エッセイの白眉――『野蛮な読書』(1)

平松洋子は癖になる。これはさすがに読書エッセイだけあって、わりと尋常な作りである。「尋常」というのは、お腹の中から声が出ていない、という意味だ。

いずれも、食べ物と絡めてエッセイとして良くできている。特に「わたしの断食一週間」は、たとえば子規の『仰臥漫録』との取り合わせが絶妙で、思わず唸る。
 
というふうにして第一章から第二章に移ると、突然ボルテージが上がる。なにしろ第二章のタイトルが「わたし、おののいたんです」。
第二章は宇能鴻一郎、池部良、獅子文六、沢村貞子に関するエッセイが並ぶ。
 
冒頭「わたし、おののいたんです――宇能鴻一郎私論」は、まず「『ラブシーンの言葉』荒川洋治 新潮文庫」から入る。その本を持ち、「鼻息を荒くしながらレジのおねえさんに差し出し、そのまま近所の喫茶店になだれ込んだ」。そうして「一語一文一節、足どりしずかに立ちどまりながら、おじさんのエロごころを全開にして言葉を、官能描写を、じっくり鑑賞し尽くすのである。荒川洋治さんならでは、切れ味するどく、熱く、熟れた玩味ぶりに目を開かされ、官能と言葉の睦みあいに光が当てられるさまに息を呑む」。とどめの一撃は、荒川洋治の文章。「宇能氏の文章の静けさが、すばらしい。その一針、一針に息を飲む」。
 
そこで平松は、スポーツ紙や夕刊紙で名前は見たことはあるが、よくは知らない宇能鴻一郎を俄然読んでみたくなる。「『あたし、濡れるんです』、『あたし、』と書くだけでアナザーワールドに連れてゆく天才、宇能鴻一郎」。

しかし、じつはその昔、芥川賞をもらった以外のことは、よく知らないのだ。そこでさっそく書店を歩いてみるが、本はなかなか見つからない。そういうときにはネット書店と思い、検索するが見つからない。著作は700冊を超えるというのに、ほとんど絶版なのだ。
 
しかたがないので芥川賞を受賞した『鯨神(くじらがみ)』を入手して読む。『鯨神』は大映で映画にもなっていた。そこからあのポルノの宇能鴻一郎まで、官能を軸に一本の線が引けるのだ。

「『あたし、お乳も腰も、自分でうっとりするくらい脂肪が張りつめていて』
『スラリと痩せてるけれど、お乳とお尻はプリンと発達してて』
ずいぶん稚拙な会話だなと構えを崩させる、いっけん似通った無防備な文章のなかにしたたかなリアリティがある。シンプルで、単刀直入で、通俗的な匂いがない。むだのない直截さは、だからこそすがすがしい。そして読む者にすべてがゆだねられている。」
 
僕は、そんなふうに手放しで称賛はできない。でも、宇能鴻一郎には何かある、それはわかる。平松洋子は、そこのところを躊躇しない。