雨の昼下がり――『勁草』(1)

雨の昼下がり、何年ぶりかでNやんが顔を見せた。事前に何の連絡もよこさなかったので、本当に驚いた。
「三年ぶりやな。半身不随やから、もうあかんかと思たで。案外元気そうやないか。」
憎まれ口は相変わらずだ。そうやって元気づけるのも。

「こっちで用事があったんか。」
「何を言うてんの。おまえの見舞いで、飛んできたんやないか。」
「へっ、病院を退院したんは去年の6月やけどな。」
「いろいろ用事があって、それを一つずつ片付けてたら、ちょうど一年たってもたんや。」

「このごろ、おもろい本はあるんか。」
「黒川博行の『勁草』、読んだか。」
「いや、読んでない。病気する前に『破門』と『後妻業』は読んだけど、どっちもまあまあやと思たなあ。」

Nやんが煙草をくわえて、
「『破門』は、ヤクザの桑原と、建設コンサルタントの二宮の話やな。相変わらずといいたいとこやが、今回は話のハジケ具合がもひとつやった。それから『後妻業』は、あれは亭主を次から次へ殺してまうのが実際に出てきて、現実の方が強烈やった。」
「そう言えば、60過ぎの婆さんが、何人も殺したいうのが出てたな。顔も覚えてるわ。」

「『勁草』いうのは、お前が退院してすぐに本屋に並んだけど、知らんか。」
「本屋もなにも、そのころは杖ついて半径50メートルや。」
「アマゾンで買わんかいや」
「アマゾンもなにも、出てることを知らんがな。東京新聞は、一般書籍の広告が出えへんのや。」
「なんとまあ、出版社も落ち目になったもんやねえ。」

「そんなことはどうでもええとして、そんで『勁草』いうのは面白いんかい。」
「よう聞いてくれた。」
と、Nやんは深々と煙を吐いた。

ちょっと凄味――『文芸誤報』

杖でえっちらおっちら、なんとか上北沢の図書館まで行った。何にも借りてこないのも癪な気がして、また斎藤美奈子を借りてきた。見開きで新刊一本のコラム。朝日新聞に連載されていた頃は「文芸予報」だったが、まとめるにあたって『文芸誤報』としたという。でもこれは謙遜で、なかなか鋭いところもある。半分ぐらいはたわいないようなものだけど、しかし例えば、西加奈子を評してこういうところは、ちょっと凄味がある。

「よしもとばなな風、山田詠美風、川上弘美風。どんな風にでも書けてしまうだろう彼女に欠点があるとすれば、この器用さだろう。魅力的な小説には、往々にして意味不明な歪みが潜んでいる。これで読者を裏切る覚悟ができたら鬼に金棒のはずである。本屋大賞や「王様のブランチ」のもっと先を目指していただきたい。」

しかしまあ、なんだかんだ言っても、斎藤美奈子は次のようなところが愛嬌ですね。
『使ってみたい武士の日本語』を評して、
「こうやって侍言葉を使っていると、性格まで変わりそうでござるな。」
いやまったくそうでござるな。

ここでもまた、読んでおきたい本があった。中島京子の『FUTON』と『イトウの恋』、それに石井桃子『ノンちゃん雲に乗る』である。『ノンちゃん雲に乗る』は今でも新刊で出ているが、僕のまわりでは何人くらい読んでいるのだろう。

(『文芸誤報』朝日新聞出版、2008年11月30日初刷) 
posted by 中嶋 廣 at 17:47Comment(0)日記

人は錯綜するから面白い――『嫌いなことから、人は学ぶ――養老孟司の大言論 Ⅱ』

養老さんは『嫌いなことから、人は学ぶ』で、今枝さんのことをこんなふうに書いている。

「バンコクの空港ホテルで、同行する今枝由朗氏にはじめてお目にかかった。ブータンのテレビ取材は当時でもむずかしく、ブータンに長く在住され、ゾンカ語を駆使する今枝さんの尽力がないと、どうにもならないのである。」

なるほど。そしてこういう節が続く。

「NHKによる世界で最初のブータンのテレビ取材については、後藤多聞氏の『遥かなるブータン』(ちくま文庫)がある。ここにも今枝さんが登場する。1980年代初めまではまだ空港もなく、インドから車でブータンに入った。当時の苦労話を読むと、わずか三十年足らずであるのに、隔世の感がある。明治維新の頃の日本を思えばいい。」そういうわけで、養老さんと今枝さんは仲がいい。

しかし、この同じ本に『中国の大盗賊』のことが取り上げられていて、これは「うーむ」と唸った。

「高島俊男著『中国の大盗賊』(講談社現代新書)という本がある。・・・・・・最近(2004年)この本の新版が出た。前の版よりずいぶん厚くなったから、また買い求めた。そうしたら、前版にはなかった部分が付け加わっていた。・・・・・・
 中国は昔から盗賊の国である。・・・・・・今度新たに付け加わった部分とは、毛沢東に関する部分である。もうおわかりであろう。毛沢東だって同じだと、著者は書いた。その部分が前版では削られていたのである。
 ・・・・・・しかし、そういう部分を削る、そのどこが根本的に日中友好か。日中がなぜ不信の構造に陥るか、わかるような気がする。」

この講談社現代新書の担当者は鷲尾賢也さんで、なぜそんなことが分かるかというと、僕が鷲尾さんから、その顚末を記した原稿を頂いたからだ。夏の暑い日、相生の高島俊男宅まで行って、クーラーのない部屋で、原稿が張り付くのもかまわず、必死で交渉する。四百字で250枚ぐらいと言ったのに、優に400枚を超えている。そういうことが、『編集とはどのような仕事なのか――企画発想から人間交際まで』に書かれている。

そして例のところ。
「毛沢東は大盗賊であるという最終章をまず削ろうとお願いするが、なかなかウンといわない。枚数のこともあるが、まだ毛沢東も健在であった。日中友好協会との関係もある。その点でもまずい。しかし、なんとか了承していただいた。他の箇所もずいぶん削った。刊行後、評判がよくかなり版を重ねたので胸をなでおろした。」

鷲尾賢也さんは講談社の重役を務められたのち、評論家として、また出版界の大立者として活躍されたが、3年前、70を前に急逝された。僕がただ一人、出版界における恩人を選ぶなら、この人だ。だから『編集とはどのような仕事なのか』は、「新版」まで作った。

養老孟司と鷲尾賢也、どちらも本当にお世話になった。『中国の大盗賊』の新旧版を前にして、お二人と丁々発止、やりあってみたかったと思う。

(『嫌いなことから、人は学ぶ――養老孟司の大言論 Ⅱ』
 新潮社、2011年3月25日初刷、4月20日2刷)

朗読の時間――『ブータン――変貌するヒマラヤの仏教王国』

読書の時間とは別に、毎日1時間、朗読の時間をとっている。退院したときから始め、今年の5月でほぼ1年になる。これは初め、テキストの全然意味が読み取れなかった。初めは集中しているが、10分もすると、音は口から出るが、意味は分からなくなる。1時間のうち大半は、頭と口の回路が切れているのである。

それのつながる時間が15分になり、20分になり、30分、40分となった。このごろでは何とかほぼ1時間、頭と口が途切れることなく、繋がるようになってきた。これは、そういう記念すべき機会に読んだものである。ちなみに朗読用は、15日から20日くらいで1冊を読み終える。

『ブータン――変貌するヒマラヤの仏教王国』は初版が1994年で、私の持っているのは改訂第3刷、2000年のものである。そこにこんな一節がある。

「首都ティンプにもまだ交通信号がなく、二個所の交差点で警官が手信号で交通整理を行っているだけである。(この項は、1993年8月にティンプで書いたものであるが、1994年3月26日付の『クェンセル(Kuensel)』紙に「ティンプに交通信号設置」という記事が載った。それによれば、設置工事はすでに始まっており、3週間ほどで完了し、首都ティンプの主要交差点は、信号による交通整理になる予定である。決して分かりやすくはなかったが、警察官の肌の暖かみが伝わってくるような、人情味のある手信号は、この本が刷り上がるころには、もう昔の語り草になっているのであろうか。)・・・・・・」

ブータンは1994年まで信号機がついていなかった。それを今、2016年に読むのは、まさに玉手箱の感がある。ということが、朗読してて、音が聞こえてきて分かるのだ。まあべつに、だからどうということもないのだけれど。

『ブータン――変貌するヒマラヤの仏教王国』は、著者は今枝由朗先生である。先生は大学のとき、チベット古典学を学びに、1年の予定でフランス国立科学研究センター(CNRS)に留学し、定年まで(!)そこで研究員をされていた方だ。しかも、フランス国立科学研究センターにいる間、ブータンに1カ月の予定で出張され、その出張は10年に及んだ。

僕は、今枝先生の本は、後藤多聞氏の紹介で『囚われのチベットの少女』(フィリップ・ブルサール、ダニエル・ラン)を皮切りに、『幸福と平和への助言』(ダライラマ)、『ダライ・ラマ六世 恋愛彷徨詩集』(ダライ・ラマ六世ツァンヤン・ギャムツォ)と、2人のダライラマの本を作り、さらに宗教学では『仏教と西洋の出会い』(フレデリック・ルノワール、富樫瓔子と共訳)、『人類の宗教の歴史――9大潮流の誕生・本質・将来』(フレデリック・ルノワール)を作った。

しかしなかでも、『日常語訳ダンマパダ――ブッダの〈真理の言葉〉』と『日常語訳 新編スッタニパータ――ブッダの〈智恵の言葉〉』は、今枝先生の翻訳の傑作として、今後も名を残すだろう。

とにかくブータンという国が鎖国を解いて、今のようであるのは、今枝先生の力によるところが大きい。だからたとえば、養老孟司先生が今枝先生に連絡をして、ブータンに昆虫を採りに行くことも可能になるわけである。

(『ブータン――変貌するヒマラヤの仏教王国』
 大東出版社、1994年11月25日初刷、改訂第三刷2000年5月1日)   

補遺から先に――『小説家の四季』

久しぶりにkeiちゃんから、メールが来た。そのメールの最後に、本文とは別に面白いことが書かれていた。
「今日夕飯のあとNHKのニュースで、女性アナウンサーがニュースを読んでいるとき、『・・・・・・熱中症の疑いで、逮捕されました』と言ってすぐに『搬送されました』と言い直したのですが、個人的に笑いのツボに入ってしまいました。」

それで思い出したのは、佐藤正午の『小説家の四季』である。途中にこんな一節がある。
「・・・・・・テレビは地元の情報番組を流していて、リポーターの女の子が中継先で、『わあ牡蠣の佃煮? 珍しいですよね? 牡蠣の佃煮って、あたしは召し上がったことないですよ』とはきはき喋る声が聞こえてきたりする・・・・・・」

佐藤正午の『小説家の四季』は、本当に年四回の連載で、しかも短い。だいたい『小説家の四季』と題して、本当に年四回(!)というのは、正気の沙汰ではない。これはもう連載のまとまる時期は来ないな、と思いながら読んでいたので、ほかのものも掻き集めて本にまとまった時には、非常に嬉しかった。

そこで「WEBRONZAの『神保町の匠』で書評をします」、と勢い込んで世話人のKさんに報告したのはいいが、その書評が、締め切りが迫ってくるのに、うまく書けない。書けないままに、でも「牡蠣の佃煮って、あたしは召し上がったことないですよ」という言い回しは、面白いと思う。WEBRONZAは朝日新聞がやっているから、もうちょっと格調が高くて、「牡蠣の佃煮って、あたしは召し上がったことないですよ」は、面白いけれど没になると思う。だからここに上げておく。

ちなみに、keiちゃんのメールの結びはこうだ。
「これから暑くなりますが、逮捕されないようにご注意ください」。

(『小説家の四季』岩波書店、2016年2月23日初刷)

若松英輔さんのこと――『イエス伝』について(4)

ここまで、若松英輔さんとのことを辿ってくると、いつの間にか自分は編集者の位置にいて、読者のハガキや新聞・雑誌の書評欄を、その位置で見ていくことになる。すると、日経新聞の加賀乙彦さんの書評も、読売新聞の月本昭男さんの書評も、みんな許せることになってしまう。いや、許せるどころか、そういうのもあって有り難いことになる。

これは本当に不思議だ。編集者をしている頃は、どんな書評、紹介記事もありがたかった。まあ時には、憤懣やるかたないのもあるし、あちゃーというのもあるにはあるが、それらも含めてみんな有り難かった。

逆に言うと、どんな書評も、自分で的を射ていると思えるものはなかった。みんなどこか外れている。読者カードだって、若松さんの、例えば『魂にふれる』や『池田晶子 不滅の哲学』のときは、ずいぶん来たはずだが、僕の心にぴったり来るものはなかった。いや、あの池田さんの『14歳からの哲学』にしてからだって、読者カードは何万枚、帰ってきたかしれないが、僕が的を射ていると思えるものは、なかったんじゃないか。

つまり少しずつズレつつ、どこまでも広がって行くというのが、編集者だった僕にとっては、理想の作品の姿だったんじゃないか。

でも、それはもう、追い求めてもだめだ。だから僕は、たぶん違うところに立って、そして、それはどういうところか、まだわからないけれど、そこから作品を見ていくことにしよう。

(『イエス伝』若松英輔、中央公論新社、2015年12月10日初刷)
*日経新聞と読売新聞の書評は「読むと書く 若松英輔公式ホームページ」の「書評」で見られる。

若松英輔さんのこと――『イエス伝』について(3)

自分の『イエス伝』の書評は、WEBRONZAの「神保町の匠」(2月4日)に出た。それをそのまま引く。

「魂の目で読め」  
若松英輔は10代の末に批評家・越知保夫の書くものに出会った。越知保夫は、小林秀雄や能をめぐる古典論を書きながら、ついに1冊の著書も残さず亡くなった人である。

越知はカトリックのキリスト者だったが、若い頃ほとんどキリスト教を棄てるつもりで、左翼の活動に身を投じたことがある。民衆の悲しみの中に、イエスが生きているような気がしたからである。病のために潰えたが、イエスの生涯を書くことは越知の悲願であっただろう。そしてそれは、若松の悲願ともなった。

カトリック司祭の井上洋治は若松の師であり、越知保夫の名も井上から教えられた。井上洋治もまた、イエスの生涯を書きあげることを究極の目標としていた。井上は遠藤周作の親友であり、遠藤にも『イエスの生涯』というイエス伝がある。

というようなことを、いくら遠巻きにして述べてもしかたがない。若松は、聖書を読むのに字面を追うな、魂の中にだけ顕われる「コトバ」を読め、というのだから。

第一章の終わりに、若松とキリスト教の関係にふれたところがある。生まれて40日後に、若松は小さなカトリック教会で洗礼を受けた。真剣に神学校に入ろうかと思ったこともあったが、しかしあるときから自然に「教会」から遠ざかるようになった。これはそういう人が直接、聖書にぶつかっていく話だ。

一方、私は中学・高校を地方のカトリック男子校で過ごした。6年間、一日の始まりと終わりには主禱文を読み、さらに中学3年から高校2年まで毎週、聖書研究会に参加した。そうしてギリギリのところまでいったあげく、カトリックの洗礼は受けなかった。これは『イエス伝』を、そういう者が読んだ記録であり、だからこそ、例えばこういう言葉に惹かれるのだ。

「私のイエスは、『教会』には留まらない。むしろ、そこに行くことをためらう人のそばに寄り添っている」

たしかにカトリックは教会で聖書を読み、イエスの生涯を詳細に論じるだろう。しかし彼らの論じるキリスト教には、「キリスト」はいないのではないか。奇跡をたんに現代的に解釈し、意味づけをしてみたところで、イエスの姿は顕われない、「聖書は近代の合理主義に基づいて書かれてはいない」と若松は言う。

井筒俊彦は、『コーラン』には、「事実的位相」、「物語/伝説的位相」、「イマジナル/異界的位相」の三層があるという。これは聖書も同じことだ。しかしカトリックは容易に、その「イマジナル/異界的な層」を認めることができない。若松は、その第三層こそが、立場を超え衝動を著しく刺激するという。そしてたとえば、教会は異邦人を忌避するが、福音書の描くイエスは異邦人を呼び寄せ、またその中に入っていく。若松は、ついにはこんなことも言うのだ。

「イエスを論じることは、宗派としてのキリスト教ばかりか、『宗教』それ自体を逸脱、解体することを志向する」

そう思って見てみれば、たとえばニーチェは、聖書を読んでも「キリスト」には出会えなくなってしまったと述べる。またジョルジュ・ベルナノスは『月下の大墓地』を書き、ファシズムと手を結んだ教皇庁に実質的に「破門」される。『聖なるもの』を書いたオットーは、キリスト教は「ヌミノーゼ」(戦慄すべき神秘)への道筋を閉じていると言った。

日本でも、内村鑑三のような人がいる。彼にとって教会とは、建物でもなければ組織でもない。それは「罪人」の群れだった。彼は自らを「罪人の首(かしら)」、つまり最も罪深き者とよんだのだ。あるいはフランス・ルネサンス研究の第一人者・渡辺一夫は、新教と旧教が文字通り血で血を洗う争いを繰り広げているとき、「それはキリストと何の関係があるのか」と問うた(これは、時代を覆う観念体系が狂気に近づいた、第二次大戦末期の日本ファシズム批判を含んでいる)。同時代の人では、田川建三はキリスト教の視座からでは、イエスの本当の姿は見えてこない、と考えている。

では一切の迷い事を振り捨て、心静かに聖書を紐解けば、誰でも自然にその世界に入っていけるのだろうか。実はそうではない。それどころか、じつは血の滲む努力が必要となる。

若い頃にハンセン病を発症し、長島愛生園で一生を送った近藤宏一という人がいる。もちろんハンセン病で入所した者は、本当の名前を名のらない。近藤宏一も「院内名」である。その近藤が著わした『闇を光に――ハンセン病を生きて』(みすず書房)という本がある。

それを読んで、若松英輔はこんなふうに言う。「近藤は指を失っている。また、視力も奪われていた」。しかし「彼は諦めない。『知覚の残っている唇と、舌先で探り読むことを思いついた』」。近藤のこの言葉に出会って以来、若松は自分が読んだ聖書と、近藤が読んだそれとの差異を感じずにはいられない。「唇と舌で彼が読む聖書には、文字通り、血をもってしか読むことのできないコトバが秘められているのではないだろうか」。

聖書を読む者は、文字を追う目とは別な、もう一つの目を要求されている。それは、読む者の魂だけに顕われる不可視なコトバなのである。
(初出、WebRonza「神保町の匠」)

聖書を読む者は、テキストの文字を追うな、魂の次元に顕われる不可視な言葉を読め。それで、若松さんは、魂の次元に顕われた、その一例を示したのである。

でもここまで書いてきて、僕はちょっとぐらついている。著者と一緒に本を作っていた頃がよみがえってきて、そうすると突然、僕は別の所に連れていかれる。
posted by 中嶋 廣 at 16:41Comment(0)日記

若松英輔さんのこと――『イエス伝』について(2)

『イエス伝』が出た後すぐに、新聞書評が続いた。それで頭に血がのぼり、これは何が何でも自分で書評をせねば、と思ったのである。

その前に、まず日経新聞の加賀乙彦の書評から。
「世にイエス伝は数多いけれども、この著作のように、近代日本の諸文献をていねいに渉猟し、それに世界各国の論者にも目配りした伝記は珍しい。その仕組みは日本人の教養姿勢に合わせた試みであり、イエスへの親しみやすい接近法である」と、まずは無難な滑り出しである。

その後、『コーラン』や井筒俊彦のこと、また法然や親鸞のことなどを述べ、最後に、
「ところで、使徒たちの裏切りと逃亡に重ねた労作が遠藤周作の『沈黙』である。主人公の司祭が踏絵に足をかけたとき、朝が来て鶏が鳴いた。つまりペトロの三度目の離反と響き合う名場面であるのだが、あの場面の裏切りの決行者である司祭はユダそのものではないか。ユダをも愛したイエスの愛の深さこそ讃えられるべきだと著者は言っている。この点は後を引く論争になりそうだ」と後はボカシてある。一読、こんな書評があるか! と思った。

あるいはすぐ後に続いた読売新聞・月本昭男の書評。
「・・・・・・現代の批評家として活躍する著者は、どのようなイエス像を提示して見せてくれるのか。
 イエスの歩みと言葉を伝えるのは新約聖書に収められた4つの福音書である。これをいかに「読む」べきか、と著者は問いかける。・・・・・・詩人リルケや思想家内村鑑三などの経験に照らし合わせながら、著者は福音書を読み解いてゆく。福音書を「読む」ことによって、2000年という時空を架橋する。そして、読者をイエスとの邂逅へといざなう」。なんと、これが結びの場面である。これから書評を始めるというならともかく、結びでこれはなかろう。

若松さんは、心血を注いで文章を編んできた。それはどの著作物でも明らかだ。そして『イエス伝』は、すべての著作の中心に位置するものだ。その中心に位置するものが、何を描いているのか、何を論じているのか。
それをこそ、論じなければいけないんじゃないか。

若松英輔さんのこと――『イエス伝』について(1)

国立に住んでいるころ、週に一、二回は、駅前の増田書店に寄った。そこで二回以上、手に取った本は、何でもいいから買うことにしていた。『小林秀雄――越知保夫全作品』は、そういうふうにして入手した本だ。そうでもなけりゃ、越知保夫という人の書いた「小林秀雄」なんて、とても手が出ない。

『小林秀雄』というあまりに堂々としたタイトルに、つい手が出たのだが、版元が慶應義塾大学出版会ということもあり、ちょっと読んですぐ売り場に返した。そしてぐるっと一巡して、また元に戻った。それからまた越知保夫という人の文章を3ページばかり読んだ。それで決まりだった。2回手に取った本は買う、そういうことだ。

いまでこそ、若松英輔が有名になるにしたがって、越知保夫も知る人ぞ知るというふうになってきたが、このころは全く無名だった。『小林秀雄――越知保夫全作品』を読んで、これはぜひ若松英輔さんに、越知保夫について書いてほしいと思った。

それで手紙を書いたのだが、若松さんは若松さんで、池田晶子さんや末木文美士さんの本を読んでおり、その編集者が僕であることも知っていた。つまり、著者と編集者が、いわば会う時を待ち焦がれていたわけで、こんな例は本当に珍しい。

若松さんには結局、『神秘の夜の旅』、『魂にふれる――大震災と、生きている死者』、『死者との対話』、そして『池田晶子 不滅の哲学』の、4つの書き下ろしをやっていただいた。わずか二、三年の間に、これだけ力のこもった書き下ろしを頂けたのだから、以て瞑すべしである。

しかし若松さんの活躍は、これにとどまらなかった。主なものを挙げるだけでも『内村鑑三をよむ』(岩波書店)、『岡倉天心 「茶の本」を読む』(岩波書店)、『涙のしずくに洗われて咲きいづるもの』(河出書房新社)、『吉満義彦 詩と天使の形而上学』(岩波書店)、『生きる哲学』(文藝春秋)、『霊性の哲学』(角川学芸出版)、『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』(慶應義塾大学出版会)などがある。

そうして、問題の『イエス伝』(中央公論新社)が出た。

実現されなかった企画――『バーディ』

昼間、BSで『バーディ』をやっていた。と言っても、もうその名前も朧げになっていると思う。たしかカンヌ映画祭で、審査員の特別賞か何かをもらったと思う。チャンネルをあわせるまでは、アラン・パーカー監督によることも忘れていた。

これは僕が、最初の出版社にいた頃のこと、まだ30を超えたか超えないかの時で、盛んに企画を出していたころのことだ。『バーディ』も出したと思う。翻訳家のT先生に、私はやらないけど、いい人を紹介しますよ、とかなんとか言われて、調子に乗って出したと思う。部長のSさんは、翻訳物は嫌い、というよりも文学全般を嫌っていたから、たぶん最初から否決になったんだと思う。

『バーディ』は、最初本が出て、そのあと映画になった。僕が企画として出した時には、まだ映画の話はなかったのではないか。こういうものが、企画として通っていたらどうなっていたんだろう。

粗筋はこうだ。
高校の親友、バーディとアルは共にベトナム戦争に従軍する。
それ以前から、鳥に病的な関心を持っていたバーディは、戦争から帰還後、鳥になることを夢見て、精神に異常をきたし、精神病院に入れられる。
負傷したアルは別の病院で治療を受けていたが、バーディの治療のため招集される。
心を閉ざしたバーディに数々の思い出を語り続けるアルの努力も虚しく、一向に反応のないバーディ。
けれどもついに、バーディは心を開く。

こういうものは、たぶんそれほどは売れなかったはずだ。しかし売れないとはいっても、30数年以前は、3000部そこそこは行った。経営者の判断は、だから辞めろというか、平の編集者がコツコツと片隅でやっているなら目を瞑ろう、というか。

目上の人の判断はともかく、僕にとっては、忘れがたい本になったはずだ。