潮流は変わるか――『死にゆく人のかたわらで―ガンの夫を家で看取った二年二カ月―』(3)

著者が「様態急変」という言葉で、すぐに頭に浮かんでくるのは、やはり突然倒れるのと、大便が合わさっている状況だ。このへんは、家で看取るということの、最も厳しい局面だが、著者はそこを正直に書く。

「わたしが脱衣場にいるとき、湯船に入った本人が、ずいぶんふらつく、と言う。トイレに行きたいと言って、湯船から立上がると、ああ、ダメだ、と言って風呂場に便失禁する。本人は風呂場の隣にあるトイレに行こうとして脱衣場で便をもらしながら歩き、トイレの前の廊下で倒れた。わたしがそばにいたので、なんとか頭から倒れることはさけられたが、相手は七〇キロ、こちらは五〇キロ程度なので支えられない。そのままトイレの前で真っ青になり、便失禁は続いた。」
 
家で看取るというのは、こういうことだ。そして著者の場合には、これ以上「怖い」体験はなかったという。一方でこれを体験する代わりに、もう一方で、愛する伴侶が、自分の腕の中で死んでゆくのを、看取ることができるというわけだ。
 
もう一つ、自宅で死にたいが、その場合に「いくらかかるか」という、金銭的な問題もある。これはたぶん、状況により千差万別だろう。これも著者の場合には、ということで、正確に出している。

「医療保険と介護保険には自己負担限度額があるから、両方フルに使って、いちばんたくさんお金を払った月でも、我が家ではあわせて八万円くらいだったと思う。」
 
このへんは、代替療法や食事療法の拒否とあわせて読むと面白い。進行しているガンだと、藁をも摑みたくなって、いろんなことをやりたくなるものだが、著者の夫は徹底していて、治療は保険の範囲に押さえている。このへんは著者の言うように、怪しい治療は断固拒否するという、団塊の世代の面目躍如たるものかもしれない。
 
第6話として「痛み」が、独立して取り上げられている。ここのところは、著者の慧眼が光る。ふつう「痛み」は、ガン治療の中心的テーマとして取り上げられ、そしてそれは、おおむね制圧していると捉えられている。
 
しかし、そうではないものもある。
「夜中に何度も起き上がって、じっとしていられないこともあった。頭が痛い、服を脱ぎたい、気分が悪い、眠れない、じっとしていられない。こういう苦しみは、自宅にいたので、なんとも言えないままに、表現されていた。そして、それらの身の置き所のなさは、多くの場合、『痛い』という言葉に収斂されていったように思う。そうすると、なにか飲む薬があり、介護するわたしも提供する薬がある。『痛み』は、彼の総合的な苦しみの表現方法だったのではないか。」
 
ガンの痛みとは、まったく違うものだけど、僕の右半身は、つま先から肩まで、ときによって猛烈な不快感が襲ってくる。そしてそれは、とりあえず「痛み」としてしか、表現できないものなのだ。

「わたしは間違っているかもしれない。でも、こういう身の置き所のなさは、たとえば、病院や施設にいたら、いったいどう対応されるのだろう。『ガンの痛み』、とは、言われているよりも奥の深い表現なのではないか、まわりはそれをどう受け止められるのか。むずかしいことだ、と思うのである。」
 
これは、病院や施設では無理なことだ。かりに、事細かに患者に聞いてみても、おそらくどうにもならないことだ。でもそこを、分かってくれる人が、いるのといないのとでは、患者の気持ちはまったく違う。

潮流は変わるか――『死にゆく人のかたわらで―ガンの夫を家で看取った二年二カ月―』(2)

著者によれば、しもの世話は「介護」の、最も重点的なことがらなのである。

「『自分は介護を経験した』と言いたいときは、やっぱり、〝しもの世話〟はしているものだ。〝しもの世話〟をしないままで、赤ん坊の世話をした、とか老親の介護をした、とか、やはり、言ってはいけないと思う。介護とは、食べること、出すこと、寝ることの安寧確保以外に、なにもないからだ。」

だから、たとえば、「どっしりしたポータブルトイレ」は、絶対の必需品になる。
「家具調で、一見すると普通の椅子に見えて、安定していて、座りやすくて、使いやすいポータブルトイレは、我々の最後の頼みの綱だった。」
 
こういうところは、病気する前と後では、私の感じ方はまったく違う。「我々の最後の頼みの綱」という言葉が、胸に迫る。
 
著者の夫君は、中咽頭ガンが頸部リンパ節に転移し、いよいよ末期だった。食事がとれなくなって、九〇〇ミリリットルの高カロリー輸液で命をつないでいた。
 
一緒に仕事をしていた吉本ばななさんからは、「『こんな重い病気なのだから、もうダメだ、と思わないように』、いつもそれを祈っているから」、というメッセージをもらった。

「とにかく、いまをせいいっぱい。いまが楽しいように、いまが苦しくないように、いまを絶望しないように。それだけ考えていた。それだけを考えられたことが幸いだった、といまになるとわかる。」
 
このほか、酸素吸入器(いまはなんとボンベは使わない)や、いまわの際の痛み止めの話などが、こと細かに述べられている。
 
そうして夫君は、著者の手の中で、息を引き取った。
「わたしはこのとき、少しも悲しい、という思いがよぎらなかった。涙どころではなかった。晴れやかで立派な最期を目の前で見せられて、いろんなことがあったけど、この人への敬意と愛情で文字どおり胸がいっぱいだった。ありがとう、という言葉しか出てこない。人間って、よくできている。」

しかし、たとえば容態急変ということになれば、自宅では、どいういうふうに対処するのだろう。

潮流は変わるか――『死にゆく人のかたわらで―ガンの夫を家で看取った二年二カ月―』(1)

これは「家で看取りたい人、看取られたい人、必携」である。

「ガンの夫を家で看取った。夫はわたしの腕の中で息をひきとった。それだけがこの本を書きはじめるきっかけである。」
 
今では通常、人は病院で死ぬ。それがあたりまえだ。
人は三代で、身体に植え付けられた知恵を喪失する。だからもう、人が死ぬとはどういうことかを、医者に頼る以外に、ほぼ誰も知らない。

「現在五〇代後半のわたしが高校生のころ、それは要するに一九七〇年代のことなのであるが、それより前は、地方ではまだ人は家で死んでいたと思う。厚生労働省の統計によると昭和五〇年に自宅で死ぬ人と施設で死ぬ人がほぼ半々になっている。」
ところが、ここから急速に、「家で死ぬ」ということは、失われていった。
 
そもそも、家で看取るということは、具体的にどうすることなのだろう、というところからして、もうわからない。著者はそれを、痒い所に手が届くように、丹念に書きこんでいく。

「人の介護をする、ということは、要するに、食べることと出すことと寝ることに気持ちを寄せる、ということだ。生まれたばかりの赤ん坊を世話することと変わらない。・・・・・・老いた人、病んだ人も同じである。食べることをどうするか、おしっこ、ウンチをどうするか、どうやったら安心してやすらかに眠りについてもらえるか。それだけが重要な課題なのである。」

その中でも、「出すこと」が本当に厄介である。
自分のことで恐縮だが、脳出血で半年近く入院し、それから家に帰ってきた。病院にいるときは、下の世話は、看護師さんたちに任せきっていた。半年近くなり、退院が迫ってくると、それに応じて、下の処理も、まあできるようになった。

でも大便は、からなずしも、規則的には出ない。半身不随で杖をついて歩くのは、腰のあたりに負荷がかかる。だからごく稀に、大便が、意思とはちがって、少し漏れることがある。女房は、これに参ってしまう。とにかく臭い。私が臭くてかなわないのを、女房が臭くないわけがない。

しかし私は、パンツやズボンを変えることができず、お尻をきれいにすることはできない。尻を風呂場で洗うのも、着替えを持ってきてもらうのも、ぜんぶ、女房に頼りきりになってしまう。こういう「ソソウ」は、退院してから一年半で三回あった。

これはいってみれば、私は回復期だと想像されるから、女房も何とか我慢してやっているので、これが看取りという逆方向なら、厳しいことになる。

棋士の何を見るか――『不屈の棋士』(3)

ほかに村山慈明が、コンピュータと将棋の美しさについて、面白いことを言っている。

「村山 ・・・・・・ソフトの将棋は形がグロテスクというか、美しさがまったくない。でもそれは人間の感覚で、ソフトからしたらあれが美しいのかもしれない。」
これはプロのみが、肌で知る感覚である。
 
村山はあくまで正統派である。ソフトが発達した現代に、いったいどういう将棋を指そうとしているのか、という問いに対して、こんなふうに応えている。

「村山 とにかく内容重視でいい将棋を指したい。私は勝った時も相手が勝手に転んだような将棋だとうれしくないんです。」
 
しかしその正統派の将棋で、「形がグロテスク」なソフトに、太刀打ちできるのか。他人事ながら、悩みは深そうである。
 
これに対して佐藤康光は、じつに明快である。だいたいこの人は、コンピュータ・システムに指南してもらわなくとも、とにかく自由奔放なのである。

「ちまちまとした修正ではなく(それも十分価値があるが)、人をあっと驚かすような、見たこともない絵模様を盤上に浮かび上がらせるのが佐藤なのだ。」
 
もちろん佐藤は、そんなことはない、きちんと理論に基づいてやっている、というけれど。「将棋魂」――佐藤はたまに、この言葉を揮毫することがある。確かに、ソフトに「魂」はない。

「佐藤 (将棋は)結論を出すためのゲームではない。将棋には、形勢が悪くても逆転するという魅力がある。それは持ち駒が使えるという、将棋ならではの魅力なんです。プロ棋士のいちばん好きな勝ち方ってわかりますか。逆転勝ちなんです。」

佐藤のこの言葉には、将棋の神髄がある。
かつて、大山康晴十五世名人も、言っていた。人間はミスをする動物である、と。しかし今、ミスをしないコンピュータが、相手として出てきたのだ。これを、どう考えたらいいか。
 
僕は、例えばNHK杯の将棋を見続けるだろう。終盤の手に汗握る攻防は、相変わらず、ずっと面白いにちがいない。けれどもすでにコンピュータがあって、それと比較して、時の名人以下プロの棋士たちの指し手があるとすれば、やっぱりその面白さは、どこかに影が差している、ということにならないだろうか。
 
こっちの棋士は、コンピュータに比較すれは60点、あっちの棋士は、90点、そんな見方を、僕は好まないけれど、でも人の見方は、どこでどう影響を受けるかわからない。コンピュータを参照しながら、将棋を見るようなことは、絶対にしないつもりだけれど、そんなことはしないと自分を信じているけれど、でも行く手には、ぼんやりと影が差している。

(『不屈の棋士』大川慎太郎、講談社現代新書、2016年7月20日初刷、8月2日第2刷)

棋士の何を見るか――『不屈の棋士』(2)

千田翔太はここ2、3年、突然強くなり、タイトル戦にも出てくるようになった。千田は言う、棋士とソフトの実力を比較してみれば、ソフトが上であることは明らかだ、と。

「千田 ・・・・・・ここで私は決断をしました。これからは『棋力向上』を第一に目指してやっていこう、と。・・・・・・より特化するということです。公式戦で勝つよりも、純粋に棋力をつけることを第一としようと。」
 
これだけ聞いていると、ふうんという感じだけど、じつはこれは、最も新しい、革命的なやり方なのである。コンピュータは、レーティングによって格付けされている。千田のインタビューが行われたのが2015年だが、そのころの最強ソフトは3600点あった。これは、千田のレーティングよりも、800点以上うえでもおかしくないという。
 
千田翔太は1994年生まれ。つまり、ソフトの方が上というのを、そのまま受け入れることができるのだ。だから彼は、今では基本的に人間の棋譜は並べない、ソフトだけに限って並べるという。

これはこれで、いい勉強法である。ソフトの棋譜には、一手ずつ評価値がついているので、形勢については、はっきりした理由が分かる。

「将棋に強くなるためには、『この時にこうするといい、悪い』というパターンを自分の中にたくさん蓄積することが大事だ。ソフトを使えば、従来の方法より圧倒的に素早く吸収できるというのが千田の見解だ。」
 
それで千田は、昨年のNHK杯選手権の決勝まで行った。決勝の相手は村山慈明、千田はそこで敗れ去った。ちなみに今年のNHK杯選手権者は、ソフトをまったく相手にしない佐藤康光である。

ソフトだけを相手にして、決勝で敗れた千田と、ソフトを無視して、10年ぶりにNHK杯選手権者になった佐藤康光。もちろん年度が違うし、ぶつかる相手もそれぞれなのだが、それにしても、良くできた話ではある。
 
だが、そういうこととは別に、ソフトは手っとり早く将棋が強くなる方法としては、最強なのである。

棋士の何を見るか――『不屈の棋士』(1)

将棋観戦記者の大川慎太郎が、11人の棋士に、コンピュータ・ソフトについて、どう思うか、どう活用するか、をインタビューする。棋士は、羽生善治、渡辺明、森内俊之、佐藤康光、行方尚史、山崎隆之、糸谷哲郎、村山慈明、勝又清和、西尾明、千田翔太の11名。
 
このうち、コンピュータにもっともよく親しんでいるのが、千田翔太、少し触ったけれど、相手にしない、願い下げ、というのが佐藤康光、その両極を結んだ線上に、そのほかの棋士が並ぶ。

「『一番強いのは棋士』という価値観が、ソフトの登場によって根底から揺さぶられていることは間違いない。そんなことは、徳川幕府が将棋指しに俸禄を与えた1612年以来、初めてなのである。」
 
ちょうど昨日、佐藤天彦名人がコンピュータ・ソフトに、70数手で敗れるということがあった。これが羽生なら分からない、とはならない。おそらく羽生の場合でも、結果は同じことだろう。これをどう考えるか。

「羽生 ソフトの将棋は基本的にかなり異質なものです。人が指す将棋というのは形と手順の一貫性を重んじますが、ソフトはその二つはまったく気にしていない。また、ものすごく深く読める。人間は何百万手も読めませんから(笑)。」
 
だから羽生は、ソフトの使い方としては、ある特殊な場面を調べるのが、一番いいやり方だという。そしてそれは、研究法としては、小さな割合を占めるにすぎないという。

「羽生 ・・・・・・基本的に自分の頭で考えることが大事だと思っています。ただお医者さんにセカンドオピニオンを求めるような感覚で、この局面に対して自分はこう思うけど、違う可能性がないのかどうか気になる時には使うこともありますね。」
 
対局が始まれば、ソフトに聞くことは禁止されてるから、結局この使い方しかないような気がする。
しかしソフトが加わったことによって、将棋の見方が少し変わるかもしれない。

「羽生 ・・・・・・たくさん試してみたら意外といい形だったということが判明しました、となる可能性もあります。すると、そのうちにいい形に見えてくる。つまりそれまでの好形、悪形というのは、人の思い込みだった可能性もあるわけです。なぜこれが好形かという理由を言葉できちんと説明できないじゃないですか。」
なるほど、そういうことは、あるかもしれない。
 
羽生と並ぶ一方の雄、渡辺明もだいたい同じ意見だ。ソフトの指す将棋は、人間の指す将棋とは、別物である。その上で、こんなことを言う。

「渡辺 ・・・・・・将棋の定跡はほとんどが『先手よし』。でもいままでは、なぜ先手よしなのかがわからなかった。極端なことを言えば、昔はどんな指し方をしてもいい勝負だったんですよ。それは先手が正確にとがめられないからなんです。でもこれからは、後手で新戦法を出しても、その日のうちにソフトにかけられて具体的に先手よしと解明されたらすぐに消滅してしまう。」
だから、新戦法のスパンが、大変短くなるかもしれないという。
 
渡辺は、このままソフトが強くなっていけば、将棋界が、今と同じくらいの人数で栄えていくのは、無理かもしれないという。やっぱりコンピュータ・ソフトは、大きな影を落としているのだ。

最後の雑誌編集者――『言葉はこうして生き残った』(4)

しかし河野さんの不思議な魅力は、じつは、こんなところだけに、あるわけではない。それはたとえば、「寅彦のまなざし」の章によく顕われている。

「私にとってもっとも本書(柏木博「日記で読む文豪の部屋」)で面白かったのは寺田寅彦の章でした。漱石門下にあって異彩を放った文人肌の物理学者です。
 そんな寅彦が正岡子規を訪ねた時の様子が紹介されています。」
 
そうして寅彦の「根岸庵を訪う記」が引用される。
「黒い冠木門の両開き戸をあけるとすぐ玄関で案内を請うと右わきにある台所で何かしていた老母らしきが出て来た。姓名を告げて漱石師よりかねて紹介のあったはずである事など述べた。玄関にある下駄が皆女物で子規のらしいのが見えぬのがまず胸にこたえた。外出という事は夢のほかないであろう。」
 
読点が少ないのは、昔の文章だからしょうがない。しかしこの呼吸、目配りは、現代人の文章といっても、十分に通用する。
 
次は寺田寅彦の、「乞食」と題する随筆である。ある日、裏木戸をあけて縁側に、一人の乞食が入ってくる。国へ帰る旅費がないといって、哀しい顔をするので、小紙幣を一枚だけやると、乞食は、「だんな様、どうぞ、おからだをおだいじに」と挨拶をした。

「『どうぞ、おからだをおだいじに』と言ったこの男の一言が、不思議に私の心に強くしみ透るような気がした。これほど平凡な、あまりに常套であるがためにほとんど無意味になったような言葉が、どうしてこの時に限って自分の胸に食い入ったのであろうか。乞食の目や声はかなりに哀れっぽいものであったが、ただそれだけでこのような不思議な印象を与えたのだろうか。しゃがれた声に力を入れて、絞り出すように言った『どうぞ』という言葉が、彼の胸から直ちに自分の胸へ伝わるような気がすると同時に、私の心の片すみのどこかが急に柔らかくなるような気がした。」

「現代の名随筆」として、今年選ばれたとしても、おかしくはない。
河野さんは「彼(寅彦)の短文集『柿の種』(岩波文庫)を、ふと読み返したくなりました」というところで止めているけれど、これが明治大正の文章だということは、一考を要する。
 
たとえば、子弟という関係から、漱石は寅彦に影響を与えたと想像されるけれど、文章を見る限り、先生と弟子は、互いに影響を与えあっていたのではないか。そして、こと文章に関する限りは、寺田寅彦の方が、持って生まれたセンスは、漱石よりも新しい。その新しさに感応するところが、河野さんの非凡なところだ。
 
そういう目で、この本の全体を見れば、たとえば「古書を古読せず、雑書を雑読せす」、「こんな古本屋があった」、「寂寥だけが道づれ」、「生涯一教師」、「美女とコラムニスト」、「言葉に託された仕事」、「父の目の涙」、「翻訳という夢を生きて」などは、河野さんの独特の目が、見事に光を当てて、独特の光景を浮かび上がらせている。

以上は、この本のごく一部を触ったに過ぎない。この本の内容は、あまりに芳醇すぎて、描き切るのは難しい。これを、編集長という仕事の傍ら、毎週配信するというのは、想像を絶するものがある。

『考える人』は4月で休刊になるという。河野通和氏が今度はどんな雑誌をやるか、興味津々である。なぜなら河野さんは、時代状況を見れば、おそらく雑誌における最後の大編集者だから。もし河野さんが手を引けば、その瞬間、日本の総合雑誌・教養雑誌の命脈は尽きるといってもいい。

けれども編集長という激務の傍らで、これだけおもしろいものが書けるのであれば、では筆一本になったとき、いったいどれほどのものが書けるのか。そちらもぜひ見てみたい。河野通和という人の行く先は、しばらく目が離せないのである。

(『言葉はこうして生き残った』河野通和、ミシマ社、2017年2月1日初刷)

最後の雑誌編集者――『言葉はこうして生き残った』(3)

もうすこし司修さんの話を続ける。
「ぼくには『テキストを深読みする』という〝悪い癖〟があるとおっしゃる方です。どの作家とも長時間をともにし、舞台となった土地を歩き、それらを滋養としながら仕事をするのが流儀です。」(「装幀の奥義」)
 
司さんの仕事では、松谷みよ子が原稿を書いた絵本『まちんと』もある。これは三歳になる女の子が、原爆に遭って息絶え、鳥になって「まちんと まちんと」(もっと もっと)と水を求めて、空を飛びまわる話だ。この絵本を一度見た人は、終生その絵が焼き付いて離れることはない。
 
松谷さんは、その本の「あとがき」に書いている。
「司さんは『すっかり仕上がった絵をずらりとならべてみせてくださったかと思うと、すぐぱたぱたとしま』うと、『一さつ描いてみて、見えてきました。ぜんぶ新しく描きなおします』と言って、一冊分をすべてやり直した、と。
 そうか。こういう長い時間を経て、一九七八年刊の初版本ができあがったのか、と得心します。」(同)
 
一冊やってみて、見えてきたことがあり、だからもう一度やり直す。もう一度やり直した結果だからこそ、あの奇跡的な絵がある。そんな人は、もういないんじゃないか。
 
しかし、問題は挿絵ではなく、それに十倍するところの、野坂さんの原稿なのだ。
野坂昭如著「行き暮れて雪」の顚末は、この本の中でも白眉だ。

「追跡劇はいつも予想を超えた波乱含みのゲームでした。ラクをしてすんなり四〇枚の原稿を手にすることは一度としてなく、こうした一連の〝儀式〟を共にすることで、締切のどんづまりに向けて自らの妄想をかき立てていく作家の役づくりをお手伝いしている、といった感もありました。
 追いかけて新潟、山形、神戸・・・・・・。逃亡先を突き止め、夜汽車で追い、現地で身柄を拘束して、東京へ連れ戻す。」(「野坂番のさだめ」)
 
こういうことは、もうほとんどない。締め切りを守らなければ、執筆者のリストから消されてゆくばかりだ。けれども、ではあの締切を守れない著者がごろごろしていた頃は、なぜコクのある原稿が多かったのか。

「村松(友視)さんともよく語り合ったものですが、あれだけ酷い目にあって、いいかげん腹も立ち、もうしばらく原稿を頼むのは止めよう、と思う端から、最後の一枚がようやく手に入った瞬間に、怒りはすっかり消え失せて、ゴールした喜びをともに分かち合うような共感が生まれるのはなぜだろう、と。」(同)
 
それはもちろん、「現地で身柄を拘束して、東京へ連れ戻す」刑事の心意気である、というのは冗談だけれど、でもこれは、本当に不思議だ。

最後の雑誌編集者――『言葉はこうして生き残った』(2)

だからたとえば、「石川達三の『生きている兵隊』」事件などは、河野さんにとって戦前のことと忘れるわけにはいかない。

「私自身はこの事件から六十年以上も後に『中央公論』の編集長職に就きました。そして何度か必要があって、当時の関係者の証言、回想録のほとんどすべてに目を通しました。」(「言論統制の時代」)
 
該当箇所の切り抜かれた「中央公論」は、かくして再び出て行くのだが、そこに至るまでの、河野さんの筆さばきは見事だ。

「当時の『中央公論』の発行部数が約七万三〇〇〇部。全冊が回収されたわけではないにせよ(約一万八〇〇〇部が差し押さえを逃れ、それが海外で翻訳されるなど後々問題をこじらせます)、尋常の数ではありません。
 三月号は全体で約六〇〇ページ。そこから一〇六ページ分を切り取ります。・・・・・・それにしても当時八〇名足らずの社員で、押収された約五万五〇〇〇部を処理するとなれば、単純計算でも一人あたり七〇〇冊近くから切り取らなくてはなりません。たいへんな肉体労働です。その間じゅう、胸にどういう思いが去来していたか、想像するだけで暗澹たる気分におそわれます。」(同)
 
そんなふうに、「暗澹たる気分」をどこまでリアルに想像できるかどうか、編集長の資質は、そこに掛かっているといえる。
 
この本は、37本のコラムからなっている。だから、付け合わせの妙も堪能できる(これは河野さんではなくて、この本を編集した担当者の功績か)。
 
たとえば「『再版』の効用」の章。
河野さんは、雑誌連載で水上勉さんと北陸を旅したとき、真宗の僧侶・暁烏敏(あけがらすはや)のゆかりの地を旅した。水上さんの書く記事とは別に、3ページのカラーグラビアが組まれていたのだが、事件はそのカラーページで起きた。「暁烏敏」が、すべて「焼鳥敏」になっていたのだ。

河野さんは生きた心地がしなかったろうが、しかし周りにしてみたら、おかしいことこの上ない。そして若いうちのこういうことが、編集者の血や肉になるのである、たぶん。
 
ほかにも例として、いくつか挙げられている。
「➀かつて岩波書店の奥付で、発行人を『岩波雑二郎』にした(正しくは雄二郎)、②同じく岩波書店で、ギリシャ悲劇の『アンティゴネー』を『アンコティゴネー』にした、③筑摩書房では、カバー背の社名が『筑房摩書』になっていた、④きわめつけは『汝、姦淫するなかれ』を『汝、姦淫せよ』とした聖書、などでした。」
当事者でなければ、笑って済ませても、聖書以外は罪は軽い、たぶん。
 
河野さんは、装幀も、極めつけを出してくる。
「司修という名前をはっきり脳裏に刻んだのは、古井由吉さんの『杳子・妻隠』(河出書房新社、一九七一年)の装幀家としてでした。表紙に描かれた「一本の木」の姿をした痩身の女性像が忘れられません。」(「装幀の奥義」)
 
僕は、河野さんと同じ年齢だ。だから「一本の木」の姿をした女性像、といっただけで、もうだめだ。それがありありと、浮かんで来る。

その古井さんの芥川賞受賞記念の席で、司修さんは、武田泰淳の代表作『富士』の装丁を依頼される。この『富士』の、鳩が羽を広げた装幀こそは、最も美しい、最も力強い、この世に並ぶ物のない装幀なのだ。

河野さんは入社まもないときに、その司修の挿絵で、あの野坂昭如の雑誌連載の担当をする。このお二人を、一本の作品で同時に担当するということは、ちょっとでもその世界を知るものには、恐ろしくて身がすくむ。

最後の雑誌編集者――『言葉はこうして生き残った』(1)

本を題材に、類いまれな傑作が生まれた。著者の河野通和氏は、季刊雑誌『考える人』(新潮社)の編集長。この本は、彼が7年にわたって毎週発行している、都合300本余のメールマガジンから、37本を選んだもの。

でも、メルマガから選んだものというには、あまりに面白すぎるし、また考えさせられもする。時に対象と深く切り結び、時におおらかに、笑いをもって本に接し、その行くところ、出版社の歴史を紐解き、出版人・著者たちの過去から現在に及び、果ては古本、映画など、至らざるはない。
 
さっそく読んでゆこう。
まずは滝田樗陰である。大正元年に31歳で『中央公論』の編集長になると、執筆者たちは、樗陰の人力車が家の前で止まり、原稿を依頼されることを願ったと言う。
 
河野さんもまた、何代めか後の『中央公論』編集長である。後輩は、先輩をどう見ていたか。
「それにしても樗陰という男はとてつもないスケールの人間だったようです。・・・・・・ともかく情熱家、活動家、努力家、並はずれた読書家にして健啖家であり、エネルギーの量がとてつもない人物であったことは誰しも認めるところです。・・・・・・
 さらに人に飲み食いさせることが大好きという性格の持ち主で、それがしばしば強引過ぎたため、『食らい殺されはしないかと、不安を感じた』人も少なくなかったようです。」(「燕楽軒の常客」)
 
ふつうは歴史上の、はるかかなたの人物だが、それにしては、ほかのところを読んでも、彼我の距離がどうも小さい。どうやら河野さんは、この怪物編集長に個人的な親しみを感じているらしい。
 
そういう例は、洋の東西を問わない。編集者、とくに大編集者が急場に陥っていたりすると、河野さんの筆は迫真の力を見せ、対象に乗り移る。

ウィリアム・ショーンは、『ニューヨーカー』の名物編集長だった。ジョン・ハーシーの「ヒロシマ」、トルーマン・カポーティの「冷血」、レイチェル・カーソンの「沈黙の春」は、ショーンが編集長をしているときに、『ニューヨーカー』に掲載された。

ハンナ・アーレントの「イェルサレムのアイヒマン」もまた、ここに載った(「ハンナ・アーレント」その1・その2)。これは掲載されるや、アウシュビッツのありふれた悪、つまり「悪の陳腐さ」でひときわ有名になるが、一方、ユダヤ人指導者たちが、ガス室送りに手を貸したことを明るみに出したために、アーレントと『ニューヨーカー』は轟々たる非難を浴びた。

ショーンの苦境は、アーレントがヨーロツパからの亡命者であり、英語が達者ではなかったことで、倍加する。アーレントは、原稿の表現を問題にする彼に食ってかかり、罵詈雑言を浴びせる。それでも彼は粘り抜く。その胸の内を、河野さんは的確に言い当てる。

「『編集者の自由』という先述の言葉に、おそらく尽きるのだろうと思います。書き手たちが『可能なかぎり自分自身でありうるようにしむける義務がある』というひと言です。そこで自らを抑制し、踏みとどまることが、身についた職業倫理――『編集者の自由』だと考えたのでしょう。」
 
ここまできて読者は、いよいよ河野さんは、大文字で書かれる大編集者の一人であることを、思い知るのである。