飯島耕一の訃報に接しては、『ゴヤのファースト・ネームは』を最初に挙げる。有名な一節、「生きるとはゴヤの/ファースト・ネームを/知りたいと思うことだ。」は誰でも知っている(と勢いにのって言ってしまおう)。
荒川洋治は飯島耕一の詩について、こんなふうに書く。
「きままなようにみえて、『自由』詩にありがちな雑な音はない。やわらかい特別な神経をつかって、ことばが進み、まっすぐの、きれいな軌道を示す。読む人の目を汚さない。疲れさせない。目の前に光を入れる。読む人の心が明るくなる。そんな詩を書いた人だと思う。」(「飯島耕一の詩」)
じつは飯島耕一は好きではない、というかどうでもいい。しかし「そんな詩を書いた人だと思う」と言われると、そうかもしれないと思う。いや、そうに違いないと思う。ここらへんは言葉の魔術だ。
デュマ・フィスの『椿姫』は、50年前に新潮文庫で読んだ。ここでは2008年の光文社古典新訳文庫で取り上げられる。
「すきのない構成。こまやかな、気持ちの動き。ことばと思考のかぎりを尽くす『椿姫』は、ひとつずつ文章をたどると、感動が深い。人を好きになる。そのときも、ひとつひとつ見ていくことが大切なのだろう。」
テキストは違っていても、本当にそのとおりだなあと思う。『椿姫』を読んだときの感動は、50年経った今でも昨日のことのようだ。でも、「ひとつずつ文章をたどると」って、どういうことだ。「人を好きになる。そのときも、ひとつひとつ見ていくことが大切なのだろう。」って、どういうことだ。いや、もちろんよくわかる。よくわかるよ。
「親しみのある光景」は、吉田知子『お供え』について。
「いい作品というものは、そのようすがわかっているからこそ、穏やかではいられないものなので、できれば、読みたくないものだ。読むと、いまそうであるように、大変なことになるので、調子がわるいとか、明日があるということにして、あとまわしにするものである。でも読んでみると、想像を超えるものがある。」
ふーん、そうなのか。「いい作品」をめぐって、そういう起伏に富んだドラマがあると、初めて知ったよ。でも本当にそうか、そうなんだろうなあ。
「四〇年」は、荒川洋治がやっている個人出版・紫陽社について。現在までに、40年で約270点を制作してきたという。
「紫陽社のピークは、一九七九年の〈80年代詩叢書〉だろう。井坂洋子『朝礼』、伊藤比呂美『姫』の二冊は女性詩ブームの起点になり、現代詩の流れを変えたとされる。」
その二冊は今も鮮やかに、この手に蘇ってくる。ひょっとすると、まだ本棚のどこかにあるんじゃないか、そういう気がする。
「詩は、あちらこちらに浮かんではいない。実際に書き表した、ことばのなかに存在する。詩は、詩集のなかにあるのだと思う。これからも『詩集』を支えたい。」
本当にそうだし、それを支えたいというのは頭が下がる。
最後に『夢』について。
「夢は、いろんなところにありそうに思える。でも、ほんとうの夢は、このような文章のなかでしか見ることができない。」
「このような文章のなか」というのは、たとえば色川武大の「友は野末に」で、銭湯で友達のお母さんが幻影となって表れる場面。こういう場面にしか、夢は現れないと言っている。
結局、僕は、取り上げなかった阿部知二「冬の宿」などを含めて、八冊、注文した。
(『過去をもつ人』荒川洋治、みすず書房、2016年7月20日初刷)