50年ぶりのめぐり逢い――『赤毛のアン』(4)

『赤毛のアン』は、人物描写も、自然の描写も、実に巧みだ。かなり長い小説だが、一箇所も、だれるところがない。
 
僕はもともと、外国文学で自然描写が出てくると、たいていは想像力がついていかなかった。脳出血を発症してからは、それに拍車がかかった。
 
でも、この本は違うのだ。グリーン・ゲイブルズの四季が、隅々まで、はっきり頭に入ってくる。自然の移り変わりが、目の前に見えてくる。
 
もちろん、何でもないところも、けっして飽きさせない。

「……一連の日課と勉強は愉しく、冬の日々は過ぎていった。アンにとって、一日一日は、一年という首飾りにつないだ金のビーズが糸をすべるように、いつしか過ぎていった。アンは幸福だった。」
 
この見事な呼吸は、松本侑子の翻訳の力も、与かっているだろう。
 
ただ一箇所、これはどうかと思うところがある。

「アンは、もっと気高い動機から、高得点で受かりたいと思っていた。……一番になりたいと思うことは、たとえ荒唐無稽な夢だとしても、馬鹿げているかもしれない。しかし……」
 
この「だとしても」は、おかしくはないだろうか。

ここは、「たとえ荒唐無稽な夢であり、馬鹿げているかもしれない。しかし……」と、続かなくてはいけないところではないか。
 
でもまあ、一カ所くらいは、疑問に思うところが、残っていた方がいいのである。
 
本文が終わると、先ほど挙げた「訳者によるノート」があって、そのサブタイトルは、「『赤毛のアン』の謎とき」となっている。
 
これは編集者の知恵だろう。編集者が力(りき)を入れると、装丁も含めて、本が躍動し、活性化する。
 
最後に松本侑子の、長い「訳者あとがき」が来る。これも本文と、どっこいどっこいで力が入っている。

「モンゴメリは、三十四歳までに少なくとも二百八十六作の短編と二百五十六篇の詩が印刷されたとあります。彼女はカナダで初めて原稿料で生活できた作家であり、三十三歳で初めての本『赤毛のアン』が出る前に、すでに短編作家として旺盛な執筆をしていたのです。」
 
それは全然知らなかった。

『赤毛のアン』は1906年に完成すると、マクミラン社を含む4社に郵送するのだが、いずれも本としては不採用を告げられる。そうして5社目のL・C・ペイジ社で、出版が決まったのである。
 
たしか村岡花子のあとがきでも、何社かで不採用になった話が出てきたが、それはモンゴメリが、たまたま書いたものが、愛着を持てるもので、何社かで没になった後、ようやく日の目を見た、という話だったような気がする。
 
モンゴメリが、カナダで初めて、原稿料で生活していた作家だったなんて、全然知らなかった。
 
それにしても、これを没にした編集者は、当然のことと言えば言えるだろうが、つらいだろうなあ。まあ編集者としては、それだけのものだった、というほかはないのだが。
posted by 中嶋 廣 at 08:51Comment(0)日記

50年ぶりのめぐり逢い――『赤毛のアン』(3)

はじめ、アンは男の子と間違えられて、グリーン・ゲイブルズに連れてこられる。

そのことが分かって、アンがしおたれている場面である。

「マニラはアンに目を向けた。すると子どもの顔が青ざめ、何も言えないままみじめな表情を浮かべているのを見て、情にほだされた――まるで無力な小さな生きものが、一度逃げ出した罠にまたかかったと気づいて、打ちひしがれているような様子をしていた。マリラは良心の呵責にさいなまれた。この訴えを退けたら、死ぬ日までこの子の顔がちらついて、頭から離れないだろう。」
 
マニラは、農家の手伝いになる男の子が欲しかった。そこを、意見を翻して、女の子を受け入れようとする。
 
よくある場面といえばそうなのだが、しかしうまいものだ。
 
そのアンは、いつも空想力全開で、たちまち現実から羽が生えて、想像の世界へ羽ばたいていってしまう。
 
そうした場面を次に。
 
アンは、無二の親友、ダイアナを深く愛していて、このまま大人になると、結婚して別れなければならなくなる、その時が来ることを思うと、どうしようもなくなり、ただただ激しく泣きじゃくるのだった。
 
それを見たマニラは、びっくりする。

「マニラは、あわてて後ろをむいて、おかしくて引きつる顔を隠そうとした。しかし我慢できず、近くのいすにたおれこむと、どっと吹き出してしまった。思いきり声をあげて珍しいほど大笑いしたので、庭を横切っていたマシューが、ぎくりとして、立ち止まったほどだった。この前、マリラがあんなふうに笑ったのは、いったい、いつのことだったろう。」
 
アンとマリラが生き生きと描かれた場面で、マリラが、この少女を引き取った訳が分かる。
 
アンの想像力はどこまでも延びて、マリラを虜にしてしまう。

「『いいかね、アン・シャーリー』マリラは、やっと笑いがおさまって口がきけるようになると言った。『どうしても苦労の種がいるんなら、お願いだから、もっと手近なところから持ってきておくれ。まあ、確かに、あんたには想像力があるよ、ありすぎですよ』」
 
この最後の一文に、『赤毛のアン』の、物語を推進していく、究極の原動力が秘められている。
 
またアンには、特別な友人・知人が、何人か出てくる。これは、松本侑子の訳語では、「心の同類」と呼ばれるものだ。「心の同類」がいてくれれば、世の中の少々の荒波は、越えてゆける。
 
これは車谷長吉が、人間の「貫目が合う」、と呼ぶところのものだ。長吉は、夫婦は貫目が同じでなければ続けていくのは難しい、と言った。
 
アン・シャーリーなら、「心の同類」でなければ、本当の友だちにはなれない、と言っただろう。アンは、長吉が言った勘所を、よくとらえている。
posted by 中嶋 廣 at 11:03Comment(0)日記

50年ぶりのめぐり逢い――『赤毛のアン』(2)

『赤毛のアン』で鮮明に覚えているのは、アンがマリラに、アンの綴りのことで注文を付ける場面だ。

「『……アンと呼ぶなら、最後にeの地を綴って呼んでくださいね』
 マニラの頰に、また錆びついていたような笑みが浮かんだ。」
 
ここのところはよく覚えている。英語を習い始めてすぐだから、アンには二種類あることが、鮮烈だったのである。

「『そう綴ると、何か違うのかい』
『あら、全然違うわ。その方が、断然、すてきに見えるわ。おばさんは、人の名前を聞いた時、頭の中に、まるで綴りが印刷されたように浮かんでこない? 私はいつもそうよ。ANNではひどく見えるけど、ANNEにすると見違えて上品だわ。……』
 
百年以上前の作品なのに、アンもマリラも、すぐそこにいて話し込んでいるようだ。
 
ここは何カ所か、訳注番号が振ってあり、それは最後に、まとめて出ている。例えばこんな具合だ。

「アン……キリスト教では、聖母マリアの母親アンナの英語名。宗教画では赤い服に緑色のマントの婦人として描かれる。グリーン・ゲイブルズの三人の名は十二使徒マタイ、聖母マリア、マリアの母アンナに由来し、マシュー、マリラ、アンは親子ではなくともキリスト教の愛で結ばれた聖家族と示唆される。」
 
なるほど、背景にそういうキリスト教のバックボーンがあるのか。1世紀前の作品なので、こういうところは、解説なしでは、理解することが難しい。
 
また、アンの綴りに関しては、こんな訳注がついている。

「ANNEにすると見違えて上品……Eの付いたアンはスコットランドのスチュアート王家のアン女王の他、イングランドでも同じ綴りの王女や王妃がいる。」
 
まったく至れり尽くせりだ。こういう註を読むと、本文を読んでいくとき、こちらの目の届く深みが違う。
 
もちろん、かつての村岡花子訳には、付けられていなかったものだ。
 
ただ僕は、右半身が麻痺しているので、本文を読むとき、同時に訳注までは読めない。訳注は訳注で、後でまとめて読むしかない。しかしそれでも、十分に深みがあって、面白い。
posted by 中嶋 廣 at 09:09Comment(0)日記

50年ぶりのめぐり逢い――『赤毛のアン』(1)

中学生になったばかりの一学期に、加古川駅前の下司(げし)書店で、生まれて初めて文庫を買った。

『赤と黒』(スタンダール、小林正・訳)、『月と六ペンス』(モーム、中野好夫・訳)、『赤毛のアン』(モンゴメリ、村岡花子・訳)という組み合わせで、3冊とも新潮文庫だつた。

このとき、なぜ文庫を読もうと思ったのか、どうしてこういう組み合わせになったのかは、わからない。海外文学など、まったく知らない頃だ。
 
そのころ、兵庫・加古川の書店には、文庫といっても、新潮文庫と角川文庫だけが置いてあり、岩波文庫はなかった。岩波は買い切りだったからだろう。角川文庫は、海外のものは少なくて、しかもいま思えば、組みも古かった。
 
きっと中学生になったばかりで、背伸びして文庫を読んでみよう、と思ったのだろう。

その後、狂ったように文庫を読みまくる、といったこともなかった。
 
しかしこのときの3冊は、どれもみな面白かった。

『月と六ペンス』は、ゴーギャンをモデルにした、チャールズ・ストリックランドという画家の性格に、思いきりひねりが効かせてあり、『赤と黒』は、重厚な中にも、ジュリアン・ソレルの一途な情熱が沸騰し、こちらに伝染するようだった。
 
その2冊に比べると、『赤毛のアン』は少女小説だけれども、何というか親しみがあり、グリーン・ゲイブルズのマシューとマリラの兄妹も、まるで生きて、隣りで呼吸しているようだった。
 
アンの数々の失敗も、十代の女の子らしく、最後にギルバートと仲直りし、恋人同士になってゆくのも、いかにも心に沁みる話だった。
 
こんどそれを、松本侑子訳で読もうと思ったのは、カバーにこんな文章が載せられていたからだ。

「笑いと涙の名作は英文学が引用される芸術的な文学だった。お茶会のラズベリー水とカシス酒、スコットランド系アンの民族衣装も原書通りに翻訳。みずみずしく夢のある日本初の全文訳……」
 
帯にはまた、こうも書かれている。

「児童書でも、少女小説でもない/大人の文学」(オビ表)

「全文訳で初めて明らかになる、心豊かな名作の真実」(オビ裏)
 
特に「初めて明らかになる、名作の真実」、というところに痺れてしまった。
 
しかし、とはいっても実は、村岡花子訳は名作だった、という印象を除いて、僕の頭の中では、文章を全然覚えていないのだった。

これは、50年以上昔のことだから、考えてみれば、当たり前のことかもしれない。
posted by 中嶋 廣 at 13:12Comment(0)日記

ちゃんと校閲しなさい!――『夏の栞ー中野重治をおくるー』(4)

佐多稲子はまた、小林多喜二の死にも出会っている。
 
小林多喜二は1933年2月20日に、赤坂の路上で逮捕され、築地警察署で拷問死させられたのである。
 
佐多は小林多喜二に、ほんの数日前に会っていた。

「私なども、その三日前に、料亭の並ぶ赤坂の、小林の逮捕された同じ通りで小林に連絡をとっていたようなつながりにいたから、小林のその死は私の主観を一層尖敏にした。」
 
佐多稲子も戦前の、暗い歴史の表舞台の、中心に存在していたのだ。
 
しかしそれにしても、この引用で、「私の主観を一層尖敏にした」という、「私の主観」は、やはりおかしい。

「牛込柳町のひっそりした片側通りの一軒の二階で、非合法化の活動家たちと落ち合って、小林多喜二の死に黙禱をしたとき、私の胸には、二十一日の夜、阿佐ヶ谷の自宅に戻された小林多喜二の遺体をあらためたときの私自身の感覚と、小林の母、せきさんの痛恨の姿があった。……遺体の両股は紫色に腫れ上っていた。小林の母が多喜二の喉の傷を撫でて『どこ、息詰まった。殺さねえでもいいこと……』と云うとき、母のその息も喘いだ。この黙禱の席にいた六人のうちで、小林の遺体に接したのは勿論私一人であった。」
 
歴史の教科書で、一行ですまされる、小林多喜二の拷問による死が、突然生々しく迫ってくる。
 
それにしても佐多稲子という人は、人の五生分くらい有為転変を経ながら、なおそういう舞台に、召喚されなければならないのだ。
 
しかしそうであればあるほど、佐多の文章には、注意が払われてしかるべきだろう。もはや、いちいち例を挙げるのはやめるが、『夏の栞』は、後半に行けば行くほど、文章が危うい。
 
おそらく中野重治が死んで、佐多稲子の胸中に甦ったとき、そのとき歴史の中で、二人の関係は、深いところで、ますます微妙なものになったのであろう。
 
校正者はしかし、それを、意味あるものとして、忖度して読んではいけないのではないか。
 
まあ難しいやねえ。表面の、上っ面の意味を、すんなりと通るようにしなければ、当然疑問を出すだろうが、しかし佐多稲子の文章である。
 
しかし私は、ここでもう一段階、多く疑問が出ていたならば、『夏の栞』は、比類ない傑作になったと思うのだ。

(『夏の栞ー中野重治をおくるー』佐多稲子
 新潮社、1983年3月5日初刷、1986年3月15日第16刷)
posted by 中嶋 廣 at 12:14Comment(0)日記

ちゃんと校閲しなさい!――『夏の栞ー中野重治をおくるー』(3)

また、自殺直前の芥川龍之介にからむ話も面白い。
 
芥川と中野重治は交流があり、芥川が求めて中野に会ったのである。

「芥川が自ら求めて中野重治に逢うというのは、中野たちの展開した、階級思想による文学運動についての関心なのだということは、窪川の話などから感じ取っていた。」
 
中野が芥川のもとを訪ねたのは、1927年6月のことである。翌7月には、佐多稲子も、中野や堀辰雄、佐多の夫である窪川鶴次郎とともに、田端の芥川のところに出向いている。

「芥川が私に逢おうとしたのは、七年前に上野池之端の料亭の女中として知っていた女のその後を見ようとしてではなく、自殺未遂をした人間の、今日の顔を見ておこうとしたことだったろう、と、これは芥川の死のあとに私の気づく判断であった。」
 
芥川龍之介が睡眠薬を飲んで自殺するのは、その三日後のことである。
 
ほとんど劇的な場面に遭遇しながら、佐多の文章は、ブレなく、すっくと立っていて、しかも奥が深い。
 
もちろん見るべきところは、細かく見ている。

「白っぽい麻を着た芥川の、私のコップにサイダーをついでくれる手がこきざみに慄えて、芥川の神経の疲労を見るようだったのを覚えている。」
 
自殺する直前の、芥川龍之介がどのようであったか、息を呑むようだ。

もう一つは、中野重治らの同人誌「驢馬」の前に、女給の佐多稲子が登場したとき。このときを十全に語って、余すところがない。

「『驢馬』における私は、私そのものが、経てきた道筋に異常とも多様とも云えるじぐざぐを背負って、彼らの前にあらわれたのでもある。それについて敢えて云えば、私のその複雑さは『驢馬』同人を刺戟しなかったろうか。私として云えば、その過去は、彼らの文学的態度によって受けとめられ、私を救ったものである。その関係の上で、私は彼らを刺戟したと思う。」
 
こういう文体を、何と言えばいいか。佐多稲子は、小学校を途中までしか通わず、その後有為転変あって、結婚し、そして心中し損ね、夫と別れ、女給として、中野重治らの前に現われた。
 
それを、わずか数行の文章に凝縮し、しかもそこには、ほんのりとツヤまである。
 
こういう文章は、まったく見たことがない。ほかの作家の文章と、何が違うのだろうか。少なくとも、自分の置きどころが、違うことだけは確かである。
 
しかし、では、その自分の置き場所が、他とどう違うのかといえば、私にはよく分からない、と答えるしかない。
 
しかしそれでも、「私として云えば、その過去は、……」の、「私として云えば、」は、微妙に安定を書いていると思うが、どうか。
posted by 中嶋 廣 at 08:58Comment(0)日記

ちゃんと校閲しなさい!――『夏の栞ー中野重治をおくるー』(2)

しかし次のような場面は、ただただ感心し、唸るしかない。
 
中野重治が病院にいるとき、病人の周囲に紐が張ってあり、タオルが掛けてあった。その紐が、何かの拍子にほどけ、中野の顔の上に垂れた。
 
佐多稲子は、それを上にあげた。すると、眠っていたと見えた中野が、気配を感じて、「稲子さんかァ」と、弱々しく声を発した。
 
それに対して、中野の妻の原泉が、「あら、稲子さんってこと、どうしてわかるんだろう」と「ぴしりと聞える調子で云った」。
 
そこからが、クライマックスである。

「原さんの言葉に対して中野が答えたのである。
『ああいうひとは、ほかに、いないもの』
 そう聞いた一瞬、私は竦んだ。それは私の胸で光りを発して聞えた。ゆっくりと云った中野のそれは原さんへの答えだが、ひとりでうなずく言葉とも聞え、私にとってそれは、大きな断定として聞えた。中野自身は、自分のその言葉を、云われた当人が聞いている、と知っていたであろうか。その意識は無いように見えた。私だけが中野のその言葉を強烈に聞き取った。」
 
そこから、原泉の佐多に対する微妙な感覚と、佐多が中野のセリフを記す「偽善的」な感覚を、俎上に載せるところがくる。

「私が今、自分へのほめ言葉と受け取った中野重治のその言葉をここに書くのには、神経への抵触を感じる。しかしまた書かないなら、それはつつしみではなく自分にとって偽善になるという感じをどうしようもない。」
 
だから結論としては、次のようになる。

「それは、自分に引きつけて受け取れば私について云われた、私の、誰からも云われたことのない最上の言葉であった。それも、長年のつきあいのうえで云われたのであってみれば、私がどうして書かずにいられよう。こんな私の感情自体も、この長いつきあいの間の、中野重治に対する私の立場をあらわしていようか。」
 
新宿・番衆町の女将が、感心していたように、ここは本当にうまい。とくに最後の一文は、誇張して言えば、中野重治と佐多稲子を、同時に対象化しており、書き手の視点が突然、遠距離にフォーカスされていて、まるでフランスの古典派心理小説のようである。
posted by 中嶋 廣 at 09:19Comment(0)日記

ちゃんと校閲しなさい!――『夏の栞ー中野重治をおくるー』(1)

そのころ、といっても、もう40年近く前だが、よく行っていた、新宿・番衆町の呑み屋の女将が、『夏の栞』を読みながら、佐多稲子さんはいいねえ、と言っていたのが、耳に蘇ってきて、続けて読んでみた。

「中野重治をおくる」というのが大きなテーマで、それに絡めて、いろいろなことを思い出す。そういう随筆集である。
 
中野重治が、癌で入院し、死んでゆくまでと、それ以後の、墓に納骨するまでが、表面的な時間の流れで、そこを掘っていけば、佐多稲子の物書きとしての半生が、浮かび上がってくる。
 
佐多は喫茶店の女給をしているとき、中野重治に見いだされて、作家の道に入ったのである。だから中野重治をおくることは、他のどんなことよりも、重要であった。

「私は実際、中野に、その口髭を立てた心境を訊ねたことはなかった。中野の方からもそれについて何か云おうとしたこともない。お互いの間には、こういうことがしばしばあったように思う。」
 
こういうことがしばしばあった例として、口髭を立てることが出される。これは微妙だ。特に男と女の場合には、みんな分かっていることとして、話題にしないということなのだけれど、一方、男女が距離を取った場合に、最初から、問題にしないということもありうる。
 
ここでは佐多は、もちろん男女の親密な関係ということを、前提にしている。
 
そういう佐多稲子の、文体の微妙さを前提にしつつ、私はここでは、疑問を投げかけたい。

「どうぞ、もう一度無事退院を、という言葉の浮ぶのは、こういうことにつづく怖れだったとおもう。一九七九年七月十四日、中野の入院がすんだことを聞いてこの言葉をつぶやき、そして、そうつぶやいたことを、消えてゆく余韻としてまたおもい返すのは、わずかな数日後であった。」

「わずかな数日後であった」というところ、「わずかな」という言葉はないでしょう。当然、「わずか数日後であった」、としなければいけない。
 
またこういうところもある。

「私は中野が、全集の著者うしろ書を一冊にまとめて出す本の題名を気にしていたのをおもい浮べた。わが生涯と文学、と一応決められている題の、わが生涯、という表現が中野の感じ方にしっくりしないらしいのを、入院まもないとき編集者の松下裕の話で聞いている。本の題名ではなかろうか、という私の受取り方は中野の感覚についての私の同感であった。」
 
こういうのは、新潮社の校閲または編集者は、そのまま見逃すのかね。もちろん、「私の受取り方は中野の感覚についての私の同感であった」の部分である。およそ日本語になっていない。

「私の受取り方は中野の感覚と同じであった」ではいけないのだろうか。私には分からない。
posted by 中嶋 廣 at 00:09Comment(0)日記

鍛え上げられた文体――『時に佇つ』(3)

ここまで僕は、短篇の筋をなぞって、あらすじを書く、ということをしていない。この作品の場合には、そういうことをしても、意味はないと思うのだ。
 
まわりを埋めることによって、書かれていない中心を際立たせる、ということを、どういうふうにすれば、わかってもらえるだろうか。
 
書かれない中心を、書くことによってわかってもらう、ということは不可能だ。
 
だからその不可能を、不可能であるということにおいて、納得してもらう以外に、方法がない。
 
講談社文芸文庫には、巻末に懇切な「解説」がついている。ここでは小林裕子という人が、「解説 沈黙の論理と恥の倫理」と題して、力編を寄せている。

「いくつかの短編の表現を検討してみると登場人物の沈黙、あるいは寡黙さだけではなく、文体自体が或る意味で寡黙なのに気が付く。或る意味で、というのは全体的に万遍なく寡黙というわけではなく、部分部分において、その寡黙さが目立つような文体、語られなかった空白の部分を、読者に強く意識させるような文体なのだ。」
 
そういうことなのである。
 
あるいはまた、こうも言える。

「作者のもっとも言いたいことが、地の中に図として明示される。というよりも、むしろ周辺から地を埋めていき、最後に中心に空白として残る何かとして示される。そのような凝縮された空白、凝縮された沈黙がここには見られるのである。」
 
佐多稲子を読んだことのない人には、最初からちんぷんかんぷんだと思うが、しかしこれでも、分かる人には分かってもらえるか、という気もする。
 
こういう作品を書くときの佐多稲子は、「解説」を書いた小林裕子によれば、こんなふうだ。

「時の流れのまっただ中に佇みながら、『記憶』という、水底に沈む石を重石として、自分を過去に繫ぎ、過去にさかのぼろうとする者。この小説の女主人公『私』は、こんなイメージで読者の前に浮かび上ってくる。」
 
佐多稲子は、それにしても、いつごろから、こういう手法を身につけたのだろう。

まさか処女作のころから、こういう手法で書いていたわけではあるまい。

なによりも、中心を描かずに、それを浮き彫りにするには、中心に沿って、そこへ、圧倒的な文体をもって、迫っていかなければならない。

佐多稲子の、佐多稲子らしいところが、いつごろから表われてくるのか、これは自分で確かめるほかはあるまい。

(『時に佇つ』佐多稲子
 講談社文芸文庫、1992年8月10日初刷、1998年11月13日第2刷)
posted by 中嶋 廣 at 10:47Comment(0)日記

鍛え上げられた文体――『時に佇つ』(2)

次は「私」が、中国に出兵した兵士を、慰問する話。

「ここが自分の墓になるところだから、と云った兵隊が、故郷へ帰ったときの職業を案じていた。それは当人も気づかぬ、自然に出る話であって、矛盾を見出す私こそ、真実に距離を持つことにちがいなかった。」(その四)
 
佐多稲子は戦争中、転向して、そして兵士の慰問をしている。しかしそういうところでも、見るべきものは、透徹して見ている。

「兵隊たちのそれは、切実に、生と死であり、覚悟、あるいは諦めと希望の同居するものであった。ここにおかれた人間の本心が出て、ようやくその夜の話を表裏合わさったものにしてゆく。」(その四)
 
そういうふうに、話を表裏合わさったものにしてゆくのは、佐多稲子の目である。
 
戦後、戦争協力ということで、散々苦しむことになるのは、すでにこの時代から、たぶん分かっていたのではないか。
 
しかしそういうこととは別に、作家の目はどこまでも、冴え返っている。それを文章にするのに、水際立っているという言い方では、まったく足りない。それほど、何とも言いようがないほど、優れている。

「私の、戦後に自分を追及せねばならなかった戦争協力の責任は、私の思想性の薄弱と、理念としての人間への背信として負わねばならぬものだった。が同時に私は、あの戦争の場所で逢った人たちと自分の関係に負い目を感じていた。殊に宜昌〔ギショウ〕における経験は、私のこの負い目の真ん中にあった。その人たちが無事だという。」(その四)
 
二重、三重に屈折した、戦後の負い目を、実に鮮やかに描き切っている。
 
夫婦が心中する話も、全体を少し引いたところから、一気呵成に書き切る。

「あのときの、夫婦で薬をあおった行為は、発見されるのが早くて未遂に終っていた。周りに人が駆けつけたあとは、夫婦の片方は別の部屋におかれたはずだ。そのときもしかしまだ完全に命をとりとめると云える状態ではなかったと聞く。尚、この夫婦の心中行為の内容を云えば、それは心中の定義からそれていた。愛し合っているからではなくて、不信と絶望にもとづいて、それは行われた。この哀れな夫婦の、婦は私である。」(その五)
 
不信と絶望にもとづく心中、という言い方も、なにかを抉り出すような言葉遣いだが、最後の一文、「この哀れな夫婦の、婦は私である」というのは、息を呑む。
 
しかし問題は、描くべき中心は、実は描かれていない、という点である。
 
そもそも、そんなことが可能なのか。
posted by 中嶋 廣 at 09:15Comment(0)日記