養老孟司先生のこと――『カミとヒトの解剖学』(2)

読んでいて思わず唸るのは、例えばこんなところ。

「誰かが恋をしている。理想の恋人を見つけたつもりになっている。周囲の人間は笑っているが、本人は全然笑うつもりなどない。本人が笑うなら、幸福だから本気で笑っているのである。繰り返すが、人間というのはそういうものである。恋ならそれぞれ覚えがあるから、一同が笑う。しかし、どこかに本当の笑えぬ恋があるかもしれない。」

そうして結びの一文がくる。
「宗教体験も同じである。」
 
「『鰯の頭』と合理性」の章では、自分の受けてきたカトリック教育について、こんなことを言う。

「教育されているときには、文句ばかり言っていた。しかし、いまになるとそれが役に立っていることがわかる。人とはなにか、生きるとはなにかを、考えるに値すると考えてしまうのである。
 なにを教えようが、なにを学ぶかは、生徒次第だという逃げ道はあろう。それでも、教育として何かが『あった』と『なかった』は雲泥の差である。」

宗教教育をいう人は、まずこの点をしっかり踏まえてほしい。
「内容はともかく、そこには、ある形式があった。錯綜した人生の中で、形式を用意してあるということは、大切なことではないか。」
その形式が用意されていることに、気づかない人が多すぎるのである。

このころの養老先生はまだ東大におられて、それが、いってみれば抑圧のバネとして働き、緊張を十分に湛えた文体となって表れていた(だからと言って、東大を辞められてからはダメと言うことでは全然ない。円熟の筆は筆でもちろん素晴らしい)。

東大におられたときの緊張を湛えた文章、それは、たとえば「空間の旅・時間の旅」の最後のところに現われる。
「時間と空間の意義は、まだ十分に理解されていない。しかし、それが脳が外界を理解する形式だとする、カント的な立場は、間違っていないであろう。ただ、それが脳にあるなら、ア・プリオリではなく、末梢から具体的に理解され、構築されなくてはならないはずなのである。」

そうして最後を受けて、
「日本の古典を、『文化』からではなく、『普遍』の立場から読む。そうした読み方は、きわめて不十分だという気がする。わが国の古典が世界性を持たないのは、それをそう『読まない』からではないのか。『方丈記』にこだわったのは、いまの読み方だけでいいか、という疑問があるからである。これも今後の課題であろう。」