それにしても、なぜ?――『〔私家版〕西村玲 遺稿拾遺――1972~2016』(2)

科研費をもらうことを前提に、企画を進めた場合に、それに落ちたら、普通は企画は取りやめになる。
 
西村玲さんと、その件で会ったとき、さすがにちょっとがっかりされていたが、しかし日本思想史は仏教というジャンルにくらべても、科研費の予算が少ないので、近世の律僧・普寂といっても、まだ誰も知らないので無理だと思う、と冷静に述べられていた。

近世の江戸は、これまでのイメージとしては、儒教全盛の時代であった。「近世仏教堕落史観」というのも、辻善之助以来、根強くある。つまり、鎌倉仏教は素晴らしいものだが、幕府に統制された近世仏教は堕落している、という思い込みが根強い。

これを何とか、覆せないか。

西村玲さんの仕事は、その先駆となる可能性がある。
 
そこで私は、科研費は無理でも、この本を企画として、推進することにしたのである。

近世の律僧・普寂という、まだ誰もやったことのない主題、西村玲という33歳の、無名の研究者の処女作、私に送られてきた、これまでの論文の見事な切れ味、というような諸々のことを考えたなら、これは勝負してみる価値はある。私は、そう考えた。
 
もちろん末木文美士先生が、これは独創的な研究だと、太鼓判を押して下さっているのも大きかった。
 
それにしてもこういうとき、社長をしているのは、本当にこれ以上ない強みだ。企画のいろいろな点を挙げて、これはやるべきだと力説しても、一編集部員だと、結局はその人の信頼性にかかってくる。このときは本当に、社長をしていてよかった、と心底思った。
 
これは『近世仏教思想の独創ーー僧侶普寂の思想と実践』と題して、トランスビューから刊行された。
 
傑作なのは、本が刊行されると、「普寂を中心とする日本近世仏教思想の研究」により、日本学術振興会賞をもらったことだ。
 
それなら、日本学術振興会で科研費の審査するときに、もう少し慎重にやってくれよ、と言いたくなる。

でもこれは、出来上がったのを見なければ、イメージが浮かばないので、無理はない。それだけ、西村玲さんの研究成果が、独創的なものだったのだ、ということにして、私は自分を慰めた。

けれども、もっと驚いたのは、この本が、日本学士院学術奨励賞を受賞したことだ。学士院学術奨励賞をもらったのは、全部で五人。うち四人は理科系、文科系は西村さん一人だった。

まったく不謹慎だけど、文科系の中で、全国でただ一つの宝くじに、当たるようなものだ、と思った。
posted by 中嶋 廣 at 10:35Comment(0)日記

それにしても、なぜ?――『〔私家版〕西村玲 遺稿拾遺――1972~2016』(1)

西村玲さんが死んだ。自殺だった。
 
2016年2月2日夕方、市役所に離婚届を提出した後、首を括って死んだ。四十四歳だった。
 
私は末木文美士先生から、亡くなったことを、メールを頂いて知ったが、あまりに唐突で、何が何だかわからなかった。
 
西村玲さんはアトピーを持っておられたので、それが急速に悪化したのかと思った。そのくらいしか、考えようがなかったのだ。
 
今度、ご両親が編まれた、『西村玲 遺稿拾遺ーー1972~2016』を頂いて、それが自殺であることが、初めて分かった。
 
それにしても、考えられない。そういう思いを持って、本を読み進めていった。
 
西村玲さんと初めて会ったのは、2005年のたぶん6月ごろ、彼女が東北大学大学院の博士課程を修了し、日本学術振興会特別研究員(SPD)になって、すぐの頃だった。

所属は東京大学の、末木文美士先生の研究室で、専攻は日本思想史だった。
 
末木先生のところで、日本思想史を研究するといえば、当然、仏教と重なる面が出てくる。
 
もしそういうのを本にするのなら、トランスビューがいいのではないか、と末木先生が考えられたとしても、不思議ではない。この辺は、日ごろのお付き合いのおかげである。
 
末木先生のところで、西村玲さんに会ったのだが、初めて会ったときから、たちまち、その明晰さに魅了された。
 
たしか、丸山真男のことが話題に上った。私は編集者なので、例によって、人の口真似、口移しで、いい加減なことを述べていたのだが、そのとき返してくる応答が、実に的確で、というより、対象との距離が正確に取れていて、何というか、舌を巻いた。
 
そのとき西村さんは、近世の僧侶、普寂(ふじゃく)について、本を書こうとしていた。
 
こういう学術書は、専門家向けに出すので、通常の流通には載せられない。部数も500からせいぜい800まで。文部省の科学研究費補助金(科研費)をもらって、本にする。
 
著者に対する印税はない。その代わり、できた本を何冊か進呈する。これは科研費の決まりで、そうなっている。
 
このころ西村さんから、本に入れようと思う論文を受け取った。

「合理の限界とその彼方ーー近世学僧・普寂の苦闘」
「日本近世における絹衣論の展開ーー禁絹批判を中心に」
「蚕の声ーー近世律僧における絹衣禁止について」
「聖俗の反転ーー富永仲基『出定後語』の真相」
 
難しい内容だが、明晰に、しかも上手に書かれていて、読めば私などにも、話が分かり、けっこう面白い。もちろん論文は、これで全部というわけではない。
 
一方で私は、日本学術振興会に科研費をもらうべく、申請書類を提出した。
 
ところがこれが、学術振興会の審査をパスせず、科研費をもらえなくなったのである。
posted by 中嶋 廣 at 11:21Comment(0)日記

なぜいま原民喜か――『原民喜ー死と愛と孤独の肖像ー』(3)

原民喜は東京にいるとき、結核の妻を見送っている。それは悲しいことだけれど、しかし一方、「病みついてから死までの日々は、心安らぐ穏やかなものだった。」
 
死者の世界は、原にとって懐かしいものだった。

「だが広島の死者たちはそうではなかった。『このやうに慌しい無造作な死が「死」と云へるだらうか』という叫びは、死ぬものと死なれるものが共有した時間のかけがえのなさを知る原にとって、心底からのものだったろう。妻を看取ったその目で見たからこそ、広島の死者の無惨さは原を打ちのめしたのである。」
 
こういうところは、梯久美子の文章表現の粋である。本当にうまい。こちらの気持ちを、何か根こそぎ、持っていかれるような気がする。
 
原は東京へ出てきてからは、遠藤周作との親密なやりとりや、年若い女友達との不思議な友情の話があるが、結局は死に向かう一つの方向へ、自分の位置を定める、というか定められてしまう。

「……その後、心身に刻まれて消えることのない惨禍の記憶と向き合う中で、死者たちのいる方へと魂は引き寄せられていった。」
 
それにしても、いったい今、原民喜を書く意味は、どこにあるのだろうか。

「私は、本書を著すために原の生涯を追う中で、しゃにむに前に進もうとする終戦直後の社会にあって、悲しみのなかにとどまり続け、嘆きを手放さないことを自分に課し続けた原に、純粋さや美しさだけではなく、強靭さを感じるようになっていった。」

「あとがき」のこの箇所で、全体をうまく納得することができるだろうか。
 
おなじ「あとがき」に、こういう個所もある。

「個人の発する弱く小さな声が、意外なほど遠くまで届くこと、そしてそれこそが文学のもつ力であることを、原の作品と人生を通して教わった気がしている。」
 
個人の発する声は、それが個に徹していればいるほど、文学としては、より強度な力を持つということは、当たり前のことではないか。
 
梯久美子の作品では、『狂うひと ー「死の棘」の妻・島尾ミホー』が、これを書く意味が、究極のところ、よく分からなかった。
 
それで、著者の秘められた恋を重ねたなどという、勝手な推測をしたわけだが、考えてみれば、秘めた恋の一つや二つ、あって当たり前である。これでは、何を言ったことにもならない。

『原民喜』を、いま書く意味が、もう一つよく分からないのは、『狂うひと』の、やはり書く意味がはっきりしていないのと、同じことではないのだろうか。それとも、これはまた違うことなのだろうか。
 
最初に返って、名著で名高い処女作、『散るぞ悲しき ー硫黄島総指揮官・栗林忠道ー』を読んで、じっくり考えるとするか。

(『原民喜ー死と愛と孤独の肖像ー』梯久美子、岩波新書、2018年7月20日初刷)
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なぜいま原民喜か――『原民喜ー死と愛と孤独の肖像ー』(2)

原民喜は第二次大戦の末期、1944年に、「三田文学」2月号と8月号に、作品を発表している。2月号は「前線将兵慰問文特集」で、ほかの著者は、勇猛かつ悲壮な内容のものばかりだったが、原は違っていた。
 
原稿用紙、1,2枚の掌編を、6つ並べた連作で、日常をスケッチしたもの。いわば童話か、散文詩の趣である。

「六篇はいずれも、ヒステリックなまでに戦時色が強まった一九四四(昭和一九)年によくぞ書いて発表したと思えるような作品である。常套句を使わず、声高にならず、平易な文章で何でもない日常を描くーーそれは、非日常の極みである戦争に対する、原の静かな抵抗であった。」
 
ここは、僕は違和感を感じる。原民喜は、知らない人や、気の張る人と話すのに、妻を介してでなければできなかった。
 
国が危うくなっている時でさえも、それに同調することは、できなかった。それは個人の、体質の問題ではないか。
 
もちろん容易に同調しないというのは、文学者として素晴らしいことだ。しかし最初から、どんなものにも、同調できないというのであれば、それはまた別の問題だ。
 
私はこの点では、梯久美子には賛成しない。
 
ただ、繊細極まりない原民喜のもとに、原爆が墜ち、しかも爆心に近いところにいながら、ほとんど無傷だったというのは、原爆を描く人間として、これ以上ない意味がある。

「手探りで便所の扉を開け、縁側に出ると、まもなく薄らあかりの中に破壊された家の中が浮かび上がってきた。近隣の家は倒壊し、青い空が見える。
 原は以前から空襲をひどく恐怖していて、そのときになったら自分が気絶か発狂でもするのではないかと心配していた。だがこのときはあまりにも突然で、怖がるひまもなかった。」
 
原民喜は、生きている意味をさとり、原爆を書き残さねばならいと、深く心に銘じた。

「長いあいだ原は厄災の予感に怯えてきた。それが現実になったとき、まず生きのびられまいと思っていた自分が、なぜか無傷で生きのびた。幼い頃から怖れ、怯え、忌避してきた現実世界。それが崩壊したとき、生きる意味が、まさに天から降ってきたのだ。」
 
なお「夏の花」は、被爆時のメモをもとにしたもので、創作の要素は入っていない。その被爆時のメモは、『定本 原民喜全集』第三巻に、「原爆被災時のノート」として収録されている。
 
メモは、「文学的直観」に基づいて書かれた、見事なものだった。

「生来の繊細さと、それまでの言語生活で培った表現者としての理性、そして死と死者に対する謙虚さが、大げさなこと、曖昧なこと、主情的なことを拒否した。」
 
そのメモに基づいて、「夏の花」は書かれたのだ。
posted by 中嶋 廣 at 11:23Comment(0)日記

なぜいま原民喜か――『原民喜ー死と愛と孤独の肖像ー』(1)

これは、岩波新書にもう一つ、カバーが掛けてある。『原民喜ー死と愛と孤独の肖像ー』というタイトルと、梯久美子という著者名、そして通常は帯の文句である、「愛しすぎて、孤独になった。今よみがえる、悲しみの詩人」という惹句が、カバーに刷ってある。
 
岩波書店も苦労してるね。梯久美子は、今の岩波としては、ビッグネームだ。かなり部数がすれるはずだし、またそうでないと著者に対しても、面目が立たない。
 
しかし今、単行本で刷れたとしても、せいぜい2,3000ではないか。岩波で、それを超えて部数が刷れるのは、衰えたといっても、岩波新書に如(し)くはない。
 
けれども、岩波新書の一冊として埋没させるには、著者の名前からしてふさわしくない、というかもったいない。
 
社内的には、岩波新書だからといって部数を確保し、書店に出すときは堂々の単行本。これで行くしかない、と編集者は考えたと思うのだが、違うかな。
 
原民喜については、東京で大学を出て、所帯を持ったが、妻が病気で他界、その後、疎開先の広島で原爆に遭い、東京に出て、「夏の花」を出版するも、鉄道自殺する、というのが、僕の知っているすべてのことがらだ。
 
そう思って読んでいくと、その通りのことが書いてある。そしてもちろん、相応に詳しく書かれている。それに何といっても、梯久美子の文体がよい。

1939年に、「三田文学」に発表された、「溺没」という短編小説について。轢死という死に方は、原民喜がもっとも恐れていたものだった。原は若いころからずっと、轢死幻想にとらわれていたという。

「光るシグナル、開け放たれた窓のつらなり、胴体の上を通過する電車の床を踏んでいる女の靴……。怖ろしくてならないものを、怖ろしさゆえに繰り返し夢想せずにはいられず、その反芻の中から、結晶が析出するように、あるイメージが生まれてくるーーそんな文章が原にはしばしば見られるが、『溺没』もそうした作品といえる。」
 
本当に原民喜がそこにいて、その内面までが、さらけ出されるようだ。

「原爆の惨禍の記憶は、原の感受性の基底にもともとあった外界への怯えに、あらたな層を付け加えた。電車への恐怖は戦後、さらに増していたはずである。」
 
梯の文体は、一度取り込まれると、そこからは、なかなか抜け出すことができない。予想外のことは起きていないにも関わらず、のめり込み、飛ぶように読めてしまうのだ。
 
次に挙げるのは、全体を統括する一文である。

「戦後の東京にひとり戻った原は、死者たちを置きざりにしてしゃにむに前に進もうとする世相にあらがい、弱く微かなかれらの声を、この世界に響かせようとした。」
 
そしてその後、原は自殺を選んだ。原は、自死を選んだとき、はじめてその人の生が、くっきりと浮かび上がってくる、そんな人間だった。
posted by 中嶋 廣 at 09:02Comment(0)日記

惜別と郷愁――『新・旧 銀座八丁 東と西』(5)

「銀座七丁目 西」の章では、よし田のコロッケそばが、クローズアップされる。
 
まず、吉田健一の『舌鼓ところどころ』を引いた上で、坪内さんは、それに評を加える。

「『この特製のコロッケ蕎麦を、コロッケの端をちぎっては上の生卵と、下のカレイ南蛮と混ぜこぜにして食べて、茄子の芥子漬けで口直しをする所を丹念に胸に描いていれば、かなりの間気を紛らせていることが出来る筈である。』
 おいしいのかまずいのかわからない感じだが、吉田健一の筆の力で魅力的なものにうつる。」
 
思わず吹き出してしまう。坪内さんの、徹底して飾らないところが出ていて、実におかしい。

それにしても、吉田健一にとって、コロッケそばは、おいしいのかまずいのか。
 
坪内祐三のこの本は、ほんとうは今は消えてしまったいくつかのバーや、それにまつわる作家の話が面白い。
 
でも、そんなことは当たり前。坪内さんのそういう話が、面白くないわけがない。そこはもう、本文を読んでください。
 
ただ常盤新平さんについては、個人的なことを書いておかないわけにはいかない。

私は筑摩書房を辞めるとき、後足で砂をかけるようにして辞めた。常盤さんとの仕事も、その中に入っていた。
 
そのとき進行している翻訳本があり、その先の仕事もあり、途中でやめるわけにはいかなかった。しかし、それを放り投げて辞めた。合わせる顔はなかった。本当にひどいことだった。
 
10年ほどたって、法蔵館の仕事をしているとき、地下鉄の人形町の駅の入り口で、常盤さんとすれ違った。
 
お互いに、あっと声にならない声を上げて、立ち止まり、私はとっさに、「すみません」と言った。反射的に、その言葉しか出てこなかった。
 
常盤さんは、「お茶でも飲みましょうか」と仰り、私は思わず、ついて行きかけた。しかし数歩、歩くと立ち止まり、「すみません」とまた言った。常盤さんは、そうですか、といわれたんじゃないかと思う。
 
私はすぐに、常盤さんが行く方向とは、違う方に足を向けた。
 
かりに、一緒に喫茶店に入ったとしても、私には、「すみません」という以外の言葉が、どうしても浮かんでこなかったのである。

(『新・旧 銀座八丁 東と西』
 坪内祐三、講談社、2018年10月16日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 12:35Comment(0)日記

惜別と郷愁――『新・旧 銀座八丁 東と西』(4)

「銀座二丁目 東」では、文具の伊東屋に重要な目的があって行った、次の引用は、坪内さんが『文藝春秋』に持っている、「人声天語」というコラムから。

「……私はメールもやらないし携帯も持っていないし、いまだに手書き原稿だ。つまり、原稿用紙に、万年筆で、原稿を書く。」
 
これが2006年1月号で、さすがに10年以上たっているから、携帯を持ち、メールをやるようになっている。
 
でも相変わらず、原稿は手書きである。つまり原稿用紙が必要なのである。
 
手に合った原稿用紙を求めて、伊東屋の本館や別館を歩く。結局その日はなくて、代金だけ払い、後日、連絡を待つことにする。

待ったけれども、その原稿用紙は、製造中止になっていた。

嗚呼、原稿用紙がない!

ここでもやはり、結びの言葉を引いておく。

「……私はもう二度と『伊東屋』に足を踏み入れないだろう。
 銀座二丁目東の歩道に『銀座発祥の地』という碑が建っている。つまり銀座でもっとも由緒ある場所なのだ。
 しかし『オリンピック』も『キッチンラーメン』も消え、『伊東屋』にも用がなくなった今、私にとって銀座二丁目東は、ただ通過するだけの場所になってしまった。」
 
これは「銀座一丁目 東」でも、同じ嘆きが繰り返されている。やはり結びの言葉だが、もっと露骨になっている。
 
これは、ホテル西洋銀座の跡地が、どうなっていくか、という話なのだが、調べてみると、コナミの巨大なビルが建つ予定なのだ。

「コナミという会社を、私はスポーツジムあるいはゲーム会社として認識しているが、いずれにせよ私とは無縁だ。『テアトル東京』や『セゾン劇場』にあった文化の香りがまったくない(明治の頃には、その場所に『金沢亭』という寄席があったという)。」
 
そして最後の一文。

「銀座はどんどんつまらない街になって行く。」
 
坪内さんが、銀座らしいところが消える前に、何とか書き残そうとするわけは、「囲いによって形が消えると、人間の記憶も消えてしまうのだ(だから風景を書き残す必要があるのだ)」ということ。
 
だからもう、これはタッチの差なのだ。
posted by 中嶋 廣 at 08:59Comment(0)日記

惜別と郷愁――『新・旧 銀座八丁 東と西』(3)

次は「銀座五丁目 西」、ここにはかつて、有名な書店が複数あった。

本が絡むのだから、とうぜん坪内さんの、核心的な思い出話になる。

「『近藤書店』の平積み、そして棚が私は大好きだった。
 私の初めての著書『ストリートワイズ』(晶文社、一九九七年)を『近藤書店』はとても良い位置に平積みしてくれた。それは、東芝ビルの一階にあった『旭屋書店』も同様だった。出版不況がささやかれつつも、私はそれなりのベターセラー作家だったのだ。それからちょうど二十年。今の私は初版作家だ。」
 
旭屋も近藤書店も懐かしいけれど、それよりも、「今の私は初版作家だ」という、苦笑いを含んだ言葉が、ちょっとおかしい。
 
そういえば旭屋は、ピート・ハミルというアメリカの作家が、サイン会をやったことがある。

私は彼の、『ブルックリン物語』という小説の編集担当で、旭屋ほかのサイン会の、担当者でもあった。筑摩書房にいたころの話で、30歳くらいだった。それから2年ほどして筑摩を辞めた。

話は変わって、「銀座六丁目 東」は、GINZA SIXというファツション・ビルが、鳴り物入りで作られたばかりだ。
 
坪内さんは、これが気に食わない。

「私は土地に霊があることを信じる者だ。GINZA SIXがオープンした翌日、四月二十一日、銀座通りを渡った西側で白昼強盗が起き何千万円かが奪われた。銀座の真ん真ん中でこんなことが起きるとは信じられない。それはきっと、この土地の霊が怒ったのだろう。」
 
これはどうも無茶苦茶な話だが、気持ちはよくわかる。
 
銀座はどんどん変わっていく。ちなみに、渋谷もそれに劣らず変わっていく。その変わっていくところが、渋谷でも銀座でも、どこでも同じ方向に沿っている。どちらも、先端のファッション性を誇って、威張り顔である。
 
渋谷も、開発が成った暁には早晩、何億円かが奪われる白昼強盗が起きる、かもしれない。
 
これはすくなくとも、住んでいる人には関係がない。というか、住んでいる人はもういない、人間が住むことのできない街だ。
 
坪内さんは、「銀座六丁目 東」の章を、こんな言葉で終えている。

「この弁当を買ってコリドー街、『ロックフィッシュ』の入っているビルの最上階の『きらら』の窓際の席で終点東京駅に向かってゆっくり走って行く新幹線を見ながらバーボンソーダを飲んだらとてもおいしいだろう。
 しかし『きらら』も店を閉じて十年近くなる。
 すべては遠い昔の出来事だ。」
 
本当に、そうなんだなあ。
posted by 中嶋 廣 at 09:37Comment(0)日記

惜別と郷愁――『新・旧 銀座八丁 東と西』(2)

坪内さんは若い頃、雑誌『東京人』の編集者だった。そのころ編集者として、銀座に人が住めなくなった理由を、取材したことがある。

「取材を進めて行く内に、住めなくなった最大の理由が消防法の改正であることがわかった。つまり、店舗として営業する場合、防火用のスペースを一定以上とることが義務づけられ、住居スペースがなくなってしまったのだ。」
 
これは全然知らなかった。私一人ではなく、たぶん知っている人は、ほとんどいないのではないか。消防法を変えることが、街の景観を、がらりと変えてしまうことになるとは。
 
坪内さんは、本書のプロローグの最後を、こんなふうに締めくくっている。

「その資料と私の経験した昼の銀座と夜の銀座、さらには現在の銀座のフィールドワーク、銀座人たちへのインタビューなどによって、二〇二〇年の東京オリンピック前の銀座を総合的に書き記して行きたい。総合的、つまり銀座一丁目から八丁目までの東と西、計十六回連載する予定だ。乞うご期待。」
 
うん、期待しますよ(なんか、合いの手としては、間が抜けているようだけど)。
 
で、まず最初は、「銀座三丁目 西」。

「……『プランタン』のところまで歩いて行ったら、『プランタン』は閉店セールをやっていた。年内終了だという。
 八〇年代に建てられたものまで取り壊されて行くのか。」
 
そう、こういうことなんだ。それにしても、プランタンが消えていくとはね。

そして新しい銀座が見えてくる。

「……マロニエ通りを中央通り方向に進み、三丁目の角に立つ。
『シャネル』のビルだ。しかも驚いたことに中央通りの向こうは『ルイ・ヴィトン』、マロニエ通りの向こうは『カルティエ』、そしてもう一つの角に『ブルガリ』。
 なんてこった。
 今の若い女性にとっては、たぶん、銀座の中心は四丁目交差点ではなく、二丁目交差点なのだ。
 私は、時代に取り残された浦島太郎だ。」
 
本当になんてこった、だ。そして、そういうブランド・ビルに囲まれて、はっきり「浦島太郎だ」と、言い切るところがおかしい。
 
坪内さんの銀座話は、ディテールが面白い。というか、そういうディテール以外には、何もない、と言ったら言い過ぎだろうか。細部にこそ、神は宿りたもうのだ。
 
だから本当は、こまごましたところを挙げていくのが、面白いのだが、それでは結局、全文を引くことになってしまう。だから、私が恣意的に引くもので、全文を推測していただきたい。
posted by 中嶋 廣 at 11:09Comment(0)日記

惜別と郷愁――『新・旧 銀座八丁 東と西』(1)

2年前、坪内祐三の『続・酒中日記』のブログの結びに、こんな文章を書いた。

「ふつうは65歳かそこらあたりで、みんな立ち止まり、人生を考えるものだろう。僕の場合は、それが劇的に来てしまった。病気する前にかろうじて備わっていた、本を読むことと、文章を書くということを除けば、もう何にもない。そこは、はっきりさせなければいけない。僕はもう、元の僕ではない。
…………
坪内さんの『酒中日記』正続編は、「酒場の磁場」をありありと描いている。そうであることによって、僕に、もうそういうところへは行けないという、寂しい断念を迫ってくる。」
 
これはつまり、坪内さんのものは、もう読まないという、断念を記した言葉でもあるのだ。
 
でも、やっぱり駄目である。
 
坪内さんは、かつてあった東京、というテーマでは、余人の追随を許さない、というより、この人だけが、こういうテーマで書くことができるんじゃないか。
 
記述の正確さなんかじゃないんだ。もちろんそれもあるけれど、そこにある、圧倒的な郷愁、そして惜別。それが次々に、襲いかかり、沁みわたってくる、胸いっぱいに。それがたまらない。
 
この本は、東京でも銀座、それも一丁目から八丁目までを、東と西に分けて記述していく。
 
そういえば、「銀座九丁目水の上」という、神戸一郎の歌があったっけ。銀座九丁目は地図の上には無い。もう港に出てしまう。♪今宵は船で過ごしましょう、という甘い歌だった。
 
それはともかく、坪内さんの銀座だ。なぜ今、銀座を書かなきゃいけないかというと、2020年に東京オリンピックがある。それで東京という街は、激変するに違いない。銀座も、急激に変わっていくに違いない。
 
かつて銀座には、古いものも残っていた。

「三信ビルや交詢ビルといった戦前からの建物も残っていた。
 二十一世紀に入ってそれらのビルが取り壊された。それだけでなく『松坂屋』デパートや『ライオン』銀座五丁目店や、そばの『よし田』の旧店舗も消えた。
 だから書き始めなければ。」
 
そういうわけで、新旧の銀座八丁の東と西を、隈なく書き記そうというのである。
posted by 中嶋 廣 at 15:24Comment(0)日記