問題の書、または胃痛・嘔吐・下痢・便秘――『癲狂院日乗』(車谷長吉)(2)

車谷長吉の、この世での引っ掛かりは、高橋順子しかない。

「午後、嫁はん、書肆といの仕事で出掛ける。独り言『順子ちゃんがいないと、ほんとに寂しいな、僕。うーん。うーん。』」(4月25日)
 
最後の「うーん。うーん」に、本音が強く出ている。
 
高橋順子が日曜日に、読売新聞に連載していたエッセイが終わる。

「平成奇人伝。私がズボンを穿き忘れて会社へ行った話や、新婚直後に私が、きょうの昼飯は外へ喰いに行こう、と連れ出して、田端銀座の路上でコロッケを立ち食いさせた話など。」(4月26日)
 
からかったつもりか、正気なのか。それにしても高橋順子は、苦しいことも多かったろうが、しかし一面、毎日が面白かったろうな。

「朝、ふとんの中で順子ちゃんと足で小突き合い、つつき合い、じゃれあう。」(4月28日)
 
長吉の愉しみは、「順子ちゃん」だけだ。
 
ところで4月25日の項に、こんなことが出ている。

「高橋隆『犯行』(三田新聞・昭和四十一年十一月二十三日)を読む。何度読んでも、心に沁みる傑作である。私の文学の基いはここにある。」
 
僕は聞いたことのない作品である。これはぜひ読みたい。
 
戻って、再び「順子ちゃん」のこと。

「朝、ふとんの中で順子ちゃんのお乳を愛撫。温かい。発情せず。」(4月29日)
 
だんだん「順子ちゃん」の体にも慣れていく。
 
もちろん乳繰り合っていても、人間を観察する眼は変わらない。
 
高橋順子、53歳。朝起きて、真っ先にクリームを塗り、ヴィタミンEや、精力剤のニンニクの丸薬も飲む。ドライ・アイで眼科に行くし、歯槽膿漏で歯科の治療も受けている。
 
もっと細かい観察もある。

「順子の朝は、毎朝、そういう風にして始まるのだが、そのあと珈琲挽きの箱をギィーギィー鳴らして、珈琲を沸かし、新聞を読む。新聞の途中で必ず便所へ大便をしに行く。その間に珈琲が冷めてしまう。珈琲、新聞、便所、これが順子の朝の三点セットだ。」(同日)
 
別に「順子さん」だけでなく、年配の男女ならごく当たり前の光景だが、改めて長吉の筆にかかると、「順子さん」は中年の女なんだ、という気が強くする。
 
2人は掛け合いの漫才も演じる。

「くうちゃん、あなた饒舌で強欲で因業なのよね。」「なにを言ってるんだ。俺は寡黙で無欲で敬虔な魂の人なんだから。」(5月1日)
 
ひょっとすると長吉の方は、正直なことを言ったのかもしれない。
 
2人の掛け合いは続く。

「朝、順子ちゃんの肩を揉み、お背中をなでなでして上げる。『くうちゃん、やさしいね。』『ああ、今日は日曜日、私の料理当番の日だ。厭だな。出るのは朝から溜息ばかり。』『何だったら、外へ食べに連れて行って下さってもいいのですよ。』『僕、マルがないから。』『くうちゃん、締まり屋ね。痰を吐くんだって、屁をひるんだって惜しいんだから。』お出掛けの好きな女だ。」(5月3日)
 
これがほんとの痴話喧嘩。しかし続けてこうも書いている。

「私の料理当番は週一度だが、普段の順子ちゃんの労苦が思われる。」(同日)
 
ここには、女性は対等に扱いたいという、長吉の本音がある。
 
本音と言えば、こういう女は嫌だという話。

「私方では、朝起きぬけに、嫁はんと互いに『お早うございます。』と言い合う。まあ、これが愛の交歓みたいなものだ。五年前に結婚したが、結婚以前から『愛してる。』などと言うたことは一遍もない。私は愛がどうの糸瓜がどうのと言う女が、大嫌いだ。背中がむずむずする。」(5月4日)

「愛してる」と言う女、または男は、ほんとにいるんだろうか。
 
実は僕は、大学に入ったころに、女と抱き合って「愛してる」と言ったことがある。場所は井の頭公園、女の名前は忘れた。なにしろ50年以上前だ。

言った瞬間、これは嘘だなと、たまらなく白々しい気持ちになり、以後、そういう言葉は使ったことがない。
 
大方の日本人なら、「愛してる」という言葉は使わないと思う。ごく一部の、僕のような人間が、東京に出てきて初めて女と抱き合い、舞い上がってオッチョコチョイにも、そういう言葉を使うんじゃないか。
 
これが女の場合には、よくわからない。長吉も、「愛がどうの糸瓜がどうのと言う女」と書いているから、あるいは女性の中には、そういうのがいたのかもしれない。

問題の書、または胃痛・嘔吐・下痢・便秘――『癲狂院日乗』(車谷長吉)(1)

平成10年(1998年)4月14日から11年4月13日までの、車谷長吉の日記である。これはおよそ25年間、活字にすることができなかった。それほど問題が多かったのである。

この年、長吉は『赤目四十八瀧心中未遂』で、直木賞を受賞している。

「癲狂院〔てんきょういん〕」とは精神病院、「日乗〔にちじょう〕」とは日記のこと。僕は、癲狂院すなわち精神病院とは、この世の中全体の比喩と思っていたが、そうではなく、車谷が強迫神経症の治療のために通っている、北浦和のクリニックのことだった。
 
1日目から、「精神を病んでいるのだ。精神病は死だ。生ける死人だ」と身も蓋もないことが書かれているが、2日目の冒頭には、「今朝、目が醒めた時、ふとんの中で嫁はんと接吻した」と、微笑ましいことが書いてある。

長吉と高橋順子が結婚するのは、1993年。子供はいない。結婚して6年目なら、寝床の接吻もあるような気がする。
 
ただしこの日記は、前半と後半で調子が変わる。後半では、そういう「楽しいこと」は出てこない。
 
まず長吉の病について。

「駅の構内を歩いている時、道を歩いている時、誰かが前を歩いて行く。それが私には不吉なことなのだ。その男、または女が歩いて行く後ろには毒素が撒き散らかされ、それを私は全身に浴びるのだ。前へ行く男、または女の歩調と私の歩調が合ってしまうと、たまらなく息苦しい。〔中略〕どうしても避けられない他人。不安だ。これも私の病いだ。このおびえ。」(4月17日)
 
だから外へ出れば、必然的に気が狂いそうになる。毒素が撒き散らかされるのだから、家に帰っても、いつまでも手を洗い、部屋や廊下の隅々までを、拭き清めなくてはならない。これは苦しい。
 
しかし前年の秋に、「文学界」の『赤目四十八瀧心中未遂』の連載が終わってからは、急に原稿の注文が来るようになった。それはもう滝のごとくである。

「次ぎ次ぎに押し寄せて来るので、無能の私としては応じ切れない。」(4月19日)

「新潮」(「私の好きな歌」)、「新刊ニュース」、「俳句朝日」、「波」(書評)、「群像」、「新潮」(書評)、新潮文庫(解説)、「波」(連載)、「文藝」、角川書店、「ユリイカ」、小学館(文庫書き下ろし)、「三田文学」、「文學界」(長篇小説)、ざっとこんなもの。およそ半年間とはいえ、凄まじい量である。

「私としては精一杯引き受けて来た積もりだが、併〔しか〕しそれは恰〔あたか〕も背中に重き荷を負うてその日その日を生きているが如くに感じられる。〔中略〕
 午後、『ユリイカ』(青土社)の原稿書く。太宰治『晩年』について。暗闇に頭を突っ込んでいるような時間だった。」(同日)
 
何とも言えない。
 
そのところどころに、心臓に差し込みがきたり、夜中に胃痛で明け方まで苦しみ、その結果、午前中、頭が痛くて疼く、とある。
 
外へ出れば、他人が怖いだけではない。

「道端に犬の糞がある。電信柱に犬の小便が引っ掛けられている。そういう前を通り掛かると、毒気で辺りの空気が汚染されているように感じられ、私は全身に汚れをあびる。どうやって身を浄めればいいのか、分からない。これが私の病いだ。
 午後、青土社へ。〔中略〕駿河台下の路上で立小便。私も犬だ。」(4月21日)
 
他人だけではなく、動物も穢れを持っている。そしてそれは、私も同じことだ。

この日も夜は胃痛。そして勤め先のセゾングループは、すでに待ったなしの「清算」状況だ。それは長吉のクビを意味する(まだ直木賞は獲っていない)。
 
押し寄せてくる精神的・物質的困難を考えれば、車谷長吉が自殺しなかったのは、ほとんど奇跡である(親族が五人、自殺したのに)。高橋順子の存在のみが、長吉をこの世に留めていたのだ。

いないけれど、いる――『この世の道づれ』(高橋順子)(2)

車谷長吉は10年以上、強迫神経症に苦しめられた。
 
そのころ、夫婦2人で駄木〔だぼく〕句会をやり、詠んだ句である。

「日に夜に薬呑むうち夏来たる   車谷長吉

 薬ひとつ減りたるうれし桐の花  高橋順子」

席題の1つが「薬」であった。かなり切実な句である。

「不安や緊張を和らげる薬二錠、気分を明るくする薬二錠、意欲低下を改善する薬三錠、副作用を抑えるための胃腸薬二種類各二錠、同じく副作用の便秘に用いる緩下剤二錠、これが一日分のくすりである。」(「枯れ色の風景」)
 
順子は毎日、これだけの薬を整えた。一緒に闘病している気持ちを込めて。
 
高橋順子はもう何も望まない。何事につけ張り合いとか欲望というものに、とらわれることがなくなった。ただ長吉のことを思うばかりだ。

「車谷はいないけれど、いる、と思って日々を過ごしています。いまは二階の書斎で勉強している、と思っています。朝の散歩のとき、根津神社の銀杏の木を仰ぐと、晴れた日には彼の顔が大きく空に浮かびます。」(「いないけど、いる人」)
 
住むところを、世間から、高橋順子の心の中に変えてから、長吉はゆったりと落ち着いたようだ。この度の教訓としては、夫は必ず妻より先に死ぬこと、ここに尽きている。

「漱石の硯」は捻りがあって、他のエッセイとは違っている。
 
高橋順子の叔母は、大正15年に生まれ、女学校を卒業し、数年たって夏目漱石の長男・純一宅に、家政婦として移り住み、50年以上を過ごした。
 
それを多として、あるとき純一氏が、漱石愛用の硯を渡したのである。50年以上も住み込みで暮らしていれば、家族同然で、何かしてあげたいというのは、自然の成り行きだ。
 
高橋順子は、「叔母に漱石の硯をいただいてどんな気持ちがしたかとたずねたことがある。『重苦しい気持ちだった。持っていろと言われたから、ずっと持っていた』と答えた。」

叔母は、純一氏とその妻を看取って、78歳で夏目家を出た。

その後、姪の高橋順子が用意した、小さなマンションに移った。
 
漱石の硯は、引っ越しの荷物とは別に、高橋順子が鞄に入れて、電車で叔母のマンションに運んだ。

「連れ合いは硯のことは知っていて、私が狙っていると思い込んでいた。私は彼に気づかれないように洋服ダンスの中に隠した。狙っているのは車谷だったからである。『漱石は天才だ!』と感嘆していた男に見つかって、奪い合いになったら、硯の運命はどうなるか。」
 
面白いですなあ。
 
ちなみに『癲狂院日乗』を読むと、漱石の硯は、夫婦で奪い合うことはなく、叔母の死後、漱石ゆかりの施設に寄贈されている。
 
叔母は2022年、95歳で永眠した。この叔母の死と、『癲狂院日乗』の刊行は、密接なつながりがあるが、それは次にこの本のことを書く際に。
 
漱石と言えば、長吉は「漱石山房」にならって、自分の住まいを「蟲息〔ちゅうそく〕山房」と称した。

「『虫の息で暮らしている』という意味の他に、その頃、葛の葉の裏についていたホソハリカメムシをとても可愛がりまして、蟲の字の一番上にいるのがそのホソハリカメムシや、小説『武蔵丸』になったカブトムシで、その下の虫二匹が僕たちだと、言っていたことがありました。」(「〈講演〉車谷長吉という人」)
 
おどけているようだが、人間も虫も変わらない、という低いところから発する、長吉の視線は強烈だった。

(『この世の道づれ』高橋順子、新書館、2024年8月1日初刷)

いないけれど、いる――『この世の道づれ』(高橋順子)(1)

この本は、車谷長吉の『癲狂院日乗〈てんきょういんにちじょう〉』と同じ日、2024年8月1日に刊行された。これはどちらも、買わないわけにはいかない。
 
まず高橋順子さんの『この世の道づれ』から読んでみる。長吉がらみの、ごく短い随筆が約50本、4章に分けて収められている。
 
高橋順子の『夫・車谷長吉』はこの10年、何度も朗読してきた。脳出血による高度脳機能障害で、僕は自分の内面から作らなくてはいけなかった。それで同じものを朗読したのだ。
 
今度の本で、高橋順子は言う。

「あれから九年になろうとしている。毀誉褒貶の甚だしかった連れ合いの作家・車谷長吉が六十九歳で逝ってから。」(「あれから――あとがきに代えて」)
 
高橋は、車谷文学が読み継がれることを願っている。けれどもその小説で、車谷の親族にはつらい思いをさせた、そのことはよく分かっている。

「なぜそんなむごいことをしたのか、と考えれば、車谷は私たちがみな滅んだ後、自分の書いたものが残り、血のにじむような異様な緊迫感に、後世の人々はリアリティーとともに、文学を読む満足感を味わうだろうと、ひそかに期するところがあったのではないか。書いたものが残るという希望が、彼を支えていた。」(「車谷文学の行方」)
 
本当に、ただ一つの正当な考えだ。
 
また長吉は、高橋順子に散文の秘訣を教えた。

「エッセイの登場人物には実名をつかえ、と言った。たとえば『連れ合い(車谷長吉)』というふうに。そうすると、どんなにしまりのない文章でも緊張感が出てくるのだった。が、これは危険な方法だった。彼は名誉棄損で提訴されることにもなった。」(「文章指導」)
 
実際、『癲狂院日乗』は、どういうふうに実名問題を乗り越えたのだろうか。読むのが楽しみでもあり、怖くもある。
 
車谷は生粋の関西人だった。

「連れ合いは漫才師になりたかったという人だったが、漫才師になれなかったから、作家になってしまったのかもしれなかった。〔中略〕書くものは深刻な題材が多かったが、ふだんはおしゃべりで、じきに破目をはずして楽しい人になった。そんな人は関東育ちの知人の中にはいなかった。」(「関西と関東」)
 
僕もすぐに破目を外し、その脱線がどこまでも行く。きっと車谷も、吉本新喜劇と、黒川博行の関西弁の小説が好きだったろうな。僕は脳出血を患って以来、その脱線が思うように進まないから、人にはあまり合いたくない。
 
2人にとって、本当に幸福な時間もあった。

「これだけはしてはいけない、と言われた料理がある。天ぷらである。なにしろ私は上の空なので、天ぷらを揚げているときに、電話が鳴って鍋から離れ、長話の挙げ句、家を焼かれては一大事だというのである。〔中略〕生フグの冷凍フライなどを知人からいただくこともあるが、そういうときは連れ合い自らが揚げてくれる。すごく美味しい。」(「元料理人の料理」)
 
車谷は、本物の料理人にはならなかったがゆえに、家庭で順子さんのために料理を作ったのだ。

エピソードの寄せ集め、ただし意味は――『Novel 11,Book 18(ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン)』(ダーグ・ソールスター、村上春樹・訳)

この本はノルウェー語から英語に訳されたものを、村上春樹が重訳で日本語に訳したもの。

『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事』には、こんなふうに紹介されている。

「ソールスターという作家の面白さは、スタイルが古いとか新しいとか、前衛か後衛か、そういう価値基準を超えて(というかそんなものをあっさり取っ払って)作品が成立しているところだと思う。とても痛快で、そしてとてもミステリアスだ。こんな小説を書ける人は世界中探しても、あまりいない。」
 
いったいどういう内容だろう。激しく好奇心を刺激される。そして最後はこういうふうに結んである。

「こういう作品にめぐり合うと、生きていてよかったとまでは言わないにしても、本当にうれしくなってしまう。」
 
こんなことを書かれて、それでもスルーするなら、もう本を読むのは止めなさい。
 
村上さんは、ノルウェー語はできない。しかし自分が重訳でも訳さなければ、誰もやらないだろう、というわけだ。
 
このタイトルの意味は、11冊目の小説で、18冊目の著書。なんか人を馬鹿にしてて面白い。
 
それで読んでみたのだが、全体の感想を言えば、この小説は案に相違してつまらない。

エピソードは次から次へと、切れ目なく出てくる。主人公の男が、中央官僚の道を捨て、妻と子どもを捨てて、女と地方の都市で暮らすが、やがてその女とも別れて、1人になる。
 
そこまでが、一見リアリズムで書かれているが、その方向性が微妙にリアルではない。村上春樹が言うように、全体がちょっと歪んでいる。
 
最後に主人公は、脚が使えなくなる身障者のふりをして、手厚い福祉の介護を受け、車椅子で生活することになる。

このエピソードが唐突に出てくるから、仰天することになる。
 
大事なことはこの小説家が、最初から終わりまで、主人公の内面を、一貫したものとして描いていないことだ。
 
だからエピソードは、脈絡なくいくらでも出てくる。確かに「これは何だ」となる。でも、飽きるし、面白くない。だって必然性がないから。
 
作中、主人公はアマチュアの市民劇団に入り、イプセンの『野鴨』をやることになる。
 
僕は『野鴨』を読んでいないのだが、村上春樹は「『野鴨』を久しぶりに読み返してみて、両者のあいだにずいぶん通底した雰囲気があることを発見して、驚いてしまった。〔中略〕『野鴨』に登場する人物たちはそれぞれの背景を抱え、それぞれの意図を持って生きているが、現代の僕らの目から見ると(おそらくは当時の人々の目から見ても、と僕は想像するのだが)、みんないささか奇妙な人々である。その心理や意図はいちおう説明されているし、理解もできるのだが、彼らに感情移入をすることはほとんど不可能だ。」

『野鴨』と、ソールスターのこの小説は、驚くほどよく似ている、と村上春樹は言う。
 
そしてこの小説の核心に触れる。

「そこにある風土の厳しさ、人の心が置かれたある種の窮屈さ、しかしそれでもなお(というか、なればこそというか)追求されなくてはならないモラル、そういうものが、読者の肌身にひしひしと迫ってくることになる。」
 
僕にはそれが分からない。小説の、どこのどの部分を指して言っているのだ。

「そして独特の巧まざるユーモアの感覚(それは細部にほんの僅かずつ浸みだしている)と、抑制されたしかし巧妙なストーリー・テリングが、そこにある痛切さをとてもうまく和らげている。そのかねあいが実に素晴らしいと僕は感心してしまう。」
 
ここはわずかに分かる気がする。
 
そしてそれは、村上春樹を読み解くカギにも、なっているのではないかと思う。

(『Novel 11,Book 18(ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン)』
 ダーグ・ソールスター、村上春樹・訳、中央公論新社、2015年4月10日初刷)

あのころ、アンナ・カリーナが――『ゴダール/映画誌』(山田宏一)(4)

1967年公開の『ウイークエンド』は、僕は見ていないが、ゴダールの長編映画の第15作目で、60年代ゴダールの劇場用商業映画の、最後の作品である。
 
山田宏一はこの映画について、面白いことを言っており、また出演したミレーユ・ダルクにインタヴューしているので(これが面白い)、取り上げておく。

「〔『ウイークエンド』は〕商業主義などものともせずに、響きと怒りにみちた、型破り、大暴れのゴダール映画の快作(痛快無比の傑作と言いたいくらい)だが、一年後、一九六八年の『五月革命』とともに、商業主義から突如遠く離れて、『革命的集団闘争映画』に突っ走るゴダールは、その後また一時的に劇場用商業映画に戻るけれども、二度とこんなに破茶滅茶におもしろい(などと言っては失礼かもしれないけれども)作品をつくることはないのである。」
 
若いときであれば、大いに興味を持つところだ。
 
山田宏一は、1973年に来日したミレーユ・ダルクに、インタヴューする機会があった。
 
ミレーユ・ダルクは、『恋するガリア』のような奔放で自由な女、という枠を破りたくて、ゴダール映画に出たのだという。

「彼の映画に出る俳優は相当マゾヒストでなければ耐えられないと思いますね。監督と俳優のあいだにはまったく何のコミュニケーションもコンタクトもない。シナリオもない。何もない。その役柄や演技にどんな意味があるのか、俳優はいったい何をやっているのか、まったく何もわからない。これからどんなシーンを撮るのか、どんな役なのか、どんなふうに演じればいいのか、監督からは何の説明もない。ただ、左を向け、右を向け、進め、とまれ、と命令するだけ。」
 
ミレーユ・ダルクにとって、ゴダール映画の現場は、ただもう不毛で不愉快なだけだった。
 
山田宏一は、それ以上何も聞き出せず、「ちょっとつらいインタビューになってしまった」という。

『ウイークエンド』は「豊饒なる六〇年代ゴダール」の終焉であり、このとき『ウイークエンド』を撮り終えたゴダールは、まだ36歳だったのだ。
 
付録についている「ゴダールvsトリュフォー喧嘩状」は、1973年に交わされた往復書簡で、トリュフォーの死後、1988年に出版された『トリュフォーの手紙』に入っている。
 
ここではゴダールの手紙に、トリュフォーが長い返事を書いている。別れの手紙なのだが、その中でトリュフォーが、こんなことを書いている。

「どんなことをしようがきみが天才であると表明しているのは、〔ニューヨークの新知性派とよばれた女性批評家〕スーザン・ソンタグや〔映画監督〕ベルナルド・ベルトルッチや〔中略〕〔映画批評家〕ミシェル・クルノーといった、いま流行の左翼サロン文化人だけだ。たとえ虚栄心とは無関係のふりを装っても、きみは彼らのためにドゴールやマルローやクルーゾーやラングロワのような偉大な人物の猿まねをし、みずからの神話をつくりあげ、陰険で近寄りがたく怒りっぽい気分屋(まさにヘレン・スコットが言うとおりだ)という一面を誇張しているだけなのだ。」
 
まことに手厳しい。
 
しかし問題は、トリュフォーが死んだ後、『トリュフォーの手紙』を編纂するときに、ゴダールが取っておいた手紙を出してきたところだ。ゴダールは、生涯の友の手紙を、たとえ絶交することになるにしても、大事にしていたのである。

(『ゴダール/映画誌』山田宏一、草思社、2024年4月25日初刷)

あのころ、アンナ・カリーナが――『ゴダール/映画誌』(山田宏一)(3)

『軽蔑』はゴダールの長編映画の第6作で、1963年の公開だった。
 
先にも述べたように、この映画では、海辺で全裸で泳ぐブリジッド・バルドーしか覚えていない。
 
夫役のミシェル・ピッコリが、いかにも「軽蔑」されるのに、ふさわしいような男を演じていた。でも正確には憶えていない。
 
ここではこの映画について、『ブリジッド・バルドー自伝 イニシャルはBB』から、印象的な場面を引いておく。

「私たちはほとんど言葉を交わすこともできなかった。私はがちがちに緊張し、彼はすっかり気後れしていたようである。〔中略〕
 私はずいぶんためらった。左翼かぶれの薄汚いインテリという種族にはイライラする。彼はヌーヴェル・ヴァーグの旗手だったし、私は古典的作品のスターだった。
 とんでもない取り合わせだった。」
 
山田宏一はこの本を、「言いたい放題の、じつにおもしろくあからさまな回想録」と評している。
 
でもブリジッド・バルドーは、かなり頭のいい女性だ。

「〔バルドーは〕アルベルト・モラヴィアの原作小説は大好きで、『監督がゴダールとなるといつもの調子からずれた脚本と演出によって、原作がすっかり変形されてしまうだろうということもわかっていた』ものの、『自分自身のために賭けをするようなつもり』で出演を承諾した。――『こうして私は一生でもっとも奇妙な冒険に船出した。』」
 
自分のいる位置が、かなり正確に分かっている。
 
またこんなところもある。バルドーの自伝の続き。

「ミシェル・ピッコリが湯につかっているとき、浴室のドアにもたれて、罵りの言葉を連呼するシーンで、私は感情を込めず、平板に次々と暗唱しなければならなかった。
 確かめたわけではないが、たぶんアンナ・カリーナが怒るときはそんなふうだったのだろう。」
 
おもわず爆笑ものである。
 
しかし実際には、危機の連続であったらしい。

「ある日、ゴダールは私に、キャメラに背を向けてまっすぐ歩いていくようにといった。リハーサルをやっても、うまくないという。何故かたずねてみた。『君の歩き方がアンナ・カリーナに似ていないからだよ』と彼はこたえた。
 愉快な話だ。
 私がアンナ・カリーナの真似をしなければならないというのだ。冗談もほどほどにしてもらいたい。」
 
最後の、水平線が画面一杯に広がるシーンが、美しいのどうのという記述があるが、よほどの偶然でもない限り、たいして見たくない映画だ。
 
しかし、そのアンナ・カリーナとゴダールは、1964年に分かれてしまい、ロベール・ブレッソンの『バルタザールどこへ行く』でデビューしたアンヌ・ヴィアゼムスキーが、次の妻となる。彼女は『中国女』と、五月革命以後の『東風』に主演したが、僕は全然覚えていない。
 
ゴダールはアンナ・カリーナと離婚したのちに、彼女を主演に『気狂いピエロ』を撮っている。これが「別れの詩〔うた〕」だ、と山田宏一は記している。
 
しかしなおゴダールは、1966年の『メイド・イン・USA』を、アンナ・カリ―ナ主演で撮っている。

あのころ、アンナ・カリーナが――『ゴダール/映画誌』(山田宏一)(2)

ゴダールとトリュフォーの友情と破局の話は、有名である。

「ヌーヴェル・ヴァーグの金字塔的作品になった『勝手にしやがれ』は、トリュフォーの企画原案がゴダールによって映画化されて、二人の友情の最も美しい結晶として記憶されることになった。」
 
しかしそれが続くのも、1968年の5月革命までだった。
 
トリュフォーは「ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール」(1970年3月2日号)のインタヴューで、こう語っている。

「もうわたしたちは二度と会うことも話し合うこともないだろうと感じました。わたしは従来の古めかしい映画をつくりつづけ、ゴダールは別の新しい映画をつくる。一九六八年五月以後、彼はもう誰も従来の古めかしい映画をつくるなんてことはできないし、つくってはならないと感じ、相変わらず従来の古めかしい映画をつくりつづけているわたしのような人間を呪い、憎悪していた。」
 
そういうことだ。だから附録の「ゴダールvsトリュフォー喧嘩状」が、大変興味深い。

『勝手にしやがれ』以外の映画で、僕が憶えているのは、実はほとんどない。他には『女と男のいる舗道』のアンナ・カリーナ、『軽蔑』のブリジッド・バルドーが出たシーンを、断片的に憶えているだけだ。
 
以下は、この本の印象に残ったところを書いていく。
 
アンナ・カリーナはゴダール映画のヒロインで、そしてそれに尽きていた。

「ロジェ・ヴァディム監督の『輪舞』(一九六四)もヴァレリオ・ズルリーニ監督の『国境は燃えている』(一九六五)もマルチェロ・マストロヤンニと共演したアルベール・カミュ原作、ルキノ・ヴィスコンティ監督の『異邦人』(一九六七)もジャック・リヴェット監督の『修道女』(一九六六)も彼女の代表作にはなり得なかった。」
 
僕はこの中で、高校生のときに『異邦人』を見ている。大して面白くない映画だった。この映画を先に見たせいで、新潮文庫で『異邦人』を読むのが、3年ばかり遅くなった。こちらは、こんなに面白い小説があるのかと思った。大学でフランス語を習った年に、原書でも読んだ。
 
そういえばロジェ・ヴァディムの『輪舞』も見たが、これは完全に忘れている。
 
とにかくそれらの作品においては、アンナ・カリーナが出ていることすら気づかなかった。

「アンナ・カリーナはただジャン=リュック・ゴダールの映画のヒロインとしてのみ記憶されることになるのである。アンナ・カリーナの肉体も魂もただゴダール映画にのみ宿るのである。」
 
コペンハーゲンからパリに出てきたばかりのアンナ・カリーナは、ゴダールと結婚し、1960年代のゴダール映画の、ただ一人の忘れがたいヒロインになる。

『カラビニエ』(1963)は、僕は見ていない。しかしこの映画の、山田宏一の評価が面白い。

「アンナ・カリーナの出ないゴダール映画はごつごつして、唐突で、ぶっきらぼうで、うるおいがない。こんなものが映画と呼べるか――混沌、支離滅裂、退屈きわまりない、とパリ公開のときには批評で罵倒されたが〔中略〕、それもやむを得ないと言いたいくらい、故意に(と言いたいくらい)粗雑で、乱暴で、攻撃的で、強烈だ。これがめちゃくちゃおもしろいのだ。」
 
この映画評、強烈である。

あのころ、アンナ・カリーナが――『ゴダール/映画誌』(山田宏一)(1)

山田宏一の『友よ映画よ〈わがヌーヴェル・ヴァーグ誌〉』は、大学生のころ読んで感動した記憶がある。何に感動したのかは、すっかり忘れてしまったが、でも深いところに届く、非常にいい文章だった。

『定本 たかが映画じゃないか』では、和田誠と対談している、その仕方が気持ちのよいものだった。
 
今度は『ゴダール/映画誌』である。どういう本がというと、

「1960年代のジャン=リュック・ゴダール監督の映画――ポーリン・ケイル女史がいみじくも名づけた『豊饒なる六〇年代ゴダール』――について、私にとってのゴダールのすべてと言っていい『勝手にしやがれ』(1959)から『ウイークエンド』(1967)までの十五作品に焦点を絞って、機会があるごとに、試行錯誤をくりかえし、改稿を重ねながらも、あちこちに書き綴ってきた拙文の私なりの集大成です。」
 
そこに2022年の、ゴダールの自死に際しての追悼文を収める。
 
そしてもう一つ、付録として「ゴダールvsトリュフォー喧嘩状」を収める。
 
1970年代の初めに大学生になった僕にとって、ゴダールは頭の隅にある名前だった。友達の下宿で、また飲み屋で議論するとき、しょっちゅう出てくる名前だった。
 
しかし正直なことを言うと、僕はゴダールの映画はそれほどは見ていない。『勝手にしやがれ』『女は女である』『女と男のいる舗道』『軽蔑』『気狂いピエロ』『中国女』、これで全部だ。
 
でも20歳前後の学生にとっては、そこにゴダールの込めた思想は分からなくとも、興奮し面白かった。
 
フランス文学科へ進んだから、背伸びする気持ちも大いにあったろう。
 
ただ、金がなかった。父親に対して、できる限り内面の関わりを避ける気持ちがあり、だから仕送りも最小限だった。
 
今ならもちろん、そんなことはせず、自分がどこに向いているかどうか、分からないのだから、そういう親子のことはいったん棚に上げて、スネを齧っているところだ。

それができなかったのは、そういうことも含めて、自分の人間の小ささを感じさせる。
 
とにかくそれで、東京で上映されるゴダールの映画を、全部見ることはできなかった。
 
見た映画の中では、『勝手にしやがれ』が断然面白かった。

「パリのシャンゼリゼ大通りの歩道で、ショートカットのアメリカ娘ジーン・セバーグがアメリカの新聞『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』を売っているところへジャン=ポール・ベルモンドがやってきて、二人でゆっくり歩きながら会話をする長いワンシーン=ワンカットも、当時、郵便物の運搬や配達に使われていた手押しの三輪車があって、車輪もタイヤで滑りがよく振動も少なく、キャメラマンのラウル・クタールがそのなかに入って隠し撮りをした」。
 
この辺は印象的なシーンだ。何ということはないシーンなのだが、『勝手にしやがれ』を思い出すと、真っ先にこの場面が浮かんでくる。
 
ゴダールの演出は、次のようなものだった。

「ゴダールがキャメラのフレームに(視野)に入らないすれすれのところで俳優たちに口伝てでせりふを教える、俳優たちはそのせりふを聴き取って自分の言葉でくりかえして演じるという方式で、すべてが現場で直接的に――即興的に――おこなわれる」。
 
この方法は「よきにつけあしきにつけ」、ゴダールの定番になる。

「やらせのドキュメンタリーのようだが、撮り直しのきかない危険な同時録音撮影なのである。原則としてすべてぶっつけ本番、NGなしの撮影だ。」
 
こういうのは、若手の監督なんかで時々ある。台本なしは、北野武もやっている。芝居では、つかこうへいが口建てでやっていた。
 
よほどの天才じゃなければ、たちまち行き詰まる。ゴダールは、60年代末までの10年間は保ったのだから、たいしたものである。
 
でもこの方式は、僕には飽きる。何というか、タメや深みが総じてないのだ。

こういう作品だったのか――『ロング・グッドバイ』(レイモンド・チャンドラー、村上春樹・訳)(3)

この話はフィリッブ・マーロウが、酔っ払いのテリー・レノックスと知り合うことから始まる。
 
冒頭の1行はこうだ。

「テリー・レノックスとの最初の出会いは、〈ダンサーズ〉のテラスの外だった。ロールズロイス・シルバー・レイスの車中で、彼は酔いつぶれていた。駐車係の男は車を運んできたものの、テリー・レノックスの左脚が忘れ物みたいに外に垂れ下がっていたので、ドアをいつまでも押さえていなくてはならなかった。」
 
男は冒頭から散々である。はじめにこういうふうに登場した人物を、徐々に書き変えていくことは、かなり難しい。

「1」の章の最後には、こうある。

「唇を嚙みながらハンドルを握り、帰路についた。私は感情に流されることなく生きるように努めている。しかしその男には、私の心の琴線に触れる何かがあった。」
 
ハードボイルドの典型である。「あっしにゃあ、関わりのないことでござんす」、と言いつつ巻き込まれていく。
 
ここが村上春樹によれば、次のようになる。

「『ロング・グッドバイ』にあって、ほかの『マーロウもの』にないもの、それはいったい何だろう? それは言うまでもなくテリー・レノックスという人物の存在である。『ロング・グッドバイ』という作品を、ほかの彼の作品群から際だたせている原因は、ひとえにこのテリー・レノックスの造形にあると言い切ってしまってもいいような気がする。この小説はフィリッブ・マーロウの物語でありながら、同時にテリー・レノックスの物語でもあるのだ。」
 
うーん、これはちょっと無理ではないかな。
 
物語全体を読み終えたとき、テリー・レノックスは、たんなる酔っ払いからだんだんに変貌しており、その意味では「テリー・レノックスの物語」と言ってもいいものだ。
 
しかしこの変貌は、かなり無理をしなければ、描写する上で苦しいものだ。
 
村上春樹はしかし、そんなことはたいして気にならない。なぜならそこを、次のようにして読むことができるからだ。

「僕はある時期から、この『ロング・グッドバイ』という作品は、ひょっとしてスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を下敷きにしているのではあるまいかという考えを抱き始めた。そしてそのような仮説のもとに『ロング・グッドバイ』を読むようになった。」
 
ここは、「チャンドラーとフィッツジェラルド」という章なのだ。
 
だからフィッツジェラルドの登場人物と、『ロング・グッドバイ』の登場人物を当てはめていけば、そういう読み方も、できるといえばできる。
 
しかしここを、僕はそうは取らない。そうではなくて、ある長い時を経た悲恋物語の、構造がよく似ていて、村上春樹はそういう物語に心打たれるのだ、と取った方がいい。
 
ただし急いで付け加えれば、村上春樹の言う前提を、仮に取ったならば、「チャンドラーとフィッツジェラルド」の章は、これはこれで実に興味深い。
 
村上春樹の「訳者あとがき」はとんでもなく面白く、それを読んでぶつぶつ言うことは、読書の最高の楽しみである。

ということで、このまま勢いをつけて『大いなる眠り』、『さよなら、愛しい人(さらば愛しき女よ)』を読んでみよう。

(『ロング・グッドバイ』レイモンド・チャンドラー、村上春樹・訳、
 ハヤカワ文庫、2010年9月15日初刷、2020年10月15日第14刷)