本と読書を題材に――『過去をもつ人』(1)

荒川洋治の書評集である。

書評集の書評はしづらい。かつて法蔵館にいるとき、養老孟司先生の『脳が読む』『本が虫』の、二冊の書評集を出した。その『本が虫』のあとがきで、養老先生は、書評というのは読み捨てていくべきもので、書評集を1冊に編むというのはよくないんじゃないか、ということを言っておられる。

「書評集がそうだが、誰かが『書いたもの』について『書く』。これは『メタ』作業である。実物からは、二段階遠くなっている。そんなものを人に読ませていいのか。」
 
これはもっともであるが、しかし唯一の例外がある。それは、書評そのものの文章が躍動して美しい場合である。そしてその判断をするのは、私なのである。だから、養老さんのやんわりした抗議をものともせずに出版し、またたく間に版を重ねた。
 
そこで荒川洋治だが、これをいかにも詩人らしい言葉で独特の書評をものしている、などと記せば、じつは何も言っていないに等しい。そこで、具体的に見て行くことにする。
 
たとえば「『門』と私」。わずか2ページ半ほどの書評なので、作品の本質を言い連ねなければならない。
まず、「日常よりも強いものは、まだ見つかっていないように思う」、とあって「でも誰もが、そんな一日を愛し、大切にするのだ。『門』を読むと、人はそれぞれ異なる人生ではなく、同じ人生を過ごすことで、結ばれているのだと感じる。いつもより深く、ていねいに、そのことを理解する。」

これが、『門』についての「私」の考えなのだ。対象となる作品を探っていくのではなく、「『門』と私」における「私」の考えだから、それでいいのだ。

中勘助の「銀の匙」では女性を問題にする。(「『銀の匙』の女性」)
「『銀の匙』で深く心をとらえるのは伯母さんの姿だ。人間の愛情とは、その美しさとはこのようなものだと教えてくれる」
 
しかし伯母さんがどんな関係にあるかは、それ以上はわからない。
「とはいえ、もう少し伯母さんのことを知りたい。ぼくがそんな気持ちになるのは、『銀の匙』の『私』と同じように、この女性のことをいつまでも忘れたくないからだと思う。」
じつに余韻のある締め方だ。