出版界の大きな間違い――『出版と政治の戦後史―アンドレ・シフリン自伝―』(2)

1980年にランダムハウスは、S・I・ニューハウスと彼のメディア・コングロマリットに買収された。そこでの大きな利潤を期待されたのだ。

「ニューハウスの基本計画の一環として、バーンスタインは首になり、代わってアルベルト・ヴィターレという無能な元銀行家が、その位置に就いた。(中略)ヴィターレはニューハウスに、本を読むような煩わしいことはいっさいしないけれども、自分の経営術で新しく大儲けしてみせようと約束したのだった。」
 
結果は無残だった。
「ヴィターレも首になったとき、ランダムハウスの儲けは、彼が約束した百分の一――ヴィターレがニューハウスに、自分がやればどんなに少なくともこれだけは儲けてみせると約束した10パーセントではなく、0・1パーセント――になっていた。」
 
なぜこういうことになるのか。
「マッカーシーの時代は終わったはずなのに、利潤の最大化という新しいイデオロギーに対する闘い、どんな本もすぐに利益を出さなければならないとする主張との闘い」が、幕を切っていたのだ。
 
編集者の給与は、作った本と、短期間に密接に連動するようになった。
「それは逆に言えば、作った本がどれだけ儲かっているかを示す損益計算書が、編集者ごとに作成されるようになったということだ。」
 
もちろん編集者が、こんなことをされて喜ぶわけがない。というか、これはたんに編集者に起こったことではない。出版界全体を見れば、「歴史上はじめて、思想がその重要性ではなく、潜在的収益性によって審判されることとなった。」
 
日本では1990年の半ばぐらいから、この見方は顕著になる。
もちろん日本とアメリカは違う。日本語と英語では、市場の広さが極端に違う。だからメディア・コングロマリットが出版界に襲いかかってくることは、これまでにはなかった。これからも日本の場合は、まあないだろう。

しかし出版社の経営者がボンクラという点では、日本も同じことだ。アメリカほど悪辣な奴でなくても、ピン惚けである限りは、経営者としては失格だ。
 
こういうことを最初に大っぴらに言い出したのは、たぶん安原顕あたりだろう。最晩年は村上春樹の書名原稿を、古本屋に流したりしたので評判は悪かったが、日本の出版社は上へ行くほどバカばっかりだ、というのを正面切って言ったのは、安原顕が最初じゃないかと思う。

出版界の大きな間違い――『出版と政治の戦後史―アンドレ・シフリン自伝―』(1)

朗読の時間に、初めて翻訳書を読んでみる。翻訳書とはいっても、この本は、自分で編集を担当した本だから、直訳にならないよう、ギリギリまで日本語を仕上げてあると思う。もちろん訳者の高村幸治氏の力が大半である。99パーセントといってもいい。
 
朗読を続けていくと、さすがに文章は引き締まってるけれど、でも翻訳文体がごくわずか、ほんとうに何か所かある。これは訳を曖昧にしないために、いわば限定するために仕方のないことだった。

著者アンドレ・シフリンの父親、ジャック・シフリンは1931年に出版の仕事を始め、古典叢書プレイアッド版を創刊し、その後、プレイアッドを持って名門出版社ガリマールに入社している。ジャック・シフリンが独力でプレイアッドを創始したなんて、まったく知らなかった。

しかし第二次世界大戦が始まると、ジャックはユダヤ人であることを理由にガリマールを解雇され、そのままフランスに留まれば命の危険があることから、両親は1941年の夏にアメリカに亡命する。アンドレが6歳のときだった。
 
アメリカに渡ってからも苦難の連続で、それは僕の書いた帯に従えば、「ナチの迫害、アメリカへの亡命、貧困、赤狩り、戦争、さらには自ら選んだ出版界の絶望的な変質――幾多の試練を乗り越え、米国とヨーロッパの知的世界を結び、人間精神の輝きを数多の書物に結晶させた、稀有の出版人の自伝。」
ということになる。
 
朗読していて、じつに読み応えがあったが、今回とくに「第7章 変質する出版界―七〇年代以後―」が、日本の出版界と比較して、うーんと考えさせられた。

本と読書を題材に――『過去をもつ人』(3)

飯島耕一の訃報に接しては、『ゴヤのファースト・ネームは』を最初に挙げる。有名な一節、「生きるとはゴヤの/ファースト・ネームを/知りたいと思うことだ。」は誰でも知っている(と勢いにのって言ってしまおう)。
 
荒川洋治は飯島耕一の詩について、こんなふうに書く。
「きままなようにみえて、『自由』詩にありがちな雑な音はない。やわらかい特別な神経をつかって、ことばが進み、まっすぐの、きれいな軌道を示す。読む人の目を汚さない。疲れさせない。目の前に光を入れる。読む人の心が明るくなる。そんな詩を書いた人だと思う。」(「飯島耕一の詩」)
 
じつは飯島耕一は好きではない、というかどうでもいい。しかし「そんな詩を書いた人だと思う」と言われると、そうかもしれないと思う。いや、そうに違いないと思う。ここらへんは言葉の魔術だ。
 
デュマ・フィスの『椿姫』は、50年前に新潮文庫で読んだ。ここでは2008年の光文社古典新訳文庫で取り上げられる。
「すきのない構成。こまやかな、気持ちの動き。ことばと思考のかぎりを尽くす『椿姫』は、ひとつずつ文章をたどると、感動が深い。人を好きになる。そのときも、ひとつひとつ見ていくことが大切なのだろう。」
 
テキストは違っていても、本当にそのとおりだなあと思う。『椿姫』を読んだときの感動は、50年経った今でも昨日のことのようだ。でも、「ひとつずつ文章をたどると」って、どういうことだ。「人を好きになる。そのときも、ひとつひとつ見ていくことが大切なのだろう。」って、どういうことだ。いや、もちろんよくわかる。よくわかるよ。

「親しみのある光景」は、吉田知子『お供え』について。
「いい作品というものは、そのようすがわかっているからこそ、穏やかではいられないものなので、できれば、読みたくないものだ。読むと、いまそうであるように、大変なことになるので、調子がわるいとか、明日があるということにして、あとまわしにするものである。でも読んでみると、想像を超えるものがある。」
 
ふーん、そうなのか。「いい作品」をめぐって、そういう起伏に富んだドラマがあると、初めて知ったよ。でも本当にそうか、そうなんだろうなあ。

「四〇年」は、荒川洋治がやっている個人出版・紫陽社について。現在までに、40年で約270点を制作してきたという。
「紫陽社のピークは、一九七九年の〈80年代詩叢書〉だろう。井坂洋子『朝礼』、伊藤比呂美『姫』の二冊は女性詩ブームの起点になり、現代詩の流れを変えたとされる。」
 
その二冊は今も鮮やかに、この手に蘇ってくる。ひょっとすると、まだ本棚のどこかにあるんじゃないか、そういう気がする。

「詩は、あちらこちらに浮かんではいない。実際に書き表した、ことばのなかに存在する。詩は、詩集のなかにあるのだと思う。これからも『詩集』を支えたい。」
本当にそうだし、それを支えたいというのは頭が下がる。
 
最後に『夢』について。
「夢は、いろんなところにありそうに思える。でも、ほんとうの夢は、このような文章のなかでしか見ることができない。」
「このような文章のなか」というのは、たとえば色川武大の「友は野末に」で、銭湯で友達のお母さんが幻影となって表れる場面。こういう場面にしか、夢は現れないと言っている。
 
結局、僕は、取り上げなかった阿部知二「冬の宿」などを含めて、八冊、注文した。

(『過去をもつ人』荒川洋治、みすず書房、2016年7月20日初刷)

本と読書を題材に――『過去をもつ人』(2)

次に高見順を論じた「源泉のことば」。

昔、寺田博という有名な編集者がいて、ときどき酒場で呑んだ。そのとき、高見順というのはニセモノだというのを聞いて以来、その作家を敬して遠ざけてきた。寺田さんとは、合うところと、合わないところがあったけど、彼に言われたから、高見順を読まないというのは、考えてみれば良くないことだ。そこに、荒川洋治が追い打ちを懸ける。

「高見順の文章は、簡明だ。ことばを飾らない。だいじなところでは、数少ないことばだけをつかう。それらを向きあわせたり回転させたりして進む。文の節理が、とてもきれいだ。」
これだけでもう、どれか一編、読んでみたくなる。でも、それだけじゃあない。

「通常の作家が文章なら、高見順は文法で表現する。文法を支点にして、世界を切り拓く人なのだと思う。文章は特殊な能力を必要とするけれど、文法は誰もがつかえるし、さわることができるので、庶民的なものだ。すこやかなものである。高見順のことばは、この先の文学にとっても大切なものだと思う。」
 
さわることができて、すこやかなもの、それが文法(!)。これは言ってみれば、一編の詩だ。
そういえば吉行淳之介にも、高見順の方に身を寄せた人物評があったと思う。やっぱり『わが胸の底のここには』と『いやな感じ』は読んでおかねば。

「素顔」と題する、アメリカの女流作家のことを書いたものは、冒頭の一文で一気に持っていかれる。
「アメリカの女性作家フラナリー・オコナ―(1925―1964)は、読む人の心が壊れるような強烈な作品を書いて三十九歳で亡くなった。」
読む人の心が壊れるって、どんなだろう。これは読むしかなくなる。

そうかと思えば、日中事変の初期に、1時間半にわたる軍縮演説をやった斎藤隆夫の自叙伝の話が出てくる(『回顧七十年』新版)。
「政治家として『した』こと、『見た』ことが中心。他には熱意がない。ほんとうの自伝とは、このように簡素なものなのだ。世の自伝とは別もの。目の覚める思いがする。」
自伝が、本当にこのように簡素なものがどうかは別にして、たしかに目の覚める思いがする。
posted by 中嶋 廣 at 17:20Comment(0)日記

本と読書を題材に――『過去をもつ人』(1)

荒川洋治の書評集である。

書評集の書評はしづらい。かつて法蔵館にいるとき、養老孟司先生の『脳が読む』『本が虫』の、二冊の書評集を出した。その『本が虫』のあとがきで、養老先生は、書評というのは読み捨てていくべきもので、書評集を1冊に編むというのはよくないんじゃないか、ということを言っておられる。

「書評集がそうだが、誰かが『書いたもの』について『書く』。これは『メタ』作業である。実物からは、二段階遠くなっている。そんなものを人に読ませていいのか。」
 
これはもっともであるが、しかし唯一の例外がある。それは、書評そのものの文章が躍動して美しい場合である。そしてその判断をするのは、私なのである。だから、養老さんのやんわりした抗議をものともせずに出版し、またたく間に版を重ねた。
 
そこで荒川洋治だが、これをいかにも詩人らしい言葉で独特の書評をものしている、などと記せば、じつは何も言っていないに等しい。そこで、具体的に見て行くことにする。
 
たとえば「『門』と私」。わずか2ページ半ほどの書評なので、作品の本質を言い連ねなければならない。
まず、「日常よりも強いものは、まだ見つかっていないように思う」、とあって「でも誰もが、そんな一日を愛し、大切にするのだ。『門』を読むと、人はそれぞれ異なる人生ではなく、同じ人生を過ごすことで、結ばれているのだと感じる。いつもより深く、ていねいに、そのことを理解する。」

これが、『門』についての「私」の考えなのだ。対象となる作品を探っていくのではなく、「『門』と私」における「私」の考えだから、それでいいのだ。

中勘助の「銀の匙」では女性を問題にする。(「『銀の匙』の女性」)
「『銀の匙』で深く心をとらえるのは伯母さんの姿だ。人間の愛情とは、その美しさとはこのようなものだと教えてくれる」
 
しかし伯母さんがどんな関係にあるかは、それ以上はわからない。
「とはいえ、もう少し伯母さんのことを知りたい。ぼくがそんな気持ちになるのは、『銀の匙』の『私』と同じように、この女性のことをいつまでも忘れたくないからだと思う。」
じつに余韻のある締め方だ。

かなり危機的――『デモクラシーは、仁義である』

これは編集を担当したKさんが送ってくれた。Kさんは、最近の編集者の中では、とび抜けてバイタリティ溢れる人である。だからデモクラシーを主張する本でも、昨今は「日本会議」のようなアンチデモクラシーがのさばっているけれど、そんなものには全然遠慮する気配がない。これは楽しみだ。
 
まずデモクラシーの定義。
「『自分の生活や人生に直接あるいは間接的に影響を与えるような決めごとに対しては、直接もしくは間接的に物申す根源的な権利が平等に与えられている』という原則をもって、社会を運営していくことです。」
 
自分のことは自分で決める、ただしその機会は、「平等に」与えられなければいけない。これは当たり前だ。でも、そうなってはいない。たとえばマンションの自治会総会ならば、ビジネスエリートみたいな人がしゃしゃり出てきて、小さな子供のいる若い女性などは、なかなか口を挟めない。
 
これは逆に言えば、デモクラシーは効率という面では、コストがかかりすぎていて、向いていないということである。
また、デモクラシーを担う私たち一般の人たちは、高度で専門的な政策を判断できないから、自分で判断するのはやめたほうがよい、我々は重要な政策決定からは距離を置くほうがよいのだ、という判断もある。
 
以下、これでもかこれでもかという具合に、一見したところデモクラシーの欠点があげられてゆく。
それに対する反論が読ませどころなわけだが、これは著者が手を広げ過ぎて、言わんとすることはわかるけど、少々とっちらかり気味である。

もちろん著者は粒粒辛苦、悪戦苦闘している。しかし、要するに時の自民党政権が、例えば憲法にしてからが、理屈の通らぬことを押し立てるから、こちらとしてはどうしようもない。最後は、「デモクラシーは、仁義である」とでも言わなけりゃ、どうしようもないのである。

それよりも、話は横道にそれるが、選挙で候補者の名前を連呼するのはもうやめにしたい、日本人の「心の習慣」を変えて、政策を主張するようにしなければ駄目だ、というところがある。この「心の習慣」は、相手のことを忖度する日本人独特の対人観、政治観として、クローズアップすれば面白いんじゃないか。テレビで絶対に取り上げられないものや、何となく自粛するものなど、面白いものができそうな気がする。

ロバート・N・ベラー『心の習慣』があるなら、『日本人の心の習慣』で問題はなかろう。これは単行本でも新書でも、どちらでも行けそうな気がするが、昨今の情勢を考えれば新書だろうか。ただし日持ちのする新書。
 
それにしても、そもそもデモクラシーを説いて聞かせるのが、厄介なことになろうとは、かなり危機的な状況ではある。

(『デモクラシーは、仁義である』岡田憲治、角川新書、2016年8月10日初刷)

いちびりの本――『京都ぎらい』

これは「いちびり」の本である。関西ではそう言うけれど、関東ではどう言ったらいいのか。

「ひとことで言えば、洛外でくらす者がながめた洛中絵巻ということになろうか。」
しかしだからと言って、著者は悲憤慷慨してはいても、百パーセント怒っているわけではない。つまり「いちびり本」である。

「私は彼らから田舎者よばわりをされ、さげすまれてきた嵯峨の子にほかならない」とあっても、読者は「田舎者」である著者に身を寄せて、一緒に怒ってはいけない。

だいたい宇治がどうの、嵯峨がどうのといわれても、狭い京都の中がどうなっているのかまでは、一般の読者には分からない。

「『洛中生息』・・・・・・。ずいぶん、いやみったらしい標題である。洛外生息者の私は、この四文字を見るだけで、ひがみっぽくなってしまう。」
杉本秀太郎先生の名著をなんということか、と片頬で怒って、もう片頬で笑っていればよろしい。だいたい『洛中生息』を見た瞬間、「ボクは『洛外生息』やけどね」と僻む人は珍しい。もっとも杉本秀太郎先生の『洛中生息』は、しんねりしててあまり好きではないが。

「私は心にちかっている。金輪際、京都人であるかのようにふるまうことは、すまい。嵯峨そだちで宇治在住、洛外の民として自分の生涯はおえよう、と。」
どうぞどうぞ、そうしてくんなはれ、という以外にない、片頬で笑って。
 
しかし、考えこませる話もある。
「洛外がこういった言葉をひきうける前の時代に、賤民蔑視のほどはいかばかりであったか。京都はやはりこわい、そしていやな街だったんだろうなと、考えこまされる。」
そこから本格的に、差別の歴史に話が進むのか、とおもえばさにあらず。肩透かしを食わせて、ふたたびなんでもない話に戻る。
 
江戸では芸者だが、上方では芸子と呼ぶとか、坊主めくりは明治時代に始まったとか、寺院に肖像権はないから出版社は三万円払っちゃだめとか、・・・・・・本当にどうでもいい話ばかり。
 
いくらなんでも、これでは本としてまとまりがつかない。そう考えたのかどうなのか、末尾に南朝と北朝の話がでてくるが、これは取ってつけた話で、かえって「京都ぎらい」の焦点がぼやけた。
 
そう書くと、ぼろくそに言ってるようだけど、でもこの本、そんなに嫌いじゃないです。なにせ、「いちびり本」だから。

(『京都ぎらい』井上章一、朝日新書、2015年9月30日初刷)

荒涼の中にただ一人佇つ――『戦後編集者雑文抄――追憶の影』(2)

もちろん昔の、とびきり懐かしい話もある。
「未来社の編集者になって数年たったころ、古書店をのぞいたあとは、たいがい、書肆ユリイカの伊達得夫さんを訪ね、喫茶店『ラドリオ』で話しこむのが楽しみだったことなどを、チラリと思い浮かべたりした。」
これはもう五十年も前の話だ。

しかし『戦後編集者雑文抄』には、ただ懐かしいことばかりがあるわけではない。それはたとえば、「花田清輝-吉本隆明論争」のことである。これは、じつは今だからこそ、決着をつけてよいと思われる。そして決着をつけるには、二人の生涯を見てきた松本さんをおいて、ほかにない。

松本さんはよく知られるように、1954年、花田清輝『アヴァンギャルド芸術』を皮切りに、未来社で編集者としての生活を始めた。花田清輝が亡くなるまでに、「以後、そのケチな出版社から、くされ縁で一七、八冊」(埴谷雄高との架空対談における花田のせりふ)の本を出した。

一方、松本さんは、吉本隆明のごく初期に『芸術的抵抗と挫折』と『抒情の論理』(ともに1959年)を編集している。

松本さんは、埴谷・花田といった世代と、吉本は一緒になって、戦後の文学運動を進めていくものだと思っていた。
ところが、そうはならなかった。

最初にこの論争に火を点けたのは、花田だった。
「花田さんの吉本さんへの批判というのは、大雑把にまとめるならば、『戦争協力詩を書いた前世代の詩人たちを個人の名において糾弾するのではなく、時代と関連させつつ、戦後の芸術運動を高揚させることで全体として乗り越えるべきだ』というものでした。」
 
もともと花田は、芸術運動や思想運動は、論争や対立によって発展するものだと考えていた。だから、方法としての「論争」を非常に重視していた。
 
しかし吉本は、それとは少し違っていた。
「戦前に思想形成をした花田さんたちの世代が戦争をひたすらに堪えながらなんとかやり過ごそうとしていたのに対して、吉本さんの世代はそれこそ戦場で死ぬことしか目前の選択肢がなかった。だから吉本さんの戦争協力者に対する反発や恨みというものは、花田さんの想像も及ばないほど根深いものだったと思います。」
 
吉本の姿勢は、芸術運動や思想運動の全体的な発展よりも、個人的な自力の思想の構築に比重があるのだ。
「だから相手に勝つか負けるかの世界なのですね。ともかくいわれるように『自立』の思想家ですから、論争においてもいかにみずからの主張が正しいかということが先にくるわけです。」
 
そういうわけで、自立する思想家、吉本隆明の言語論(『言語にとって美とはなにか』)や国家論(『共同幻想論』)はたいへん優れたものだが、それを私たちが受け取って、そこからどのような実作や芸術につなげていくかを考えるとき、はたと困惑せざるを得ない。これらは、吉本が個人として確立した「記念碑的理論」であり、そこから何かを受け取って、つないでゆくことはできないのではないか。

だから吉本隆明は、「失礼な言い方かもしれませんが、よく言われるように『知の巨人』として『吉本隆明自立思想記念館』に永久に保存される方だと思います。」
 
一方、花田清輝という思想家は文章を書いたときから、その理論というようなものはなくて、めいめいが実作や芸術運動に生かす以外に、花田の思想を読み取ることはできない。
 
松本さんはその結果、『芸術的抵抗と挫折』と『抒情の論理』の二冊の本を作ったあと、吉本隆明とは「永いお訣れ」をすることになったのである。

(『戦後編集者雑文抄――追憶の影』松本昌次、一葉社、2016年7月25日初刷)

荒涼の中にただ一人佇つ――『戦後編集者雑文抄――追憶の影』(1)

『戦後文学と編集者』『戦後出版と編集者』に続いて、かかわった著者とその周辺を記した、松本昌次さんの3冊目の随想集である。
 
のっけの「花田清輝・埴谷雄高 冥界対論記録抄」に、まず度肝を抜かれる。
花田清輝と埴谷雄高が、あの世で対談をしている記録である。つまりこれは、松本さんの手による架空対談なのだ。いくら、花田の本を「十七、八冊」作り、埴谷の本を「評論集二十一冊、対話集十二冊作っちゃったけどね」と言っても、著者2人をあの世で会わせちゃってるんだもん、これは誰にもできないことだ。

『戦後文学と編集者』と『戦後出版と編集者』を読んだときには、非常に申し訳ないが、またいつもの「戦後文学」ものだなと思った。もちろん書かれている内容は、戦後の出版史をナマで知っている人の、今となってはたった一人の貴重な証言である。

でもそれは、僕が深く思い知ればいいことで、後輩にこれを読めと言って推薦するには躊躇するものがある。それが、前著2冊の感想だった。

3冊目の『戦後編集者雑文抄』は、おおむね21世紀に書かれた文章を収める。いま、2016年にこの本を読めば、編集者・松本昌次さんが、いかに多くの優れた人を結びつけたかを思い知らされて、なんというか、目くるめく思いがする。

出版界が毎日毎日、新刊を出しながら、実際には荒涼たる風景の中で呆然と佇んでいるとき、松本さんの世界はじつに豊穣なのだ。今世紀に入って、荒涼のなかでほとんど何も残らなくなったとき、ただひとり松本さんだけが、小説家や詩人、政治学者や女優を華麗に結びつけた。たとえば宮本常一と雑誌『民話』を語ったところ。

「民話だけでものは考えられない、芸術や思想といったものも含めて考えなければならないなどと思っていたんですね。日本では知識人の考えていることと民衆の動向はいつも離ればなれです。だからわたしはそれらを出会わせたいし、『民話』をそういった場にしてみたいなどと考えていたんです。(中略)『民話』には花田清輝さんや埴谷雄高さんや丸山眞男さんといった方々が登場しています(のちに、藤田省三、廣末保、谷川雁、日高六郎、吉本隆明さんなどの方がたにも執筆してもらっています。)」

編集者が持てる力を十全に伸ばし、しかもそれを、のびのびとやっているのを見るのは、今となっては夢のまた夢である。

エッセイの白眉――『野蛮な読書』(3)

この4人は、じつは共通項がある。それは食べ物随筆だ。

たとえば宇能鴻一郎は「たべることがすき。料理がすき。それがふだんの宇能鴻一郎の顔だと知ったとき、意外なような、いや当然のような、じつに複雑な感情をおぼえたものである。食べて味わうこと、料理することは、五官をつかって官能を湧きたたせる悦楽でもあるから。」
宇能鴻一郎は『味な旅 舌の旅』を書いている。

池部良はエッセイストとしても著名で、そのうち何冊かは、食べ物に関する本がある。たとえば『風の食いもの』は、「綴られているのは約五年の戦争体験を土台にした食べものの話なのだが、しかし繰り言でもなく、あからさまな怒りや憤りでもなく、戦争体験自慢でも回顧でもない。まず、きっちり啖呵をきる。
・・・・・・
食いものの恨み。これが一冊を牽引する真情である。」
池部良はほかに『酒あるいは人』、『池部良の男の手料理』などを書いている。

獅子文六は『食味歳時記』や『私の食べ歩き』が取り上げられているが、これも一筋縄でいくもんじゃあない。だいたい発表当時、獅子文六の書くものは娯楽小説と一括りにされたが、「しかし、さかんに書き綴った食味随筆ひとつとっても、文章には偏屈偏狭の衣をかぶった人間観察者の視線の鋭さがそなわっていた。だからこその狷介孤高。」そういうわけで「いずれにしても、煮ても焼いても食えないかんじ、そこにこそ獅子文六の味があるのだった。」

『わたしの献立日記』に見る沢村貞子の料理は、どれも特別なものではない。いかにも質素で、日本人にはなじみ深いものだ。ただ、自分流のぜいたくだけは惜しまなかった。「その『ぜいたく』とは、たとえば出入りの魚屋から旬の魚を買うこと。とびきり新鮮なものを選んで、刺身にしたりてんぷらにしたり。朝餉夕餉のささやかなよろこびを『ぜいたく』として享受した。」

ただしぜいたくとは言っても、そこは一味ちがう。「繰りまわしの工夫はみごとなもので、出入りの魚屋から鯛一尾を買うと、当日は刺身や「しほやき」、そののち煮付け、うしお汁。『ぜいたく』をしても、両足はきっちり庶民の暮らしに根ざして離れることがない。」

四者四様、食べ物随筆だとは言っても、それこそ味は全然違う。それでも食べ物から入るのは、人間の本質にもっとも近づく、いや人間の本質を言いあらわすことそのものだろう。

「第三章 すがれる」には、五本のエッセイが入る。この五本の「試験管」こそは、随筆や雑文とは全く違った意味で、ひとり一ジャンルという意味での、エッセイという言葉にふさわしい。
 
それは、「クリスティーネの眼差し」ひとつを読めば分かる。1985年に自殺した妻、クリスティーネを撮影した古屋誠一。その古屋誠一に対して、平松洋子はこんな言葉を吐く。

「書いておかなければならないことがある。とてもたいせつなことだ。一九八五年、クリスティーネがアパートの九階連絡通路から身を投げて死にいたった直後、古屋誠一はその現実をカメラでみずから撮影している。展覧会場にはそのカットをふくむフィルムのコンタクトプリントが展示されていたが、わたしには直視するどころか立ちどまることさえできなかつた。」

そして平松は、最後にこう結論づける。「人間の倫理の領域に踏みこんでなお、撮ること、見せることの意味を見る者に突きつけて極限まで追いこんでくる古屋誠一に対して、わたしは、見ないことも見る行為のひとつだと、いまはかえすほかない。」
今は見ないことも見る行為の一つだ、と返せるエッセイを誰が書けるだろうか。

(『野蛮な読書』平松洋子、集英社文庫、2014年10月25日初刷)