もちろん昔の、とびきり懐かしい話もある。
「未来社の編集者になって数年たったころ、古書店をのぞいたあとは、たいがい、書肆ユリイカの伊達得夫さんを訪ね、喫茶店『ラドリオ』で話しこむのが楽しみだったことなどを、チラリと思い浮かべたりした。」
これはもう五十年も前の話だ。
しかし『戦後編集者雑文抄』には、ただ懐かしいことばかりがあるわけではない。それはたとえば、「花田清輝-吉本隆明論争」のことである。これは、じつは今だからこそ、決着をつけてよいと思われる。そして決着をつけるには、二人の生涯を見てきた松本さんをおいて、ほかにない。
松本さんはよく知られるように、1954年、花田清輝『アヴァンギャルド芸術』を皮切りに、未来社で編集者としての生活を始めた。花田清輝が亡くなるまでに、「以後、そのケチな出版社から、くされ縁で一七、八冊」(埴谷雄高との架空対談における花田のせりふ)の本を出した。
一方、松本さんは、吉本隆明のごく初期に『芸術的抵抗と挫折』と『抒情の論理』(ともに1959年)を編集している。
松本さんは、埴谷・花田といった世代と、吉本は一緒になって、戦後の文学運動を進めていくものだと思っていた。
ところが、そうはならなかった。
最初にこの論争に火を点けたのは、花田だった。
「花田さんの吉本さんへの批判というのは、大雑把にまとめるならば、『戦争協力詩を書いた前世代の詩人たちを個人の名において糾弾するのではなく、時代と関連させつつ、戦後の芸術運動を高揚させることで全体として乗り越えるべきだ』というものでした。」
もともと花田は、芸術運動や思想運動は、論争や対立によって発展するものだと考えていた。だから、方法としての「論争」を非常に重視していた。
しかし吉本は、それとは少し違っていた。
「戦前に思想形成をした花田さんたちの世代が戦争をひたすらに堪えながらなんとかやり過ごそうとしていたのに対して、吉本さんの世代はそれこそ戦場で死ぬことしか目前の選択肢がなかった。だから吉本さんの戦争協力者に対する反発や恨みというものは、花田さんの想像も及ばないほど根深いものだったと思います。」
吉本の姿勢は、芸術運動や思想運動の全体的な発展よりも、個人的な自力の思想の構築に比重があるのだ。
「だから相手に勝つか負けるかの世界なのですね。ともかくいわれるように『自立』の思想家ですから、論争においてもいかにみずからの主張が正しいかということが先にくるわけです。」
そういうわけで、自立する思想家、吉本隆明の言語論(『言語にとって美とはなにか』)や国家論(『共同幻想論』)はたいへん優れたものだが、それを私たちが受け取って、そこからどのような実作や芸術につなげていくかを考えるとき、はたと困惑せざるを得ない。これらは、吉本が個人として確立した「記念碑的理論」であり、そこから何かを受け取って、つないでゆくことはできないのではないか。
だから吉本隆明は、「失礼な言い方かもしれませんが、よく言われるように『知の巨人』として『吉本隆明自立思想記念館』に永久に保存される方だと思います。」
一方、花田清輝という思想家は文章を書いたときから、その理論というようなものはなくて、めいめいが実作や芸術運動に生かす以外に、花田の思想を読み取ることはできない。
松本さんはその結果、『芸術的抵抗と挫折』と『抒情の論理』の二冊の本を作ったあと、吉本隆明とは「永いお訣れ」をすることになったのである。
(『戦後編集者雑文抄――追憶の影』松本昌次、一葉社、2016年7月25日初刷)