すれちがい――『ちいさい言語学者の冒険―子どもに学ぶことばの秘密―』

岩波科学ライブラリーの一冊。この本は、じつに詰まらなかった。
 
僕は三年前に脳出血になり、その後遺症で、高次脳機能障害になった。病院にいた半年間のうち、特に最初の頃は、言葉はほとんどしゃべれなかった。もちろん書くなど、とんでもない。

三か月が経ったころ、キーボードを前にしても、一字も打てなかった。「a」でも「あ」でも何でもよい、一字くらいは何とかなりそうだと思うのだけど、それが何ともならない。なぜ一字も打てなかったのだろう。
 
それが、ほぼ三年足らずの間に、少なくともキーボードは打てるようになり、会話も、スムーズにではないが、なんとか用は足りる。三年の間、僕の体に起こったことは何か。そういう興味をもって読んでも、得るところは何もない。
 
広瀬友紀という東大の先生は、いずれ大人になれば、言葉を上手に操れるようになるものとして、対象と接している。でも、それは違うのではないだろうか。

「ことばってなんと奥が深い知識体であることか、そしてそれを遠い昔に自力で身につけた、かつての自分の頭の中ではどんなに面白いことが起きていたことか。」
 
確かに自分の頭の中で、何かが起きていた。それは間違いないが、しかし大人になって、余裕をもって振り返るようなことでは、ぜんぜんないんじゃないか。こどもは、もっと切実に、今日を一杯一杯、生きているんじゃないだろうか。言葉の習得も、そのような一回性のもとで、なされたのではないか。
 
とはいっても、個々の事例は興味深いものばかりだ。
例えば、「『た―だ』『さ―ざ』『か―が』の間に成立している対応関係が成り立っているのは、『ぱ(pa)』と『ば(ba)』の間の方なんですね。日本語の音のシステムでは『は』『ぱ』『ば』が奇妙な三角関係をつくっているようですが、『ば(ba)』の本来のパートナーは『ぱ(pa)』と考えるべきです。じつは、大昔の日本語では、現在の『は』行音はpの音であったことがわかっています。」
 
じっさいキーボードを叩いていても、濁点を打つか打たないかは、非常に迷う。いまでこそ、濁点のあるなしは、眼で見てわかるけれど、それでも一度は見ておかないと、不安でしょうがない(僕はブラインドタッチでは、キーボードが叩けないのだ)。
 
そしていまでも、「は」の濁点のあるなしは、非常に迷う。それは、この本を読むと、「は」と「ば」が、正確に対応してないからだ、ということがわかる。
 
でも広瀬先生は、大人になれば、そんなことで迷っているような人はいないから、楽しみながら、子どもの言い間違いを見つけてあげましょう、という態度だ。これは、「ちいさい言語学者の冒険」を上から見ている、きつい言い方をすれば、子どもをバカにした態度だ。
 
いや、もちろん僕の目指すところのものと、著者のそれとが、うまく噛み合ってないということは、よく分かっている。
 
そのうえで、もう少し積極果敢に、子どもの言葉に肉薄できないものか、ということを言いたかったのである。

(『ちいさい言語学者の冒険―子どもに学ぶことばの秘密―』
 広瀬友紀、岩波書店、2017年3月17日初刷、5月26日第4刷)
posted by 中嶋 廣 at 16:37Comment(0)日記

デザインの見方――『塑する思考』(4)

それからまた、仕事で自分を追い詰めてゆく、その追い詰め方が、どんな職業であっても、結局は不変なものである、ということを語っているところもある。

「・・・・・・自分を追い込むとは、できるかぎり客観的に自分のやるべきことを考え抜く、の意味です。とことん追いこんだ後は自由に、ああでもない、こうでもないと考えを巡らしてみる。するとある時、『あ』と思う瞬間が必ずやってきます。アイデアが、まるで天から降りてくるかのように、自分から湧いて出るのではなく、外からやってくる感覚なのです。」
 
これは「さよなら、元気で。ペンギン君」と題する、ロッテのクールミントガムのデザインをリニューアルする話。これも実に面白い。
 
そしてアイデアを得る方法について。
「アイデアは、みんなで話し合いを重ねれば出てくるというようなものではなく、十人いても百人いても、出ない時には出ません。・・・・・・アイデアについては、たとえ何人で出し合うにせよ、一人一人が自分をどこまで追い込めるかに掛かっているのです。みんなで考えさえすれば先を切り拓くアイデアが出てくるようなものではない。民主主義を取り違えてはなりません。」
 
アイデアを求め、企画を求めて、どれほど企画会議をやったことか。でもトランスビューになってからは、僕一人だから、ほとんど企画会議はしていない。
 
もちろん企画会議は、企画の、いってみれば毛羽だったところを処理する、整流器の役目をしているので、なくてもいいと言うわけにはいかない。その辺は、企画会議をやる部長なり課長なりの、判断の難しいところだ。
 
それで結局、デザインとは何か。
「デザインする基本は、内容をよくよく理解し、できるだけそのまま表現することに尽きるのです。きれいなものはきれいに。面白いものは面白く。素朴なものは素朴に。」
 
なるほど、ちょっとした「悟り」の世界である。
しかし、著者はさらに、そこからもう一歩、進める。

「私は今、切実に、小学校の義務教育の授業に『デザイン』を取り入れるべきだと思っています。・・・・・・ありとあらゆる物事と人との間にデザインはなくてはならず、人の営みの中で何事かに気づき、これからを想像し、先を読みつつ対処するのがデザインであるならば、それは『気づいて思いやる』、つまり『気づかう』ことに他なりません。デザインは、自ずと道徳にも繫がっており、それは、我々を取り巻く地球環境を人の営みと共に気づかい考えることでもある。」
 
だから世界に先駆けて、日本で「デザイン」の授業をやってはどうか、と説く。道徳につながる世界については願い下げだが、しかしここまで突き詰めなければ、デザインの奥義は極められない、という意気込みはおおいに買える。

(『塑する思考』佐藤卓、新潮社、2017年7月30日初刷)
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デザインの見方――『塑する思考』(3)

『明治おいしい牛乳』のデザインを生むにあたっては、紆余曲折があった。そもそもこの牛乳のネーミングにしてからが、決まっていなかった。何百という案の中から、何度も調査が重ねられ、著者のところに上がってくるときには、3点に絞り込まれていた。
 
ところがその3点が、どれもよくない。1つ目は「美味」。「びみ」と読んで、これは瞬時に意味を感じ取れる。2つ目はアルファベットで、「PURE‐RE」。「ピュアレ」と読む。3つ目が「明治おいしい牛乳」である。
 
著者は、はっきりいって3つとも気に入らない。「美味」は、いってみれば高級料亭で出てくるような味わいで、気持が引けてしまうだろう。

「ピュアレ」は、おしゃれな若者にはいいかもしれないが、牛乳は子どもから老人まで飲むものだ。そこで「ピュアレ」といっても、どうもピンと来ない。

「明治おいしい牛乳」は、「おいしい牛乳」というのが一般的過ぎて、商標登録ができない。

「少なくともこれはないな、と思いました。商標登録の問題以前に、これがそもそもネーミングになり得るのだろうか。提供する側から『おいしい』と言っていいものなのだろうか。美味しいかどうかは買って飲んだ人が判断することではないのか。」
 
けれども明治乳業が、この3点のどれかでいくのだから、ともかくデザイナーとしては、形にしなくてはいけない。こうして著者の悪戦苦闘が始まる。

この箇所は本当に面白い。デザイナーの働いている頭を、そのまま取り出して見ているような気がする。

そして著者は、最初にできた20ほどの案に、1つだけ、方向性の違うものを入れてみるのである。それは、「できるだけデザインを感じさせない」、異色の案だった。

「基本的には単純に、太くて大きめの楷書体で『おいしい牛乳』を縦に置いた素直なデザインです。・・・・・・他の案と比べて見ていくうちに、どうもいい感じがしてきたのです。その気配は、ニッカのピュアモルトウイスキーの時と通じていました。すなわち『デザインをする』のではなく、『できるだけデザインをしない』方向。」
 
もちろんそのあとも、紆余曲折はあるが、その困難を乗り越えて、いま食卓に登場する「明治おいしい牛乳」が生まれたのだ。
 
この本を読んで以来、毎朝、「明治おいしい牛乳」のパッケージを一渡りじっくり見ながら、パンを食する癖がついた。
posted by 中嶋 廣 at 16:35Comment(0)日記

デザインの見方――『塑する思考』(2)

タイトルの『塑する思考』とは、どういう意味か。柔よく剛を制す、という言葉がある。この「柔」という言葉は、さらに二つの意味に分けられる。それは「弾性」と「塑性」である。

「弾性」はよく分かっている。外部から力が加わって、形が変わっても、その力がなくなれは、元の形に戻ろうとすること。

では「塑性」はどうか。これは耳慣れない言葉だが、外部からの力で変形されると、加わった力に応じて、そのつど形を変化させてしまうこと。著者はわかりやすい例として、粘土を挙げている。

一般には、「弾性」を鼓舞し、しっかりした自分を作り上げようとする。だから例えば、そういうものを目指し、自己実現を目的として、教育を受けさせたりするわけである。

しかし著者は、若い頃から今まで、そのしっかりした自分というのが、さっぱり分からなかった。

「私には、若い時分から今に至るまで、自分とは何かを考えれば考えるほど、さっぱり分からない。ところがこの分からないまま自分など考えないのが、自分にとっては良好の状態らしいと、この歳になって気づき始めています。何を考えているにしても、すでに考えている自分が存在するのだから、自分なんてまったく気にかける必要はなく、そのつど与えられた環境で適切に対応している自分のままがいいのではないか、と。」
 
自分はどうしたら自己実現できるだろうか、と考えるのではなく、目の前のことを、自己実現もへったくれもなく、夢中でおやりなさい。それが、いってみれば「人生の王道」なのですよ。と、そこまでいっているわけではないけれど、でも小林秀雄から養老孟司まで(間にどんな人が入るかはわからないが)、「達人」たちはそういう。
 
そして、佐藤卓もそう言うのだ。それがつまり、「塑する思考」の意味である(やっぱりちょっと難しいですね)。

著者は初め電通に入り、そこでニッカ・ウイスキーの広告を、中身をどんなウイスキーにするかまでを含めて、企画を練る。著者の側から新商品を、広告込みで、自主的にプレゼンテーションしてみるのだ。

無論この時代には、めったにないことだった。酒の中身と、ボトルのデザインの、両方を考えるのだ。すると工場の人たちの話が、俄然おもしろくなる。

「工場の責任者やブレンダーの話に聞き入ってしまうだけでなく、煉瓦造りの工場の質感ひとつにしても、何しろ興味深くてならない。
 ・・・・・・
 対象を理解すべく深く深く入り込んでいく方法は、次々に疑問を持てるかどうかに懸かっています。この頃から『分かる』だけでなく、むしろ『分からない』のほうが重要なのではないかと考え始めました。」
 
こういうところも、養老さんとぴったり合うのだろう。ちなみに、このとき生まれたのが、「ピュアモルト」である。
posted by 中嶋 廣 at 17:51Comment(0)日記

デザインの見方――『塑する思考』(1)

『塑(そ)する思考』は、佐藤卓というデザイナーが書いた。それにしても『塑する思考』とは、また何とも読みにくいタイトルである。
 
おまけにこの本には、著者の紹介がない。読みにくいタイトルと、奥付に著者紹介が載っていないことを考えると、そこに著者の主張が浮かんでくる、ような気もする。

でも著者紹介は、編集者がうっかり入れるのを忘れたのかもしれない。タイトルは、読みにくいのを、これで行くと、著者が頑張ったせいなのかもしれない。

版元が新潮社だから、あんまり間抜けなことはしないだろうと思うが、きょうび出版社は落ち目だから、新潮社といえど、どこでどうなっているかはわからない。

じつはこの本は、毎日新聞の養老孟司さんの書評で知った。

「著者はデザイナーで、『明治おいしい牛乳』や『クールミントガム』の包装なら、だれでも目にしたことがあるのではないか。その著者が何年もかけて、いわば訥々と、デザインという本業について論じたのが本書である。面白くて、だから一気に読む。そういう種類の本ではない。でも読み始めたら、やめられなくなった。」
 
面白くて一気に読むものではないが、でも読みはじめたら、やめられなくなった、というのは、最高の褒め言葉である。その言葉はまだまだ続く。

「本書は一過性のものとして読んで、読み終わるという本ではない。本棚に置いて、時々出して読んでいい本である。おかげで仕事を学び、考えることを学ぶ。最近読んだ本の中で、ここまでまっとうな本は少ない。」
こうまで褒められれば、読まずにはいられない。

まず「はじめに」のところで、著者の根本的な主張がなされる。
「意識化されるデザインなど、そのごく一部にすぎず、ほとんどのデザインに対して我々は無意識です。」
「どんな技術にせよ情報にせよ、人に届けるためには何かしらのデザインを必ず経なければならない。これは、それぞれの人の思想や好き嫌いの問題ではなく、人が人として生きていく上でどうしても避けられない事実なのです。」
 
養老さんが、褒めていた意味が分かる。デザインの原理主義というか、「絵」の部分に対する「地」の探求というか。ノウハウ本として役に立つ、という本とは百八十度、方向が違う。
posted by 中嶋 廣 at 21:47Comment(0)日記

正直な人――『あのころ、早稲田で』(3)

中野翠は、一連の学生運動を、どう見ていたのだろう。

「学生たちに喝采をおくることも、冷笑することも、どちらもできなかった。私にできることは、自分の中途半端さを、分裂ぶりを、みつめてゆくことだけだった。」
 
本当は、喝采をおくることや冷笑すること以外に、もう一つ、自分が中に飛び込んでいく、というのがあるが、ここではそれは、最初から可能性の中に入っていない。
 
ほかに、ショックを与えられたものとして、『ねじ式』と『ドグラ・マグラ』を挙げている。この辺は、中野さんの年代が少し上とはいえ、僕なんかの学生時代とまったく変わらない。
 
ただ、つげ義春の『ねじ式』は1968年、『ガロ』の6月増刊号に掲載されているのを見ている。このマンガを、初出掲載誌で読むというのは、どんな気がするものか。これはちょっと想像できない。

中野さんの文章も、『ねじ式』の一コマ目から、心をわしづかみにされたことがわかる。

「『あ、こんな夢、見たことある!』と思った。ドキドキした。
 奇妙な夢の中を行くような感触は最後まで破綻することなく維持されてゆく。村の家並の中に突入する蒸気機関車、目医者ばかりの家並、金太郎あめ、頭に反射鏡をつけた女医(その背後の海には戦艦のようなもの)、血止めのネジ・・・・・・。何か不思議な懐かしさと恐ろしさに襲われた。イメージを脈絡なく展開してゆく、その手際にも圧倒された。」

僕は、この文章に圧倒された。これは、白眉だ。

夢野久作の『ドグラ・マグラ』も、僕たちの間でも、根強い人気を博していた。

「『ドグラ・マグラ』は、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』、中井英夫の『虚無への供物』と共に「三大奇書」と呼ばれ、「本書を読破した者は、必ず一度は精神に異常を来す」と言われているという。」

「三大奇書」という謳い文句も、僕らのときと同じである。これは『ドグラ・マグラ』、『黒死館殺人事件』、『虚無への供物』を並べて書評した、有名な文章があるんだろうか。たぶん、僕が知らないだけなんだろうな。

それはともかく、いずれも甲乙付けがたい奇書、というよりもミステリーからはみ出た、いわば極北に位置する作品なのである。

最後は、単行本にも収録していない、一篇のコラムで締めくくる。

「なぜ結婚しなかったのだろう。なぜ子どもを持たなかったのだろう。なぜ家族を作らなかったのだろう――。悩んだことはないが、不思議に思うことはある。平凡家庭で平凡に育ったのに、なぜ「一人」に執着するのか?」
 
戸惑っている、その戸惑い方も魅力的だ。

(『あのころ、早稲田で』
 中野翠、文藝春秋、2017年4月10日初刷、5月10日第2刷)
posted by 中嶋 廣 at 18:31Comment(0)日記

正直な人――『あのころ、早稲田で』(2)

中野翠は、夏休みの社研の合宿で、福田恆存に興味がある、と語ったことがあった。マルクスやエンゲルスの著書が、読書会のメインのところで、よくそんなことが言えたなと思う。

「今思い出して自分でも意外に思う。はたちになるかならないかという時点で、私、もう福田恆存に惹かれていたんだな、と。身にしみて読んだのは、ずうっと後。三十代になってからのことだった。」
 
このときはもちろん、福田は保守反動のレッテルを貼られて、それ以上の発言はできなかった。
 
ここではこれだけだけれど、福田恆存についてどう思うかは、ぜひ聞きたいものである。なにしろ「身にしみて読んだのは」、というくらいなのだから。中野さんは、『父・福田恆存』(福は旧字体)も、読んでいるに違いない。
 
また花田清輝の「楕円の思想」や、吉本隆明に惹かれていたようで、吉本隆明の著書の中では、『芸術的抵抗と挫折』(1959年、未来社)が面白かったと記している。このあたりは、編集者・松本昌次さんの、手の中という感じがする。
 
しかしともかく、戦後すぐの焼け跡で、花田清輝と吉本隆明から出発するとすれば、思想的に考えても(と言うとなんだか偉そうだが)、たいしたものだ。その嗅覚は、なかなかのものである。
 
この時代、いろんな話題が出る中で、一つだけ、こういう話がある。

「恥ずかしい話だが、部室で一度だけ、泣いてしまったことがある。
 ・・・・・・
 いったい何が発端だったか、もはや全然記憶がないのだが、ウッスラと言い合いのようになり、やがて私に対する(大げさな言い方だが)人格攻撃のようになっていった。
 ・・・・・・
 私はムキになって言い返していたけれど、内心『痛いところをつかれた』という感じがあった。反論しているうちに、つい、口惜し涙が・・・・・・。
 Iさんはあきれたのだろう。何か冗談を言って、話をしめくくった。私は頭が混乱してボーンヤリしてしまった。」
 
いやあ、青春ですなあ、と半分バカにしているようではいけない。『卒業写真』を前にして、〽「変わってゆく私を/あなたはときどき/遠くでしかって」、という歌詞もあるでしょう。こういうエピソードが、さり気なく差し挟まれているかどうかが、青春回顧物の正統さを決定づけるのである(まあつまり、僕が気に入っている、ということですが)。
posted by 中嶋 廣 at 18:44Comment(0)日記

正直な人――『あのころ、早稲田で』(1)

中野翠は読んだことがなかった。いや、正確に言えば、ちょっとだけ読んだことがある。『サンデー毎日』のコラムを池田晶子さんが書いていて、そのとき同じく、中野翠がコラムを書いていたのだ。
 
池田晶子さんは、垂直に運動する文章を書いた。それ自体が、週刊誌には珍しい。このときは、池田さんの文章を読むのが目的で、しかし他にも何かあればなあ、というつもりだった。

で、ぱらぱらめくるが、『サンデー毎日』には他に何もない。中野翠もそのうちの一人だった。何本かコラムを読んだことはあるが、気持が動いていくということはなかった。
 
今回、本書を読んでみて、少し認識が変わりました。垂直には運動しないけれど、平面を動いて行くときの動き方が、非常に感じがいい。
 
60年代後半の喧騒の早稲田で、その動きの中心のそばまで行きながら、躊躇して台風の目には入らない。その躊躇の仕方が、いかにも中野翠なのである。
 
たとえば1966年、早稲田大学は学生のシュプレヒコールに対抗して、機動隊を導入し、何人かの活動家が指名手配を受け、また学生は何百人も逮捕されたというとき。

「もうこのへんから女の出番は無いですね。男の世界ですね。校舎内に泊まり込んでザコ寝なんてできないもの。不潔でイヤだもの。」
 
本当に正直なんだな。そんなこと言うんだったら、早稲田の、しかも政経学部なんて行くなよ、と言いたくなる。
 
でもね、そういう時代だったんだなあ。中野翠よりも、数年後で大学に行くことになる僕は、受験で上京してくるとき、新幹線の中で、赤軍派のあさま山荘事件の実況を聞いていた。後に学生運動の終焉として、象徴的に語られる話だ。
 
しかしその後の僕の、寮の机の上にはまだ、岩波文庫の社会科学の本が山積みになっていた。僕だけではない。文科系の寮生は、たいていそんなものだった。
 
だから、僕よりもちょっと上の中野さんが、「立派な左翼になりたくて」早稲田の政経に入ったところまでは、本当によく分かる。そして「社研」に入り、台風の目の近くまで、行くことは行く。でもそこまで。

「私は・・・・・・セクトに属することに関しては、思いっきり腰が引けていた。警戒していた。私には政治的センスが欠けているし、思想的にもまったく未熟だし・・・・・・という謙虚な気持もあったけれど、それより何より『徒党を組む』ということ自体が苦手だったからだ。理屈抜き。生理的にダメ。それは今でも変わらない。」
 
で結局、喧騒の早稲田と、中流の平常そのものの家庭を、毎日行ったり来たりしているだけという。

「私は家を出ることができなかった。第一に自力で学費や生活費を稼ぎ出す自信がなかったし、第二に家庭生活の安楽さ(TVでお笑い番組を観て喜々としている私)も捨て切れなかったから。」
 
中野翠は、本当に正直な人だ。
posted by 中嶋 廣 at 18:28Comment(0)日記

高級な親子――『父・福田恆存』(4)

「第三部 父をめぐる旅路」は、親子の確執が語られるが、その前に、福田恆存と芥川比呂志の対立がある。ここも面白いが、しかしつづめて言えば、一つの劇団に両雄が並び立つことはない、ということだ。

数えで七十歳のとき、福田恆存は脳梗塞に見舞われる。この脳梗塞は軽度で、後のMRI検査でも、梗塞の後が見られないほどだった。しかし後で振り返ってみれば、福田恆存の晩年は、ここから始まっていたのだ。

「脳の病は恐ろしい。その後、物を書くにしても演出するにしても、嘗ての切れ味の良さは恆存の仕事から徐々に失はれてゆく。痕跡すら残さぬ程度の軽度の梗塞であれ、脳がダメージを受けたことが、急激な速度で父の衰へを加速させた。」
 
脳梗塞の後が、残らないくらいの程度であっても、脳の病気はダメなのだ。そうすると、僕のように、はっきり後遺症が残るような場合は、ますますダメだなあ、と悲観していてもしょうがない。やれるところまで、やらなくては。
 
福田恆存の場合、脳梗塞の後、何が変わったのか。
「福田恆存が書く文章の魅力といへば、やはりその論理の飛躍の見事さ、とでもいふか、そこまで跳べるかといふ跳躍をしてみせ、しかもそれが一見矛盾してゐるとすら見えかねない論理の展開を納得させてしまふ躍動感にある、さう言つたら分かつて頂けるだらうか。・・・・・・脳梗塞後、その跳躍のエネルギーが徐々に落ちて行つたといふのが私の実感である。」
 
そこで、もう書くのはやめたら、と著者は恆存に言う。衰えのわかるものを公刊して、晩節を汚さなくてもいいではないか。しかしこれは、福田恆存みずからが首肯するところではない。
 
しかもこれに、劇団の諸々が絡む。
「吾々親子の『悲劇』は私が劇団の仕事で、父の跡を継いでしまつたことに始まる。跡を継いだことによつて二人の会話も殆どが劇団関連のことにならざるを得ない。」
 
子供が成人してしまえば、普通はもう、頻繁な会話はなされない。しかし、この親子は違った。

「他人を交へた会議の席ならまだよい。これが二人で帰宅して、同じ屋根の下に住む親子に戻つた瞬間から、恐らく父は会議で抑へ込まれた憤懣がやるかたなく、私に向つて噴出するのだらう。・・・・・・私は私で『親父いい加減にしてくれ』といふ気持が湧き、劇団の会議の席上より激しく窘(たしな)めることにもなつてしまふわけだ。デーブルを叩いて怒鳴りつけたことさへあつた。」
 
二人の仲は以後、二度といい状態に戻ることはなかった、と著者は言う。でも考えてみれば、それは親子一般のこととして、むしろ当たり前のことなのだ。それよりも、わが子を一人前として扱う、福田恆存の人との付き合い方に、何よりも感動した。

(『父・福田恆存』福田逸、文藝春秋、2017年7月30日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 23:09Comment(0)日記

高級な親子――『父・福田恆存』(3)

このあと中村光夫、吉田健一、三島由紀夫、神西清と続いて行くが、そのところどころで子供の目から見た、というよりも、むしろ同じ地平で、一人の人間として、福田恆存の動向や佇まいが、垣間見える。

例えば、翻訳仕事に関する一シーン。
「そんなことより、福田恆存の翻訳――シェイクスピアに限らず、大丈夫なのか・・・・・・。さういへば、『老人と海』は訳した状況にもさまざまの事情もあつたやうで、初版は『誤訳』の山だつた。『さまざまの事情』の一つは、・・・・・・まさに渡米前の『やつつけ仕事』の一つだつたのだらう、不在中の家計維持のために、渡航準備に追はれながら時間のない時期に手掛けた金儲け仕事といつたところか。」
 
いやあ、知らなかったよ。僕は中学生のとき、『老人と海』を、解説まで読んで、福田恆存に興味を覚えたのだ。それが語訳の山だったとは。

でもとにかく『老人と海』は、僕の大変気にいるところとなり(だから当然、何回も読んだ)、そこから福田恆存の評論、すなわち防衛問題や国語表記について、果ては日本の近代化論までを、読むようになったのだ。
 
もちろん防衛問題については、「べ平連」が一世を風靡していた時代だから、僕ら高校生には、およそ福田恆存の言っていることは、受け入れられなかった。
 
本書に戻ってみれば、著者は福田恆存の翻訳を、「渡航準備に追はれながら時間のない時期に手掛けた金儲け仕事」と、痛いところまで、じつに正確に描いている。そこは本当に見事である。自分の父親を、一片のイヤミも交えずに、というか逆に愛情をもって、こんなふうに書けるなんて、凄いことである。
 
あるいはまた、肉親でなければ書けない、福田恆存のこういうところも。
「ところで、この間違つたことを嫌ふといふ態度の、そのおほもとにあるのは一種の美意識だと私は考へてゐる。正義感とは全く違ふ、人のあるべき居ずまひ佇まひとでもいつたもの、さういふところに福田恆存は居心地の良さを感じ、さういふ物差しに基づく基準を何事においても当て嵌めようとし続けたのだと思ふ。」
 
美意識と正義感では、著者も言うように、まるで違う。だから僕が、その本は読んでも、敬して遠ざけたい気持は、今となって見れば、自分でもよくわかる。
 
また著者の見るところ、福田恆存には、次のような本質的な性向もあった。
「・・・・・・『生来の楽天家』こそ自他ともに認める福田恆存だと思へる。日頃接してゐた父に悲観の姿は寸毫も見られなかつた。」
 
己の美意識を全面的に打ち出してくる、生来の楽天家、とくれば、やっぱり会うことに躊躇するだろう。
 
しかしここで注目すべきは、「日頃接してゐた父」という文言であろう。同じ屋根の下にいたからといって、「日頃接してゐた父」と書けるとは限らない。
 
そういう著者に、福田恆存は、こんなことも語っていた。
「父は常々私に、かういふことを言つてゐた――どこへ行かうとしても、前に小林秀雄がゐるんだ――それはさうだらう。」
 
そうか、小林秀雄がいた時代は、ほかの批評家にとっては、大変な時代だったんだ、ということが言いたいのではない。そうではなくて、そんなことを子供に向かって言うことが、どれだけ率直極まりないことであるか、ということだ。

僕が父親として、子供に向かって、自分の一生の課題を言えるか、と言われたら、まず無理だ。たぶん父親で、わが子に向かってこういうことが言えるのは、ほとんどいないのではないか。
posted by 中嶋 廣 at 18:03Comment(0)日記