表題に「最後の銀幕スタア」を謳う池部良は、1940年末から50年後半にかけて、極めつけの「文芸路線」で名を売った。
『破戒』(木下惠介監督)、『青い山脈』(今井正監督)、『風立ちぬ』(島耕二監督)、『乱菊物語』(谷口千吉監督)、『雪国』(豊田四郎監督)、『暗夜行路』(豊田四郎監督)・・・・・・。
「ひとりの生身の人間があまたの文学作品をつぎつぎに体現し、かつヒットさせるなど、そんじょそこらの俳優がなし得る業ではない。」
しかし僕は、池部良の純文学映画を一本も見ていない。
そうこうするうちに、池部良は東映やくざ路線に、鮮やかに舵を切る。
「一九五六年にスタートした『昭和残俠伝』シリーズは全九作。掛け値なし、日本映画史に残る一級品の娯楽映画だ。なかでも最高傑作は第七作『昭和残俠伝 死んで貰います』(一九七〇年、マキノ雅弘監督)だろう。主演の高倉健と東映の客分、池部良。目と目を見つめ合い、契りを交わして悪に立ち向かうツーショットはむせかえるほどの色濃いエロティシズムにあふれて、もうたまりません。」
でも僕は、そのあとの『仁義なき闘い』シリーズを先に観てしまったので、そこにどっぷり浸って抜けられなくなった。『昭和残俠伝 死んで貰います』は、だからずいぶん後になって観た。確かに様式美という点で、よくできてはいる。しかし三島由紀夫が絶賛し、自衛隊に乱入する前に「唐獅子牡丹」をみんなで歌ったというのを聞いて、心底うんざりした。
平松洋子は、そんなふうに池部良と一点の接点も持たない僕を、とにかく終わりまで読ませる、それも息もつがせずに。
獅子文六については、僕はまったく知らない。
「まず演劇人として世に出て劇団『文学座』の創設に関わった。戯曲や演劇の演出、評論など演劇活動をするとき名乗ったのは、本名の岩田豊雄。小説や随筆を執筆するときには、獅子文六。それにしても、ひとを食った名前ではないか。」
考えてみれば、僕の周りで獅子文六について語った人は、半世紀に至るも、皆無なのだ。ちなみにこの人は、文化勲章をもらっている。文化勲章ですよ。しゃあない、『てんやわんや』と『大番』くらいは読むか(このへんが、半身不随で、やるべきことがない自由人の、いいところなのだ)。
第二章の最後、沢村貞子については『私の浅草』を読んだ。装幀がいかにも花森安治「暮しの手帖」ふうで良かった。表題の「四日間の空白」は、沢村貞子の長年にわたる献立日記のうち、四日間の空白の謎を解くものだ。これは本文を当たられたい。
エッセイの白眉――『野蛮な読書』(1)
平松洋子は癖になる。これはさすがに読書エッセイだけあって、わりと尋常な作りである。「尋常」というのは、お腹の中から声が出ていない、という意味だ。
いずれも、食べ物と絡めてエッセイとして良くできている。特に「わたしの断食一週間」は、たとえば子規の『仰臥漫録』との取り合わせが絶妙で、思わず唸る。
というふうにして第一章から第二章に移ると、突然ボルテージが上がる。なにしろ第二章のタイトルが「わたし、おののいたんです」。
第二章は宇能鴻一郎、池部良、獅子文六、沢村貞子に関するエッセイが並ぶ。
冒頭「わたし、おののいたんです――宇能鴻一郎私論」は、まず「『ラブシーンの言葉』荒川洋治 新潮文庫」から入る。その本を持ち、「鼻息を荒くしながらレジのおねえさんに差し出し、そのまま近所の喫茶店になだれ込んだ」。そうして「一語一文一節、足どりしずかに立ちどまりながら、おじさんのエロごころを全開にして言葉を、官能描写を、じっくり鑑賞し尽くすのである。荒川洋治さんならでは、切れ味するどく、熱く、熟れた玩味ぶりに目を開かされ、官能と言葉の睦みあいに光が当てられるさまに息を呑む」。とどめの一撃は、荒川洋治の文章。「宇能氏の文章の静けさが、すばらしい。その一針、一針に息を飲む」。
そこで平松は、スポーツ紙や夕刊紙で名前は見たことはあるが、よくは知らない宇能鴻一郎を俄然読んでみたくなる。「『あたし、濡れるんです』、『あたし、』と書くだけでアナザーワールドに連れてゆく天才、宇能鴻一郎」。
しかし、じつはその昔、芥川賞をもらった以外のことは、よく知らないのだ。そこでさっそく書店を歩いてみるが、本はなかなか見つからない。そういうときにはネット書店と思い、検索するが見つからない。著作は700冊を超えるというのに、ほとんど絶版なのだ。
しかたがないので芥川賞を受賞した『鯨神(くじらがみ)』を入手して読む。『鯨神』は大映で映画にもなっていた。そこからあのポルノの宇能鴻一郎まで、官能を軸に一本の線が引けるのだ。
「『あたし、お乳も腰も、自分でうっとりするくらい脂肪が張りつめていて』
『スラリと痩せてるけれど、お乳とお尻はプリンと発達してて』
ずいぶん稚拙な会話だなと構えを崩させる、いっけん似通った無防備な文章のなかにしたたかなリアリティがある。シンプルで、単刀直入で、通俗的な匂いがない。むだのない直截さは、だからこそすがすがしい。そして読む者にすべてがゆだねられている。」
僕は、そんなふうに手放しで称賛はできない。でも、宇能鴻一郎には何かある、それはわかる。平松洋子は、そこのところを躊躇しない。
いずれも、食べ物と絡めてエッセイとして良くできている。特に「わたしの断食一週間」は、たとえば子規の『仰臥漫録』との取り合わせが絶妙で、思わず唸る。
というふうにして第一章から第二章に移ると、突然ボルテージが上がる。なにしろ第二章のタイトルが「わたし、おののいたんです」。
第二章は宇能鴻一郎、池部良、獅子文六、沢村貞子に関するエッセイが並ぶ。
冒頭「わたし、おののいたんです――宇能鴻一郎私論」は、まず「『ラブシーンの言葉』荒川洋治 新潮文庫」から入る。その本を持ち、「鼻息を荒くしながらレジのおねえさんに差し出し、そのまま近所の喫茶店になだれ込んだ」。そうして「一語一文一節、足どりしずかに立ちどまりながら、おじさんのエロごころを全開にして言葉を、官能描写を、じっくり鑑賞し尽くすのである。荒川洋治さんならでは、切れ味するどく、熱く、熟れた玩味ぶりに目を開かされ、官能と言葉の睦みあいに光が当てられるさまに息を呑む」。とどめの一撃は、荒川洋治の文章。「宇能氏の文章の静けさが、すばらしい。その一針、一針に息を飲む」。
そこで平松は、スポーツ紙や夕刊紙で名前は見たことはあるが、よくは知らない宇能鴻一郎を俄然読んでみたくなる。「『あたし、濡れるんです』、『あたし、』と書くだけでアナザーワールドに連れてゆく天才、宇能鴻一郎」。
しかし、じつはその昔、芥川賞をもらった以外のことは、よく知らないのだ。そこでさっそく書店を歩いてみるが、本はなかなか見つからない。そういうときにはネット書店と思い、検索するが見つからない。著作は700冊を超えるというのに、ほとんど絶版なのだ。
しかたがないので芥川賞を受賞した『鯨神(くじらがみ)』を入手して読む。『鯨神』は大映で映画にもなっていた。そこからあのポルノの宇能鴻一郎まで、官能を軸に一本の線が引けるのだ。
「『あたし、お乳も腰も、自分でうっとりするくらい脂肪が張りつめていて』
『スラリと痩せてるけれど、お乳とお尻はプリンと発達してて』
ずいぶん稚拙な会話だなと構えを崩させる、いっけん似通った無防備な文章のなかにしたたかなリアリティがある。シンプルで、単刀直入で、通俗的な匂いがない。むだのない直截さは、だからこそすがすがしい。そして読む者にすべてがゆだねられている。」
僕は、そんなふうに手放しで称賛はできない。でも、宇能鴻一郎には何かある、それはわかる。平松洋子は、そこのところを躊躇しない。