続・「天才」の謎に挑む――『鬼才伝説―私の将棋風雲録―』(2)

加藤が大山に、親しみを感じていたように、大山もまた加藤に、気安さを感じていたようだ。
 
あるとき、秒読みに追われる加藤の前で、大山が、「ラジオ体操いち、にっ、さん」とささやき始めたのだ。「いち、にっ、さん」というのは、もちろん加藤の名前を指している。よほどの気安さがなければ、こんな冗談は言えない。

こういうことは、そばにいる人が、ぜひ書き留めておいて下さい。とはいっても、プロしかいなくて、真剣勝負をしているときには、人の冗談を受けている暇はないか。

加藤の升田・大山論は、このあと、最大の山場を迎える。

升田九段は、将棋は突き詰めれば、答えが出ると思っていた。それに対し大山は、将棋に答えはないと思っていた。

大山が恐ろしいのは、ここから先で、「大山名人は結論が出なくても、勝つのは何だかんだといっても自分だと信じていた。」

このへんが、同じ天才でも、よくわからないところだ。

またもう一つ、加藤には、次のように分かりにくいところもある。

「(両巨匠に)何度も完敗するうちに、私もはたと気づいた。
 ……大山名人、升田九段の両巨匠は、形勢がかすかにでも指しやすくなれば、最後までそれを維持し続けて勝っている。つまり将棋にはその局面、曲面で一番いい手があるのだということに思い至った。」
 
いまごろ、そんなことに思い至るなよ、と言いたい。だってそうでしょう。一局の将棋が終われば、感想戦で、こっちの方がよかった、いや、こっちの方が、と侃々諤々やっているではないか。あれは、いったい何なのだ。

しかもこれに続けて、加藤の驚くべき告白がある。

「もし将棋に確かな手、一番いい手があるなら、人生にもきっとあるはずだ。
 ……私はちょっと行き詰っている。このまま行っても先は見えているなと感じていた。
 行き詰っているものは突破できるはずだ。それには方法があるだろうと思った。
 そう思ってカトリック教会の門をたたいた。」
 
どこをどうすれば、将棋の指し手から、カトリック教会の門が出てくるのか。天才の発想は、思いもよらない。
posted by 中嶋 廣 at 17:54Comment(0)日記

続・「天才」の謎に挑む――『鬼才伝説―私の将棋風雲録―』(1)

やはり藤井聡太六段が、気にかかる。

だいたい藤井聡太四段が、あっという間に、六段である。この間、五段でいたのは、半月ほどもなかったという。そんな馬鹿な!

しかし、規定はクリアしている。しかも今年のうちに、七段に上がりそうだという話だ。師匠の杉本昌隆と同じ、「七段」だよ。

弟子が師匠を追い抜いてゆくのは、よくあることだから、それは別にどうということじゃない。しかし、そのスピードが速すぎやしませんか、というのである。

そこで今度は、天才が自ら語ったものを、読んでみることにした。

そうは言っても、藤井六段は、高校生になって、まだ一月もたっていない。そこで、元祖天才・加藤一二三のものを、読むことにする。

『鬼才伝説』というが、サブタイトルの『私の将棋風雲録』の方が、メインのタイトルにふさわしい。でもまあこれは、しょうがない。げんに僕も、このタイトルに惹かれて、買ってしまった。
 
まず最初は、大山康晴十五世名人。加藤一二三の、この人に対する見方は、独特だ。

「大山流の将棋は一言でいえば気合いだ。あの人は理論派ではない。私はその手で自分が負けたとは思わなかったが、相手に響くような戦い方ができる人だった。
 その手を見ると相手はある意味、感動する。升田九段の将棋にそういったところはない。」
 
大山名人の勝負哲学は、「人間はまちがえる動物である」というものだが、これを見ると、「まちがえろ、まちがえろ」と念じて、勝負していたような気がする。
 
ここでは、大山と升田の対比が、人の言わないことを語って、見事である。天才の見方からすれば、こういうふうになるのか。
 
加藤は大山名人に対して、親しみを感じている。

「大山名人とは、会話をしたり食事をしたりと将棋以外でも交流があった。私に対してある種の気安さを感じていたのかもしれない。」
 
世間では、指し手のうえでは、大山は加藤を、なぶり殺しに近い目に遭わせ、その結果、神武以来の天才が、迷って指せなくなった。すぐに一分将棋になるのは、そのせいである、という説が、まことしやかに信じられていた。
 
かつて五味康介などは、なかなか止めを刺さない大山の素町人根性が、加藤の天才をダメにした、というようなことをいっていたが、当事者は、少なくとも加藤は、ぜんぜん違うことを考えていたのだ。
 
この章の最後に、大山と升田を比較した、端的な話が出てくる。
「升田語録には凡庸ではない言葉遣いに魅力がある。大山語録は地味ながらどこを取っても面白い。」
 
大山や升田を相手に、天才・加藤はどうどうと対峙している。
posted by 中嶋 廣 at 17:31Comment(0)日記

長編「小説」ではなく、長編「エッセイ」――『いのち』(2)

そうは言っても、たとえば河野多惠子に関わる、次のような箇所は、やはり迫力がある。

「多惠子が、夫として、選ぶ男は限られていた。彼女の性的傾向を受け入れる、あるいは調教され得る男性でなければならなかった。
 河野多惠子の小説は私小説ではないものの、書く題材のすべては、彼女の心の中をねっとりと、深く厚く、漉(こ)し通されなければならなかった。」
 
なかなか迫力のある一節である。もっとも、ではそれがどの程度、倒錯した行為かというと、それは書かれていない。
 
また大場みな子については、次のような記述がある。芥川賞を受賞した後、アメリカにわたり、子宮筋腫の手術で、子宮を失ったころである。

「それでもみな子さんは人一倍女性的なのか、あくまでその後も女性でありつづけたと、夫の利雄さんは告白している。……
 また、セックスの記憶は永遠だとも利雄さんの告白がある。
 子宮も片方の乳房も手術でなくしたみな子さんが死ぬまで、その体で利雄さんにセックスをせがんでいたという事実は凄まじい。」
 
こういう話しを、九十五歳の「老婆」が、あけすけにしようとするのである。これはこれで、ある迫力はある。
 
ただしこれは、河野多惠子や大場みな子に限って、文学として評価されることであろう。九十歳を超えた「老婆」2、3、4……が、これをやっても、うんざりするばかりだ(大場みな子は、九十歳を超えてはいないが、同じことだ)。
 
何が言いたいかというと、コンピューターで、大勢が文章を書く時代には、とくに年寄りが、いまわのきわまで思いのたけを書く時代には、こんな程度のことは、いくらでも出てくるだろう。
 
特に性の事柄については、匿名であるなしにかかわらず、情報があふれ、社会における深化が、いちだんと進んだような気がする。
 
そういう時代に、河野多惠子や大場みな子といったって、振り返る人は、ほとんどいない気がするが、どうだろう(それはそれで、ちょっと悲しい気もするが)。

(『いのち』瀬戸内寂聴
 講談社、2017年12月1日初刷、2018年1月25日第5刷)
posted by 中嶋 廣 at 18:48Comment(0)日記

長編「小説」ではなく、長編「エッセイ」――『いのち』(1)

これは僕が脳出血で倒れる前に、講談社の部長のМさんが、なんとか瀬戸内さんには命を繫いで、書き継いでほしい、とにかく素晴らしいのよ、と言っていたものだ。
 
九十五歳だから当然、最後の長編小説になる(なるんだろうねえ、たぶん)。
 
そういうわけで、瀬戸内寂聴の本を、初めて読んだ。
 
最初に断っておくと、これは長編小説ではなくて、長編エッセイである。だから帯の「大病を乗り越え、命の火を燃やして書き上げた/95歳、最後の長小説。」は、ちょっと嘘である。

話の大きな筋は、河野多惠子や、大場みな子との、長年にわたる付き合いである。これが結構、スキャンダルであるらしい。
 
河野多惠子のセックスが、かなり歪んだものであったり、大場みな子が、夫がいるにもかかわらず、夫公認で男とセックスをしたりするというのが、あけすけに書かれているのが、大きな話題を呼んだらしい。

あるいはそのために、「長編小説」と謳ったのかも知れない。

瀬戸内寂聴と、河野多惠子・大場みな子との距離は、たとえばこういうものである。

「ある時、講談社へ用があって出かけた時、何階かの廊下に返本の大場みな子全集が山と積まれているのを目撃した。新潮社の編集者の話では河野多惠子の全集もその例に漏れないと言うことだった。」
 
二人との、こういう距離の取り方が、いかにも信頼できる、という感をもたらすのだろう。しかもこれは、二人が生きていれば、無理なのである。
 
一方、瀬戸内寂聴の事情は、切羽詰まったものだ。

「一番情けないのは、腰が弱りきり、物に腰かける姿勢が、五分と保てないことだった。横たわって本を読むことはできるが、ベッドから起きあがって、机に向かうなど、全く不可能であった。」
 
一時はこういうところに追いこまれてしまうが、そこからかろうじて文章を書くまでに復活する。
 
そういうわけだから、内輪の女流の話も、有り難がって聞くべし、ということになる。
posted by 中嶋 廣 at 19:12Comment(0)日記

末木教授の果敢な冒険――『思想としての近代仏教』(3)

「Ⅳ アカデミズム仏教研究の形成」は、仏教研究そのものを問題にする。ここは大いに読ませる。仏教の本で、仏教研究そのものを問題にした本は、実は非常に珍しい。

それはふつう「仏教学」と呼ばれ、公認された研究分野だと思われているが、じつは、はっきりそうも言えない。

「仏教系の私立大学においては仏教学という分野があるが、それ以外の大学にはほとんどそのような学科や専門はなく、わずかに東京大学にインド哲学仏教学専修過程、京都大学に仏教学専修がある程度である。」
 
宗門大学を除けば、わずかに二校のみ。しかしそれが、東京大学と京都大学であるところがミソである。
 
その仏教学は、ブッダの精神を明らかにしようとするものであったが、そこには一つの、暗黙の前提があった。

「そのブッダの精神がまさしく大乗において顕現し、さらにそれが日本の親鸞や道元にもっともよく発揮されているというのが、日本の多くの仏教学者の常識であり、それが疑われることはほとんどなかった。その点で、歴史的には大乗非仏説でありながら、教理においては大乗仏説という村上〔専精〕の説は、その妥当性が議論されないままに継承されてきたということができる。」
 
これは暗黙の前提であって、ここを問題にすれば、足元が崩れ落ちるようなことになる。けれども、「暗黙の前提」を顕然化させた以上、この方向に向かって、突き進む以外にない。
 
鎌倉新仏教が中心でなくなれば、鎌倉時代が仏教史の上で、特権的な重要性を持つという見方も、崩れ去ることになる。

「古代・中世・近世それぞれに固有の発想があり、それを解明することが要請される。」
 
これは本当に大変なことだ。「仏教史」という、ある程度わかっているものの解明を、目指すのではなく、もう一度すべてを投げ打って、ゼロからやらなくてはならない。
 
しかし「近代仏教」に関わるさまざまな問題は、仏教の枠だけにとどまるのではなく、ひろく日本の近代を問い直し、そしてそこから、日本全体への問い直しをするものになる。
 
そのことはまた、翻って仏教とは何かを、本質的に問い直すことにもなろう。

(『思想としての近代仏教』末木文美士、中公選書、2017年11月10日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 17:43Comment(0)日記

末木教授の果敢な冒険――『思想としての近代仏教』(2)

全体は序章+五部+終章に分けられ、序章の「伝統と近代」で、問題を大づかみにする。

仏教における「近代」とは、簡単に言えば、階層よりも平等を重んじ、地域性よりも普遍性を強調し、教団よりも個人を高く評価しようとするものだ。そしてこれは、進化の過程に到達したものではなく、むしろ、ブッダそれ自身の仏教への回帰だ。

五つの部は、以下のとおり。

「Ⅰ 浄土思想の近代」は清沢満之、曽我量深の「日蓮論」、親鸞と倉田百三が並ぶ。「Ⅱ 日蓮思想の展開」は田中智学と国体論、日蓮と「凡夫本仏論」が並び、「Ⅲ 鈴木大拙と霊性論」は、大拙の「日本的霊性」と中国禅思想の理解をめぐって、批判を加える。

ここでは、曽我量深の「日蓮論」をめぐって、「宗派の壁はこえられるか」というのが、非常に面白い。

「混迷する今日の日本で、仏教がその本来の役割を取り戻し、社会に道標を示すことができるためには、宗派の壁を取り払い、仏教界全体として、もう一度その本来のあるべき姿を探求しなければならないのではないか。」
 
これはさらっと書いてあるが、ほとんど革命であろう。そんなことが、本当にできるのか。

「Ⅲ 鈴木大拙と霊性論」では、「大拙批判再考」の中に、非常に大事な一節がある。佐々木閑氏による、大拙批判を引いているところである。

「佐々木は、大拙が『正しい大乗仏教の概念の提示には失敗している』として、『正しい大乗仏教』があるという前提に立っているが、はたして『正しい大乗仏教』などというものがあるのであろうか。」
 
ここは、大拙の批判そのものはおくとして、仏教を論じる場合に、二つの立場が想定されている。
末木先生の立場は、佐々木閑氏とは、相容れない。

「仏教は地域によってさまざまな展開を示すのであり、仏教はその多様性において理解されなければならない。それ故、インドの仏教を『本来』とか『正しい』というのがはたして適切かどうか、疑問である。」
 
これがやがて、「Ⅴ 大乗という問題圏」につながっていく。
 
それにしても、「仏教はその多様性において理解されなければならない」というのは、キリスト教やイスラム教に比べても、かなり難しい問題である。いや、キリスト教やイスラム教の場合も、同じことなのだろうか。
posted by 中嶋 廣 at 12:40Comment(0)日記

末木教授の果敢な冒険――『思想としての近代仏教』(1)

トランスビューにいるとき、末木文美士(すえき・ふみひこ)先生の『明治思想家論』と『近代日本と仏教』を出版した。共通のサブタイトルを「近代日本の思想・再考」と名付けて、Ⅰ・Ⅱとして、2004年に出したのだ。
 
このとき頭にあったのは、丸山眞男の『日本の思想』で、簡単に言ってしまえば、そこでは政治と文学だけで、「日本の思想」を代表させているというのが、物足りないというか、不満だった。
 
それで「近代日本の思想・再考」としたわけだが、こういう大きな括り方は、著者にはできにくい。著者はもっと真面目に、真摯に、微細な目で研究対象と向き合っている。
 
そこで目を変えて、編集者の努力が、まあ滅多にないことだが、実を結ぶことがある。

もちろん末木先生の、この二冊が、とび抜けて素晴らしいことが前提である。そうでなければこちらも、二冊の本で内容見本を作るような、いわば「博奕」を打つようなことはしない。

その後、「近代日本の思想・再考 Ⅲ」として、『他者・死者たちの近代』を出した。2010年のことだ。

『思想としての近代仏教』は、それ以後に、同じテーマで書かれたものを集めている。読んでみると、研究対象としては、いわゆる仏教論をはみ出して、「近代仏教」という一つの大きな独立した一ジャンルを、構成しているように見える。

だからタイトルも、『思想としての近代仏教』ではなく、『思想としての「近代仏教」』の方が、たぶんよかったと思われるが、どうか。

根柢にあるのは、鎌倉新仏教を中心とした歴史叙述が、否定されたことにある。これは法然、親鸞、道元、日蓮らが、日本の宗教史上、最高のものであり、その後、時代が下るにしたがって、仏教は堕落の一途をたどった(これを「近世仏教堕落史観」という)、といわれる見方が、否定されたことである。

だから早急に、新しい歴史叙述が必要になるのだが、これがなかなか難しい。そこでたとえば、高校の日本史あたりでは、相も変わらぬ鎌倉新仏教中心論を教えている。どうしてこういうことになるのか。

「過去の仏教的伝統をどのように見るかは、研究者自身の位置ときわめて密接に関係していることが明らかである。それとともに、逆に過去の仏教に関する研究の成果が、現代の仏教観を大きく規定していく面も見落としてはならない。伝統と近代・現代は常に相互に緊張関係に立ちながら、相互に規定しあっているのである。」
 
何となく、自分の脳そのものを対象とする、「唯脳論」の世界と、似ているような気がする。
posted by 中嶋 廣 at 16:17Comment(0)日記

文体だけではしょうがない――『銀河鉄道の父』

これは、僕にはつまらない小説だった。宮沢賢治の父親の立場から、一家の消長を描いているのだが、これがなんとも物足りない。
 
賢治の内面まで抉って書いてあって、そこに父の立場から、深いところまで絡んでゆくことを期待するも、大いなる空振りである。
 
べつにこれなら、宮沢賢治でなくてもかまわない。しかし早逝した賢治だと、あらかじめ知っている者が多い。あるいは賢治というだけで、ある読者数が見込める。その数を当て込んだだけとも言える。
 
ただ、文体だけはいい。そして、ほとんどそれだけの勝負になる。

「この生き馬の目をぬく世の中にあって商家がつぶれず生きのこるには、家族みんなが意識たかく、いわば人工的な日々をすごさなければならぬ。家そのものを組織としなければならぬ。生活というのは、するものではない。
 ――つくるものだ。
 というのが政次郎の信条だった。封建思想ではなく合理的結論。」
 
これが、父・政次郎の考えだったのだが、冒頭近くでこんな叙述を読めば、いやが上にも期待は高まる。ついつい前のめりになって読み進めたが、これがどうも、スカを喰らった。
 
宮沢賢治が赤痢で入院し、それを政次郎が、何日も夜通し看病し、治してやる。そのようすを、政次郎の父の喜助が、こういうふうに言う。

「『お前は、父でありすぎる』
 それが赤痢よりも遥かに深刻な病であるかのような、憂いにみちた口調だった。」
 
うまい。それでついつい調子に乗って読み進む。
 
また政次郎が、子供のことで、夜更けて内省する場面がある。
「子供のやることは、叱るより、不問に付すほうが心の燃料が要る。そんなことを思ったりした。」

「心の燃料」という言い回しが、心憎いばかりにうまい。それでまた続けて読んでしまう。
 
こういう場面もある。
「ひょっとしたら質屋などという商売よりもはるかに業ふかい、利己的でしかも利他的な仕事、それが父親なのかもしれなかった。」

「利己的でしかも利他的な仕事、それが父親」なんて、言われてみればその通りだと思うけど、でもなかなか言えないセリフだ。
 
ただこれは、宮沢賢治の父親である必要は、全くない。
 
まだまだ文章で光るところは、いくらでもあるのだが、賢治や、その妹・トシが描けていないために、一族の絡み、父と子の葛藤という、一番のダイナミックな点に至っていない。
 
門井慶喜は、何よりも文章が大事で、文章をいじっていれば、それで満足しているのだろう。

(『銀河鉄道の父』門井慶喜、
 講談社、2017年9月12日初刷、2018年1月9日第二刷)
posted by 中嶋 廣 at 18:06Comment(0)日記

「天才」の謎に挑む――『弟子・藤井聡太の学び方』(3)

杉本師匠は、藤井聡太の特異な点を、ズバリと指摘する。

「藤井は熱心な研究者でありながらも、勝負師の一面を持っています。さらに詰将棋創作に要する独創性に富む芸術家の顔も持っています。幼いころから、その三つの要素をあれだけ高いレベルで持っている子どもに私はこれまで会ったことがありません。」
 
さすがに杉本師匠は、よく見てらっしゃる。けれども、なぜその三つが、高いところで結実しているかは、謎というほかはない。
 
具体的な指し手のことでいうなら、対角線上が強い、というのが杉本師匠の見立てである。

「藤井の将棋は対角線、斜めのラインを強く意識させます。本人はおそらく意識していないと思いますが、藤井の強さの源には、この『斜めの多用』があります。
『駒に角度がある』と私は表現しています。具体的には角と桂馬の使い方が抜群にうまい。」
 
これは、中原誠十六世名人の桂馬使いのように、他の棋士にも当てはまったりする。やっぱり「斜めの多用」が、一つのキーである。でも、だからといって、理論的にそれ以上には、進展しない。
 
藤井聡太の将棋については、「なかでも桂馬は本当にうまい。それをむしろ攻撃の軸にしている気配すらあります。その指し手には詰将棋で鍛えた発想が生きています。」
 
ここに、藤井聡太の将棋と、いわゆる詰将棋の、直結した強さの源が垣間見えるが、しかしやっぱり垣間見える程度だ。

詰将棋が徹底的に強くなれば、将棋もかならず強くなるのだろうか。そう考えれば、これも「必要条件」と「十分条件」の違いで、藤井聡太の強さの、究極の謎には迫っていない。

結局、杉本師匠の迫り方は隔靴搔痒、どうにも歯がゆい。杉本七段には申し訳ないけど、やっぱり天才の頭の中身は、凡人にはわからないものなのか(杉本七段を、凡人の代表にしてすみません)。

そんな中で、注目すべきところが、一か所だけある。それは、大山康晴十五世名人について、である。

「初段ぐらいから詰将棋とともに〔大山康晴の〕棋譜並べにも取り組んだそうです。知人からもらった『大山康晴全集(全三巻)』は二巻まで。三巻まではいっていないとのことでした。現在の名人ではなく、昭和の巨人、大山十五世名人の棋譜を平成生まれの藤井が並べていたとは、なんとも古典的です。」

これは、「なんとも古典的」であるどころか、ほとんど、藤井将棋の秘密に迫った記述ではないか。

大山康晴は巨人である。名人・十段・王位・棋聖・王将の五つの永世称号を保持し、69歳でなくなるときまで、A級に居続けた。大山は、羽生なんぞとは比較を絶して、巨人であり続けた。
 
もし藤井聡太が、大山十五世名人の倒れたところから、歩みを開始しているとすれば、それで謎は解ける(ような気がする)。
 
どんなにもてはやされても、藤井が、今はまだ強くならなくては、と念仏のように唱えているのも、早く大山康晴の地平に立って、快進撃を始めなければ、ということだろう。だから、周りがもてはやしても、何の関係もないのだ。
 
そういえば、藤井の講評に、難しい漢語が多いということも、ときどき大山が顔を出していると思えば、納得がゆく。この難しい漢語も、対局が終わった直後が多い。これは、大山がうっかり表へ出たためではないか、というのは冗談にせよ、比喩的にいって、前世が大山康晴というのが、ともかく一番わかりやすい。

(『弟子・藤井聡太の学び方』杉本昌隆、PHP研究所、2018年2月15日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 17:26Comment(0)日記

「天才」の謎に挑む――『弟子・藤井聡太の学び方』(2)

杉本七段は、藤井聡太に、一般的な、勝つ手を教えなかったという。勝率七割という手堅い手は、「凡人」には役に立つ。しかし、藤井聡太の将棋は、勝率七割を目指してはいないのだ。

「強い弱いは別にして、凡人には決して浮かばない手があるのです。藤井は子どものころから、そうした手をどんどん指していました。いや、むしろそれを中心に組み立てていた。ほかの棋士が捨ててかかるような手筋から入るという指向性がありました。
 だから、これまで先人たちが培ってきた勝率のいい指し方や、型にはまった手筋を教えても、百害あって一利なしだと思ったのです。」
 
ここは、なかなか難しい。「これまで先人たちが培ってきた勝率のいい指し方」を捨てるとは、どういうことだろう。
 
それに、勝率七割の手堅い手とは、どういうことか。師匠・杉本は、藤井聡太は勝率七割を目指してはいない、とはいうものの、勝率七割といえば、羽生や渡辺くらいしかいない、突出した勝率だ。
 
杉本七段は、藤井聡太が目指すべきは、勝率八割、あるいは九割だといいたいのだろうか。確かに一年目の勝率は、八割を超えてはいたけれど。
 
杉本七段の観察は続く。藤井のデビュー戦から、二十九連勝していたころだ。

「連勝はしていましたが、勝ちパターンがそれまでとは違います。私の知る『藤井将棋』は大詰めで劇的な力を発揮する終盤力ですが、序盤、中盤からすでに押しています。そういう意味では、『新しい藤井将棋』ともいえます。」
 
つまり通常なら、プロ入り後は、成長速度が緩やかになってゆくが、藤井聡太の場合は、その速度が緩むどころか、むしろ早まっている。これは、たいへん特異な点だが、しかし、なぜそんなことが起こっているのかは、師匠にもわからない。
 
もう一つ、特徴としては、日本中でこれだけ騒がれているのに、藤井聡太に浮かれたところがまるでない。これも、非常に特異なことだ。
 
これはもちろん、親御さんの影響が強い。とはいっても、藤井がまったく動じないのは、これはこれで、何というか、まったく奇妙だ。
 
師匠・杉本はまた、藤井聡太の進学のことについても、相談に乗ったらしい。中学から高校へ行くについては、いろんな考え方がある。将棋が技術だけのものならば、高校へ行くよりも、ずっと将棋盤の前に座っていた方がよい。

「しかし私たち棋士の役割は、将棋盤の上で高い技術を見せながら、ファンを感動させる将棋を指すこと。その上で勝つことです。将棋は人と人との戦いです。勝つためには相手の気持ちを理解しなければなりません。理解するためには人間を知る必要があります。」
 
なるほど、これは正論に聞こえる。谷川九段にしろ羽生竜王にしろ、トップ棋士はみな例外なく、「品位と高潔さ」を備えている。

「その意味するところを私たち棋士は知るべきです。きっと将棋観も含めたこれまでの人生観が、将棋に反映していくのだと思います。」
 
じつに堂々とした論で、これを真っ向から否定するのは難しい。けれども、藤井の将棋は、もうすでに中学の段階から、見る人を感動させた。
 
進学については、百人が百人とも、高校は出ておいたほうがいい、というだろう。僕だってそういう。でも本当にそれが正しい道かと言えば、そんなことは、誰にも言えない。こういうことは、どうすればいいのだろう。正解手があるのだろうか。
posted by 中嶋 廣 at 17:55Comment(0)日記