『編集とはどのような仕事なのか』のほかに、鷲尾さんは松本昌次さんにも紹介してくださった。
松本昌次さんこそは未来社で、埴谷雄高、花田清輝、丸山眞男、藤田省三、平野謙、橋川文三、杉浦明平、野間宏といった著者を担当した名編集者である。
未来社でほぼ30年、活躍されたのち、影書房を起こし、80歳後半まで同社代表として活躍し、つい先日、影書房を退かれた。
もちろん現在もフリーの編集者、執筆者として活躍中で、つい先日も、『戦後編集者雑文抄』という著書を頂いたばかりだ。この人こそ掛け値なしで、生涯現役編集者と呼ぶべき人なのだ。
鷲尾さんは、松本昌次さんの聞き書きを計画していた。そのための聞き手は、元講談社の鷲尾さんと、小学館取締役の上野明雄さん、連載を載せる『論座』(このころは朝日新聞社から紙で出ていた)のNさん、出版を引き受けるトランスビューの中嶋という陣容だった。聞き書きは丸二年間、16回に及んだ。
『わたしの戦後出版史』の目次を、ちょっと拾ってみると、「花田清輝、品行方正の破れかぶれ」「難解王、埴谷雄高のボレロ的饒舌」「丸山眞男の超人的好奇心」「全身小説家、井上光晴の文学魂」「木下順二と山本安英の奇跡的な出会い」「野間宏の独特な精神の『迂廻路』」「宮本常一、そして出版の仲間たち」などなど。いま、拾い読みをしていると、松本さんに議論を仕掛け、挑んでいく鷲尾さんの声が、耳に響くようだ。
もちろんそのあと、すべてに酒がついた。松本さん、上野さん、鷲尾さんが、酒の勢いもあってノーガードで打ち合うさまは、本当に勉強になったし、またとてつもなく楽しかった。『論座』の連載は21回になった。
これは考えてみると、編集者・鷲尾さんの筋書きどうりだといえる。小出版社の雄、松本昌次さんの聞き手が、元講談社と現役小学館の取締役、発表媒体が朝日新聞の『論座』、単行本が小出版社のトランスビュー、と本当に画に描いたようだ。この本は後に、朝日新聞が2000年から09年までの十年間に選ぶ「ベスト50冊」に選出された。
鷲尾さんはほかにも、元岩波書店の社長である大塚信一さんを紹介してくださった。
大塚さんは『理想の出版を求めて』を皮切りに、『山口昌男の手紙』『哲学者・中村雄二郎の仕事』『河合隼雄 心理療法家の誕生』『河合隼雄 物語を生きる』『松下圭一 日本を変える』の6冊を、書き下ろしてくださった。しかしこれはまた別の長い話になる。
鷲尾さんが急逝されたので、改訂の件は途方に暮れることになったが、鷲尾三枝子夫人が細かいところまで見てくださり、『新版 編集とはどのような仕事なのか』は、鷲尾さんの死後、半年余りを経て、無事に刊行することができた。
(『新版 編集とはどのような仕事なのか―企画発想から人間交際まで―』
鷲尾賢也、トランスビュー、2014年10月5日初刷)
(『わたしの戦後出版史』松本昌次、聞き手・鷲尾賢也・上野昭雄、
トランスビュー、2008年8月5日初刷)
鷲尾賢也さんのこと――『新版 編集とはどのような仕事なのか―企画発想から人間交際まで―』(3)
2001年に、私は法蔵館の東京事務所を辞め、トランスビューという出版社を作った。鷲尾さんに、人文書を中心とする広い書籍の世界を見せられながら、飛び込んでいかないのは、いかにもつまらない、という気持ちが高じて、抑えられなくなったのだ。
その後、2003年に、今度は鷲尾さんが、58歳で講談社を早期退職された。取締役学芸局長で、これからますます権勢を振るわれるだろうと思っていたので驚いたが、そういうものでもなかったようだ。
もちろん私などに事情がわかるはずもないが、本を作れないのはつまらないものだ、と言われたのはよく覚えている。
鷲尾さんはフリーになると神保町に事務所を構えた。そしてまず上智大学で半年間、15回にわたる出版論の講義を始めた。私は毎回モグリで聴きにいった。このときの講義が、『編集とはどのような仕事なのか』の基になっている。
この本は、最初に述べたように、日本語版も版を重ねたが、その後、韓国語版、台湾版(繁体字)、中国本土版(簡体字)が出た。とくに中国本土版は、翻訳使用期間の5年が過ぎると、すぐにまた別の出版社が版権を取り、新しい装丁で出ている。
鷲尾さんも韓国の出版人たちに呼ばれて、300人ほどを前に講演しておられるのが、韓国の新聞に載ったりした。
「自分の書いた出版論が、アジアの人たちに読まれているなんて、想像を絶するな」と笑っておられた。
鷲尾さんの編集の仕事についていうと、もう一つ、違う方向の大きな仕事があった。安岡章太郎『僕の昭和史』(前3冊+対談1冊)や杉本秀太郎『平家物語』(画・安野光雅)などがそれで、前者は安岡章太郎氏のところへ毎月、8年間通い続けて原稿を取り、後者はPR誌『本』に7年間連載されたものだ。
通常、大きなシリーズの企画を立てて実現する能力と、一人の著者の原稿取りを何年も続けて、単行本を作る粘り強さとは、一人の編集者の中で両立しないことが多い。その意味でも鷲尾さんは稀有な人であった。
その後、2003年に、今度は鷲尾さんが、58歳で講談社を早期退職された。取締役学芸局長で、これからますます権勢を振るわれるだろうと思っていたので驚いたが、そういうものでもなかったようだ。
もちろん私などに事情がわかるはずもないが、本を作れないのはつまらないものだ、と言われたのはよく覚えている。
鷲尾さんはフリーになると神保町に事務所を構えた。そしてまず上智大学で半年間、15回にわたる出版論の講義を始めた。私は毎回モグリで聴きにいった。このときの講義が、『編集とはどのような仕事なのか』の基になっている。
この本は、最初に述べたように、日本語版も版を重ねたが、その後、韓国語版、台湾版(繁体字)、中国本土版(簡体字)が出た。とくに中国本土版は、翻訳使用期間の5年が過ぎると、すぐにまた別の出版社が版権を取り、新しい装丁で出ている。
鷲尾さんも韓国の出版人たちに呼ばれて、300人ほどを前に講演しておられるのが、韓国の新聞に載ったりした。
「自分の書いた出版論が、アジアの人たちに読まれているなんて、想像を絶するな」と笑っておられた。
鷲尾さんの編集の仕事についていうと、もう一つ、違う方向の大きな仕事があった。安岡章太郎『僕の昭和史』(前3冊+対談1冊)や杉本秀太郎『平家物語』(画・安野光雅)などがそれで、前者は安岡章太郎氏のところへ毎月、8年間通い続けて原稿を取り、後者はPR誌『本』に7年間連載されたものだ。
通常、大きなシリーズの企画を立てて実現する能力と、一人の著者の原稿取りを何年も続けて、単行本を作る粘り強さとは、一人の編集者の中で両立しないことが多い。その意味でも鷲尾さんは稀有な人であった。
鷲尾賢也さんのこと――『新版 編集とはどのような仕事なのか―企画発想から人間交際まで―』(2)
鷲尾さんは大学を出て、はじめキヤノンに入り、それから講談社に移った。
最初は『週刊現代』の編集部員として、のちに「講談社現代新書」を、編集長を務め上げるまで続け、またPR誌『本』の編集長も歴任した。ほかに、書き下ろしシリーズの「選書メチエ」を創刊し、これは今も続いている。また『現代思想の冒険者たち』全31巻や、『日本の歴史』全26巻などを世におくった。
以上は『編集とはどのような仕事なのか』にも、折りにふれて出てくる話だ。
私が、なかでもいちばん興味があったのは、『日本の歴史』の旧石器捏造事件だった。これは第1回配本直後に起こった。
鷲尾さんは『日本の歴史』の出発に当たり、責任者としてあちこちの書店や取次の説明会にも出かけ、編集だけでなく、宣伝、営業面でも腐心しておられた。そのとき、第1巻の旧石器時代に関する内容が、捏造された発掘成果に基づくことが発覚したのだ。
これはもちろん、鷲尾さんや講談社の責任ではない。その当時の考古学界の常識がそうなっていたのであり、もしそれを無視したものを作れば、従来の研究成果をふまえていないとして、かえって批難を浴びただろう。
しかし、ドンピシャのタイミングで捏造が発覚したために、このシリーズが出版物として矢面に立たされることになった。
このとき私は、ハラハラしつつも、一方で別の関心もあった。こういう大きな「不祥事」が起これば、もし自分が責任者なら、どうするだろう。シリーズの第1巻を全冊回収しなければならないのだ。定期購読者にはなんといって詫びるのだろう。いや、一体どれほどの定期購読者を失うことになるのだろう。考えただけでも空恐ろしいことで、憂鬱になるどころの話ではない。毎晩、とても眠れないだろう。
このときは、シリーズ完結の最後に旧石器時代を扱った巻の改訂版を出し、旧版と交換する、という方法がとられた。ちなみに全巻の部数は100万部を超えたという。まあ、講談社だからできることではある。
僕が目を開かされたのは、鷲尾さんの姿勢だった。この時期の鷲尾さんは、ふだんとまったく変わらなかった。もちろん、一人の時はわからない。悶々とされなかったはずはないと思うのだが、そういうところは全く見せなかった。
あとで、あのとき苦しまれたり悩んだりされた様子が全然なかったのには驚いた、と申し上げると、悩んだってしょうがないじゃないか、ともかく処理する方法を考えてやるしかないだろう。いい時の人間はみんな似たようなもの、悪くなったときに、その人間が分かるんだよ。くよくよしてウツになったり、イライラして不機嫌になったりするのは、そこまでの人間で、そういう時こそふだん通りに、いやふだんよりもっと明るく知恵を出さなきゃダメなんだ、と言われた。
この教えは、その後ずっと私の大きな支えになった。
最初は『週刊現代』の編集部員として、のちに「講談社現代新書」を、編集長を務め上げるまで続け、またPR誌『本』の編集長も歴任した。ほかに、書き下ろしシリーズの「選書メチエ」を創刊し、これは今も続いている。また『現代思想の冒険者たち』全31巻や、『日本の歴史』全26巻などを世におくった。
以上は『編集とはどのような仕事なのか』にも、折りにふれて出てくる話だ。
私が、なかでもいちばん興味があったのは、『日本の歴史』の旧石器捏造事件だった。これは第1回配本直後に起こった。
鷲尾さんは『日本の歴史』の出発に当たり、責任者としてあちこちの書店や取次の説明会にも出かけ、編集だけでなく、宣伝、営業面でも腐心しておられた。そのとき、第1巻の旧石器時代に関する内容が、捏造された発掘成果に基づくことが発覚したのだ。
これはもちろん、鷲尾さんや講談社の責任ではない。その当時の考古学界の常識がそうなっていたのであり、もしそれを無視したものを作れば、従来の研究成果をふまえていないとして、かえって批難を浴びただろう。
しかし、ドンピシャのタイミングで捏造が発覚したために、このシリーズが出版物として矢面に立たされることになった。
このとき私は、ハラハラしつつも、一方で別の関心もあった。こういう大きな「不祥事」が起これば、もし自分が責任者なら、どうするだろう。シリーズの第1巻を全冊回収しなければならないのだ。定期購読者にはなんといって詫びるのだろう。いや、一体どれほどの定期購読者を失うことになるのだろう。考えただけでも空恐ろしいことで、憂鬱になるどころの話ではない。毎晩、とても眠れないだろう。
このときは、シリーズ完結の最後に旧石器時代を扱った巻の改訂版を出し、旧版と交換する、という方法がとられた。ちなみに全巻の部数は100万部を超えたという。まあ、講談社だからできることではある。
僕が目を開かされたのは、鷲尾さんの姿勢だった。この時期の鷲尾さんは、ふだんとまったく変わらなかった。もちろん、一人の時はわからない。悶々とされなかったはずはないと思うのだが、そういうところは全く見せなかった。
あとで、あのとき苦しまれたり悩んだりされた様子が全然なかったのには驚いた、と申し上げると、悩んだってしょうがないじゃないか、ともかく処理する方法を考えてやるしかないだろう。いい時の人間はみんな似たようなもの、悪くなったときに、その人間が分かるんだよ。くよくよしてウツになったり、イライラして不機嫌になったりするのは、そこまでの人間で、そういう時こそふだん通りに、いやふだんよりもっと明るく知恵を出さなきゃダメなんだ、と言われた。
この教えは、その後ずっと私の大きな支えになった。
鷲尾賢也さんのこと――『新版 編集とはどのような仕事なのか―企画発想から人間交際まで―』(1)
毎日の朗読の時間に、鷲尾賢也さんの『編集とはどのような仕事なのか』を読んでみる。
夢中になって読んでいると、私の声なのに、それに被さるように、鷲尾さんの声が聞こえてくる。
この本は2004年に旧版が出て、たしか4刷りくらいまで行った。それで品切れになったので、どうしようかという話になった。出版界の変動ぶりが甚だしく、数字データや書店の名前等が、著しく違ってきていたのである。
必要な本だし、出せばある程度売れるのは分かっていたから、早くやればいいのだが、「新版」というのは、旧版があって、それを手直しするわけだから、ついつい後回しになる。
鷲尾さんも、何度か重版が出て、それで品切れになって終わりというのは、きれいな店じまいじゃないかとおっしゃるので、ついついそっちの方へ引っぱられる。それでしばらくは、そのままにしておいた。
それが2014年の初めに、『たのしい編集』(和田文夫・大西美穂、ガイア・オペレーションズ)という本が出て、そこでこんなふうに取り上げられた。
「ああ、新人のころ、この本があれば、どんなに助かっただろうと思わずにはいられない。(中略)
僕が読んだもののなかで、新人編集者にとって、本書がいちばん役に立つと思った。」
そしてこう述べている。
「また、著者が現場で培った経験が具体的に紹介されているので、とても参考になる。たとえば、
『(原稿の)全体を通していえば、思い切って自分(著者)のすべてを曝け出してほしい。読者との距離が、それによって近くなるからだ。自分がこのテーマになぜ関心をもったのか。(中略)生きてゆく苦しさ、哀しさ、悩みやよろこび、それらを語ることによって、読み手が親しみを感じられる。つまり本は、どこか一人称で語られなければならない』
というアドバイスは、つねに頭のかたすみに置いておきたい。」
こうまで書かれた本を、品切れのままにしておくわけにはいかない。
私は紹介された当該箇所をコピーして、すぐに改訂に取りかかりましょうという手紙を、鷲尾さんに送った。
するとまたすぐに、改訂の方針はすべて任せるから、自分のやるべきことを指示してくれ、というはがきを頂いた。
ともかく本文中の古くなった数字データの直しからはじめましょう、と電話で話したのが2月7日の金曜日。それから3日後、2月10日に、鷲尾さんは脳出血により亡くなられた。
夢中になって読んでいると、私の声なのに、それに被さるように、鷲尾さんの声が聞こえてくる。
この本は2004年に旧版が出て、たしか4刷りくらいまで行った。それで品切れになったので、どうしようかという話になった。出版界の変動ぶりが甚だしく、数字データや書店の名前等が、著しく違ってきていたのである。
必要な本だし、出せばある程度売れるのは分かっていたから、早くやればいいのだが、「新版」というのは、旧版があって、それを手直しするわけだから、ついつい後回しになる。
鷲尾さんも、何度か重版が出て、それで品切れになって終わりというのは、きれいな店じまいじゃないかとおっしゃるので、ついついそっちの方へ引っぱられる。それでしばらくは、そのままにしておいた。
それが2014年の初めに、『たのしい編集』(和田文夫・大西美穂、ガイア・オペレーションズ)という本が出て、そこでこんなふうに取り上げられた。
「ああ、新人のころ、この本があれば、どんなに助かっただろうと思わずにはいられない。(中略)
僕が読んだもののなかで、新人編集者にとって、本書がいちばん役に立つと思った。」
そしてこう述べている。
「また、著者が現場で培った経験が具体的に紹介されているので、とても参考になる。たとえば、
『(原稿の)全体を通していえば、思い切って自分(著者)のすべてを曝け出してほしい。読者との距離が、それによって近くなるからだ。自分がこのテーマになぜ関心をもったのか。(中略)生きてゆく苦しさ、哀しさ、悩みやよろこび、それらを語ることによって、読み手が親しみを感じられる。つまり本は、どこか一人称で語られなければならない』
というアドバイスは、つねに頭のかたすみに置いておきたい。」
こうまで書かれた本を、品切れのままにしておくわけにはいかない。
私は紹介された当該箇所をコピーして、すぐに改訂に取りかかりましょうという手紙を、鷲尾さんに送った。
するとまたすぐに、改訂の方針はすべて任せるから、自分のやるべきことを指示してくれ、というはがきを頂いた。
ともかく本文中の古くなった数字データの直しからはじめましょう、と電話で話したのが2月7日の金曜日。それから3日後、2月10日に、鷲尾さんは脳出血により亡くなられた。
お腹の中から言葉が出る――『夜中にジャムを煮る』(2)
この本の中にたくさん出てくる韓国料理、その奥義は指を使うことである。
「にんげんの指を使うことで、すでにごく自然な力が野菜に伝わっているところをよしとする。微細な動きが野菜の繊維をかすかに壊し、調味料はそのすきまに染みこむことを了解したうえで指を使うのである。」
その韓国は全羅南道(チョルラナムド)には、有名な「珍食奇食」が二つある。
ひとつは生き蛸の踊り食い。
「恐れていたモノが、ついに目前に。生き蛸の踊り食い、木浦名物の奇食である。口に入るや、蛸は残るチカラを振り絞り、頬に、喉に、歯茎に吸盤が全力でキューッと吸いつく。」
これは本文ではなく、写真のネームだが、こういうところにも神経が行き届いてるというよりは、溢れ出る才能がネームにも迸っている、と言った方がいい。
もうひとつはエイである。
「経験したことのない初めてのナニカ。それはみるみる口腔をもわーっと満たし、さらに鼻腔に向けて直撃を喰らわせ、一気に何千本の鋭い針となって脳天をきーんと突き刺した。
涙がせり上がっていた。発酵したアンモニアの刺激が電流となってびりびり走り抜け、からだが火照る。顔をまっ赤に上気させて涙を垂らしているわたしを、みな呆けたようにぽかーんと眺めている。箸を握りしめて固まったまま、うしろに倒れてしまいそうだった。」
じつは僕も、蛸の踊り食いは韓国に行ったとき食べた。でもそれだけだった。珍しいものをたらふく食って、あー食った食ったと呆ける人間と、そのとき身体が共鳴機となって言葉が出てくる人、ごくまれにそういう人がいるのだ。
日本のカレーについても、インドやタイのものと比較して、こんなことを言う。
「カレールーでつくるニッポンのカレー、それは、本家のアジアも経由先のヨーロッパもとろりとおおらかに吸収合併してひとつに束ねた眩惑の味がするのだろうか。」
最後に、今日はもう本当に何も食べたくないという日。
「ほんのひと手間だが、そのひと手間がいやなのだ。さりとて冷えきったポテトサラダが喉を通るのも、想像しただけで背筋が寒い。結局、つくり置きの牛肉のしぐれ煮を指でつまんで二度口に放りこみ、冷蔵庫に戻す。ふがっ、ぱたっ。空気を押し出す音を合図に冷蔵庫は押し黙り、ただの四角い箱になる。」
ここまで、平松洋子の言葉の出具合い、その腹の中から出る具合を見ていただこうと思ったが、なかなか難しい。言葉の断片ですむなら、虚空にあるものを上手に捉えて、鮮やかに見せればいいわけだ。そうではないとすると、あとはもう全文を読むしかなくなる。
そういえば大見出しの四つの言葉も、それだけ取り上げればどうということはない。
「台所でかんがえる」「鍋のなかをのぞく」「わたしの季節の味」「いっしょでも、ひとりでも」
むしろ見出しとしては、ピシッと決まっておらず、溶けて流れてしまいそうだ。しかしこれが、全体の中では生きるのだ。
自覚的な評論の文章などでは、言葉をくっきりと際立たせるために、接続詞を切り詰める。とくに改行冒頭の接続詞は、逆接を除けば、まず省略される。
平松洋子のそれもまた、改行の冒頭には、ほとんど接続詞が来ていない。逆接はまだしも、順接となると本当に少ない。でもそれは、言葉の姿かたちを際立たせるためではない。そうではなくて、言葉が体の中から出てくるため、順接の接続詞はいらないのだ。この呼吸、わかりますか。
(『夜中にジャムを煮る』平松洋子、新潮文庫、平成23年12月1日初刷)
「にんげんの指を使うことで、すでにごく自然な力が野菜に伝わっているところをよしとする。微細な動きが野菜の繊維をかすかに壊し、調味料はそのすきまに染みこむことを了解したうえで指を使うのである。」
その韓国は全羅南道(チョルラナムド)には、有名な「珍食奇食」が二つある。
ひとつは生き蛸の踊り食い。
「恐れていたモノが、ついに目前に。生き蛸の踊り食い、木浦名物の奇食である。口に入るや、蛸は残るチカラを振り絞り、頬に、喉に、歯茎に吸盤が全力でキューッと吸いつく。」
これは本文ではなく、写真のネームだが、こういうところにも神経が行き届いてるというよりは、溢れ出る才能がネームにも迸っている、と言った方がいい。
もうひとつはエイである。
「経験したことのない初めてのナニカ。それはみるみる口腔をもわーっと満たし、さらに鼻腔に向けて直撃を喰らわせ、一気に何千本の鋭い針となって脳天をきーんと突き刺した。
涙がせり上がっていた。発酵したアンモニアの刺激が電流となってびりびり走り抜け、からだが火照る。顔をまっ赤に上気させて涙を垂らしているわたしを、みな呆けたようにぽかーんと眺めている。箸を握りしめて固まったまま、うしろに倒れてしまいそうだった。」
じつは僕も、蛸の踊り食いは韓国に行ったとき食べた。でもそれだけだった。珍しいものをたらふく食って、あー食った食ったと呆ける人間と、そのとき身体が共鳴機となって言葉が出てくる人、ごくまれにそういう人がいるのだ。
日本のカレーについても、インドやタイのものと比較して、こんなことを言う。
「カレールーでつくるニッポンのカレー、それは、本家のアジアも経由先のヨーロッパもとろりとおおらかに吸収合併してひとつに束ねた眩惑の味がするのだろうか。」
最後に、今日はもう本当に何も食べたくないという日。
「ほんのひと手間だが、そのひと手間がいやなのだ。さりとて冷えきったポテトサラダが喉を通るのも、想像しただけで背筋が寒い。結局、つくり置きの牛肉のしぐれ煮を指でつまんで二度口に放りこみ、冷蔵庫に戻す。ふがっ、ぱたっ。空気を押し出す音を合図に冷蔵庫は押し黙り、ただの四角い箱になる。」
ここまで、平松洋子の言葉の出具合い、その腹の中から出る具合を見ていただこうと思ったが、なかなか難しい。言葉の断片ですむなら、虚空にあるものを上手に捉えて、鮮やかに見せればいいわけだ。そうではないとすると、あとはもう全文を読むしかなくなる。
そういえば大見出しの四つの言葉も、それだけ取り上げればどうということはない。
「台所でかんがえる」「鍋のなかをのぞく」「わたしの季節の味」「いっしょでも、ひとりでも」
むしろ見出しとしては、ピシッと決まっておらず、溶けて流れてしまいそうだ。しかしこれが、全体の中では生きるのだ。
自覚的な評論の文章などでは、言葉をくっきりと際立たせるために、接続詞を切り詰める。とくに改行冒頭の接続詞は、逆接を除けば、まず省略される。
平松洋子のそれもまた、改行の冒頭には、ほとんど接続詞が来ていない。逆接はまだしも、順接となると本当に少ない。でもそれは、言葉の姿かたちを際立たせるためではない。そうではなくて、言葉が体の中から出てくるため、順接の接続詞はいらないのだ。この呼吸、わかりますか。
(『夜中にジャムを煮る』平松洋子、新潮文庫、平成23年12月1日初刷)
お腹の中から言葉が出る――『夜中にジャムを煮る』(1)
平松洋子の文章は、雑誌に載っていればかならず読む。しかし書籍に纏められたものを、読んだことはなかった。中島京子と同じで、いったん読めば、夢中になって仕事を忘れる可能性が大、というかまず間違いなくそうなる。
この文庫のカヴァー裏には、「食材と調理道具への愛情を細やかに描き、私たちの日々の暮らしを潤す、台所をめぐる十七のエッセイ」とある。
それはそうなんだけれど、なんというか、この人の場合は言葉の出具合いが違う。ふつうは身体の外を漂っている言葉を、うまく捕まえようとする。つまり虚空に花を摑もうとする。ところがこの著者の場合は、お腹の中から言葉が出る。
そういうところを、うまく言いあらわすことは可能だろうか。
「昭和はうれしい時代だった。そしてうれしい場所だった。ことに昭和三十年代の台所は。」
「『食べることはたのしいと教えてくれた味。もしおかあさんの味の経験と記憶がなかったら、あたしは顔つきも話すこともかんがえることもぜんぜん違う別人になってた』」
これは冒頭近く。うーむ、うまく言いあらわせない。
次は、漆の椀が、テレビ局のスタジオで割れたとき。
「五つそれぞれ毎日順繰りに使い続け、みな微妙に表情を変えながらゆっくりと育っていく途中だった。根来の赤と黒が次第に馴染み合い、おだやかに呼吸を整えていく様子をつぶさに眺めて暮らしていたのに。」
「飲みたい気分」のとき、酒肴をどうするか、というとき。
「酒の肴はちょっとものさびしいくらいが好きである。焙ったお揚げにはなんとはなしひなびた風情がまとわりつき、あたりの空気がしんと鎮まる。」
あるいは塩を求めて奥能登へ。しかしそもそも、なぜ塩を求めなければならなかったか。
「塩かげん。味のすべてはここから始まる。かんがえてみれば、料理をつくり続けて三十五年、それは自分の塩の塩梅を決める長い学習と訓練の期間ではなかったか。『パパッと塩を振れば、たちまちいつもの味』。あこがれたなあ。」
この文庫のカヴァー裏には、「食材と調理道具への愛情を細やかに描き、私たちの日々の暮らしを潤す、台所をめぐる十七のエッセイ」とある。
それはそうなんだけれど、なんというか、この人の場合は言葉の出具合いが違う。ふつうは身体の外を漂っている言葉を、うまく捕まえようとする。つまり虚空に花を摑もうとする。ところがこの著者の場合は、お腹の中から言葉が出る。
そういうところを、うまく言いあらわすことは可能だろうか。
「昭和はうれしい時代だった。そしてうれしい場所だった。ことに昭和三十年代の台所は。」
「『食べることはたのしいと教えてくれた味。もしおかあさんの味の経験と記憶がなかったら、あたしは顔つきも話すこともかんがえることもぜんぜん違う別人になってた』」
これは冒頭近く。うーむ、うまく言いあらわせない。
次は、漆の椀が、テレビ局のスタジオで割れたとき。
「五つそれぞれ毎日順繰りに使い続け、みな微妙に表情を変えながらゆっくりと育っていく途中だった。根来の赤と黒が次第に馴染み合い、おだやかに呼吸を整えていく様子をつぶさに眺めて暮らしていたのに。」
「飲みたい気分」のとき、酒肴をどうするか、というとき。
「酒の肴はちょっとものさびしいくらいが好きである。焙ったお揚げにはなんとはなしひなびた風情がまとわりつき、あたりの空気がしんと鎮まる。」
あるいは塩を求めて奥能登へ。しかしそもそも、なぜ塩を求めなければならなかったか。
「塩かげん。味のすべてはここから始まる。かんがえてみれば、料理をつくり続けて三十五年、それは自分の塩の塩梅を決める長い学習と訓練の期間ではなかったか。『パパッと塩を振れば、たちまちいつもの味』。あこがれたなあ。」
グロテスクにデフォルメされていく――『青べか物語』(2)
たとえば石灰工場はこんなふうだ。
「かれらの姿を初めて見た者は、おそらく一種のぶきみさにおそわれるだろう。かれらは男も女も裸で、細い下帯のほかにはなにも身につけていない。また、頭はみなまる坊主に剃り、眉毛もないし、腋やその他の躰毛もすべて剃りおとしているといわれる。それは石灰粉が毛根に付くと、毛が固まるからだそうで、胸とか腰部を見なければ、男女の差は殆どわからなかった。」
事実はこうであったとしても、それを文章に書き起こせば、グロテスクな味わいがすこしずつ沁み出してくる。
「ごったくや」と称する小料理屋には、白粉臭い女たちが男をカモにすべく待ち構えており、いっしょに飲み食いされて、みぐるみ剝がれてしまう。
けれども「私」が浦粕町に住み着き、女たちと親しく口をきくようになると、「ごったくやの女と呼ばれる彼女たちが、みな神の如く無知であり単純であり、絶えず誰かに騙されて苦労していながら、その苦労からぬけだすとすぐにまた騙されるという、朴訥そのもののような女性たちであることがわかった。」
貪欲で悪辣な女は、また底抜けにバカでかわいい女でもあるのだ。
それなら子供はどうか。
「少年たちに狡猾と貪慾な気持を起こさせたのは私の責任である。初めに私は『その鮒をくれ』と云えばよかったのだ。売ってくれと云ったために、かれらは狡猾と貪慾にとりつかれた。」
子供は子供で、ちょっと油断するとどこまでもつけ上がるのだ。
『青べか物語』は、30数編のスケッチ風の短編集である。そして強弱の差はあれど、ほとんど全部が、どこかグロテスクにデフォルメされている。小説家特有の才能がもしあるとすれば、そしてそれが、滲み出す「天性」の才能というものであるとすれば、グロテスクにデフォルメを効かせてしまう『青べか物語』こそは、その典型的な一例だと言えよう。
最後にもう一つ、「朝日屋騒動」を挙げておこう。
朝日屋の勘六とあさ子の夫婦者は、博奕が好きである。あさ子は「亭主の負けがこんでくると、片膝立ちになって赤いものをちらちらさせるという、特技を演ずることも辞さなかった。・・・・・・片膝立ちになって赤いものがちらちらするとき、同時に、さがっているなすびが見え隠れしたのでは、――なすびがいかなる物であるか不明にしても、なんとなく『気分を害する』という気持がわかるようにおもえるではないか。」
女の陰部に、さがっているなすび・・・・・・、グロテスクも極まれりである。
山本周五郎は、文芸の栄誉を一切受賞しなかったという。作家は読者がすべて。しかし、それは本当だろうか。もう一つ、すべての受賞を拒否する理由がなかったろうか。自分の道は、誰も歩いたことのない道、そういう自負があるような気がしてならない。
(『青べか物語』山本周五郎、新潮文庫、昭和39年8月10日初刷、昭和60年5月20日第37刷)
「かれらの姿を初めて見た者は、おそらく一種のぶきみさにおそわれるだろう。かれらは男も女も裸で、細い下帯のほかにはなにも身につけていない。また、頭はみなまる坊主に剃り、眉毛もないし、腋やその他の躰毛もすべて剃りおとしているといわれる。それは石灰粉が毛根に付くと、毛が固まるからだそうで、胸とか腰部を見なければ、男女の差は殆どわからなかった。」
事実はこうであったとしても、それを文章に書き起こせば、グロテスクな味わいがすこしずつ沁み出してくる。
「ごったくや」と称する小料理屋には、白粉臭い女たちが男をカモにすべく待ち構えており、いっしょに飲み食いされて、みぐるみ剝がれてしまう。
けれども「私」が浦粕町に住み着き、女たちと親しく口をきくようになると、「ごったくやの女と呼ばれる彼女たちが、みな神の如く無知であり単純であり、絶えず誰かに騙されて苦労していながら、その苦労からぬけだすとすぐにまた騙されるという、朴訥そのもののような女性たちであることがわかった。」
貪欲で悪辣な女は、また底抜けにバカでかわいい女でもあるのだ。
それなら子供はどうか。
「少年たちに狡猾と貪慾な気持を起こさせたのは私の責任である。初めに私は『その鮒をくれ』と云えばよかったのだ。売ってくれと云ったために、かれらは狡猾と貪慾にとりつかれた。」
子供は子供で、ちょっと油断するとどこまでもつけ上がるのだ。
『青べか物語』は、30数編のスケッチ風の短編集である。そして強弱の差はあれど、ほとんど全部が、どこかグロテスクにデフォルメされている。小説家特有の才能がもしあるとすれば、そしてそれが、滲み出す「天性」の才能というものであるとすれば、グロテスクにデフォルメを効かせてしまう『青べか物語』こそは、その典型的な一例だと言えよう。
最後にもう一つ、「朝日屋騒動」を挙げておこう。
朝日屋の勘六とあさ子の夫婦者は、博奕が好きである。あさ子は「亭主の負けがこんでくると、片膝立ちになって赤いものをちらちらさせるという、特技を演ずることも辞さなかった。・・・・・・片膝立ちになって赤いものがちらちらするとき、同時に、さがっているなすびが見え隠れしたのでは、――なすびがいかなる物であるか不明にしても、なんとなく『気分を害する』という気持がわかるようにおもえるではないか。」
女の陰部に、さがっているなすび・・・・・・、グロテスクも極まれりである。
山本周五郎は、文芸の栄誉を一切受賞しなかったという。作家は読者がすべて。しかし、それは本当だろうか。もう一つ、すべての受賞を拒否する理由がなかったろうか。自分の道は、誰も歩いたことのない道、そういう自負があるような気がしてならない。
(『青べか物語』山本周五郎、新潮文庫、昭和39年8月10日初刷、昭和60年5月20日第37刷)
グロテスクにデフォルメされていく――『青べか物語』(1)
斎藤美奈子『名作うしろ読み』で興味をもち、山本周五郎『さぶ』を読んだ。これは真実を真正面から追求しているのに、それを持たせる筋立てはあまりにも通俗的な、奇妙なものだった。そう言うのって、どういうふうに考えればいいんだろう。
はたして山本周五郎とはいったい何者か、というふうに興味が増す。
そこで次に『青べか物語』を読んでみる。これは千葉の浦安を舞台にした物語である。ただし浦安は浦粕に変えられている。また利根川は根戸川になっている。
物語の「はじめに」では、根戸川下流の漁師町、裏粕町の輪郭がデッサンされている。語り手は「私」だが、これは作者とぴったり重なるわけではない。
浦粕町の人々も、架空の場所らしく、その生活はデフォルメされている。
それが最初に、強烈に分かるのは、「〈七〉繁あね」である。
繁あねは年の頃は12,3、町中でいちばん汚ない少女だと言われている。赤ん坊の妹ともども親に捨てられ、墓場に供えられた飯を食う、風呂に入ったことのない、出来物だらけの餓鬼だ。
その繁あねと向かい合って、「私」は信じられないものを見る。
「お繁は肩をすくめ、それからそこへしゃがんだ。すると垢じみた継ぎだらけの裾が割れて、白い内股が臀のほうまであらわに見え、私はうろたえて眼をそらした。私は信じがたいほど美しいものを見たのだ。」
12,3歳の、化け物と見まごうばかりの女の子が、そのヴェールを一瞬、剝いでみせる。
「彼女はいつも垢だらけで、近くへ寄るとひどく臭かった。それにもかかわらず、彼女の躰の一部は信じられないほど美しかったのだ。両の内股は少女期をぬけようとするふくらみをみせていた。両股のなめらかな肌が合って、臀部へと続く小さな谷間は、極めて新鮮に色づいていたし、膝がしらから踵へとながれる脛の内側も、すんなりと白くまるみをもっていた。それは、成長しつつあるものだけがもつ神聖な美しさ、と云うべきもので、たとえどのようにあからさまになつたとしても、決してみだらな感じは与えなかったであろう。ほんの一瞬間ではあったが、私はその美しさに深く感動した。」
これはもちろん写実ではない。
繁あねと赤ん坊と、亭主の源太を捨てた母親の容貌も、尋常ではない。
「源太の妻というのは枯木のように痩せてい、女には珍しく頭が禿げて、口は消防組長のわに久のように大きく、眼のふちは赤く爛れて、歯も半分は欠けたり抜けたりしていた。」
その30を超えたばかりの醜女が、25,6の男とできて、出奔した。
全体が、ありえない話にデフォルメされている。
はたして山本周五郎とはいったい何者か、というふうに興味が増す。
そこで次に『青べか物語』を読んでみる。これは千葉の浦安を舞台にした物語である。ただし浦安は浦粕に変えられている。また利根川は根戸川になっている。
物語の「はじめに」では、根戸川下流の漁師町、裏粕町の輪郭がデッサンされている。語り手は「私」だが、これは作者とぴったり重なるわけではない。
浦粕町の人々も、架空の場所らしく、その生活はデフォルメされている。
それが最初に、強烈に分かるのは、「〈七〉繁あね」である。
繁あねは年の頃は12,3、町中でいちばん汚ない少女だと言われている。赤ん坊の妹ともども親に捨てられ、墓場に供えられた飯を食う、風呂に入ったことのない、出来物だらけの餓鬼だ。
その繁あねと向かい合って、「私」は信じられないものを見る。
「お繁は肩をすくめ、それからそこへしゃがんだ。すると垢じみた継ぎだらけの裾が割れて、白い内股が臀のほうまであらわに見え、私はうろたえて眼をそらした。私は信じがたいほど美しいものを見たのだ。」
12,3歳の、化け物と見まごうばかりの女の子が、そのヴェールを一瞬、剝いでみせる。
「彼女はいつも垢だらけで、近くへ寄るとひどく臭かった。それにもかかわらず、彼女の躰の一部は信じられないほど美しかったのだ。両の内股は少女期をぬけようとするふくらみをみせていた。両股のなめらかな肌が合って、臀部へと続く小さな谷間は、極めて新鮮に色づいていたし、膝がしらから踵へとながれる脛の内側も、すんなりと白くまるみをもっていた。それは、成長しつつあるものだけがもつ神聖な美しさ、と云うべきもので、たとえどのようにあからさまになつたとしても、決してみだらな感じは与えなかったであろう。ほんの一瞬間ではあったが、私はその美しさに深く感動した。」
これはもちろん写実ではない。
繁あねと赤ん坊と、亭主の源太を捨てた母親の容貌も、尋常ではない。
「源太の妻というのは枯木のように痩せてい、女には珍しく頭が禿げて、口は消防組長のわに久のように大きく、眼のふちは赤く爛れて、歯も半分は欠けたり抜けたりしていた。」
その30を超えたばかりの醜女が、25,6の男とできて、出奔した。
全体が、ありえない話にデフォルメされている。
続・養老孟司先生のこと――『日本人の身体観の歴史』(3)
しかしここで、みなさんは疑問を感じないだろうか。いくら養老さんとはいえ、日本仏教の最新の動向まで追うのは無理に決まっている。そのとき編集者のお前がサポート役として、横についているのではないのか。
うーん、じつはこのころ、日本仏教には通り一遍の興味しかなかったのだ。『季刊仏教』という雑誌をやっていながら、しかもこのころFさんは法蔵館をやめて、私は編集長だったというのに。
私が、真の意味で日本仏教に関心を持ちはじめたのは、トランスビューをやり、末木文美士先生の『近代日本の思想・再考』Ⅰ・Ⅱを作ったときからなのだ。
それはともかく、養老さんはこの本の初めに、「道のりはまだ遠い。ご辛抱いただければ幸いである」と書き、見方によっては、やる気満々ではじめた仕事であった。
「社会的にも身体は放置してよい問題ではない。体操の先生か、医者に任せておく。もはやそういう話ではないのである。」
そういうことだ。
しかしやってみると、なかなか大変である。
「やっかいな本を書いてしまったというのが、個人的な印象である。その主題に簡単明瞭な答えがないからである。身体論は結局は人間論に行き着く。おそらくそれが、そんなものがあるとすればの話だが、日本型の学問なのであろう。」
『日本人の身体観の歴史』は1996年に出ている。養老さんはその前年、95年に東大を辞められた。僕は4年後に法蔵館を辞めて、2001年にトランスビューを作った。その第1弾は『オウム―なぜ宗教はテロリズムを生んだのか―』(島田裕巳)と山中和子『昭和二十一年八月の絵日記』だが、その『絵日記』の「解説」は、養老先生にお願いした。
(『日本人の身体観の歴史』養老孟司、法蔵館、1996年8月25日初刷、1997年3月10日第6刷)
うーん、じつはこのころ、日本仏教には通り一遍の興味しかなかったのだ。『季刊仏教』という雑誌をやっていながら、しかもこのころFさんは法蔵館をやめて、私は編集長だったというのに。
私が、真の意味で日本仏教に関心を持ちはじめたのは、トランスビューをやり、末木文美士先生の『近代日本の思想・再考』Ⅰ・Ⅱを作ったときからなのだ。
それはともかく、養老さんはこの本の初めに、「道のりはまだ遠い。ご辛抱いただければ幸いである」と書き、見方によっては、やる気満々ではじめた仕事であった。
「社会的にも身体は放置してよい問題ではない。体操の先生か、医者に任せておく。もはやそういう話ではないのである。」
そういうことだ。
しかしやってみると、なかなか大変である。
「やっかいな本を書いてしまったというのが、個人的な印象である。その主題に簡単明瞭な答えがないからである。身体論は結局は人間論に行き着く。おそらくそれが、そんなものがあるとすればの話だが、日本型の学問なのであろう。」
『日本人の身体観の歴史』は1996年に出ている。養老さんはその前年、95年に東大を辞められた。僕は4年後に法蔵館を辞めて、2001年にトランスビューを作った。その第1弾は『オウム―なぜ宗教はテロリズムを生んだのか―』(島田裕巳)と山中和子『昭和二十一年八月の絵日記』だが、その『絵日記』の「解説」は、養老先生にお願いした。
(『日本人の身体観の歴史』養老孟司、法蔵館、1996年8月25日初刷、1997年3月10日第6刷)
続・養老孟司先生のこと――『日本人の身体観の歴史』(2)
『日本人の身体観の歴史』は、その途中に、一度読めば忘れられない、印象的な一文がいくつもある。
「心臓からは循環が、肺からは呼吸が『分析すれば出てくる』と思っている人が、脳からは『心』が出てこない、おかしいと言うのは、当人の脳の問題と言うしかなかろう。」
これは、心は脳の「機能」であるという話。
近世の身体観のところでは、
「『いつでも普請中』という漱石の表現は、直接には、明治維新による西欧化の慌ただしさを指すと解されている。しかし、現代でもこれがしばしば思い起こされるのは、事実いつでも普請中だというだけではなく、その背後に人工空間への意思が存在するからである。」
あるいはまた「荻生徂徠の自然と人為」のところでは、
「私の問題は、徂徠における自然と人為の区別は、いったい前提か結論か、ということである。・・・・・・
徂徠のこの区分を、私はむろん前提だと考えている。つまり、徂徠はさまざまな考えの帰結として、この結論を導いたのではない。この区分は、かれにはじめからあったに違いないと考えるのである。」
これは徂徠における自然と人為の前提の問題だが、そもそもこういう問題の立て方をした人はいないのではないか。
しかしこれが、鎌倉時代まで遡れば、けっこう危ない。
「運慶、湛慶による仏像が、この国では後にほとんど見られない身体の実像を、この時代にあらわにすることも、ただの偶然ではあるまい。こうした『目』の確かさ、したたかさを見ると、この時代には、抽象思考である仏教と、実証・経験主義は、おそらくまだほとんど分離していない。それだからこそ、この時代に生じた仏教が、常に『生きたもの』として、その後の時代を通じて生き残るのであろう。」
この最後の一文が、危ない。親鸞、日蓮、道元らに代表される鎌倉時代の仏教が、なぜ今日まで生き残ったか。
しかしじつは、鎌倉仏教はずっと生き残ってきたのではない。明治になって、西洋からキリスト教が押し寄せ、そこで止むを得ず「鎌倉仏教」を押し立てて頑張ったのだ。なぜ鎌倉時代に、あれだけ宗教的天才が生まれたか、ではなくて、明治時代に、鎌倉には宗教的天才たちがいた、そういうことにしておいたのだ。
しかしもちろん、文章を少し変えて、「それだからこそ、この時代に生じた仏教が、明治になってふたたび蘇り、生き残るのであろう」とすれば、ここでは問題ない。問題ないというのはつまり、抽象思考である仏教と、実証・経験主義はほとんど分離していない、という説を、ここで始めて検討することができるという意味である。
「心臓からは循環が、肺からは呼吸が『分析すれば出てくる』と思っている人が、脳からは『心』が出てこない、おかしいと言うのは、当人の脳の問題と言うしかなかろう。」
これは、心は脳の「機能」であるという話。
近世の身体観のところでは、
「『いつでも普請中』という漱石の表現は、直接には、明治維新による西欧化の慌ただしさを指すと解されている。しかし、現代でもこれがしばしば思い起こされるのは、事実いつでも普請中だというだけではなく、その背後に人工空間への意思が存在するからである。」
あるいはまた「荻生徂徠の自然と人為」のところでは、
「私の問題は、徂徠における自然と人為の区別は、いったい前提か結論か、ということである。・・・・・・
徂徠のこの区分を、私はむろん前提だと考えている。つまり、徂徠はさまざまな考えの帰結として、この結論を導いたのではない。この区分は、かれにはじめからあったに違いないと考えるのである。」
これは徂徠における自然と人為の前提の問題だが、そもそもこういう問題の立て方をした人はいないのではないか。
しかしこれが、鎌倉時代まで遡れば、けっこう危ない。
「運慶、湛慶による仏像が、この国では後にほとんど見られない身体の実像を、この時代にあらわにすることも、ただの偶然ではあるまい。こうした『目』の確かさ、したたかさを見ると、この時代には、抽象思考である仏教と、実証・経験主義は、おそらくまだほとんど分離していない。それだからこそ、この時代に生じた仏教が、常に『生きたもの』として、その後の時代を通じて生き残るのであろう。」
この最後の一文が、危ない。親鸞、日蓮、道元らに代表される鎌倉時代の仏教が、なぜ今日まで生き残ったか。
しかしじつは、鎌倉仏教はずっと生き残ってきたのではない。明治になって、西洋からキリスト教が押し寄せ、そこで止むを得ず「鎌倉仏教」を押し立てて頑張ったのだ。なぜ鎌倉時代に、あれだけ宗教的天才が生まれたか、ではなくて、明治時代に、鎌倉には宗教的天才たちがいた、そういうことにしておいたのだ。
しかしもちろん、文章を少し変えて、「それだからこそ、この時代に生じた仏教が、明治になってふたたび蘇り、生き残るのであろう」とすれば、ここでは問題ない。問題ないというのはつまり、抽象思考である仏教と、実証・経験主義はほとんど分離していない、という説を、ここで始めて検討することができるという意味である。