エッセイの白眉――『野蛮な読書』(3)

この4人は、じつは共通項がある。それは食べ物随筆だ。

たとえば宇能鴻一郎は「たべることがすき。料理がすき。それがふだんの宇能鴻一郎の顔だと知ったとき、意外なような、いや当然のような、じつに複雑な感情をおぼえたものである。食べて味わうこと、料理することは、五官をつかって官能を湧きたたせる悦楽でもあるから。」
宇能鴻一郎は『味な旅 舌の旅』を書いている。

池部良はエッセイストとしても著名で、そのうち何冊かは、食べ物に関する本がある。たとえば『風の食いもの』は、「綴られているのは約五年の戦争体験を土台にした食べものの話なのだが、しかし繰り言でもなく、あからさまな怒りや憤りでもなく、戦争体験自慢でも回顧でもない。まず、きっちり啖呵をきる。
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食いものの恨み。これが一冊を牽引する真情である。」
池部良はほかに『酒あるいは人』、『池部良の男の手料理』などを書いている。

獅子文六は『食味歳時記』や『私の食べ歩き』が取り上げられているが、これも一筋縄でいくもんじゃあない。だいたい発表当時、獅子文六の書くものは娯楽小説と一括りにされたが、「しかし、さかんに書き綴った食味随筆ひとつとっても、文章には偏屈偏狭の衣をかぶった人間観察者の視線の鋭さがそなわっていた。だからこその狷介孤高。」そういうわけで「いずれにしても、煮ても焼いても食えないかんじ、そこにこそ獅子文六の味があるのだった。」

『わたしの献立日記』に見る沢村貞子の料理は、どれも特別なものではない。いかにも質素で、日本人にはなじみ深いものだ。ただ、自分流のぜいたくだけは惜しまなかった。「その『ぜいたく』とは、たとえば出入りの魚屋から旬の魚を買うこと。とびきり新鮮なものを選んで、刺身にしたりてんぷらにしたり。朝餉夕餉のささやかなよろこびを『ぜいたく』として享受した。」

ただしぜいたくとは言っても、そこは一味ちがう。「繰りまわしの工夫はみごとなもので、出入りの魚屋から鯛一尾を買うと、当日は刺身や「しほやき」、そののち煮付け、うしお汁。『ぜいたく』をしても、両足はきっちり庶民の暮らしに根ざして離れることがない。」

四者四様、食べ物随筆だとは言っても、それこそ味は全然違う。それでも食べ物から入るのは、人間の本質にもっとも近づく、いや人間の本質を言いあらわすことそのものだろう。

「第三章 すがれる」には、五本のエッセイが入る。この五本の「試験管」こそは、随筆や雑文とは全く違った意味で、ひとり一ジャンルという意味での、エッセイという言葉にふさわしい。
 
それは、「クリスティーネの眼差し」ひとつを読めば分かる。1985年に自殺した妻、クリスティーネを撮影した古屋誠一。その古屋誠一に対して、平松洋子はこんな言葉を吐く。

「書いておかなければならないことがある。とてもたいせつなことだ。一九八五年、クリスティーネがアパートの九階連絡通路から身を投げて死にいたった直後、古屋誠一はその現実をカメラでみずから撮影している。展覧会場にはそのカットをふくむフィルムのコンタクトプリントが展示されていたが、わたしには直視するどころか立ちどまることさえできなかつた。」

そして平松は、最後にこう結論づける。「人間の倫理の領域に踏みこんでなお、撮ること、見せることの意味を見る者に突きつけて極限まで追いこんでくる古屋誠一に対して、わたしは、見ないことも見る行為のひとつだと、いまはかえすほかない。」
今は見ないことも見る行為の一つだ、と返せるエッセイを誰が書けるだろうか。

(『野蛮な読書』平松洋子、集英社文庫、2014年10月25日初刷)