奇跡の聞き書き――『音が語る、日本映画の黄金時代―映画録音技師の撮影現場60年―』(25)

紅谷さんの本の最終回である。こんなに長く書くとは思わなかった。

紅谷さんは最後に、録音技師として、どういう構えで行けばよいかを、端的に語っている。

「紅谷 作品に臨むときにまず思ったことは、演出家の想いを汲み取って、その映画をどのように理解していくかということでした。それで、まず脚本を読みますよね。するとここはこうしたいとか、自分なりの狙いやアイデアが湧き上がる。」
 
これが第1段階。

「でもロケハンに行ってみたら、脚本を読んだときのイメージと様子が違っている場合もある。それに対応して方法論や、アイデアそのものを変えていく。」
 
これが第2段階。

「現場で日々音を録りながら、今度は仕上げのときにどうやって音作りをしていくかを考える。そこでまた、ロケハンで思っていたこととは違うものが浮かんでくる。撮影が終わってラッシュを見ると、また音に関する考えが変わっていくときもある。つまりその都度、自分の考えを変えられるだけの度量を持たないといけないと思うんです。」
 
別に何段階と区切る必要もないのだ。これは出版の世界で、書き下ろしを担当する場合と似ている。臨機応変に立ち位置を変え、編集者はどこまで介入したらよいかを、著者と話していて、瞬時に判断しなければならない。本当によく似ている。
 
それにしても、この本について書いてきて、あらためて奇跡のような本だと思う。
 
取材と文を担当した金澤誠が、後書きにかえて、「映画録音技師、紅谷愃一さんの本ができるまで」を書いている。

「紅谷さんの取材を始めたのが六年前の12月末。毎月一度か二度、紅谷さんと会って二時間弱のお話を伺った。取材期間は一年二カ月ほどに及んだが、当時八〇代後半の紅谷さんは精力的に、各作品の撮影状況を事細かに語ってくれた。現場を離れた紅谷さんは、これが自分の最後の仕事だといつもおっしゃっていた。」
 
80歳代後半に至ってこの記憶力、そして自分の最後の仕事だと、はっきり自覚している。本当に信じられないことだ。
 
金澤誠はこの後書きで、紅谷さんに注目したわけを、こんなふうに述べている。

「小泉堯史監督の『雨あがる』(00)など、現場で会うと紅谷さんと話すようになった。同時に紅谷さんが担当した映画を音に注目して観ると、四季の移ろいを表現する虫や動物の声、作品の時代性を出す汽車や自動車の疾走音、効果音や音楽の挿入の仕方まで、映画全体の音をサウンドデザインしていることがわかってきた。」
 
金澤にとっても、それは目の覚めるような体験だったのだ。紅谷さんの聞き書きが、感動に満ちたものであったから、それが僕に直接伝わってきたのだ。
 
しかし僕には、この本は半分しか味わえない。音と録音に関して述べた部分は、ほとんど分からない。金澤誠は書いている。

「かつて亡くなった映画評論家・淀川長治さんと話したときに、淀川さんは『映画は科学技術と共に歩んできた芸術です』と言っていたが、映画は最初に動く絵を撮る映像に始まり、次にサイレントからセリフを録音するトーキーによって音を手にした。そういう意味でも画と音は、映画の根幹をなす科学技術の二大要素なのである。」
 
紅谷さんは本文で、音の技術的なことをしゃべっているし、脚注も懇切に付してある。しかし僕にはちんぷんかんぷんである。
 
しかしそれでも飛び切り面白い。60代の末になって、映画に対し、まったく新しい世界が開けた。生きている間に、この本に出会えて本当によかった。
 
あらためて紅谷愃一さん、金澤誠さん、キネマ旬報社の編集者・前野裕一さん(誰も直接には知らないが)に、満腔の意をもって感謝を捧げたい。

(『音が語る、日本映画の黄金時代――映画録音技師の撮影現場60年』
 紅谷愃一、取材・文/金澤誠、河出書房新社、2022年2月28日初刷)

奇跡の聞き書き――『音が語る、日本映画の黄金時代―映画録音技師の撮影現場60年―』(24)

『赤い橋の下のぬるい水』(01)は、今村昌平最後の長編映画である。辺見庸の小説が原作で、セックスの際に大量に水を放出する特異体質の女と、リストラされた男の触れ合いを描く。
 
このころ今村は、糖尿病のせいもあって、体はまともではなかった。

「紅谷 この作品でも今村監督がキャメラサイドから少し離れている僕をジッと見つめていることがときどきあったんです。何かを訴えていたのでしょう。『もう疲れたよ』ということだったのか、『なかなか思うようにはいかないよ』だったのか、はたまた『長い付き合いだけど、君はいつまで経っても頼りにならないね』ということだったのかもしれません。だからこの頃には、僕はスタッフの中でも別格扱いになっていました。」
 
この現場は寒くて、今村監督は辛そうだった。夫人が傍についていて、紅谷さんも近くにいるようにした。しかしその紅谷さんが、すでに別格扱いの齢である。
 
そのあと小泉堯史監督の『阿弥陀堂だより』(02)の話が来る。南木佳士の原作で、信州が舞台の作品だが、僕はほとんど興味がない。
 
紅谷さんは02年には、『おとなしい日本人』(02)の録音を依頼されている。これは01年9月11日に起こった、アメリカの同時多発テロをテーマに、世界11ヵ国の映画監督が、オムニバスで撮ったものである。
 
日本からは今村昌平が『おとなしい日本人』を撮り、他にクロード・ルルーシュ、ショーン・ペン、ケン・ローチなどが参加した。
 
フランスの映画会社が制作したもので、9月11日のシンボル的な意味を込めて、作品はすべて11分9秒1フレームの時間枠とした。
 
この中で今村は、第2次世界大戦の末期、中国戦線から負傷して復員してきた男が、蛇になってゆく、という物語を考えた。もう戦争には行きたくない、と。そして「テロによる聖戦」なども存在しない、と。
 
この作品はオムニバスの中でも、直接に9月11日を取り上げていない、という意味で異色であった。
 
この映画が今村昌平の遺作となった。
 
このあと中国で撮った降旗康男監督の『赤い月』(04)や、モンゴルにロケをした澤井信一郎監督の『蒼き狼 地果て海尽きるまで』(07)の仕事が入るが、僕はあまり興味がない。だいたい海外ロケした「大作」というだけで、顔を背けたくなる。
 
最後に『博士の愛した数式』(06)に言及しておく。小川洋子のベストセラー小説を原作に、小泉堯史が監督したものだ。
 
交通事故の後遺症で、80分間しか記憶を持てない数学の博士(寺尾聰)と、シングルマザーの家政婦(深津絵里)、彼女の息子のルート、3人の触れ合いを描いたドラマである。
 
この映画はよかった。小川洋子の小説もよかったが、映画もメルヘンそのもので、小泉堯史監督のアクの強くないのが、逆にいい目に出た。
 
これは読売文学賞と、『本の雑誌』が主催する第1回本屋大賞を受賞した。映画の影響もあり、文庫は2か月で100万部を突破し、新潮文庫史上最速を記録した。

この売り上げは、結果的に逆目に出た。これ以後、本屋大賞は、作品の価値はそっちのけで、とにかく売れるものを選ぶようになる(だから僕にとっては、本屋大賞というだけで、読書リストから外せるようになった)。
 
ここで紅谷さんは、音をミックスするときの、紅谷流の心得を説いている。

「紅谷 ダビングのとき最初の一巻目(約一〇分)では、これからじっくり映画を観てくださいという気分でセリフ、音楽、効果音をミキシングする。そしてラストの一巻では、いかがでしたか、どうぞまた映画を見に来てくださいという気持ちで音をミキシングしているんです。お客さんにはそんなこと分からないでしょうけれど、これは僕が音をミキシングするときの気分の問題。どんな映画でも、自分が気分的に乗って感動しなければ、お客さんに感動は伝わらないと思っているんです。だから自分が感動できるように音の流れを考えているんです。」
 
まず自分が感動できるように、というのは、どこでも、どんな所でも、通用する普遍的なことだ。
 
紅谷さんは、大岡昇平の『長い坂』を映画化した『明日への遺言』(08)で、録音技師としての最後を飾る。
 
これはB級戦犯として裁かれることになる、司令官・岡田資中将(藤田まこと)とその妻(富司純子)の、法廷における戦いの物語である。
 
ラストに主題歌が入るときに、「音を調整するフェーダーを握る手に思わず力が入りましたね。これで長かった映画録音人生が終わる……」と。

奇跡の聞き書き――『音が語る、日本映画の黄金時代―映画録音技師の撮影現場60年―』(23)

紅谷さんは、この時期たとえば、日中合作映画『曼荼羅 若き日の弘法大師・空海』(91)(テン・ウェンジャ監督)、深作欣二監督『いつかギラギラする日』(92)、神山征二郎監督『遠き落日』(92)、杉田成道監督『ラストソング』(94)、渡邊孝好監督『居酒屋ゆうれい』(94)などの仕事をしている。
 
このうち『居酒屋ゆうれい』は、テレビで見ている。これは居酒屋の主人・萩原健一が、亡き妻(室井滋)に再婚はしないと約束したのに、若い後妻(山口智子)と結婚したことから、妻の幽霊が現われて、ドタバタになる。いかにもテレビ向き、と言って悪ければ、小ぢんまりした映画だった。
 
このときショーケンが、スタッフと揉め事を起こし、紅谷さんが矢面に立って、一応の解決を見ている。
 
このころ僕は映画に興味を失っていた。というか、自分のことで一杯いっぱいになり、映画どころではなかった。結婚もし、会社を変わり、子供も生まれ、とにかく忙しかった。
 
次は久々の、今村昌平監督『うなぎ』(97)である。この映画は『楢山節考』に続いて、カンヌ映画祭で2度目のパルム・ドールを受賞した。吉村昭の『闇にひらめく』が原作で、殺人罪で服役した男が出所後、自殺未遂した女と関わって、気持ちに変化が起きていく、という話である。
 
厳しい予算で、苦労の多い仕事だった、と紅谷さんは言う。そのぶんスタッフはチームワークよく働いた、と。

「紅谷 ときには監督のユーモアあふれる演出の指示によって、ともすれば暗くなりがちな撮影現場にホッとした空気が流れ、明るいスタッフの笑い声が疲れた神経を癒してくれました。まさに今村監督の人間的魅力に現場が支えられていた。当然、スタッフ・キャストは今村信者へと傾斜していきますよ。」
 
このときの今村昌平は、カンヌのパルム・ドールを手放しで喜んだ。次の『カンゾー先生』(98)が撮れることになったからである。

『カンゾー先生』は評価も高く、主演を務めた柄本明や麻生久美子は、多くの映画賞を受賞している。しかし興行的には、報われなかったのが残念だ、と紅谷さんは言う。
 
98年に入ると、降旗康男監督、高倉健主演、『鉄道員(ぽっぽや)』(99)が入る。浅田次郎の短編が原作。仕事一途の鉄道員は、妻や幼い娘の死にも会えなかったが、冬のある日、奇跡の出会いを体験する、というファンタジー。これは大ヒットした。
 
僕はもちろんテレビでも観ていない。浅田次郎が書いたファンタジー、人情ものだから、あまり観たくない。
 
しかし紅谷さんの話は面白いから、ついつい曲げて観たくなってしまう。

「紅谷 1月11日から14日にキハ〔蒸気機関車〕の実景撮影をしたんですが〔中略〕、警笛の音を録りまくりました。機動車を走らせている根室本線は地形が変化に富んでいて、山の形が変わると警笛の音の響きも違うんです。山肌への反響の度合いが違いますから。警笛の音によって情感が加味されるので、その音の変化をシーンによって使い分けたいと考え、場所を変えて異常なほど録音テープを回し続けました。」
 
警笛の音で情感が変化する。どういうものか聞いてみたい。
 
98年9月6日に黒澤明が亡くなった。通夜が終わってから、スタッフの間で『雨あがる』(00)の企画が持ち上がった。

これは山本周五郎の小説を、黒澤明が脚本化して、遺稿のかたちで残されたものを、弟子の小泉堯史が監督した。腕は立つが報われない武士(寺尾聰)と、妻(宮崎美子)の愛情を描いた時代劇である。
 
紅谷さんはこの脚本を読んだとき、ふと、これは小泉監督がモデルではないかと考えた。

「紅谷 小泉さん自身が、真面目過ぎて決して要領のいい人ではないですから。我々は映画界に毒されていますけれど、小泉さんはその毒を持っていない映画界には珍しい人だという印象がありますね。」
 
毒というか、アクの強さのない監督には、僕は魅力を感じない。しかし『雨あがる』は、大井川の川止めに遇って、どんちゃん騒ぎをするところだけでも観たいと思う。

奇跡の聞き書き――『音が語る、日本映画の黄金時代―映画録音技師の撮影現場60年―』(22)

90年に石川好原作の『ストロベリーロード』(91)の話が来る。60年代、アメリカに渡り、イチゴ農園の成功を夢見た日本人兄弟の奮闘を描く。
 
僕は原作を読んでいる。あらかた忘れたけどもいい作品だった、という記憶がある。
 
監督は蔵原惟繕で、これが最後の作品になる。
 
紅谷さんは脚本を読んだとき、少し不安になった。そしてこの不安は、最後まで解消することはなかった。脚本の大半が、片言の日本語、英語、スペイン語の、会話の面白さで構成されていたのだ。
 
アメリカのロケについても、紅谷さんはかなりしゃべっている。とにかく規模から何から、すべて違う。ユニオンを通さなければ、どんな事柄もすんなりとは行かない。

だから逆にアメリカの映画人は、ある面ではユニオンに護られていて、その安心からか、女性のスタッフが驚くほど多い(それでも#MeToo〔ミーツー〕運動は、ずいぶん後になってから起こったのだが)。
 
あるとき、「黒沢組」のネームの入った、黒いジャンパーを着ていったら、アメリカ人のスタッフが、全員交代で見に来たことがある。やはり黒澤明は偉大だ、と紅谷さんは思った。

『ストロベリーロード』は、蔵原監督の思うような作品にはならなかった。公開後も話題にならなかった。
 
紅谷さんは、蔵原監督とは長い付き合いだった。

「紅谷 僕は裏方の中ではわりと親しい方だったから。会って映画の話をすると、『俺はエンタテインメントに関して自信がある』とあの人は言うんです。自分で考えた企画も二、三本あったようですが、どれも流れてしまった。『エンタテインメント』というわりには、あの人が考える企画はどこか一般向きではないところがあるんです。そこが難しかったですね。」
 
紅谷さんにとって『ストロベリーロード』は、心身ともにつらい仕事だった。その仕事と重なるかたちで、『八月の狂詩曲(ラプソディ)』に参加している。
 
なにしろニューヨークから帰国して、トランクを抱えたまま、秩父のロケ先にある、黒澤監督が待っているホテルに直行した。

「紅谷 『遅くなって申しわけありませんでした』と言って僕が入っていくと、ほかのスタッフは待ち疲れた顔をしているのに、黒澤さんだけは笑顔で拍手して出迎えてくれたんです。あんな嬉しそうな黒澤さんの顔は見たことがなくて、いまだに忘れられません。本当に穢れのない子どものようなにこやかな顔をしていてね。あの笑顔を見たとき、『やっぱり、黒澤組に帰ってきてよかった。この人のためなら!』という思いになりました。」
 
手拍子で大絶賛、今村昌平の場合でも、こんなに無条件では褒めない。

『八月の狂詩曲』については註を引いておく。

「監督:黒澤明、出演:村瀬幸子、井川比佐志。村田喜代子の『鍋の中』を原作に、長崎での原爆体験を持つおばあちゃんと、四人の孫とのひと夏を触れ合いを描いた作品。」
 
紅谷さんはこの映画についても、微に入り細を穿ち語っている。しかし僕は、映画そのものに惹かれるところがない。
 
ただリチャード・ギアについてしゃべっていて、そこは興味深い。

「紅谷 あそこでリチャード・ギアは、脚本で八行ほどある日本語のセリフを言うんです。結構長い二人の芝居でね。でも最初のリハーサルから会話が淀むこともなくて、おばあちゃんの村瀬さんと気持ちが通じ合っている雰囲気がよく出ていました。だからテストを何度もやる必要はなくて、すぐ本番に入れた。黒澤さんもご機嫌でしたよ。リチャード・ギアは黒澤さんをすごく尊敬していて、二人の関係はとてもよかったです。」
 
やっぱり黒澤明を尊敬しているんだ。
 
本書の7ページにわたり『八月の狂詩曲』を語った後、紅谷さんは全体を総括している。

「紅谷 結果的には黒澤さんと仕事ができて本当によかったと思っています。撮影現場では苦労が多かったし、面と向かってこちらがものを言い難いところもありますが、しっかり自分の意見を言って理解してもらえれば受け入れてくれる。それに黒澤さんがニコッと笑って握手されると、すべての苦労が吹き飛んでしまう。本当は人間的にもすごく魅力的な人なんです。」
 
ふたたび絶賛の嵐となって幕を閉じる。
 
それから数ページ後へ行って、またもふたたび黒澤の話になる。

「――紅谷さんから見て、黒澤監督のすごさというのは、人間的な魅力に尽きますか。
紅谷 黒澤監督はすべての発想がすごかったですね。傑出した天才であり、やはり世界中の映画人から尊敬を受ける『世界のクロサワ』です。どんなに大変なことがあっても黒澤監督に『おつかれさま、次も頼むよ』とニコッと笑って握手をされると、すべてを許してしまう。それほど、人間的に豊かで魅力ある方でした。黒澤監督は『この人のためなら』と思わせる、偉大な巨人でした。」

どんな人だったんだろうな、黒澤明。作った映画よりも、その人間に、より一層の興味が湧く。自分の目で確かめないと、にわかには信じられない。

奇跡の聞き書き――『音が語る、日本映画の黄金時代―映画録音技師の撮影現場60年―』(21)

紅谷さんは、『黒い雨』は今村映画のなかでも、ベスト3に入るという。「昔の今村映画のように変なしつこさがなくて、無駄な部分はスパンと切ってある。押しつけがましいことをなるべく避けて、原作の味わいを活かしたいい作品になった」という。
 
ここを読むと紅谷さんは、今村昌平の映画に対しても、自分の意見をはっきり持っている(今村昌平が亡くなったから言えるのかもしれないが)。

『黒い雨』については、いろんなことをしゃべっているけれども、ここでは特に田中好子のことを取り上げたい。

「紅谷 矢須子が原爆症の不安を感じて鏡をのぞき込み、顔を鏡に近づけていく場面や、入浴中に抜け落ちた自分の髪の毛を見つめる場面など、彼女は鬼気迫る入魂の演技をしています。ああいうところで今村さんは『ああしろ、こうしろ』と細かい指示は出さない。田中好子さんは、ちょっとアドバイスされただけで矢須子になり切っていましたから、すごい女優さんだと思いました。」
 
このオープンセットは2万平方メートルに及び、倒壊した瓦礫をあらわすコンクリートの塊や、黒焦げの路面電車、傾きかけた電柱を持ち込んで、広島の大惨状を再現した。

被爆者として1000人を超すエキストラが参加し、肌がケロイド状になった人や、皮膚が溶けた人を作るために、特殊メイク班が10数人待機した。この市街地の撮影は、1週間続いたという。
 
このロケに入る前日、黒澤明監督の『夢』(90)の依頼が来た。はるか昔、駆け出しのときに『羅生門』に参加したことはあるが、それ以来、黒澤との付き合いは全くなかった。

紅谷さんは、黒澤明が大変苦手だった。

「紅谷 正直、気が重かったです。助手時代に『羅生門』の現場で、怒鳴りまくる黒澤監督を見ていましたし、怖いという印象がいまだに強く残っていて(苦笑)。」
 
いやあ、面白いですね。録音技師として、押しも押されもしない紅谷さんが、『羅生門』で怒鳴りまくっていた黒澤を、いまだに怖い人だと思っていたとは。

「紅谷 実は黒澤監督と会う前に、今村さんに相談したんです。(中略)そうしたら今村さんは『黒澤さんとやれる機会はそんなにないんだから、しんどくてもやった方がいい』と言ってくれました。今村さんの助言もあり、『夢』をやるとほぼ決めたんですが、実際に黒澤さんと会うまでは正直まだ迷いがありました。」
 
本当に怖かったんだねえ。
 
そしていよいよ、黒澤邸訪問である。

「紅谷 すぐに黒澤監督がラフな格好で二階から現れました。(中略)『よく来てくれたね』とグローブのような大きな手で握手されて、二階の応接間へ通されました。
 ソファーに座った黒澤さんが改めて『よろしく頼みます』と言われたので、僕は思わず姿勢を正して『こちらこそよろしくお願いいたします』と挨拶するしかなかった。やはり独特のすごいオーラがあるし、断るなんてとてもできない雰囲気でした。」
 
初対面からオーラを発してたのは、高倉健と黒澤明だけだ。ほかにもそういうことを言う人がいるから、きっと特別だったのだろう。一度会ってみたかった。
 
黒澤監督は仕事を進めながら、紅谷さんの心をがっちり摑んでいく。

「紅谷 僕は黒澤さんがすごく信用できる監督だと思ったんです。音のバランスに関しては、〔ほかの人には相談せず〕『音の問題だから紅谷君を呼んでくれ』と黒澤さんは言ったそうです。自分の中で引っかかっていたことがあったら、音についてはまず僕と直に会って相談したいと。担当者を大切にする監督だと思いました。」

『夢』は、黒澤明が見た夢を基に、「日照り雨」、「桃畑」、「雪あらし」、「トンネル」、「鴉」、「赤富士」、「鬼哭」、「水車のある村」の8篇からなるオムニバス映画である。
 
僕はこの8篇にはたいして興味はないが、紅谷さんが凝らす工夫は、映画館で観てみたい。

「紅谷 大映京都時代に一番下の録音助手で参加した『羅生門』のときの怖い印象が強烈に残っていて、引き受けるかどうかずいぶん迷いましたが、思い切ってやらせてもらって、本当によかったと心の底から思いました。苦労も多い現場でしたが、黒澤監督に大事にしていただきましたし、黒澤監督の映画づくりに対しての純粋な想いに触れて、得難い経験をさせてもらいました。」
 
冗談ではなく、さすが「世界のクロサワ」、数々の監督とやってきた紅谷さんが、黒澤に関しては、ただもう絶賛である。黒澤監督とは、次の『八月の狂詩曲(ラプソディ)』(91)でもコンビを組む。

奇跡の聞き書き――『音が語る、日本映画の黄金時代―映画録音技師の撮影現場60年―』(20)

紅谷さんは87年には、神山征二郎監督の『ハチ公物語』(87)に参加する。これは奥山和由がプロデューサーだったが、まだ経験が浅くて、不安だったようだ。

「紅谷 ラッシュを観たときに奥山さんが、『紅谷さん、これ、商売になりますかね』と聞くので、『どうして?』と言うと、『犬が芝居をしているところが、全体的に音がない』というわけです。指示を出しているところは音を絞っているし、まだ効果音も入っていませんしね。」
 
奥山は不安がっていたけれど、やがて音入れをして、ゼロ号試写を見たときに、走り寄ってきて、「ありがとうございました。これで安心しました」と言われたのを、よく覚えている。
 
映画は大ヒットして、松竹はここから犬の映画を連発していく。

こういうの、見れば面白いんだろうが、よほど暇でも足は向かない。
 
僕はそもそも『ハチ公物語』のような、お約束で泣きが入るような映画は観ない。これは映画に限らず、本でも同じことだ。「号泣」とか「泣く」とかがオビにあれば、そういう本は眼に入れたくもない。
 
この年は続けて蔵原惟繕監督、高倉健主演で『海へ―see you―』(88)の依頼があった。倉本聰の脚本で、蔵原監督としては『栄光への5000キロ』に続くラリー映画だった。
 
フランスロケを行い、1月1日からパリ-ダカール・ラリーを22日間にわたって撮影、2月にはヨーロッパかアフリカで、ラリー場面を再現したドラマ部分を撮影し、3月20日にクランクアップという予定だった。しかしもちろん予定は伸びる。
 
問題山積みだったが、そのおおもとに蔵原監督の健康問題があった。

「紅谷 今回はそれら二本〔『栄光への5000キロ』『憎いあンちくしょう』〕を作っていたときのようなエネルギーと意欲は現場でもあまり感じられませんでしたね。やはり自分の世界に引き寄せられなかったことと、撮影の段取りが思うようにならなかったのが大きかったのでしょう。体調も万全ではなかったようですし。長年の仕事仲間として、この仕事は傍で見ていてつらかったですよ。」
 
監督、というか映画作りは、まず体力というところに尽きている。高倉健の主演映画だったが、興行的には厳しい結果に終わった。
 
この作品が終わった後、いよいよ今村昌平監督の『黒い雨』(89)に参加する。
 
まず脚註を引いておく。

「『黒い雨』(89年5月13日公開)。監督:今村昌平、出演:北村和夫、田中好子。井伏鱒二の小説を原作に、広島で原爆投下時に黒い雨を浴びた女性が、戦後になって被爆後遺症を発病しながら、叔父夫婦の支えによって生きていく姿を清冽に描きだした作品。」
 
これは今までコンビを組んできた黛敏郎が、「思想的なことがネックになって」、駄目になった。それで難航はしたのだが、武満徹が引き受けた。
 
原作の「昭和25年の小畠村」を映像化するために、ロケ地として岡山県の吉永町八塔寺(現・備前市)が選ばれた。

「紅谷 ここには茅葺の民家が全部で一四戸点在していて、水車小屋や小川もある。懐かしい里山の風景が『八塔寺ふるさと村』として、保護されていたんです。映画の主な舞台は、矢須子の叔父・閑間重松(北村和夫)の家で、この家は山奥にあった廃屋を、半年かけて移築しました。さらにこの地区にあった電柱三〇数本を引き抜いて、舗装された道路の上に約四〇トンの砂を敷き詰め、約四〇年前の小畠村を作り上げたんです。」
 
廃屋を半年かけて移築したりして、すごいことをやるものだが、「この地区にあった電柱三〇数本を引き抜いて」、というのは法に引っかからないのかね。というか電柱を引っこ抜かれたら、電気も通らなくて、そこで生活してる人は、困るんじゃないのかね。

奇跡の聞き書き――『音が語る、日本映画の黄金時代―映画録音技師の撮影現場60年―』(19)

『居酒屋兆治』に続いて、83年後半には、藤田敏八監督の『海燕ジョーの奇跡』(84)が入る。

これは紅谷さんにとって、いい思い出がない作品だという。終盤のフィリピン・ロケで、ヒロインの藤谷美和子が失踪したりして、トラブルの多い撮影だった。「一番の問題は脚本がよくなかったことですよ」と、紅谷さんは言う。
 
藤田敏八監督とは、これが最後の仕事になった。
 
そして降旗康夫監督の『夜叉』(85)の登場となる。主演・高倉健、ヒロイン・田中裕子。今は港町で漁師をしている元ヤクザが、女と出会い、昔の血を蘇らせるという物語。
 
これは製作が、降旗監督や木村大作キャメラマンなど、7人のスタッフ・プロダクションが母体で、ここで出た議論を、脚本家がまとめるというものだった。
 
最初から合議制で行くと、こういうよくある話になりがち、という見本ですな。『夜叉』はテレビで見たが、ほとんど印象に残っていない。
 
ただ紅谷さんは、田中裕子に言及していて、それが面白い。

「紅谷 録音の立場から言うと、田中裕子という人は芝居にメリハリがあって、セリフが声にならない息だけの部分があったり、強めにいう部分があったりと、いろいろ使い分けるので非常にセリフが録りにくい女優さんなんです。また大阪のミナミから流れてきた女の役ですから、大阪弁のニュアンスを出そうとすると余計に分かりにくい。でも、どんな場面でも芝居を持たせるし、演技的にはさすがだと思いました。」
 
紅谷さんが、セリフが分かりにくい、録りにくいというと、その俳優はまずダメである。ところが田中裕子に関しては、さすがだと言っている。面白いものだ。
 
またこの音楽は、ハーモニカ・口笛奏者の、トゥーツ・シールマンスである。あの『真夜中のカーボーイ』の、ハーモニカのソロ演奏は絶品だった。紅谷さんも、気もちよく音楽録りができたという。
 
そしていよいよ、深作欣二監督で準備が進められていた、井上靖原作の『敦煌』に参加する。

しかし最初に結論を言うと、これは深作監督では日の目を見なかった。『敦煌』(88)は監督を替えて、佐藤純彌監督で世に出た。
 
この辺りの経緯は、紅谷さんも、すっきりとはしゃべっていない。それを要約すると、ますます訳の分からないものになるので、それは省略する。
 
次に今村昌平監督の『女衒』に参加する。紅谷さんは86年のロケハンから参加して、台湾の基隆や香港、シンガポール、そしてオープンセットを建てることになった、マレーシアのマラッカ海峡などを回っている。
 
僕はこの映画を記憶していない。タイトルを聞いても、何も浮かばない。よほど忙しかったのか。たぶん仕事は、どん底だったのではないか。
 
このとき紅谷さんは、撮影していて、忘れられないことがあった。台湾の基隆で撮影しているとき、2分間のシーンだった。このまま本番で行くと、途中でバイクの音が入ってきて、NGになる。そこで「バイクが来るから」と言って、全体をストップさせた。他のスタッフは、バイクの音が聞こえないから、なぜ止められるのかが分からない。

すると40秒くらいしてから、近くをバイクが通り過ぎた。驚嘆した中国人の通訳が近づいてきて、「あなたの耳は、神様の耳か?」と訊いたという。
 
これが帯の、「『神の耳を持つ男』が語る!」という言葉になった。

奇跡の聞き書き――『音が語る、日本映画の黄金時代―映画録音技師の撮影現場60年―』(18)

紅谷さんは、『楢山節考』と並行しながら、蔵原惟繕監督の『南極物語』(83)にも参加している。しかし、こんなことが可能なのか。
 
通常は不可能だが、仕上げを担当して、音に関する総責任者になってほしい、と言われたのである。具体的には、海外ロケの機材の準備や、ロケに連れていく録音担当の人選など、また『楢山節考』の手が空いているときには、『南極物語』を手伝ってほしいと言われた。
 
紅谷さんは、だから82年は、山の中では『楢山節考』を録り、平地に降りてくると『南極物語』を担当していた。
 
この映画は高倉健が主演で、南極観測隊が南極に置いてきた樺太犬と、奇跡の再会を果たす実話である。
 
この映画で紅谷さんは、夏目雅子と初めて会った。京都のロケバスで少し話したが、感じのいい、素敵な女優さんだったと述べている。

『南極物語』は配給収入59億円、興行収入では110億円と、これまでの日本映画の興行記録を塗り替えた。
 
続いて83年には降旗康夫監督、高倉健主演で『居酒屋兆治』(83)に参加している。降旗監督とは初めてである。
 
降旗監督は音に関しては、何も言わない人だった。紅谷さんは今村監督たちとやってきて、意見を出されるのに慣れている。何も言わないと、かえって何を考えているのかわからなくて、とっつきにくい人だと思っていた。
 
その印象が、変わった瞬間がある。大原麗子の嫁いだ先の牧場が、家事で焼ける場面があり、これはスタッフみんなが緊張し、バタつくところだ。

「紅谷 ところが降旗監督は冷静に構えていて、『はい、火をつけてください。キャメラ、スタート。演技を始めてください。Bキャメラを回してください』と各パートが動き出すタイミングの指示を電子メガホンで的確に出していって、これが見事だったんです。その冷静な指示の仕方は印象に残りました。」
 
スタッフが降旗監督についていくのが、よく分かったという。

『居酒屋兆治』は、実は音を録るうえでは、非常に困難な状況であった。

「紅谷 英治が営む居酒屋『兆治』はカウンターだけの小さな店で、客は横に並んで好き勝手に話すんです。狭いといってもL字型のカウンターの端から端まではそれなりの距離がありますから、あちこちでしゃべられると声を録るのが大変で。セリフの邪魔をしてはいけないし、片側の声だけ録って、反対側の声をパントマイムで芝居をしてもらうというわけにもいかない。店内は雑然としていても、ちゃんと俳優のセリフを聴かせなくてはいけないので、技術的に苦労するんですよ。だからマイクを常時三、四本用意して、しゃべる俳優の順番を観ながらマイクを切り変えてやっていきました。」
 
具体的なことは分からないが、かなり高度な判断力が必要だったと思う。

客も、『居酒屋兆治』の映画ポスターを描いた山藤章二や、伊丹十三など個性派がいた。

僕は珍しくこの映画を、封切りではないが映画館で観ている。どうしてかというと、新宿の酒場の女将が音頭を取って、著者と編集者で宝川温泉に旅行をした。著者は山口瞳、古井由吉、常盤新平、編集者は福武書店『海燕』の寺田博編集長、小沢書店の長谷川郁夫社長などが主だったところで、その旅行中に山口瞳の『居酒屋兆治』が話題になった。みんな恐ろしく面白そうに話す。

僕は小説は読んでいたものの、映画は観てなくて、帰ってしばらくして、映画館で観た。とてもよかった、と言いたいところだが、まあそういうものだろう。大原麗子が可憐だった。
 
僕は結婚し、やがて国立に住むようになり、『居酒屋兆治』の原型の、山口瞳が通った「文蔵(ぶんぞう)」にも、たまに行った。店の構えや店内も朴訥で、いい店だった。亭主とおかみさんでやっていたが、おかみさんが癌で亡くなって、店を閉めた。
 
そういえば、宝川温泉で飲んで騒いだ人たちも、名前を挙げた人は、今は一人もいない。

奇跡の聞き書き――『音が語る、日本映画の黄金時代―映画録音技師の撮影現場60年―』(17)

『海峡』については、もう少し書いておきたい。まず音について。

「紅谷 〔本州と北海道が〕貫通する場面のすぐ後に、貫通したトンネルを通って地上へキャメラが出ていく主観ショットがあるんです。あそこで重要なのが、〝風が抜ける〟音だと思いました。だから音楽録音のときに、シンセサイザーで風の音をその場で作ってもらったんです。その音をうねらせて、主観移動で地上へ向かうキャメラに合わせ、音を動かしていきました。この風の音と音楽をダブらせて、本州から北海道へ風が抜けていく感じを表現してみたんです。」
 
この本を読んですぐに、BSテレビで『海峡』を放映した。僕はさっそく、音の方にも意識を半分集中して、映画を見た。
 
するとまず、トンネルの中でも、寒風吹きすさぶ崖の上でも、セリフはどんなときにも明瞭に分かった。NHKの朝ドラで、主人公を含む何人もの大学生が、部室で声を張り上げて、意味不明にがなり立てる『舞いあがれ!』とは全く違う。どんな状況でも、録音技師の技術によって、セリフは明瞭に聞こえるものなんだ。
 
そして青函トンネルが開通した後、言われてみれば本当に、本州から北海道への風が抜けていくのである。それはもう、そうとしか思えなくて、僕は感動した。
 
と同時に、意識を音にも集中すると、映画が3次元の立体的なものとして迫ってきて、これまで見た映画のうち、僕は全部の名作を見返したくなった。

というか、かつて観た映画を、もういちど音にも集中して観てみたい。これは『仁義なき戦い』や『太陽がいっぱい』は音楽も素晴らしい、というのとは次元の違う話だ。

『海峡』は紅谷さんの中では、エポックメイキングなものだという。

「紅谷 自分の仕事の中でも、この作品は一つの大きなヤマ場だったんです。過酷な条件でも同時録音で通したことで、どんな作品が来ても怖くないぞという自信が持てました。大きな山を登りきった感じで、手応えがありました。」
 
この仕事は、第6回日本アカデミー賞の最優秀録音賞を受賞した。
 
これと重なるかたちで、深沢七郎原作の『楢山節考』(83)が入ってきた。監督は今村昌平。

紅谷さんは、今村監督が松竹で撮った2本、『復讐するは我にあり』と『ええじゃないか』をやれなかった。もう二度と、今村作品は担当できないかもしれない、と思っていた。
 
そこへ初春、晩春、初夏、秋、晩秋と、1年がかりでやる『楢山節考』が入ってきた。紅谷さんの高揚した気持ちを、思いやるべし、である。
 
そして人里離れた長野県の真木集落で、今村監督の撮影合宿が始まるが、ここではもう、繰り返しになるので書かない。
 
ただ一つ、二つ、印象的なことを書いておく。

「――人里離れた山の中ですから、音は録りやすかったのでは?
紅谷 これが7月に入ったら、どこからともなく山の向こうから農耕機の音が聞こえてきたんです。見えるところにそんな機械はないんです。周りが静かなものですから、風に乗ってくるその音が目立ってしまう。それで制作部の人間が見当を付けてバイクで走っていってね。音の出元を探すのに苦労していました。この音止めが大変でしたね。」
 
山の向こうの農機具を探すだけでも、気の遠くなるような作業だが、それを突き止めたとしても、農家の何人かの人に、どういうふうに交渉するのかね。農作業の最中に、音止めはできないと思うが、でもそれをやったというのだ。
 
クライマックスにさしかかる辺りから、「おりん婆さん」の死を象徴する、カラスが登場してくる。

「紅谷 スタッフの何人かに、カラス専門の部隊がいました。生まれたてのカラスを連れてきて、現場から離れたところで飼っていたんです。かなりの数のカラスを小屋で飼っていたんですが、いざ撮影になって飛ばしてみると、言うことを聞かなくてね(笑)。イメージとして最終的に画面全体がカラスで真っ暗になってしまう感じが欲しかったんですけれど、真ん中のあたりが空き空きになってね。これは失敗しました。」
 
カラスに出演交渉はできないのだから、当たりまえである。というか、このシーンを撮るために、「生まれたてのカラスを連れてきて、現場から離れたところで飼っていた」、ということが信じられない。映画には、ときに飼育係がいるのか。それこそ狂気と紙一重、という気がする。
 
これはカンヌ国際映画祭で、本命の大島渚『戦場のメリークリスマス』を抑えて、パルム・ドールを獲った。そこから急速に客足が伸びて大ヒットした。
 
おかげで今村昌平は、主宰する横浜放送映画専門学院に2億円を投じて、新百合ヶ丘に日本映画学校(現・日本映画大学)を開設することができた。

「紅谷 ヒットしても僕らスタッフは、微々たる額の大入り袋をもらっただけです(笑)。でも今村さんに『大入りにしては少ないけれど、この金は学校に使いたいんだよ』と言われると、しょうがないなと思いました。まあ僕としてはこれで今村さんとのつながりが復活してね。以降は一本も欠けずに今村組に参加しました。」
 
紅谷さんも、日本アカデミー賞の最優秀録音賞を受賞している。

奇跡の聞き書き――『音が語る、日本映画の黄金時代―映画録音技師の撮影現場60年―』(16)

81年の最初の作品は、熊井啓監督の『日本の熱い日々 謀殺・下山事件』(81)だった。50歳の紅谷さんが、スタッフの中ではもっとも若手だった。これは俳優座映画放送の自主製作映画である。
 
事件が起きたのは1940年代だが、紅谷さんはこれを全部、同時録音で録った。

「紅谷 努力すればなんとか同時録音でやれると思いました。当時と八〇年代では街ノイズが全然違いますが、ロングで漏れる音はOKにして、直近で聞こえてくる車の音などは、車止めをしました。」
 
ここで「車止め」という言葉が出てくる。これは以後、同時録音の際には極めて重要になる。
 
とはいえ完全には、街のノイズは消せない。

「紅谷 だからカットが終わった瞬間の判断が必要なんです。ダビングでどんな処理をすれば、そのとき録った音が使えるか。あるいは使えないかという決断を、監督のカットがかかったときにこちらは決めていなくてはいけない。もう一回いくなら、なぜそうするかの説明をしなくてはいけませんからね。」
 
非常に高度な判断力が必要で、具体的なところは分からないものの、思わず唸ってしまう。
 
次に続いて、相米慎二監督の『セーラー服と機関銃』(81)に参加する。例の、どこから聞こえて来るのか分からない、薬師丸ひろ子の「カ・イ・カ・ン」という言葉である。
 
僕は映画館では見ていない。しかし紅谷さんの話は面白い。

「紅谷 これはサウンドデザインをかなり考えました。相米は正面からバカ正直に解釈して音を作ってもダメなんです。かなり外したところから考えていかないと、『何やってるんだ』という顔をする(笑)。こっちが考え抜いて、ちょっとひねくれた発想をしないと納得しない監督なんです。」
 
長廻しの相米慎二は、ひねくれた発想をしないとダメである、と。

「紅谷 向こうが一つアイデアを持っていたら、こちらはその三倍くらいのアイデアを持っていて、こういう手もあるぞと提示していくことが必要なんです。言ってみれば監督が食いつく音を、こちらがどれだけ用意できるか。それがサウンドデザインしていくときには大切なんです。そういう意味では、作業中は監督との闘いですよ。」
 
しかしそれは単純な戦いではない。紅谷さんがそういうことができるのは、相米監督の映像に力があるからだ。「画に力があるから、音で遊べるんですよ。」
 
この映画は12月19日から公開され、配給収入23億円で、この年の第1位のヒットだった。
 
その次に森谷司郎の『海峡』(82)が始まる。青函トンネルを貫通させるまでの苦闘を描いた作品で、主演は高倉健、吉永小百合。
 
これを同時録音でやるというのは、考えられないことだ。強風吹きすさぶ竜飛岬、青函トンネルの中の工事現場、そのたびにどれほどの苦労があったか。これはどうしても、本文(全体で9ページ)を読んでほしいが、そこからいくつかを引いておく。

「紅谷 小高い丘の墓地に行って、健さん、森繁さん、小百合が話すところ。あそこも海から丘へと吹き上がってくる風が強いんです。それで大道具の西田君に頼んで、杭を五、六本持ってきてもらってね。これを地面に一メートル間隔で打ち込んで、杭に毛布を釘で打ちつけて、五メートル幅の幕のように張ったんです。これによって人物に直接当たる海からの強風をカットしたんですよ。(中略)それでセリフを録ってみたら、ときどきマイクに当たる風は感じましたが、風自体が穏やかになってセリフは使用に耐えられる音が取れました。」
 
それでも、俳優の体が持って行かれそうなくらい、風は強かったという。

「紅谷 僕自身も風でよろけて、這いつくばって作業していました(笑)。健さんは森繁さんのベルトにチェーンを巻いて、それを健さんが引っ張って森繁さんをガードしていました。」
 
僕は、役者というのはそれふうの動作をして、セリフをしゃべっていればいいと思っていた。まさか、どんなに困難な状況になっても、それを観客に察知されずに、しれっとセリフが言えるのが俳優というものだとは。
 
あるとき、セットで雪を降らせながら、健さんと吉永小百合の、長い1シーン1カットの芝居を撮った。テストのときはよかったのだが、本番でかすかに雑音が入った。カットがかかった瞬間、紅谷さんが「もう一回行ってくれ」というと、森谷監督は「こんないい芝居、二度とはいけない!」と返す。

緊張で、現場は一瞬静まり返った。そこで健さんが、「やりましょう」と言ったという。紅谷さんにとって、これは本当にうれしいことだった。

「紅谷 要はそこでものが言えるか言えないか。監督に『もう一度』というのは、人によっては度胸がいるんですよ。それはある種のかけひきでもあるんです。僕は撮影現場の同時録音は戦場だっていつも言っていますけれど、要は相手が監督だろうが誰だろうが、押すか引くかなんです。」

「相手が監督だろうが誰だろうが」は、凄みのあるセリフである。
 
撮影が終わり、東洋現像所でゼロ号試写を観たとき、森谷史郎は、紅谷さんに抱きついて、「あなたには、いろいろ付き合いのある監督がいるだろう。今村昌平さんや浦山桐郎さんとかね。できればその次に、俺の名前を加えてくれないか」と言ったという。
 
その瞬間、紅谷さんは、現場で頑張ってきたことが報われた気がした。