そこで、さっそく山本周五郎『さぶ』を読んでみる。
「小雨が靄(もや)のようにけぶる夕方、両国橋を西から東へ、さぶが泣きながら渡っていた。」
この一行は、あまりにも有名だろう。
高校の終わりごろに、この一行に出会って、これはいわゆる美文調というのに違いない、
こんなことで負けちゃいけない、圧倒されてはいけない、これは今は読めない本だ、
とページを閉じて以降、四十数年ぶりに巻を開いた。
時代は江戸、主人公は、男前で苦みばしった職人、栄二、
その相棒役に、栄二とは好対照の愚図の半人前職人、さぶ、
そして、栄二と結ばれることになるおすえ、
ほか多彩な脇役が登場する。
栄二とさぶは、一人前の職人になろうと、奉公先で切磋琢磨するが、
あるとき、栄二は身に覚えのない、金襴緞子の切(きれ)を、
何者かによって荷物の中に入れられ、濡れ衣を着せられる。
何もかも嫌になった栄二は、あちこちで暴れ、
そのために、石川島の「人足寄場(にんそくよせば)」に送られる。
そこでの生活が、この物語の中心である。
最初は頑なだった栄二は、ここでの様々な出会いにより、心を開き、
とくに栄二を助けるべく、皆が協力し合うのを見て、とんがっていた心が、深い陰影を帯びていく。
そのときさぶが、半端職人どころか人生の先達として、栄二の前に現れる。
最後に栄二は、おすえと所帯をもち、さぶと共同で仕事場を持つ。
この小説が最も優れているのは、栄二が苦労をしつつ、人間が練れていくのを、
真正面から、愚直に描き切ったところにある。
こういう小説は、もう今は見ない。
『路傍の石』とか『二十四の瞳』とか、こういう小説が王道を歩んだ時代もある。
でも、今はもうだめだ。文学は、主流ではなくなってしまった。
では、何がと問われても、実はそんなものは、もうないのだ。
『さぶ』は、その愚直さが、素晴らしい。
だから、金襴緞子の切を盗ったのは誰か、というような問いは、
その意味では、とって付けたようなものだ。
その問いを、最後にもってきた山本周五郎は、いったいどんな気持だったのか。
むしろ盗みは、とって付けたようなものということが、はっきり分かるようにしたかったのか。
せめて『青べか物語』と『虚空遍歴』だけでも読んで、作者の意図したところを読み取りたい。
(『さぶ』新潮文庫、平成2年5月20日52刷)
たいしたことはない、けれど――『名作うしろ読み』
続けて、斎藤美奈子を読んでみる。
『名作うしろ読み』は、よく知られた名作の、お尻の一行を読んでみようという内容。
すると、どうなるか。
これは別に、どうということはない。
終わりの一行は、たいてい忘れているが、それでどうなるというものではない。
終わりを忘れていたって、全体の評価、読み味に影響はない。
だからここでは、斎藤が従来の名作に、新しい光をどういうふうに充てるか、が問題になる。
結論から言えば、たいして新しい照明は、当たっていない。
フェミニズムの視点をちょっと取り入れ、テキストを忠実に、いわば「上っ面」を読んでみる。
するとちょっとモダンで、軽薄すれすれの、名作紹介が出来上がる。
しかしそれでも、山本周五郎『さぶ』、杉本鉞子(えつこ)『武士の娘』、
ジェーン・オースティン『自負と偏見』は、読んでみたいと思った。
例えば『さぶ』は、こんな具合。
「その後のラスト10ページ弱には驚愕のどんでん返しが待っている。金襴の切を盗んで
栄二に濡れ衣を着せた真犯人は、まさかのあの人だった! そこにひょっこり帰ってきたさぶ。
・・・・・・さあ、この後、さぶは何を語るのか。真犯人=さぶ説を私は捨てられない。」
うーん、これは読まなきゃしょうがないでしょ。
杉本鉞子の『武士の娘』は、
「二つの文化と世代の間で、事実、彼女は悩んでいた。国際派の明治女性の矜持が光る、
和魂洋才っていうより和才洋魂の本である。」
これは、はじめ英語で書かれ、海外でベストセラーになった。
「大岩美代の日本語訳もうつくしい」とある。
そして『自負と偏見』。
サマセット・モームが、「世界の十大小説」にこれを入れ、
夏目漱石は、冒頭近くの会話を『文学論』で激賞した。
「いわばイギリス版の『細雪』である。」
いずれも、読んでみなければなるまい。
(『名作うしろ読み』中公文庫、2016年1月25日初刷)
『名作うしろ読み』は、よく知られた名作の、お尻の一行を読んでみようという内容。
すると、どうなるか。
これは別に、どうということはない。
終わりの一行は、たいてい忘れているが、それでどうなるというものではない。
終わりを忘れていたって、全体の評価、読み味に影響はない。
だからここでは、斎藤が従来の名作に、新しい光をどういうふうに充てるか、が問題になる。
結論から言えば、たいして新しい照明は、当たっていない。
フェミニズムの視点をちょっと取り入れ、テキストを忠実に、いわば「上っ面」を読んでみる。
するとちょっとモダンで、軽薄すれすれの、名作紹介が出来上がる。
しかしそれでも、山本周五郎『さぶ』、杉本鉞子(えつこ)『武士の娘』、
ジェーン・オースティン『自負と偏見』は、読んでみたいと思った。
例えば『さぶ』は、こんな具合。
「その後のラスト10ページ弱には驚愕のどんでん返しが待っている。金襴の切を盗んで
栄二に濡れ衣を着せた真犯人は、まさかのあの人だった! そこにひょっこり帰ってきたさぶ。
・・・・・・さあ、この後、さぶは何を語るのか。真犯人=さぶ説を私は捨てられない。」
うーん、これは読まなきゃしょうがないでしょ。
杉本鉞子の『武士の娘』は、
「二つの文化と世代の間で、事実、彼女は悩んでいた。国際派の明治女性の矜持が光る、
和魂洋才っていうより和才洋魂の本である。」
これは、はじめ英語で書かれ、海外でベストセラーになった。
「大岩美代の日本語訳もうつくしい」とある。
そして『自負と偏見』。
サマセット・モームが、「世界の十大小説」にこれを入れ、
夏目漱石は、冒頭近くの会話を『文学論』で激賞した。
「いわばイギリス版の『細雪』である。」
いずれも、読んでみなければなるまい。
(『名作うしろ読み』中公文庫、2016年1月25日初刷)
この本に出会って沈没を免れた――『ニッポン沈没』(2)
そして最後の〈言論沈没〉では、言論界のみならず文壇や詩壇の内部でも、
「3・11」を書くことを、忌避する雰囲気があるとし、
ここはやはり「蛮勇」を奮って、『想像ラジオ』に芥川賞を受賞させ、
読者を一桁増やすべきではなかったか、とする。
その重苦しい雰囲気をぶち破ったものとして、
佐藤友哉『ベッドサイド・マーダーケース』、
津島佑子『ヤマネコ・ドーム』、
奥泉光『東京自叙伝』
を挙げられれば、これは是非とも読まねばならぬ、という気になる。
こう並べられると、がぜん3つとも光って見える。
あるいはまた安倍内閣が、笛吹けど踊らぬ空疎なスローガンで、
末期資本主義を煽るのを、横目で見ながら、
水野和夫『資本主義の終焉と歴史の危機』、
松井孝典『われわれはどこへ行くのか?』、
広井良典『人口減少社会という希望』
を読めば、そこにはポスト資本主義の、微かな希望の灯が見えてくる。
少し前に、東京新聞の「大波小波」で本書を取り上げ、
まことに小気味がいいが、いかんせん小味だ、
斎藤美奈子には、そろそろ正面をきった、堂々としたものを望む、
とあつたが、どうしてどうしてこのコラム集の切れ味、水準の高さは尋常ではない。
最初にも書いたように、私は一年ちょっと前に脳出血で手術をした。
2か月たっても寝たっきりで、女房子供の名が言えず、
3か月目に、試しにパソコンをさわってみたが、文字通り一字も打てなかった。
医療保険で決められた、リハビリの期限が来たので、
今年の半ばに退院したが、その間の記憶が曖昧である。
そのころ出た本をいくつか読んでも、事の軽重や繋がりが、よくわからない。
その時、この本に出会ったのである。
『ニッポン沈没』という本に出会って、私はかろうじて「沈没」を免れたのである。
(初出、WebRonza「神保町の匠」)
(『ニッポン沈没』筑摩書房、2015年10月20日初刷)
「3・11」を書くことを、忌避する雰囲気があるとし、
ここはやはり「蛮勇」を奮って、『想像ラジオ』に芥川賞を受賞させ、
読者を一桁増やすべきではなかったか、とする。
その重苦しい雰囲気をぶち破ったものとして、
佐藤友哉『ベッドサイド・マーダーケース』、
津島佑子『ヤマネコ・ドーム』、
奥泉光『東京自叙伝』
を挙げられれば、これは是非とも読まねばならぬ、という気になる。
こう並べられると、がぜん3つとも光って見える。
あるいはまた安倍内閣が、笛吹けど踊らぬ空疎なスローガンで、
末期資本主義を煽るのを、横目で見ながら、
水野和夫『資本主義の終焉と歴史の危機』、
松井孝典『われわれはどこへ行くのか?』、
広井良典『人口減少社会という希望』
を読めば、そこにはポスト資本主義の、微かな希望の灯が見えてくる。
少し前に、東京新聞の「大波小波」で本書を取り上げ、
まことに小気味がいいが、いかんせん小味だ、
斎藤美奈子には、そろそろ正面をきった、堂々としたものを望む、
とあつたが、どうしてどうしてこのコラム集の切れ味、水準の高さは尋常ではない。
最初にも書いたように、私は一年ちょっと前に脳出血で手術をした。
2か月たっても寝たっきりで、女房子供の名が言えず、
3か月目に、試しにパソコンをさわってみたが、文字通り一字も打てなかった。
医療保険で決められた、リハビリの期限が来たので、
今年の半ばに退院したが、その間の記憶が曖昧である。
そのころ出た本をいくつか読んでも、事の軽重や繋がりが、よくわからない。
その時、この本に出会ったのである。
『ニッポン沈没』という本に出会って、私はかろうじて「沈没」を免れたのである。
(初出、WebRonza「神保町の匠」)
(『ニッポン沈没』筑摩書房、2015年10月20日初刷)
この本に出会って沈没を免れた――『ニッポン沈没』(1)
脳梗塞で半年間、入院し、出てきてこの本を読んだ。
おかげで、かろうじて「沈没」を免れた。
ご存じ斎藤美奈子の書評コラム集だが、一度に3冊をとりあげ、
それを読み比べることによって、グーンと奥行きが出た。
全体の流れは雑誌掲載順で、それを大きく四つに括って、
〈激震前夜〉〈原発震災〉〈安倍復活〉〈言論沈没〉とする。
たとえば〈激震前夜〉であれば、
「無縁社会」にちなむ『無縁社会――“無縁死”三万二千人の衝撃』(NHK取材班編著)、
『単身急増社会の衝撃』(藤森克彦)、
『人はひとりで死ぬ――「無縁社会」を生きるために』(島田裕巳)
を取り上げる。
そして、最初にストーリーありきの、NHK取材班の本はウザい!
それに比べれば、「ひとりで生き続けたということは、
徹底して自由に生きたということでもある」という、島田の爽快な提言に拍手を送る。
〈原発震災〉では、「いま検証しておきたいのは震災前に
だれがどんなことを語っていたかだ」として、
広瀬隆『原子炉時限爆弾』、
佐藤栄佐久『知事抹殺』、
豊田有恒『日本の原発技術が世界を変える』
を読み比べてみる。
まるで明日の予言の書、とでもいうべき広瀬隆、
国と東電にはめられた佐藤栄佐久、
反原発にたいし感情的な罵倒にはしる豊田有恒。
こうして並べてみるだけで、原発をめぐる立体的な構図が、浮かび上がってくる。
あるいは「震災後を語る人びと(2)脱原発編」として、
金子勝『「脱原発」成長論』、
中沢新一『日本の大転換』、
山本義隆『福島の原発事故をめぐって』
を読む。
この項は、中沢新一の、稀有壮大な「おっちょこちょいパワー」全開の
(ほめ言葉です、たぶん)、脱一神教としての脱原発論をはじめ、読みでがある。
〈安倍復活〉では、「日本の対米追従はいつまで続く」と題して、
『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』、
『裏切る政治――なぜ「消費増税」「TPP参加」は簡単に決められてしまうのか』、
『帝国解体――アメリカ最後の選択』
を読み比べる。
チャルマーズ・ジョンソンの『帝国解体』が、アメリカ帝国の崩壊を予言して、鮮やかだ。
そうかと思えば、
『超訳マルクス――ブラック企業と闘った大先輩の言葉』
をはじめとするマルクス本を読み比べる。
でも、なんで今、マルクスなの?
「そんなの簡単。現代の日本が要するに『格差社会』だからである(と思う)。
なにもいまさら『格差社会』なんて命名する必要はないんだよ。
そいつは『階級社会』ってえんだよ」。
本質を見抜く斎藤美奈子の啖呵は、相変わらず小気味いい。
おかげで、かろうじて「沈没」を免れた。
ご存じ斎藤美奈子の書評コラム集だが、一度に3冊をとりあげ、
それを読み比べることによって、グーンと奥行きが出た。
全体の流れは雑誌掲載順で、それを大きく四つに括って、
〈激震前夜〉〈原発震災〉〈安倍復活〉〈言論沈没〉とする。
たとえば〈激震前夜〉であれば、
「無縁社会」にちなむ『無縁社会――“無縁死”三万二千人の衝撃』(NHK取材班編著)、
『単身急増社会の衝撃』(藤森克彦)、
『人はひとりで死ぬ――「無縁社会」を生きるために』(島田裕巳)
を取り上げる。
そして、最初にストーリーありきの、NHK取材班の本はウザい!
それに比べれば、「ひとりで生き続けたということは、
徹底して自由に生きたということでもある」という、島田の爽快な提言に拍手を送る。
〈原発震災〉では、「いま検証しておきたいのは震災前に
だれがどんなことを語っていたかだ」として、
広瀬隆『原子炉時限爆弾』、
佐藤栄佐久『知事抹殺』、
豊田有恒『日本の原発技術が世界を変える』
を読み比べてみる。
まるで明日の予言の書、とでもいうべき広瀬隆、
国と東電にはめられた佐藤栄佐久、
反原発にたいし感情的な罵倒にはしる豊田有恒。
こうして並べてみるだけで、原発をめぐる立体的な構図が、浮かび上がってくる。
あるいは「震災後を語る人びと(2)脱原発編」として、
金子勝『「脱原発」成長論』、
中沢新一『日本の大転換』、
山本義隆『福島の原発事故をめぐって』
を読む。
この項は、中沢新一の、稀有壮大な「おっちょこちょいパワー」全開の
(ほめ言葉です、たぶん)、脱一神教としての脱原発論をはじめ、読みでがある。
〈安倍復活〉では、「日本の対米追従はいつまで続く」と題して、
『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』、
『裏切る政治――なぜ「消費増税」「TPP参加」は簡単に決められてしまうのか』、
『帝国解体――アメリカ最後の選択』
を読み比べる。
チャルマーズ・ジョンソンの『帝国解体』が、アメリカ帝国の崩壊を予言して、鮮やかだ。
そうかと思えば、
『超訳マルクス――ブラック企業と闘った大先輩の言葉』
をはじめとするマルクス本を読み比べる。
でも、なんで今、マルクスなの?
「そんなの簡単。現代の日本が要するに『格差社会』だからである(と思う)。
なにもいまさら『格差社会』なんて命名する必要はないんだよ。
そいつは『階級社会』ってえんだよ」。
本質を見抜く斎藤美奈子の啖呵は、相変わらず小気味いい。
具体例でたたみかける――『老後破産――長寿という悪夢』(2)
たしかに『老後破産』は大変なことだが、取り上げられる老人には、
やや共通点が見受けられる。
結婚をしておらず、または別れて一人で暮らす。
大きな企業に勤めていない。
問題はこの先、社会階層が、貧者と富める者の二層に分かれるとき、
貧者が膨大な費用を圧迫して来るのではないか、ということだ。
(あるいは、もう圧泊している?)
おそらくこれは、非正規雇用者が三分の一を超え、
しかも年金を払わない人が、四割を超えて五割に近づき、
現在の労働者が働けなくなるときが、社会クラッシュの時である。
端的にいって、お互いに助け合わない社会は、持たないのである。
『老後破産―長寿という悪夢―』NHKスペシャル取材班(鎌田靖・板垣淑子・原拓也)
(新潮社、2015年7月10日初刷、8月10日4刷、)
やや共通点が見受けられる。
結婚をしておらず、または別れて一人で暮らす。
大きな企業に勤めていない。
問題はこの先、社会階層が、貧者と富める者の二層に分かれるとき、
貧者が膨大な費用を圧迫して来るのではないか、ということだ。
(あるいは、もう圧泊している?)
おそらくこれは、非正規雇用者が三分の一を超え、
しかも年金を払わない人が、四割を超えて五割に近づき、
現在の労働者が働けなくなるときが、社会クラッシュの時である。
端的にいって、お互いに助け合わない社会は、持たないのである。
『老後破産―長寿という悪夢―』NHKスペシャル取材班(鎌田靖・板垣淑子・原拓也)
(新潮社、2015年7月10日初刷、8月10日4刷、)
具体例でたたみかける――『老後破産――長寿という悪夢』(1)
『下流老人』の藤田孝典氏は、NHKスペシャル取材班の『老後破産』が、
散漫で焦点が絞れてない、と言っていた。
そこで、『老後破産』も読んでみることにした。
なんと、これは『下流老人』とは違って、徹底して具体例だけを引いている。
これでもかこれでもかと、畳み掛けてくる。
『下流老人』の散漫さとは、えらい違いだ。
例えば――
〈田代さんの収支〉
●収入(月額) 国民年金+厚生年金=10万円
●支出(月額) 家賃+生活費など=6万円+4万円=10万円
残高 0円
〈菊池さんの収支〉
●収入(月額) 国民年金+遺族年金=8万円
●支出(月額) 家賃(都営団地)=1万円
生活費など=7万円 介護費用=3万円 残高 ―3万円
〈川西さんの収支〉
●収入(月額) 国民年金=6万円
●支出(月額) 光熱費や電話代などの公共料金=1万5千円
生活費(食費など)=5万5千円 医療費(通院費用含む)と各種保険料=1万5千円
介護サービス=5千円 残高 ―3万円
〈渡辺さんの収支〉
●収入(月額) 年金=〇万円
●支出(月額) 家賃・医療費・生活費など=7万円
残高 ―7万円
こういう例が多い。
そして、問題はこの先である。
散漫で焦点が絞れてない、と言っていた。
そこで、『老後破産』も読んでみることにした。
なんと、これは『下流老人』とは違って、徹底して具体例だけを引いている。
これでもかこれでもかと、畳み掛けてくる。
『下流老人』の散漫さとは、えらい違いだ。
例えば――
〈田代さんの収支〉
●収入(月額) 国民年金+厚生年金=10万円
●支出(月額) 家賃+生活費など=6万円+4万円=10万円
残高 0円
〈菊池さんの収支〉
●収入(月額) 国民年金+遺族年金=8万円
●支出(月額) 家賃(都営団地)=1万円
生活費など=7万円 介護費用=3万円 残高 ―3万円
〈川西さんの収支〉
●収入(月額) 国民年金=6万円
●支出(月額) 光熱費や電話代などの公共料金=1万5千円
生活費(食費など)=5万5千円 医療費(通院費用含む)と各種保険料=1万5千円
介護サービス=5千円 残高 ―3万円
〈渡辺さんの収支〉
●収入(月額) 年金=〇万円
●支出(月額) 家賃・医療費・生活費など=7万円
残高 ―7万円
こういう例が多い。
そして、問題はこの先である。
原因はどこに――『下流老人――一億総老後崩壊の衝撃』
これは、2014年に出たNHKスペシャル「老後破産」が、
とりとめのない内容だったので、きちんと作り直してみたというが、
それでもまだ甘い。
効果的に実例を入れなければいけないのに、4人ほど例が入るだけで、
それも上っ面だけ。叙述が上滑りになってしまっている。
九割が下流老人というなら、具体例を挙げなきゃ。
確かに下流老人はケース・バイ・ケース、さまざまに出てくる。
そのどれもが大変である(というか大変そうなのを選んである)。
でも大別してみれば、自分のこと、親のこと、子供のこと、
の三つに分けられるんじゃないかと思う。
まず親のことは、福祉を充実させる以外に、ないのではないか。
目下の超高齢化社会は、なにせ経験したことがないので、
それに付随して出てくる問題もまた、経験したことのない難問である。
子供は、大人になっても働こうとしない子供の問題なのだが、
これは子供の親、つまり夫婦二人の問題であることが多い。
このことは、杉山春さんの『家族幻想――「ひきこもり」から問う』に詳しい。
壊れた夫婦の問題は、下流老人の中核を作っていて、じつはこれが一番大きい。
別れたのち、こんなはずじゃあなかった、と言ってみてももう遅い。
離婚するカップル、特に中年過ぎの二人には、よくよく言って聞かせたほうがいい。
(『下流老人――一億総老後崩壊の衝撃』
藤田孝典、朝日選書、2015年6月30日初刷、7月30日4刷)
とりとめのない内容だったので、きちんと作り直してみたというが、
それでもまだ甘い。
効果的に実例を入れなければいけないのに、4人ほど例が入るだけで、
それも上っ面だけ。叙述が上滑りになってしまっている。
九割が下流老人というなら、具体例を挙げなきゃ。
確かに下流老人はケース・バイ・ケース、さまざまに出てくる。
そのどれもが大変である(というか大変そうなのを選んである)。
でも大別してみれば、自分のこと、親のこと、子供のこと、
の三つに分けられるんじゃないかと思う。
まず親のことは、福祉を充実させる以外に、ないのではないか。
目下の超高齢化社会は、なにせ経験したことがないので、
それに付随して出てくる問題もまた、経験したことのない難問である。
子供は、大人になっても働こうとしない子供の問題なのだが、
これは子供の親、つまり夫婦二人の問題であることが多い。
このことは、杉山春さんの『家族幻想――「ひきこもり」から問う』に詳しい。
壊れた夫婦の問題は、下流老人の中核を作っていて、じつはこれが一番大きい。
別れたのち、こんなはずじゃあなかった、と言ってみてももう遅い。
離婚するカップル、特に中年過ぎの二人には、よくよく言って聞かせたほうがいい。
(『下流老人――一億総老後崩壊の衝撃』
藤田孝典、朝日選書、2015年6月30日初刷、7月30日4刷)
編集長の位置――『作家という病』(2)
ここに書かれたのはほぼ全員、歿故者に限られる。
そういう意味では、レクイエムと言っていい。
唯一、多島斗志之だけが、行方が分からない。
病を得て死ぬ、探さないでくれ、との書置きを残して失踪。
後の行方は分からない。
著者は、作家と呼ばれる人たちの、一部を肥大させるような「過剰さ」に、
焦点を当てたいようだが、
それよりも、その「過剰さ」を、どういうふうにコントロールすることが可能か、
つまりどうやったら、作家の業を「手玉」にとれるようになれるか、が読ませどころである。
著者の校條剛(めんじょうつよし)さんとは、若いころ、ときどき呑み屋であった。
私のほうが、まるで仕事ができない頃だった。
それからずいぶん間が空いて、校條さんが新潮社をやめられた後に会った。
編集長をしていて、体を壊したこと、
どこまでも甘えてくる著者がいて、たまらない、
というふうなことを、おっしゃっていた。
だから必ずしも、書かれているようには、すべての著者と、うまくは行かなかったわけだ。
校條さんにはまた、『ザ・流行作家』(講談社)というのもある。
笹沢佐保と川上宗薫を描いたもので、読みごたえがあった。
「木枯し紋次郎」のシリーズで、文字どおり一世を風靡した笹沢佐保。
自ら体験した性行為を、延々と描きつづった川上宗薫。
二人は病を得たのちも、書き続けた。
二人とも、文学の賞には無縁だった。
だから、校條さんは、せめてものこととして、紙の墓碑を立てたのだ。
(『作家という病』講談社現代新書、2015年7月20日初刷)
そういう意味では、レクイエムと言っていい。
唯一、多島斗志之だけが、行方が分からない。
病を得て死ぬ、探さないでくれ、との書置きを残して失踪。
後の行方は分からない。
著者は、作家と呼ばれる人たちの、一部を肥大させるような「過剰さ」に、
焦点を当てたいようだが、
それよりも、その「過剰さ」を、どういうふうにコントロールすることが可能か、
つまりどうやったら、作家の業を「手玉」にとれるようになれるか、が読ませどころである。
著者の校條剛(めんじょうつよし)さんとは、若いころ、ときどき呑み屋であった。
私のほうが、まるで仕事ができない頃だった。
それからずいぶん間が空いて、校條さんが新潮社をやめられた後に会った。
編集長をしていて、体を壊したこと、
どこまでも甘えてくる著者がいて、たまらない、
というふうなことを、おっしゃっていた。
だから必ずしも、書かれているようには、すべての著者と、うまくは行かなかったわけだ。
校條さんにはまた、『ザ・流行作家』(講談社)というのもある。
笹沢佐保と川上宗薫を描いたもので、読みごたえがあった。
「木枯し紋次郎」のシリーズで、文字どおり一世を風靡した笹沢佐保。
自ら体験した性行為を、延々と描きつづった川上宗薫。
二人は病を得たのちも、書き続けた。
二人とも、文学の賞には無縁だった。
だから、校條さんは、せめてものこととして、紙の墓碑を立てたのだ。
(『作家という病』講談社現代新書、2015年7月20日初刷)
編集長の位置――『作家という病』(1)
水上勉、田中小実昌、渡辺淳一から、城山三郎、
結城昌治、藤沢周平、伴野朗、山口洋子、
久世光彦、井上ひさし、都筑道夫、綱淵謙錠まで、
あるいは遠藤周作、北原亞以子、吉村昭から、山際淳司、
楢山芙二夫、多島斗志之、黒岩重吾、西村寿行、山村美紗まで、
付き合いのあった21人の作家について書く。
著者は長年、『小説新潮』の編集に携わり、その29年のうち9年は編集長を務めた。
だからどれもみな、原稿を巡って血みどろの戦いになるかと思いきや、さにあらず。
くんずほぐれつする、ぎりぎり手前までで筆を止める。
なんてもったいないことを、という気がする。
しかしもちろん、逆に見れば、『小説新潮』の敏腕編集長としては、
これが作家と渡り遭うときの極意なのだ。
有能な編集長は、作家と出版社の間に立って、上手にバランスをとるものなのだ。
大衆小説の作家は、生きてる間はもてはやされる。
でも死んだら、さっと忘れられる。
それでいい、と著者はいう。
結城昌治、藤沢周平、伴野朗、山口洋子、
久世光彦、井上ひさし、都筑道夫、綱淵謙錠まで、
あるいは遠藤周作、北原亞以子、吉村昭から、山際淳司、
楢山芙二夫、多島斗志之、黒岩重吾、西村寿行、山村美紗まで、
付き合いのあった21人の作家について書く。
著者は長年、『小説新潮』の編集に携わり、その29年のうち9年は編集長を務めた。
だからどれもみな、原稿を巡って血みどろの戦いになるかと思いきや、さにあらず。
くんずほぐれつする、ぎりぎり手前までで筆を止める。
なんてもったいないことを、という気がする。
しかしもちろん、逆に見れば、『小説新潮』の敏腕編集長としては、
これが作家と渡り遭うときの極意なのだ。
有能な編集長は、作家と出版社の間に立って、上手にバランスをとるものなのだ。
大衆小説の作家は、生きてる間はもてはやされる。
でも死んだら、さっと忘れられる。
それでいい、と著者はいう。
脳卒中と本(14)
昨年の6月4日に、退院することになったのだが、
退院するにあたっては、やはりリハビリテーションのことも、書いておく必要があるだろう。
脚はEさん、腕はSさん、頭はTさんのお世話になった。
もちろん、三人の先生を中心にして、ほかにもお世話になった方は数多い。
特にこのお三方は「先生」と呼ぶべき人たちなのだが、
何分、Eさんは28、Sさんは25、Tさんは27と若い。
これらの先生方を前にして、僕は一生懸命だったかというと、全然そんなことはない。
三人の先生方を中心にして、僕は壊れたガンダムみたいに、ただぼーっとしていただけだ。
必ず治ると信じており、しかし具体的には、何もしなかった。
もちろんリハビリのメニューは、言われるままにやった。
退院の時には、杖で歩けるようになったので、
驚異の回復だと、看護師さんには言われた。
でも、僕の回復のイメージとは、違うものだった。
僕は相変わらず、妄想にとらわれていた。
結局、完全には治らなかったが、別にそれはどうということではない。
治るもよし、治らないのもよし、という具合。
どう言えばいいのだろう。今の僕以外に、何を望むことがあるだろう。
ただ本が読めれば、それでよし。
だから、次回からは、その読んだ本について書きます。
退院するにあたっては、やはりリハビリテーションのことも、書いておく必要があるだろう。
脚はEさん、腕はSさん、頭はTさんのお世話になった。
もちろん、三人の先生を中心にして、ほかにもお世話になった方は数多い。
特にこのお三方は「先生」と呼ぶべき人たちなのだが、
何分、Eさんは28、Sさんは25、Tさんは27と若い。
これらの先生方を前にして、僕は一生懸命だったかというと、全然そんなことはない。
三人の先生方を中心にして、僕は壊れたガンダムみたいに、ただぼーっとしていただけだ。
必ず治ると信じており、しかし具体的には、何もしなかった。
もちろんリハビリのメニューは、言われるままにやった。
退院の時には、杖で歩けるようになったので、
驚異の回復だと、看護師さんには言われた。
でも、僕の回復のイメージとは、違うものだった。
僕は相変わらず、妄想にとらわれていた。
結局、完全には治らなかったが、別にそれはどうということではない。
治るもよし、治らないのもよし、という具合。
どう言えばいいのだろう。今の僕以外に、何を望むことがあるだろう。
ただ本が読めれば、それでよし。
だから、次回からは、その読んだ本について書きます。