捕虜となったのだが、大へん威張っていた」というところから、最後の帰国船に乗る手前まで、その七転八倒が戯画化して描かれる。それはシベリア抑留文学の、ある典型だろうと思う。しかしこれと、それ以外の短篇とは、組み立てがあまりにも違っている。
最後の「犬殺し」は、日本人捕虜が主人公ではあるけれども、その内面には相渉らない。これはその他の短篇、「馬の微笑」「小さな礼拝堂」「舞踏会」「人さまざま」「掃除人」「アンナ・ガールキナ」「ラドシュキン」「ナスンボ」の場合と同じである。
文芸文庫なので巻末に作家案内がある。青山太郎という人が書いている。
「長谷川四郎の作品に、事件のロマネスクは皆無ではないがすこぶる乏しい。・・・・・・心理のロマネスクに至ってはほぼ皆無である。」
いってみれば、文体だけが支える作品といえよう。
では、今となっては読む価値はなかろう、そう思いたがるのは当然である。でも、何か、そう、わけのわからないものがある。
長谷川四郎の『シベリア物語』は昔も今も、読む価値のない人にとっては、つまらないものだ。天沢退二郎の「解説」を読むと、五木寛之が著者に、「のんきな本で捕虜生活の苦しみが出てないですね」、と言ったということが書かれている。
では「勲章」以外は、のほほんとしたスケッチかと言われれば、それは絶対に違う。もう少し読んでみなければ、何も言えないのだ。
(『シベリア物語』長谷川四郎、講談社文芸文庫、1991年4月10日初刷)
そもそも各短篇の主人公は、「勲章」と「犬殺し」を除けは、日本兵ではなく、シベリアに生きる男女なのである。そして冒頭の一篇「シルカ」では、「マリーヤ・ゾロトゥヒナも、野菜の積み込みにやってきた『兵隊たち』に対し、捕虜とか日本人とかいう観念を全然持っていなかった」という具合で、『シベリア物語』全体の視点は、日本の捕虜もいるシベリアなのである。
なんだか僕の歯切れが悪いけれども、じつはこの短篇集の骨格がよくわからないのだ。唯一の例外は「勲章」で、冒頭、「佐藤少佐は不幸にして捕虜となったのだが、大へん威張っていた」というところから、最後の帰国船に乗る手前まで、その七転八倒が戯画化して描かれる。それはシベリア抑留文学の、ある典型だろうと思う。しかしこれと、それ以外の短篇とは、組み立てがあまりにも違っている。
最後の「犬殺し」は、日本人捕虜が主人公ではあるけれども、その内面には相渉らない。これはその他の短篇、「馬の微笑」「小さな礼拝堂」「舞踏会」「人さまざま」「掃除人」「アンナ・ガールキナ」「ラドシュキン」「ナスンボ」の場合と同じである。
文芸文庫なので巻末に作家案内がある。青山太郎という人が書いている。
「長谷川四郎の作品に、事件のロマネスクは皆無ではないがすこぶる乏しい。・・・・・・心理のロマネスクに至ってはほぼ皆無である。」
いってみれば、文体だけが支える作品といえよう。
では、今となっては読む価値はなかろう、そう思いたがるのは当然である。でも、何か、そう、わけのわからないものがある。
長谷川四郎の『シベリア物語』は昔も今も、読む価値のない人にとっては、つまらないものだ。天沢退二郎の「解説」を読むと、五木寛之が著者に、「のんきな本で捕虜生活の苦しみが出てないですね」、と言ったということが書かれている。
では「勲章」以外は、のほほんとしたスケッチかと言われれば、それは絶対に違う。もう少し読んでみなければ、何も言えないのだ。
(『シベリア物語』長谷川四郎、講談社文芸文庫、1991年4月10日初刷)
どこを切っても山田太一――『月日の残像』(2)
それからまた、映画を途中から見る人の話。
「映画は途中だったが、気にしなかった。そのころは、時間かまわず入って、次の回の途中まで見て出るという人も多かった。」
そうだ、小学校に上がる前、いつも母と東映の二本立てを見に入って、そういうことをしていた覚えがある。「花笠道中」「旗本退屈男」「七つの顔の男だぜ」・・・・・・みな途中から入って、くるっと一回りすると、途中で出た記憶がある。
この「映画の周りで」という文章のオチは、「いまでも私は『一度見たから見ない』という人と『何遍でも見る』という人と、人間を二種類に分けてしまうところがある。」
僕は何度でも見る方。とくに『冒険者たち』は、姫路、神戸、大阪、名古屋、静岡、横浜、東京で見て、百回までは数えていたけれど、それ以上は数えきれなかった。
「オフレコ」と題する文章は、吉行淳之介と山口瞳の対談集に始まって、脚本家の田向正健が死んだこと、ヘンリー・ミラーの子供の頃に少年が事故で死んだ話など、とりとめのない話題が続くが、なかにこういう一節がある。
「しかし、私はそういう自責の念に関心がある。道徳や法律の検証を受けない、罪の軽重で濃淡が決まることもない、横切るような、かすめるような、しかしなかなか消えないでいる自責の念を金魚すくいの薄紙のようなものですくってみたくなる。」
こういうところに、誰にも真似のできない、山田太一その人が浮かび出る。とくに、自責の念をすくいとるのに、「金魚すくいの薄紙のようなもの」というのがいい。もちろんその前の、「横切るような、かすめるような、」が効いているのだ。
山田太一の文章は、手近な場所にあれば必ず読む。物事の裏の裏まで見えているか、物事の一つ一つの襞の奥まで見えているか。ともすればつい面倒になって、横着な見方をしていることはないか。自分の人生の、いってみれば内なる暖かな水準器として、山田太一は、偉ぶらないところも含めて、もっともふさわしい人と言えるのだ。
(『月日の残像』山田太一、新潮社、2013年12月20日初刷)
「映画は途中だったが、気にしなかった。そのころは、時間かまわず入って、次の回の途中まで見て出るという人も多かった。」
そうだ、小学校に上がる前、いつも母と東映の二本立てを見に入って、そういうことをしていた覚えがある。「花笠道中」「旗本退屈男」「七つの顔の男だぜ」・・・・・・みな途中から入って、くるっと一回りすると、途中で出た記憶がある。
この「映画の周りで」という文章のオチは、「いまでも私は『一度見たから見ない』という人と『何遍でも見る』という人と、人間を二種類に分けてしまうところがある。」
僕は何度でも見る方。とくに『冒険者たち』は、姫路、神戸、大阪、名古屋、静岡、横浜、東京で見て、百回までは数えていたけれど、それ以上は数えきれなかった。
「オフレコ」と題する文章は、吉行淳之介と山口瞳の対談集に始まって、脚本家の田向正健が死んだこと、ヘンリー・ミラーの子供の頃に少年が事故で死んだ話など、とりとめのない話題が続くが、なかにこういう一節がある。
「しかし、私はそういう自責の念に関心がある。道徳や法律の検証を受けない、罪の軽重で濃淡が決まることもない、横切るような、かすめるような、しかしなかなか消えないでいる自責の念を金魚すくいの薄紙のようなものですくってみたくなる。」
こういうところに、誰にも真似のできない、山田太一その人が浮かび出る。とくに、自責の念をすくいとるのに、「金魚すくいの薄紙のようなもの」というのがいい。もちろんその前の、「横切るような、かすめるような、」が効いているのだ。
山田太一の文章は、手近な場所にあれば必ず読む。物事の裏の裏まで見えているか、物事の一つ一つの襞の奥まで見えているか。ともすればつい面倒になって、横着な見方をしていることはないか。自分の人生の、いってみれば内なる暖かな水準器として、山田太一は、偉ぶらないところも含めて、もっともふさわしい人と言えるのだ。
(『月日の残像』山田太一、新潮社、2013年12月20日初刷)