高度な文明批評――『中高年ひきこもり』(2)

斎藤環によれば、ひきこもりの定義は、次の二つである。

(一)六カ月以上、自宅にひきこもって社会参加をしない状態が持続すること。

(二)ほかの精神障害がその第一の原因とは考えにくいこと。
 
そうではあるけれど、大事なことは、ひきこもりは(一)のような、「状態」を意味する、ニュートラルな言葉だということだ。

「たとえば『不登校』にしても『ホームレス』にしても、病名ではないけれどなんらかの支援が時に必要となる『状態』であり、それらと同様に考えていただければと思います。」
 
つまりキュア(治療)は必要ないけれど、ケア(介護)は必要としているということ。これが斎藤の、基本的な姿勢だ。
 
そして「中高年ひきこもり」については、ひとつの典型的な例を挙げる。
 
2018年1月に札幌市内のアパートで、82歳の母親と、52歳の娘の遺体が発見される。

これはまず母親が死に、長年ひきこもりだった娘は、その後、誰にも気づかれずに、衰弱死したと見られる。これが典型的な「8050問題」である。
 
これを放置しておくと、「やがて孤独死が大量発生する時代が来るでしょう。また、みんなが生活保護を受けて生計を立てられたとしても、こんどはそれが社会保障制度を破綻させかねません。」
 
こういうのを読むと、キュアは必要ないとはいえ、そうとう手厚いケアが、必要とされていると思う。
 
斎藤環によればそのケアは、ひきこもっている人と家族の間に、かならず第三者を入れること、そして、ひきこもっている本人は、いわゆる「モンスター」ではなくて、「困難な状況にあるまともな人」に過ぎないということである。
 
この「困難な状況にあるまともな人」こそ、ひきこもりの本質である、ということを、全編を通して、説得的に描こうというのが、斎藤環の狙いである。

「少なくとも周囲の人には、彼らを病気や障害のある人という色眼鏡で見ないようにしてほしいのです。最も望ましいのは、〔中略〕彼らを『たまたま困難な状況にあるまともな人』として見ることだと思います。そうした姿勢で向き合い続けることで、彼らの傷ついた自己愛のねじれが、少しずつ解きほぐされていくことが可能になるでしょう。」
 
それは、ひきこもりの人たちだけではなく、それに向き合う僕たちにも、ある変革をもたらしてくるのだ。
posted by 中嶋 廣 at 14:05Comment(0)日記

高度な文明批評――『中高年ひきこもり』(1)

斎藤環のこの本は、Kさんにもらった。

Kさんは辣腕の編集者で、斎藤環が世に出るきっかけとなった、『社会的ひきこもり 終わらない思春期』を企画・編集した人だ。斎藤環はこの本によって、「ひきこもり問題」の第一人者となったのだ。
 
でも僕は、ひきこもりに関しては、ほとんど興味がなかった。

「賢治の学校」の故・鳥山敏子さんとは気があって、ひきこもりについても、ずいぶんいろんな話をした。

鳥山さんと喋っている間は、なるほど大きな問題だと思ったが、しかしそれは、その時かぎりのことだった。鳥山先生は、ひきこもりの子どもたちこそ、人間らしい明日を築く希望だとおっしゃったのだが……。
 
だいたい編集者時代の僕はよく喋り、どこにでも出かけていくお調子者だった。もちろん職業に合わせて、そういうふうに自分を作っていたのだ。そういう人間からすると、ひきこもりは対極にある存在だ。

Kさんは、僕のそういうところもわかっていて、この本を送ってくれたのだから、まずは心して読むことにする。
 
まず初めに、2019年に起こった、二つの事件が取り上げられる。
 
一つは、川崎市のバス停で、51歳の男が、登校中の小学生ら20人に、刃物で襲いかかり、2人を殺害した事件。これは、誰か特定の人物を狙ったものではなく、通り魔によるものだった。
 
二つ目は、その4日後に練馬区で、元農水省の事務次官が、長男を刺殺した事件である。父親は76歳、子どもは44歳で無職だった。
 
これは、一方は加害者、もう一方は被害者という違いはあるが、いずれも「中高年ひきこもり」が、引き起こした事件だった。
 
ちなみに内閣府の調査によれば、40歳から64歳までの、ひきこもり状態にある人は、全国で61万3千人の推計値が出ている。
 
しかし斎藤環は、この数字は、実態よりも少なめに出る傾向があるという。

「私の推定では少なくともその二倍はいます。現時点で日本全国でひきこもり状態にある人はおそらく二〇〇万人以上にのぼり、その半数が中高年でしょう。」
 
これは怖ぞけをふるう数字だ。人知れず悶々とした人が、他者と切れた状態のまま、200万人以上いるのだ。
 
ところが斎藤は、まったく逆のことを言う。

「推計二〇〇万人以上の集団であるにもかかわらず、これだけ長期間にわたってほぼ大きな事件がなかったことは、ひきこもりが『犯罪者予備軍』どころか、犯罪とはほぼ無縁の集団であることを物語っています。」
 
これは同意するにせよ、しないにせよ、鮮やかな逆転ではないか。
posted by 中嶋 廣 at 18:30Comment(0)日記

大震災後の古本屋めぐり――『東北の古本屋』(2)

古書店が、「文化を繫ぐ」ことと関連させて、顕著な例として挙げているのは、郷土史誌というジャンルである。
 
新刊書店でも、少し大きなところになると、郷土史誌類はある。しかしそれは、新刊書としての郷土史誌である。
 
古書店で扱っているものは、まったくジャンルが違う。それこそ、本の厚みが違う。歴史が感じられる。
 
郷土資料は県によって、かなり濃淡があるのだろうが、それでも東北全体でいうと、半ば以上の古書店は、郷土史誌類を扱っている。

「文化を繫ぐ」ということは、直接的にはこういうことを指している。
 
もちろんそれ以外の本も扱っていて、そこに一軒ずつの個性があふれている。
 
2011年から2017年にかけての取材は、大震災と向き合って、ときに涙なしでは読めない。
 
と同時に、震災があっても、すぐにまた古本屋をやろうという気力は、どこから湧いてくるのだろうか。
 
大震災の後、古書店の再興に賭ける情熱は、僕などが本好きと言っているのとは、次元が違うような気がする。

最後に、折付桂子さんの「あとがき」に触れないわけにはいかない。

「私事を書いておきたい」、という書き出しで始まる一段は、息をのむ。
 
2018年の「東北の古本屋」の連載が、終了に近づいたとき、夫の大腸癌が発見される。
 
夫は大手メーカーで研究・開発に携わるエンジニアで、仕事上はまったく別世界にいたが、折付さんの仕事を尊重し、ときに取材に同行してくれた。そういう夫婦であった。

夫はすぐに手術はしたが、肝臓にも転移があって、うまく取り切れない。

「抗癌剤治療での闘病生活を始めた矢先、十月初めに脳梗塞で倒れた。連載最終回の『福島県特集』十月号の校了直後であった。癌由来の梗塞(トルソー症候群)で打つ手がない。右半身不随で言葉も失い、絶望の中でのひと月を過ごし、夫は旅立った。」
 
淡々と記す事実には、言葉の掛けようもない。
 
最後の一行は、「この十一月に一周忌を迎える夫・故村上格に本書を捧げたい」とある。これが本当の供養というものである。

(『東北の古本屋』折付桂子、日本古書通信社、2019年11月10日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 18:04Comment(0)日記

大震災後の古本屋めぐり――『東北の古本屋』(1)

著者の折付桂子さんは、樽見博編集長と、『日本古書通信』の編集をしている。

僕は毎月、『古書通信』に、「一身にして二生を経る」を載せてもらっている。大変お世話になっている方だ。その人が本を書いた。
 
折付さんの郷里は福島だ。そこで折付さんは、2011年の大震災以来、毎年定期的に福島とその近辺を取材して、『古書通信』に載せてきた。
 
2018年になって、古書店の人たちから、東北の古書店はどんな状況なのか、店は何軒くらいあるのか、東北のほかの地域の情報が知りたい、という声が寄せられた。
 
そこで『古書通信』では、改めて東北六県の古書店を訪ね、さらに単行本には地図や写真も入れて、詳しい案内となるよう心がけた。

その写真は、古書店の外観と中とが、ほぼ全ページに挿図としてカラーで載っていて愉しい。
 
単行本にまとめるにあたっては、2011年から2017年に取材した分も、抜粋して掲載した。2011年から17年の分を入れたことによって、縦の軸が通り、凝縮した歴史が生まれた。
 
本文を読んでいこう。まず全国の古書店は、どうなっているのか。

「二〇年前、全国で二七〇〇軒を超えていた古書組合加盟店は、二〇一九年三月現在二〇五六軒(うち東京は五七四軒)。」
 
20年前の2700軒から、現在2056軒。これは立派だといえよう。
 
ちなみに新刊書店は、日書連加盟店では、「一九八六年のピーク時一三〇〇〇店が現在三一一二店(うち東京は三二四店)」(小田光雄氏による)となっている。最盛期13000店が、なんと3112店である!
 
古書店と新刊書店では規模も違い、単純な比較論は意味がないのだが、それでも古書店の頑張りには頭が下がる。
 
東北六県については、「二〇年前が七〇数軒で殆どが『店舗』であったが、現在は六四軒のうち『店舗』(倉庫兼店舗も含む)は四一軒」である。
 
最初の「岩手県の古本屋」のうち、東光書店は懐かしい。いまから約40年前、筑摩書房にいたころ、高校の教科書回りで岩手県に行った。高校を回るのは3時過ぎで終えて、あとは書店を回った。新刊の書店回りをしたのだが、そのとき、古書の東光書店も回ったのだった。東光書店は、実に立派なつくりだつた。その写真が載っている。

僕は青森県以外の、岩手、宮城、山形、秋田、福島の各県は、ひととおり回ったことがある。
 
折付さんが、古書店の主にインタビューしていると、やっぱり新刊書店主とは、本についても角度が違う。

「青森の郷土史誌の品揃えは他店に負けないと自負しています。今は仕入れてすぐ売ろうという人も多いが、三五年前に仕入れた本がつい最近売れた例もある。じっくり腰を据えて文化を繫ぐことが古本屋の使命。」(青森市・誠信堂店主)

「文化を繫ぐ」ことが、一番の使命というところが、新刊書店では、何番目に出てくるだろうか。あるいは出てこなかったりして。
posted by 中嶋 廣 at 17:39Comment(0)日記

24人の作家論――『偏愛的作家論』(3)

この24人の中で、久生十蘭の短篇などは、もう読まれることはあるまい。一時期、僕が学生のときには、熱心に読んだものだ。
 
全集も、三一書房、社会思想社、国書刊行会から出版されていた。いかに全集が売れる時代とはいえ、尋常のことではない。

そういえば『久生十蘭短篇傑作選』というのが、何巻か忘れたが、河出書房から出ていた。岩波文庫でも『久生十蘭短篇選』が、これは一冊本だったが、出ていた。
 
久生十蘭はスタイリストであった。

「スタイルのために骨身をけずることこそが、作家にとっての本当の意味での倫理なのであって、人生の求道やら何やらを作品のなかに持ちこむことなどは、要するに田舎者の小説家の勘違いに過ぎない」。
 
学生の頃は、そうだ! と思っていた。もちろん澁澤も、スタイルこそ命を懸けるにふさわしい、と思っていただろうと思う。
 
僕はこのごろでは、スタイルに骨身を削ることは、その作家の、それこそスタイルとしか思わないけれど。

「人生の求道やら何やらを作品のなかに持ちこむ」ことも、その作家の力量によっては、素晴らしく面白くなる。これは当たり前のことだ。
 
なお澁澤は、『モダン日本』の原稿をもらいに、しばしば自宅に足を運んだことがあり、また疎開先の銚子から鎌倉に引っ越すときに、手伝いに行ったことがある。スタイリッシュ久生十蘭に、一方ならず肩入れするのは、大変よくわかる。
 
この本を読んでいて、「世界三大推理小説」が、日本にあることを思い出した。まあ、半分はホラだが、半分は本気である。
 
夢野久作『ドグラ・マグラ』、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』、中井英夫『虚無への供物』が、それである。
 
いずれも、推理小説という枠組みを借りた、突き抜けた傑作になっている。読めば圧倒される。読書経験の、究極のもの。あなたが読書をしていても、この3冊を読んでないならば、結局、読書という経験はなかったのだ。
 
さて全部を読んで、最後に蛇足に近いものを付け加える。
 
こういうエッセイ集を編むことは、今はもう不可能に近いと思われる。
 
澁澤は「あとがき」に書いている。

「『偏愛的作家論』と名づけたが、『作家論』のタイトルはやや羊頭狗肉で、書評、推薦文、月報やパンフレットに載せた、ほんのデッサン程度のものでしかない短い文章もある。この点は御寛恕を乞いたいと思う。」
 
残念ながら、もう今の読者は、「御寛恕を乞いたい」と願っても、許しはしないと思う。そういう本づくりは、すでに過去のものなのだ。

(『偏愛的作家論』澁澤龍彥、河出文庫、1997年7月4日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 12:42Comment(0)日記

24人の作家論――『偏愛的作家論』(2)

三島由紀夫の二律背反の根源は、澁澤龍彥によれば、以下の通りだ。

人生には何の目的もないから、せめて生きている限りは、自我実現の目標を立て、おのれの生の痕跡を、歴史に残しておきたいというもの。
 
それに対し、人生には何の目的もないから、自我なんてどうでもよく、何か一つの目的を設定して、信じるにせよ信じないにせよ、それに向かって突っ走り、自分を滅ぼすと同時に、世界をも滅ぼしてしまいたい、という考え方がある。
 
三島は作家であるから、作家としての仕事を、というのはつまり、前者の考え方を、完全に放擲したとは考えられない。たとえ最後は身を滅ぼしたとしても。

「だいぶ荒っぽい総括で恐縮であるが、現在の三島由紀夫氏の逢着している二律背反の根源は、ざっと以上のごとき構図のものであり、何事をも洞察している批評家的明敏をそなえた作家としての三島氏は、先ほど私が述べた二つの立場のうちの前者のそれに拠りながら、どれだけ後者の立場に文学的に接近しうるかという、いわばおのれの作家的生命を賭した危険な実験を行いつつあるわけである。」
 
これは明晰極まる三島由紀夫論といえよう。こうして三島は、ついに破滅したのだ。
 
澁澤はそこに、ダメ押しのように、もう一つ付け加える。

「ただ、以前から三島氏が強く惹きつけられていた、芸術のそれとはちがった領域、そこでは芸術がまったく不要になるような領域が、ついに海のように氾濫を起して、かつて三島氏が大事に守っていた古典主義の領土を滔々と浸している、というだけのことであろう。」
 
そういうものが、三島由紀夫を浸しているというのだから、僕が究極、興味をなくしたのは、むべなるかな、というものだ。
 
それにしても、これほど明晰な三島由紀夫論は、読んだことがない。
 
あとはいくつかアトランダムに取り上げていこう。
 
澁澤は、旧制高校を出たばかりのころ、「モダン日本」という出版社で、アルバイトをしたことがある。
 
そのときの『モダン日本』の編集長は、吉行淳之介であった。まだ24歳という若さだった。
 
二人は仕事が済むと、新橋や有楽町でよく飲んだ。澁澤はそのころ、ポール・モーランやシュペルヴィエルを読むことを勧めた。
 
吉行は梶井基次郎や牧野信一、あるいはチェホフ、ゴーゴリ、シュニッツラー、モーパッサンといったところを、細かい心理や情緒のニュアンスを楽しみながら、読んでいた。
 
しかしここでは、文学とは関係のない一場面を引いておこう。

「私の瞼の裏に焼きついている、若き日の吉行さんの酩酊したすがたの一つは、さる有楽町の二階の飲み屋の入口から下の道路へ通じる、木造の階段の手すりに、いきなり彼がうしろ向きに跨がって、子供がよくやるように、するすると下へすべり降り、あっけにとられて見ている私を尻目に、ぽんと地面に跳びおりると、『どうだ、うまいだろう、きみもやってみろよ』というような笑顔を浮かべて、上にいる私を見上げた時のそれである。」
 
それはいかにも屈託のない、爽快で無邪気な、感じのよいものだった。

「私は、ひょっとすると吉行文学の原点がここにあるような気もするのである。」
 
これは実に鋭い。

吉行文学については、男女の機微を描いて、まるでスポーツ選手のようである、という中村光夫の評が有名だが、澁澤龍彥のこちらの方が優れている。
posted by 中嶋 廣 at 11:37Comment(0)日記

24人の作家論――『偏愛的作家論』(1)

『龍彥親王航海記』を読んだあと、続けて『偏愛的作家論』を読みたくなった。
 
これはずっと昔に読んだことがある。

調べてみると、初版は1972年6月に青土社から出ている。その後、増補版が1976年8月に、新訂増補版が1978年12月に、同じく青土社から出ている。
 
そして文庫版として、福武書店から1986年11月に、福武文庫が消滅してからは、河出文庫で、1997年7月に出版されている。
 
考えてみれば、一冊の本としては、増補はされているようだが、驚くべき生命力である。
 
最初に僕が読んだのは、時期から考えて、72年6月の初版本のときだと思う。このころは澁澤を熱心に読んでいた。仏文の学生だった時期だ。
 
しかし今では、『偏愛的作家論』と言われても、ほとんど何も浮かばない。それで読むことにした。
 
収録されている作家は24名。掲載順に石川淳、三島由紀夫、稲垣足穂、林達夫、瀧口修造、埴谷雄高、吉行淳之介、鷲巣繁男、野坂昭如、花田清輝、安西冬衛、泉鏡花、谷崎潤一郎、堀辰雄、日夏耿之介、江戸川乱歩、久生十蘭、夢野久作、小栗虫太郎、橘外男、岡本かの子、中井英夫、吉岡実、南方熊楠。
 
こういう並べ方が澁澤的であるし、また一時代の文学エッセイの典型でもある。
 
たとえば、「青年時代の伝記的な資料をみずから完全に抹殺し、虚構の生活のなかに自己の肉身を韜晦しているという点では、おそらく石川淳氏は、第一次戦後派の花田清輝氏と双璧をなすだろう」、という言葉。こういう文章がすらっと出てくるところが、澁澤の明晰さである。
 
この中では、何本かの三島由紀夫論が断然優れている。
 
僕は三島由紀夫が好きではない。とうぜん数多ある三島由紀夫論も面白くはない。
 
しかし、澁澤の三島論は良かった。

「私のなかの『文学者』は、私のなかの『市民』とつねに敵対している。あなたのなかの『文学者』は、あなたのなかの『市民』とつねに敵対しているべきだろう。(中略)この『文学者』という言葉は、おしなべて『超越を志向するもの』という言葉に置き換えてもよい。」
 
最初に、自分や三島が立っているところを、明確にしておいて、そこから話を進めていく。
 
だから「三島氏の掲げるイデオロギーと、切腹という異様な自殺の方法とが、諸外国にどんな悪影響をあたえるか、といったような政府与党的な配慮には、私はまったく興味がない。」
 
三島のそういうところには、興味はないと言っている。近しいところで三島を見続けた人にとっては、だから虚飾を剝ぎ取った、生身の三島が浮かび上がってくるのだ。

「絶対主義と相対主義の相剋、そのイタチごっこ、そのイロニーにこそ、ロマン主義文学としての三島文学の本質があった。」
 
これだけでは、分かり辛いかもしれない。このタイトルは、「『天人五衰』書評」なので、それを例に引こう。

「言語表現の世界と現実世界との本質的差異をあえて無視して、さきほどの『存在しないものの美学』に即していうならば、ニヒリズム=相対主義=『カラカラな嘘の海』、ヒロイズム=絶対主義=『豊かな海のイメージ』という、相対立する等式が成立するであろう。」
 
そういう二項対立のイタチごっこなのである。
 
しかしこれでも、なお分かり辛いかもしれない。
posted by 中嶋 廣 at 18:36Comment(0)日記

解釈はどちらに?――『月日の残像』(2)

山田太一は、今村昌平学長の申し出を、断ったのか、承諾したのか。
 
田中晶子は、山田太一と特に親しくはないが、そしてかなり年の差はあるが、パーティーで会ったりすれば、シナリオライター同士、挨拶をする間柄である。
 
また、山田太一が教えるはずであった横浜放送映画専門学院は、ここに書いてあるように、新百合ヶ丘の日本映画大学になったが、ここでも田中晶子は、ついこの前までシナリオの書き方を教えていた。
 
つまりいろいろな意味で、環境をよく知っている。
 
その人が、山田太一は結局、この仕事を断っている、というのだ。そういうところは、絶対にゆるがせにしない人だ、という。
 
僕はしかし、山田太一は引き受けている、と思うのだ。
 
山田太一は、前回も書いたとおり、事件のあった帰りの電車の中で、テレビへの思いが、自分も初期からすると、ずいぶん変わってきたと思い、高名なシナリオライターの「『あのテレビに対する反感は分かるよなあ』と思いはじめていた。」
 
もちろん今村昌平の人物についても、その前に過不足なく書かれている。

「一九七四年、先日亡くなられた今村昌平さんから電話をいただいた。いうまでもなく『豚と軍艦』『赤い殺意』『にっぽん昆虫記』『復讐するは我にあり』の名監督である。と、こんな註釈さえ礼を欠くような気になる」。
 
つまり、シナリオのゼミを受け持つことについては、いちおう納得のいく理由が挙げられているのだ。ここで、今村昌平からの話をご破算にするのは、言ってみれば、大人の態度ではない。
 
しかしそれでも、田中晶子は、山田太一はこういうときにこそ牙を剝く人だ、というのだ。それはそれで、じつに魅力的な人間ではあるが。
 
ここまで来たら、いっそ山田太一に直接聞いてみればいいじゃないか、と誰でも思うだろう。まして山田太一と田中晶子は、面識があるのだから。
 
しかし、そうはいかないのだ。

山田太一は、2017年に脳出血を患い、今は老人ホームに入っているという。娘さんの話では、脚本家としてはもう誰にも会いたくないという。
 
これでは、「土の話」に出てくるシナリオを受け持つ話は、実のところどうなったでしょうか、とは聞けない。
 
それにこの話は、山田太一を鏡として、じつは僕と田中晶子に、返ってくる話なのである。
 
僕は結局、社会の中で(というのも変な話だが)暮らしてきた。そこで飯を食べてきた。どんなに尖ったことを言ったり書いたりしても、その枠にはギリギリ踏みとどまってきた。
 
それに対して田中晶子は、社会をはみ出る、とは言わないが、自分一人で、孤独な自分の力で、決断を下さなければならなかった。
 
これは広い意味で、編集者と著者の関係の話ともいえる。もし僕が現役の編集者なら、著者の田中晶子の意見に、もろ手を挙げて賛同するだろう。そういうものだ。
 
いざと言うとき牙をむく、山田太一という人について、そこから田中晶子の、山田太一をめぐる人物論が始まる。
 
しかし僕は、もう編集者ではない。だからそこで、ささやかな抵抗をしたい。たとえ山田太一を、つまらぬ「大人」の領域に連れ込んだにしても。
 
しかしどうも書けば書くほど、田中晶子の山田太一論の方が、魅力的だな(でも変えないよ)。
 
ところで、山田太一が部屋に入ったとき、二人のシナリオライターがいた。一人は石堂淑朗で、「いや、まあ、ここへいらっしゃい」と、とりなすように言ってくれた。
 
ではもう一人の、喧嘩腰の高名なライターは、いったい誰だろう。それが最後まで、気にかかったままだった。

(『月日の残像』山田太一、新潮社、2013年12月20日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 14:36Comment(0)日記

解釈はどちらに?――『月日の残像』(1)

朗読も、ローテーションを回しているだけだと、退屈してくる。たまには目先の変わったものを、取り上げたくなる。
 
で、山田太一の『月日の残像』を読む。
 
これは大正解だった。朗読していくと、山田太一の文章が、自然に立ってくるのである。屈曲の鮮やかな、しみじみした文章が、出血した脳の再建に、そのまま役立っているのが分かる、という気がしてくる。
 
こういうのは、実際に朗読して見なければ、分からないことだ。
 
この本は、新潮社の『考える人』に連載された、エッセー集をまとめたものだ。
 
これを妻の田中晶子が聞いていて、ときどき注釈を加えてくれる。妻も脚本家だから、その注釈は痒い所に手が届く、なかなか味のあるものだ。
 
ところが「土の話」という一篇で、二人の意見が分かれてしまった。エピソードの解釈が、真っ二つに分かれてしまった。
 
あるとき山田太一に、映画監督の巨匠、今村昌平から電話が架かってくる。

「横浜放送映画専門学院というものをつくることになり、そこでテレビドラマの脚本のゼミを一つ持ってくれないか、というお話であった。いま新百合ヶ丘にある日本映画大学の母体である。
 教える資格があるかどうかと口から出かかったが、今村さんからのお話を断るなんてできないという思いが強くて、電話の前でお辞儀をしたりして受けてしまった。」
 
それで、会ったことのない今村昌平に会いに行き、挨拶をし、それから事務の人の案内で、××号教室で、二人のシナリオライターと打ち合わせをすることになった。
 
ここで、ちょっとした事件が起こる。

「『えーと、ここで打ち合せをするようにいわれて、来ました。ゼミを一つ受持つことになった山田です。よろしくお願いします』と通常の挨拶をすると、
『知らねえよ』と一人の高名なライターが喧嘩腰なのである。『ここは映画のシナリオの打合わせなんだ。テレビのことなんて知らねえよ。勝手にやってくれよ』」
 
まあテレビの初期にはよくあったらしい。いや、今だってそれに近い人はいるらしい。これは田中晶子に聞いたことがある。
 
このとき、山田太一はどうしたか。

「『いえ、あ、その、それじゃあ』と私はうろたえたようになって、すぐ廊下へ出てドアを閉め、エレベーターの方へ向いながら、まったくこういう咄嗟の攻撃にピシリと格好いいことをいい返せないのは教養がないからだ、と情けなくて、どこをどう歩いたのか(というほど複雑でもなく駅はすぐだったのだが)、気がつくと電車に乗っていて、『あのテレビに対する反感は分かるよなあ』と思いはじめていた。」
 
でさて、このあと山田太一は、シナリオのゼミの先生を、引き受けたのかどうか、というのが疑問の焦点である。
 
僕は当然、山田太一は、今村昌平の前で引き受けるといったのだから、気分の良くない一件はあったが、それはそれとして、ゼミは引き受けたと思っていた。
 
ところがこれに対し、田中晶子は、絶対に引き受けてはいない、と主張する。山田太一は、人間の心理をどこまでも探る、奥の深い、複雑な人だが、最後に自分の矜持は、絶対に守る人だという。
 
うーん、これはどっちだろう。
posted by 中嶋 廣 at 12:35Comment(0)日記

末木先生以外にはない――『日本思想史』(3)

大伝統から中伝統へという、本書の大部分を占める歴史記述には、面白いところも多々ある。

「最澄や空海が築いた世俗と仏法の関係は、それぞれが独自の世界を持ちながら、相互にとって必要不可欠という関係を結ぶというものであった。その関係構造は中世を通して、より成熟した形で継承されていくのである。」
 
この辺りは日本思想史という、巨視的なパースペクティヴを視野に入れてなければ、言えないことだろう。
 
高野山の一山寺院を、実際に見た後では、なぜあんなものを作り上げることができたのか、そして、それに対応する朝廷の大きさと、そこからの距離の取り方を巡って、いろいろ考えさせられた。
 
そういう巨視的なところだけではなく、所々に忍び込ませてある、末木先生の呟きが面白い。

「戦後、保田〔輿重郎〕は戦争を鼓舞したイデオローグとして一身に罪を背負わされたが、実のところ、彼の評論は戦意を高揚させるようなものではなく、むしろ厭世的な気分に満ちている。保田が共感をもって描き出したのは、はかない日本の美であり、敗残者の精神であった。勇ましい政府の掛け声の影で、保田か戦争期の精神的支柱になったのは、はじめから無理な戦争に若者たちが死にに行かなければならない不条理な状況ゆえであった。」
 
保田輿重郎は、「日本の橋」以外は読んだことがない。後方にいて、戦争をけしかけた「悪い奴」という印象が強すぎて、何も読まなかった。
 
末木さんの記述を読むと、いかにもそういうことがありそうな気がする。ちょっと読んでみようかとも思うが、でもなあ、日本浪漫派は嫌いなのだ。
 
あとは、悪名高き「近代の超克」である。
 
これは大学に入ってすぐ、西川正雄先生のゼミで取り上げられたことがある。西川先生はヨーロッパの近・現代史が専門なのに、このときは第二次大戦下の日本がテーマであった。
 
それで必要な文献はざっと読んだ(と言っても、大学の一年生が読むのだから、知れたものであるが)。

「京都学派の哲学者だけでなく、文学者や音楽家なども含めて開いた座談会『近代の超克』は世評に高かったものだが、今日読み返してみると、危機感に乏しい雑談に終始し、当時の思想界(と言えるだけのものがあったかどうか自体が分からないが)の限界を露呈することになった。」
 
ぼろくそですな。

しかし、出版という業界に入ってみると、総合雑誌の座談会などはこの程度の、中身のないものだということがよくわかる。それに「思想界」というものも、いまでもあるのか、きわめて怪しいものだ。

1942年の9月といえば、日本が負けだしてすぐの頃、たぶん大本営発表で、戦争の現状を知らされてないときだろう。

河上徹太郎先生以下の参加者は、気楽にしゃべってください。『文学界』がそう言うから参加したのに、という嘆き、不満が聞こえてきそうだ。
 
最後の十二章は、「平和の理想と幻想」という題である。そこにもすでに、先生の批判がある。

「戦後憲法の中心原理である主権在民と平和主義のいずれもが普遍性をもった原理であることを宣言している。(中略)普遍的原理であれば、いつでもどこでも通用しなければならないから、そこには歴史性や特殊性が入り込む余地はない。戦後の小伝統は、中伝統とも、ましてそれ以前の大伝統とも断絶した普遍性に基づいて築かれる。」
 
しかし冒頭の第一条は天皇制から始まっている。このあたりが、日本の旧勢力とGHQの、妥協の産物である。
 
ことほどさように、この本は中に踏み込んでいけば、いろんな側面で議論ができる。

誰もやらないなら私がやるという、末木文美士先生の最大の狙いは、まずは当たったといえよう。

(『日本思想史』末木文美士、岩波新書、2020年1月21日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 16:25Comment(0)日記